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夫を奪った妹――あなたたちが自滅するのはわかっていたわ

作者: 青空一夏
掲載日:2026/10/07

お読みくださりありがとうございます!

Ⅰ

「お姉様。このドレス、貸して!」


 ここはリッチ公爵家の王都に構える屋敷である。当主の執務室で領地から届いた報告書に目を通していたヴィクトリアは、聞き慣れた声に顔を上げた。

 扉の前に立っていたのは、妹のリンジーだった。その腕にはドレスを抱えている。ヴィクトリアは一目で、自分の衣装部屋にしまってあったものだと気づいた。仕立屋に頼んで作らせたばかりで、まだ一度しか袖を通していない。

 リンジーは、ヴィクトリアが執務室にいる間に勝手に私室へ入り、衣装部屋まで覗き、それを持ってきたのだろう。


「いくら姉妹でも、無断で私の部屋に入らないでちょうだい」

「だってぇー、お姉様はなんでも持っているから」

 リンジーは悪びれもせず、胸元にドレスを当てる。

「これ、私の方が似合うと思うの。ちょうど今度の夜会に着ていくものを探していたところだったし、貸してもらうわね」


 ヴィクトリアは手にしていた書類を静かに机へ置いた。

「その前に貸した薄桃色のドレスと真珠の首飾りを返すのが先よ。だいぶ前に貸したお金もまだ返してもらっていないわね? 数え上げればきりがないわよ。それなのに、さらに持っていくつもり?」

 リンジーは、すぐにふてくされたように唇を尖らせた。

「そんなに一度に言わなくてもいいじゃない。薄桃色のドレスはとても気に入ってしまったの。真珠の首飾りだって、お姉様は似たような宝石をいくつも持っているでしょう? お金のことも忘れていたわけじゃないわ。ただ、今は少し余裕がないだけなの」


 ヴィクトリアはため息をついた。ブローク・プア男爵に嫁いだリンジーは、頻繁に屋敷を訪ねてくる。

 最初は「近くまで来たからお姉様にご挨拶を」なんて言っていたが、今では挨拶もせずにヴィクトリアの部屋に直行し、欲しい物を選んでは持ち帰る。貸したはずのものは、ひとつも戻ってきていない。


「あなたはもうリッチ公爵家の令嬢ではなく、プア男爵夫人なのよ。欲しいものがあるたびに、私のところへ来ればどうにかなると思われては困るわ。身の丈に合った生活をするべきよ」

 その言葉に、リンジーの表情がますます不満げに歪んだ。

「お姉様まで、ブロークと同じことを言うのね。あの人も、何か欲しいと言うたびに、今あるもので十分だとか、今月はこれ以上使えないとか、そればかりなのよ。舞踏会に出るのに去年のドレスを少し仕立て直せば着られるとか、新しい首飾りが欲しいと言っても首を縦に振らないわ。結婚したら途端に窮屈になったわ」


 もともと、リンジーには別の婚約者がいた。ウェルシー侯爵で、家柄にも財産にも不足はなく、人柄も真面目で堅実だった。彼なら、リンジーの浪費癖も満足させられる財力があったのに。ただ、リンジーが好むような華やかな美貌の持ち主ではなかっただけだ。とはいえ、容姿が悪いわけではない。貴族の男性としてはごく標準的な顔立ちで、特別目を引くほど整ってはいないが、穏やかで感じのよい顔をしていた。


 対して、ブロークは誰もが振り返るほど麗しい青年だった。身分は男爵と低かったが、リンジーは彼に夢中になった。家族がいくら諭しても聞かない。

「家柄やお金で結婚相手を決めるなんておかしいわ。私は真実の愛を選ぶの! お父様もお母様も黙っていて! 大好きな人と結婚できないなら、生きていけないわ」


 そう言って婚約者を自ら捨て、駆け落ち同然でプア男爵家へ嫁いだのだ。そのせいでリッチ公爵家はウェルシー侯爵家に慰謝料を払うことになったのだが、リンジーは両親にもヴィクトリアにも謝ることはなかった。

 結婚した当初のリンジーは、誰に会っても幸せだと語っていた。愛する人と暮らせるなら、贅沢などしなくていいとまで言っていたはずなのに。


Ⅱ

 それが半年も経たないうちに、実家へ足繁く通うようになった。「実家」とはいっても、その頃にはヴィクトリアも結婚し、公爵位を継いでいた。両親は別邸へ移り、リッチ公爵家の実権はすでにヴィクトリアのものになっていた。

