三毛猫の城
ソイツを初めて見たのは、人気の途絶えた夜の公園での事だった。家路の途中で何となく疲れた俺は、近くの公園のベンチに腰掛け、自販機で買った缶コーヒーに口を付けていた。
その時、俺は自分に近付いてくる存在に気が付いた。いや、正確にはベンチの方に近付いてきたのだろう。ソイツは、細身な見た目とは裏腹に、妙に重そうな足取りでベンチまで辿り着くと、ちょこんと俺の隣に座った。
「……お前、オスか」
三毛猫だった。
俺は空になった缶コーヒーを横に置き、ソイツをまじまじと見た。三毛猫のオスの価値は百万、生殖能力があれば更にその十倍とかいう話が頭を過ぎったが、別段気にする事も無かった。第一、どこに連れていけばそんな大金を貰えるか知らなかったのだ。
そんな事をしていると、三毛猫は俺の方に一瞥をくれてから、危害を加えられるとでも思ったのか、先程までのとぼとぼとした動きとは対照的な素早い身のこなしでベンチから降り、俺の前から姿を消した。
それから何日かが経った。
ある夜、日付けが変わる頃に会社の打ち上げがお開きになったが、参った事に俺は帰れずにいた。歩こうにも、まともに立つ事すら出来ないのだ。原因は明白だった。下戸だというのに、無理して飲んだからだ。
会社の同僚達は皆既に去った後であり、送って貰うという手段まで失くした俺は、店の向かいに位置する廃ビルの駐車場で仕方なく座り込んでいた。
「……?」
一時間ほど経った頃だったろうか。ふと、俺は見覚えのある奴の姿を捉えた。ビルの柱の陰にひっそりと佇むソイツの姿を。
徐々に覚醒しつつあった頭を上げ、ふらふらと俺は吸い込まれるようにソイツへ近付いた。
間違いない。例のオスの三毛猫だった。
あれから少し調べた事だったが、百万云々という話は単に希少性を誇張するものであって、実際に貰える訳では無いらしい。仮にそれが本当に貰える物であったとしたら、いくらか俺にとっては喜ばしい再会となり得たかも知れなかったのだが。
「……お前も一人か?」
何となしにそんな事を人外に尋ねてしまうとは、俺もそこそこメルヘンチックな頭の構造をしているのだろうか。それとも、単純に酔っていただけか。
いずれにしろ、この問いかけがきっかけであった事は間違いなかろう。
「何故でしょう?」
初め、その声が何なのかを把握できなかった。辺りを見回しても誰も居ない事を確認すると、次は耳を疑った。やはり酔っているのか、酔いの症状に幻聴が聞こえるなんて知らなかった、と自己解決に至ろうとすると、今度はもう少しはっきりとした声が響いた。
「何故、そんな事を訊くのでしょう?」
しばらく沈黙が訪れた後、俺は屈んで声の主と思しき存在に目線を合わせつつ確認を取った。
「話しているのは、お前か?」
「はて、他に誰が居るのでしょう? 私は、あなたが私に問いかけたと思っていたのですが」
オスの三毛猫というのは喋るのか? 俺の中に築かれていた生態学の常識が色々と塗り替えられている気がした。
「そう怪訝とした顔をする事でもないでしょう。人が言葉を発するように、猫もまたそうであっても何ら不思議な事は無いのです」
そこには同意しかねる、とでも反論出来たら良かったが、その時の俺にそこまでの余裕は無かった。酔いは完全に醒めたのだが。
「お前は妖怪か何かなのか?」
「元来、妖怪とは奇怪な様を形容する言葉だそうです。あなたが私を見て不思議だと思ったのならば、恐らく私は妖怪なのでしょう」
呆気に取られた、という言葉が一番合っているだろうか。全く、一体どこでそんな知識を身に付けたのか。
「話を元に戻しましょう」
三毛猫は一旦体を伸ばしてから、俺に向き直るように座って続ける。
「お前も一人か、という質問の意図を伺いたいのですが。それは悲哀によるものなのでしょうか?」
「……悲哀?」
「だとすれば、とんでもありません。一人で居る事と孤独である事は、存外差異が存在するものです。片方は自由、もう片方は束縛の意味合いを持ちます。ですから、何の心配もございません。猫は元より自由なのです」
嫌に哲学めいた猫だ。人間だったら嫌われ者だったろう。
「別にそんな深い意味で訊いちゃいない。単純にお前が今、ここに一人で居たのかどうかって事だ」
「その問い方ですと、決して一人では無いでしょう。私以外に、あなたという人間が存在するのですから」
猫はノミでも取っているのか、自分の前足を二、三回なめてから立ち上がった。
「しかし、あなたを除くならば、私が一人で居たというのは紛れも無く事実でしょう。私はそれ以外の存在を認知していなかったのですから」
「どこか行くのか?」
「ここは、私が最近居座っている建物でして。二階の一部を寝床として使用しているのです。良ければ、あなたも見に来ましょうか?」
猫は静かに歩き出し、俺はまた何となくそれに付いて行った。
極めて自然な流れで、俺はビルの二階まで辿り着いた。
今はもう使われていない所為か、全体的に雑然としていて、至る所に蜘蛛の巣が張り巡らされ、視界の端では小さな虫達がこそこそと這い回り、ただ人間の気配だけがしなかった。
「こちらです