「私はリンジーが結婚する前に言ったわよね? プア男爵家とウェルシー侯爵家では、使えるお金がまるで違う、と。そうしたらあなた、『お金のことばかり言うお姉様なんて大嫌い』って怒ったじゃない 」

 ヴィクトリアがそう告げると、リンジーは軽く肩をすくめた。

「わかっていたつもりよ。でも、実際に暮らしてみたら全然違ったの。欲しいものをいちいち我慢しなくちゃいけないのって、とても息が詰まるのよ。それにお姉様は公爵で、こんなに立派なお屋敷も財産も継いだんだから、私に少しくらい貸してくれたって困らないでしょう? 姉妹なんだから、返さなくてもいいじゃない」

 最後の一言を聞いて、ヴィクトリアはようやく合点がいった。リンジーの中では、『借りる=貰う』という感覚なのだ。

「リンジー。私は財産だけを受け継いだわけではないのよ。リッチ公爵家を維持する責任も、領地を守る義務も一緒に背負っているわ」

 穏やかに諭したつもりだったが、リンジーの顔はまったく納得していない。

 抱えていたドレスへ視線を落とし、物欲しそうに指先で布地を撫でる。

「……お姉様って、爵位を継いでからずいぶん冷たくなったわ。昔なら、こんなことでいちいちお説教なんてしなかったのに。なんでも貸してくれたし、もっと優しかった」

「あなたはもうプア男爵夫人なのよ。実家に入り浸って姉にお金やドレスを無心していると知ったら、プア男爵だっていい気はしないでしょう ?」

 ヴィクトリアは、眉を寄せる。

「大人になったって、姉妹なのは変わらないわ。それに私、もうブロークの顔に飽きちゃった。やっぱり、どんなに綺麗な顔でもお金がなかったらだめね」

「バカなことを言わないで。あんなに大騒ぎして結婚したのよ? ちゃんと添い遂げなさい。そしてこれからは、借りたものはきちんと返すまで、次の物は貸さないわ。そのドレスは置いていきなさい」

「……酷い! お姉様は冷たすぎるわ! せっかく姉妹なんだから、助け合って生きていけばいい、と思ったのに」

 助け合う、とはよく言ったものだ。 今まで一方的に奪っていくだけだった妹が、いったい何を助け合ってきたというのだろう。

 リンジーは不機嫌そうに踵を返した。しかしそのまま出ていかず、扉のところで足を止めた。そして振り返ることもなく、拗ねたように呟いた。

「……私ね……愛があれば何とかなると思っていたのよ。小説だってお芝居だって、お金より愛が大事だって皆言ってるじゃない」

 ほどなくしてリンジーの足音が遠ざかっていく。静けさを取り戻した執務部屋で、ヴィクトリアはまた大きなため息をついた。

(まったく……困った子だわ)


 しばらくして、執務室の扉を叩く音とともに、ヴィクトリアを責める声が廊下に響いた。

「ドレスやお金くらいあげればいいだろう? リッチ公爵家には、その程度の余裕はあるんだから。君には優しい心がないのか!」

 声の主は乱暴に扉を開ける。そこに立っていたのはヴィクトリアの夫、アリクだった。


Ⅲ

「えっ? ……アリク、何を言っているの?」

 ヴィクトリアは夫に向かって首を傾げた。

(妹の肩を持ち、そこまで怒るなんて……びっくりだわ)


 てっきりリンジーはもう帰ったものだと思っていたが、そのアリクの背後から見慣れた金髪がひょいと覗く。

「ほら、お義兄様もこう言っているじゃない。お姉様はケチすぎるのよ。それに比べてお義兄様は優しいし、頼りになるわ」

 リンジーはすっかり機嫌を直したらしく、先ほどまでの不満げな顔はどこへやら、頬をほんのり染めてアリクを見上げていた。大きな青い瞳が潤んでいる。

 褒められたアリクも満更ではないらしい。口元を緩め、いかにも自分がリンジーを救ってやったとでも言いたげな顔をしていた。

 

「リンジー。金は返さなくていいし、今まで持っていった宝石やドレスも、そのまま貰っておけばいいよ。さっきのドレスも、欲しいなら持っていけよ」

 あまりにも当然のように言うので、ヴィクトリアは一瞬、聞き間違えたのかと思った。


 リンジーの顔がぱっと明るくなる。

「本当に? ありがとう、お義兄様! やっぱりお義兄様は話がわかるわ」

 リンジーは嬉しそうにアリクの腕へ手を添えた。

 アリクもそれを嫌がる様子はなく、むしろ得意げに笑っている。


「ちょっと待って……なぜあなたがそんなことを決めるの?」

 ヴィクトリアが尋ねると、アリクはきょとんとした。

「なぜって、夫婦なんだから僕が許可しても問題ないだろ?」

「問題しかないわよ」

 ヴィクトリアは呆れを隠さず言い返した。

「そのドレスは私個人のものよ。あなたに買ってもらったものではないわ。それから、リッチ公爵家にお金があるからといって、それを当主が全部好き勝手に使えるわけではないのよ。領地を維持するためのお金、事業に回すお金、屋敷の維持や使用人に払うお金、それぞれ使い道が決まっているわ」

 ヴィクトリアはリンジーにも視線を向けて、続けて説明する。

「リンジーに貸したのは、その中から私個人に割り当てられたお金よ。私が自由に使える範囲から出したものなの。だから、返さなくていいとアリクが勝手に決めることではないわ」


 アリクはしばらく黙っていたが、やがてうんざりした表情で言う。

「そんなに細かく考えなくてもいいだろう。僕たちは夫婦なんだから、すべてを共有して協力しあえばいい」


 どうも話が通じていない。というか、アリクの頭の中が理解できない。

 ヴィクトリアは頭が痛くなってきた。

 ここで延々と説明したところで無駄だろう。少なくとも今は、これ以上仕事の時間を潰したくない。


「とにかく、そのドレスは持っていかないで。貸したものを返すまでは、新しく何かを貸すつもりはないわ」

「ええー」

 リンジーは露骨に嫌そうな声を上げた。

「お義兄様はいいって言ってるんだから、いいじゃない」

「持ち主の私が駄目と言っているのよ」

「ヴィクトリア、そこまで意地を張らなくてもいいじゃないか。こんなドレス、君ならいくらでも買えるだろう? 妹を助ける優しい気持ちはないのか?」

 それでもアリクはリンジーを庇い、自分の主張を押し通そうとする。

「優しい気持ち? あったわよ。リッチ公爵家はウェルシー侯爵家へ婚約破棄の慰謝料をたっぷり払わされたのよ。リンジーの我が儘はちゃんと叶えてあげたわ」


 するとリンジーが、アリクの袖をそっと引いた。

「もういいわ、お義兄様。お姉様はこうなったら聞いてくれないもの」

 どこか寂しそうに笑ってみせる。

 その表情を見たアリクが、気の毒そうな顔になる。

「リンジー……かわいそうに」


 ヴィクトリアは、白けた気分で二人を眺めた。

(なんなの? この妙な空気は……まるで私が悪者で、この二人を虐めているみたいだわ)


「はぁー……もういいわよ。そのドレスもあげる。今まで貸したものも、お金も返さなくて結構。その代わり、これで最後よ。今後は何も貸さないし、お金の援助もしないわ。私は仕事があるの。リンジーもアリクも出て行って」

 ヴィクトリアがそう告げると、リンジーは嬉々として頷いた。


「わかったわ。お姉様、ありがとう」


「プア男爵家まで僕が送っていこう」


「まあ、ありがとう。お義兄様って本当に優しいのね」

 リンジーはにこりと笑い、アリクと共に今度こそ部屋を出ていった。


「二人とも暢気なものね。こっちは猫の手も借りたいぐらいに忙しいのに……」

 ヴィクトリアは何度目かのため息をつき、視線を書類へ戻しながら呟く。

「似た者同士なのよねぇ、あの二人……」


Ⅳ sideアリク

 アリクは上機嫌だった。ヴィクトリアからリンジーを庇い、プア男爵家まで送り届けたあの日、思いがけず愛の告白をされたのだ。

「お義兄様。実は私、初めて会ったときから好きでした。だって、ブロークより素敵だし、ずっと優しいんですもの。これからも私をお姉様から守ってくださる?」

 プア男爵は家格こそ低いものの、その美貌は社交界でも有名だった。そんな男より自分の方が素敵だと言われたのだから、アリクが有頂天になったのも無理はない。

「もちろんだよ。リンジーが困っているなら、いつでも僕を頼ってくれていい」

「嬉しい! それなら、もうお義兄様じゃなくてアリクって呼んでもいいわよね? アリクは私の理想の男性だわ」

 そんなやり取りをきっかけに、二人の関係は始まった。

 それからは人目を忍んで何度も会い、気づけば両手の指では足りないほど逢瀬を重ねている。


 そして今日もリンジーとの甘い時間をたっぷり楽しんだアリクは、鼻歌まじりに王都の通りを歩いていた。

 思い浮かべるのは、つい先ほどまで腕の中にいたリンジーの姿だ。

「でへへ。リンジーはヴィクトリアと違って、むちむちしてるところがいいんだよなぁ」

 美しいが、どこか氷のように冷たいヴィクトリアとは違う。

 あの女はいつも仕事ばかりで、夫である自分を構おうともしない。それに比べてリンジーは、会えば甘えた声で自分を褒め、頼り、男として立ててくれる。

 少しくらい他の女に癒やしを求めたところで、責められる筋合いはないだろう。

 むしろヴィクトリアにも原因があると思っていた。


 そんな都合のいいことを考えながら歩いていたアリクは、ふと足を止めた。

「……ん?」

 通りの向こうにある高級な店――王都でも評判のカフェだ。その大きな窓の向こうに、ヴィクトリアが座っている。しかも一人ではない。

 向かいの席には若い男が座っていた。それも、思わず二度見してしまうほどの美貌である。

(なんだよ。僕よりずっと顔がいいじゃないか。なんなら、プア男爵よりもいい男なんじゃないか?)

 アリクは思わず顔を顰める。

 二人は何やら楽しそうに話していた。

 ヴィクトリアは普段、アリクの前では滅多に見せないような柔らかな笑みまで浮かべていた。

 しばらくその光景を眺めていたアリクだったが、やがて口元がゆっくりと緩んでいった。

「なんだ。ヴィクトリア、お前もか」

 思わず小さく笑う。これは好都合だった。

 もしリンジーとのことを知られたとしても、ヴィクトリアだって若い男と逢引をしているのなら、お互い様ではないか。

 それどころか、このことをうまく使えば、以前から不満だった金のことまで何とかできるかもしれない。

(ヴィクトリアだって後ろめたいことをしているんだ。強くは出られないだろう。だったら、来月から僕が自由に使える金を増やしてもらうくらい、どうってことないよな)

 思いがけない切り札を手に入れた気分で、アリクは機嫌よく屋敷へ戻る。


 翌日、アリクはヴィクトリアの執務室を訪れた。

 机に向かって書類を確認していたヴィクトリアは、入ってきた夫を一瞥すると、そのまま手元の書類へ視線を戻した。

「ヴィクトリア、少し話があるんだ。その……来月から、僕が自由に使える金をもう少し増やしてくれないか?」

「無理よ。今でも十分な額を渡しているはずよ」

 顔さえ上げずに即答され、アリクはむっとした。

「でも、あれじゃ足りないんだよ。僕にだって付き合いがあるんだし、君の夫として恥ずかしくない身なりを整える必要だってあるだろう?」

「だったら、まずは使い方を見直してほしいわね。アリクに渡している金額は妥当よ。けっして少なくない金額だわ」

 取りつく島もない。アリクは内心で舌打ちした。


 仕方がない。本当ならもう少し勿体ぶってから使うつもりだったが、ここで切り札を出してしまおう。

「……昨日、君を見たよ」

 そこでようやくヴィクトリアの手が止まった。

「私を?」

「ああ。若い男とカフェにいただろう? ずいぶん楽しそうに話していたじゃないか。僕の前ではあんな顔を滅多に見せないのに、あれでただの知り合いだと言われても、さすがに信じられないよ」

(これでヴィクトリアも少しは慌てるだろう)

 そう思っていたのだが、ヴィクトリアはしばらく不思議そうにアリクを見つめたあと、ようやく思い当たったように「ああ」と小さく声を漏らした。

「ヴァンスのことかしら? 領地の屋敷を任せている執事の息子よ。父親が腰を痛めて王都まで来られなくなったから、代理で帳簿の写しや報告書を届けに来てくれたの」

 アリクは薄く笑った。

「それだけなら、わざわざ二人でカフェに行く必要はないだろう?」

「二人?」

 ヴィクトリアは怪訝そうに眉を寄せたあと、呼び鈴を鳴らした。

(なにをするつもりだよ?)

 ほどなくして、執事とカフェにいた男が部屋へ入ってくる。

「ヴァンス。あなたの婚約者も呼んでくださる? アリクが、昨日あなたと私が二人きりでカフェにいたと言っているの」

「二人きり?」

 ヴァンスは驚いた顔をしたが、すぐに事情を察したらしい。

「もしかして、彼女が化粧室へ行っていたときでしょうか」

「おそらくね」

 しばらくしてヴァンスの婚約者も呼ばれ、胡乱な眼差しでアリクを見つめた。ヴァンスと並ぶとお似合いの可愛い女性だ。

「昨日はヴィクトリア様に王都で評判のスイーツをご馳走していただきました。とても嬉しかったですし、いい思い出になったのですが、そんな誤解をされたなんて……」

 アリクを軽蔑するような視線が痛い。彼は途端に居心地が悪くなった。


 事実としてはヴィクトリアの言う通りだった。ヴァンスは父親の代理として書類を届けるため、婚約者を伴って王都へ来ていた。せっかくの機会だからと、ヴィクトリアが王都でも評判のカフェへ二人を連れていき、スイーツをご馳走したのだ。

 アリクが目にしたのは、たまたまヴァンスの婚約者が席を外していた、ほんのわずかな時間だったらしい。

「そ、そんな……。だって、本当に二人きりだったから。まさかもう一人女性がいたなんて思わないじゃないか」


「まったく……自分がリンジーと浮気をしているからといって、私まで同じことをしていると思わないでくださる? 浮気をしている人というのは、何でもそういうふうに見えてしまうのかしら」


 ヴィクトリアの言葉に、アリクの顔から完全に笑みが消えたのだった。


ⅣーⅡ sideアリク

「……何を言っているんだ。冗談はやめてくれよ。僕がいつリンジーと浮気をしたっていうんだい? あの子が君とうまくいっていないから、相談に乗っていただけじゃないか」

 必死に笑ってみせるアリクに、ヴィクトリアは何も言わなかった。

 ただ静かに机の引き出しを開け、一冊の薄い報告書を取り出した。

 それをアリクの前へ滑らせる。

「では、こちらについて説明して?」

「……何だよ、これ?」

「あなたの素行調査の報告書よ」

 その言葉に、アリクの表情が固まった。


「リンジーと何度も二人きりで会っているわね。食事をして、贈り物をして、宿へ入ったことまで記録されている。その費用は、リッチ公爵家からあなたに渡しているお金から出ていることも確認済みよ。こんなことをしていたら、お金がいくらあっても足りないわ」

「違う、それは……」

「何が違うの?」

 ヴィクトリアは声を荒らげもしなかった。

 ただ、逃げ道を塞ぐように事実だけを並べてくる。

 アリクの喉がひくりと鳴った。


 こんなはずではなかった。

 今日ここへ来たとき、追及する側は自分だったはずだ。

 ヴィクトリアが若い男と会っていたことを持ち出し、少しくらい困らせてやるつもりだった。そこからお互いのことには目をつぶろうという話に持っていき、ついでに自分が自由に使える金も増やしてもらう。

 そういう流れになるはずだったのだ。

(なのに、どうして僕が追い詰められているんだ?)


 ヴィクトリアはしばらく黙ってアリクを見つめていた。その眼差しは恐ろしく冷たい。

 「離縁しましょう」

 一瞬、部屋の空気が止まった。

 アリクは目を見開き、それから信じられないというように笑った。

「離縁? ちょっと待ってくれよ。たかがリンジーと何度か会ったくらいで、大げさじゃないか。君だって僕を愛しているだろう?」


 アリクはメザサ伯爵家の三男だ。ヴィクトリアの周りにはアリクより身分も高く容姿のいい男がたくさんいた。しかし、ヴィクトリアは自分を選んでくれた。だから、愛されているはずだという自負がある。

 ヴィクトリアは、その言葉に心底呆れたように目を細めた。

「アリクが何をしても私が許すほど、私から愛されているなんて本気で思っていたの? 妹にまで手を出す夫はお断りよ」


 ヴィクトリアは机の上の報告書を閉じた。

「離縁の手続きはこちらで進めます。あなたには改めて知らせますわ」


(嘘だろう? こんなことで離縁? だって、僕は愛されているはず……今までだって、ちょっとした遊びはしていた。でも、なにも言わなかったじゃないか……)

「ヴィクトリア、本気なのか?」


「もちろんです。もうお話しすることはありません。出ていってくださる?」

 ヴィクトリアはにっこりと微笑んだ。


Ⅴ sideリンジー

 リンジーがブロークから離縁を言い渡されたのは、ヴィクトリアがアリクを離縁してから、そう日を置かないうちだった。

「離縁、ですって?」

 リンジーが目を見開くと、ブロークは疲れ切った顔で頷いた。

「君とアリクのことは、ヴィクトリア様から聞いた。言い訳はするな。最初こそ幸せそうにしていたが、長くは続かなかったな。君はリッチ公爵令嬢の頃の贅沢が忘れられないんだ。僕なりにできることはしてきたつもりだが、義兄だった人間と関係を持った君と、これ以上夫婦を続けるつもりはない」

 普段は穏やかなブロークが、珍しく怒りを隠そうともしていなかった。


 リンジーも今さら縋りつく気はなかった。

「いいわ。別れましょう。私だって、いつまでも欲しいものを我慢する生活にはうんざりしていたもの。アリクは、メザサ伯爵家を出るときに実家から持たされたお金を元手に事業をしているのよ。とても順調だって言っていたわ。きっと今よりずっと豊かに暮らせるわ」

 そう言い切ったリンジーに、ブロークはもう何も言わなかった。


 ほどなくして、リンジーはアリクと結婚し、一緒に暮らし始めた。だが、待っていたのは彼女が思い描いていたような生活ではない。

 住まいはプア男爵家よりずっと狭い借家だったし、使用人もいなければ馬車もない。

 プア男爵夫人だった頃には、派手な生活とは言えなくとも、男爵家として身分に見合った屋敷があり、使用人がいて、夜会や茶会に招かれることもあった。


 だが、アリク自身には爵位がない。メザサ伯爵家の三男として生まれたとはいえ、爵位を継げるわけもなく、ヴィクトリアと結婚していた頃は、リッチ公爵の夫という立場があったにすぎない。

 そのヴィクトリアと離縁した今、アリクには以前のような地位はない。当然、その妻となったリンジーにも男爵夫人だった頃のような身分はない。

 新しいドレスを欲しがったところで、着て出かける夜会すらなかった。

 それだけでも不満だったというのに、金までないのだ。


 ある日の夕食も、食卓に並んだのは、薄いスープとパンだけだ。

 リンジーは皿を見下ろしたまま、とうとう堪えきれなくなった。

「こんな生活になるなんて聞いていなかったわ。あなた、事業は順調だって言っていたじゃない。実家から持たされたお金を元手に始めて、自分で十分稼いでいるって。なのに蓋を開けてみれば赤字続きで、私に食事をご馳走したり、宝石を買ってくれたりしていたお金は、お姉様からもらったものだったなんて」


 アリクは苛立たしげにテーブルを叩いた。

「最初から騙すつもりだったわけじゃない。事業だって本当にやっているし、うまくいくと思っていたんだ。ただ、思ったほど利益が出なかった。それでもヴィクトリアと結婚していた頃は、毎月自由に使える金があったから、困ることはなかったんだよ。君の前で格好をつけたくて、少し話を大きくしただけだ」

「少し? 全然話が違うじゃない!」

 リンジーは呆れた。

 自分は、アリク自身に財産があり、事業でも相当な利益を上げているものだと思っていた。

 だからこそ、アリクがヴィクトリアと別れたところで、生活が大きく変わるとは考えていなかったのだ。

 ところが実際には、アリクの贅沢な暮らしを支えていたのはヴィクトリアだった。

 しかも離縁に伴う支払い――浮気の慰謝料まであり、毎日の暮らしはとても苦しい。


「あなた、お姉様がいなければ最初から大してお金なんてなかったのね。なによ、羽振りのいいふりをして! 嘘つき!」

「だから事業が軌道に乗れば――」

「いつ乗るのよ? 毎月赤字なんでしょう?」

 返事はなかった。それだけで十分だ。


 以前のアリクは、リンジーが少し甘えれば、機嫌よく願いを聞いてくれた。

 欲しがった宝石を贈り、評判の店へ食事に連れていき、ドレスの一着くらいなら惜しげもなく買ってくれた。

 リンジーは、それをアリクの気前のよさだと思っていた。

 けれど違った。

 自分の金ではなかったから、気前よく使えただけなのだ。


(騙されたわ……まさかこんなにお金がない人だったなんて……)


「こんなことなら、プア男爵家でおとなしくしていればよかったわ。少なくともあの頃は、こんな狭い家で自分たちだけで暮らしてはいなかったもの。使用人もいたし、馬車だってあったし、夜会にだって出られたわ。それにブロークは美男子だった」

 ブロークは、リンジーが望むほどの贅沢をさせてくれる夫ではなかった。とはいえ男爵家の当主として、妻に相応の生活はさせていたのだ。リンジーがそれを物足りないと思っていただけだった。


「僕のほうこそヴィクトリアと別れたくなかったよ! リッチ公爵家にいた頃は、金の心配なんてしたこともなかった。屋敷には使用人がいくらでもいたし、欲しいものがあれば買えた。こんな家で毎日の食費を気にする必要だってなかったんだ」

 アリクも愚痴る。


 二人の喧嘩が日に日に増えていったある日のこと、また金のことで揉めた末にリンジーがこう言った。

「あなたって、本当に頼りないのね。お姉様の夫だった頃は、とても素敵に見えたのに。……お姉様は今頃あの豪邸で、贅沢な暮らしをしているというのに、私ときたら……惨めだわ。アリクなんかと一緒になったから、姉妹なのに雲泥の差よ」

 アリクの顔が険しくなった。

「うるさいぞ! そんなに今の暮らしが嫌なら、ヴィクトリアのところへ戻ればいいだろう! 君はヴィクトリアとは血が繋がっている。誠心誠意謝れば許してくれるかもな」

 吐き捨てるように言われ、リンジーはふと黙った。


(戻る? リッチ公爵家へ? ……ああ、そうよね。私はもともと公爵家の娘だもの。お姉様に謝ったら、また家族に戻れないかしら? 借りたドレスも首飾りも返せば、お姉様は許してくれるかも。あ、そうだ! もともとアリクだってお姉様の夫だったのよね。ならば……)


Ⅵ sideリンジー

(戻る? リッチ公爵家へ? ……ああ、そうよね。私はもともと公爵家の娘だもの。お姉様に謝ったら、また家族に戻れないかしら? 借りたドレスも首飾りも返せば、お姉様は許してくれるかも。あ、そうだ! もともとアリクだってお姉様の夫だったのよね。ならば……借りたものは一緒に返せばいいじゃない!)


 もっとも、アリクはヴィクトリアから奪った男ではない。ヴィクトリア自身が見限り、自分の意思で離縁した男である。

 だが、そのことはリンジーの頭からすっかり抜け落ちていた。

 実に都合の良い頭である。


「お姉様。リンジーです。お話があり、参りました。聞いていただけませんか?」

 久しぶりにリッチ公爵邸へやって来たリンジーは、さも反省しているように、ヴィクトリアの執務室の扉をそっと叩いた。前のようにいきなり開けたりはしないし、丁寧な口調を心がける。

「どうぞ、お入りなさい」

「はい、失礼しまぁす。これ……返しますね」

 ヴィクトリアは箱へ目を落とした。

「何なの、これは?」

「前に借りたドレスです。それから、真珠の首飾りも入っています。返しなさいって言っていたでしょう? ちゃんと全部持ってきました」

「あら、そう」

 そっけない口調だった。

(褒めてくれると思っていたのに冷たい……でも、こんなことで諦めないわ)

「それでね、お姉様」

「まだ何かあるの?」

 リンジーは思いっきり眉尻を下げ、甘えた声を出した。

「ごめんなさい。私、間違っていました。アリクならもっと優しくしてくれると思っていたし、もっと楽しく暮らせると思っていました。でも全然違った。お金はないし、すぐ怒るし、欲しいものも買ってくれないし……事業だって、とても儲かっているって言っていたのに、本当は赤字だったんです」

「それはお気の毒ね」

「でしょう?」

 ヴィクトリアの声音に皮肉が混じっていることにも気づかず、リンジーは勢いづいた。

「だからね、ドレスも首飾りも返したので、アリクもお姉様に返そうと思います!」

 ヴィクトリアは、あっけに取られた。

「……アリクを? なんで?」

「だって、借りたものは返さなくてはいけないでしょう? それから、私もここへ戻ってきます。だって、もともとリッチ公爵家の娘なんだもの。もう一度、お姉様の妹としてここで暮らしたいの」


 ドレスを返す。

 首飾りを返す。

 ついでにアリクも返す。

 そうすれば自分も元の場所へ戻れる。

 リンジーの中では、すべて同じ話なのだ。


「勝手な言い分ね。アリクもリンジーも返品不可ですわ。いりません!」

 即答だった。

 リンジーが目を丸くした。

「え? なんで?」

「裏切られてこちらから捨てたものを、どうして私が拾い直さなくてはいけないの?」

「でも、アリクはいらないとしても、私は実の妹でしょう? 本当に反省しているのよ。それに、私が路頭に迷ったらリッチ公爵家の恥になるじゃない。私、もうアリクとは暮らせないの」

 拒絶されたショックで、口調はまた遠慮のない妹に戻っていたが、リンジーは気にしない。


「なるほど。アリクとうまくいかなくなって、戻るところがなくなったのね」

「そうなのよ、お姉様。だからお願い。私をリッチ公爵家の娘に戻してよ」


 ヴィクトリアはしばらくリンジーを見つめていたが、やがてにっこりと笑った。

「そう。リッチ公爵家の娘に戻りたいのね?」

「はい! その通りよ」

「わかったわ。そうしましょう」

「本当?」

「ええ。お父様とお母様も、きっと喜ぶわ」


 

 それからしばらくして、リンジーはリッチ公爵家の領地にある別邸にいた。

「リンジー、お父様(前リッチ公爵)にお食事を食べさせてちょうだい」

「はい、お母様……」

 リンジーはげっそりした顔で、父の口元へお粥を運んだ。

「ほら、お父様。あーんしてくださいな」

「いらん!」

 父が乱暴に手を振り払ったせいで、粥がリンジーのドレスにべったりと飛んだ。

「きゃあ!」

「あらあら。またなの? ごめんなさいね。最近のお父様ったら、本当に我が儘で。介護を任せていたメイドも次々と辞めてしまったのよ」

「そんな……」

「だからリンジーが来てくれて、本当に助かったわ」

 母は満面の笑みを浮かべている。

「ヴィクトリアから聞いたのよ。リッチ公爵家の娘に戻りたいって言ったそうね。お父様が呆けてしまったと聞いて、私たちを助けるために戻ってきてくれたのね。なんて親孝行な娘なのかしら」

「ち、違うのよ、お母様。私が言ったのは――」

「照れなくてもいいのよ。あなたはずっと私たちの娘ですよ。これからは家族三人、ずっとここで一緒に暮らしましょうね」

「ずっと……?」

「ええ。あ、それからお食事が終わったら、お父様のおしめを替えてちょうだい。さっき汚してしまったみたいなの」

「お、おしめ?」

「そうよ。洗濯や掃除はメイドがしてくれるから安心して。リンジーはお父様のお世話だけお願いね 」


(……すこしも安心じゃないわよ。お父様のお世話《《だけ》》って……《《だけ》》って……それが一番大変なのよー!)

 リンジーは心の中で絶叫していた。


 王都の公爵邸で使用人に傅かれながら暮らす。華やかなドレスを着て、毎日のように夜会やお茶会に出る。彼女が思い描いていた「公爵家の娘に戻る」とは、そういうことだった。


 ところが待っていたのは、父の食事の世話に着替え、入浴の介助やおしめの交換だ。しかも母は、リンジーが自分から親孝行をしに戻ってきたと心の底から信じている。


(ち、違うわ! こんなはずじゃなかったのに! お姉様ったら、酷いー)

 

Ⅶ

 一方その頃、ヴィクトリアは王都の屋敷で、リンジーの元夫であるブロークと向かい合っていた。

「それにしても、まさかこんなことになるとは思いませんでしたね」

 ブロークが呆れたように言うと、ヴィクトリアはさらりと答えた。

「私は、それほど驚きませんでしたわ。二人はどこか似ていますもの」


 アリクもリンジーも自分をよく見せることばかり考え、相手には都合よく尽くしてもらいたがる。そういうところがそっくりだった。

 だからといって、ヴィクトリアが二人を惹かれ合うよう仕向けたわけではない。ただ、勝手に惹かれ合ったのなら、止める理由もないし、浮気の証拠を黙って集めただけだ。


「それで、リンジーはこの先もずっとご両親のお世話を?」

「いいえ。少しでも心を入れ替えた様子が見えれば、妹としてそれなりに扱うつもりですわ。でも、当分はあのままでいいでしょう。お母様も喜んでいますし」

「なるほど。親孝行ができて何よりですね」

「本人が望んでいたことですもの。リッチ公爵家の娘に戻りたい、と」

 ヴィクトリアが涼しい顔で答えると、ブロークはとうとう吹き出した。


「そういえば、アリクはどうなったのです?」

「事業の借金を返せなくなって逃げ回っていたところを捕まったそうよ。今は鉱山で働かされているとか」

「それはまた……」

「自業自得ですわ」

 ヴィクトリアはそう言って、にっこりと笑った。


 リンジーもアリクも欲しいものばかり追いかけ、手にしていたものを自分から捨てた。

 その結果が、今の暮らしなのだ。


「まあ、これでお互い静かに暮らせそうですね」

「ええ。本当に」


 午後の柔らかな陽射しの中、二人はそのまま他愛のない話を続けた。

 似たような相手に振り回された者同士。

 いつの間にか、ヴィクトリアとブロークの間には、奇妙ではあるが穏やかな友情が芽生えていたのだった。





 完




















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― 新着の感想 ―
高望みし過ぎれば損をする。 まさに教訓となる話でした。
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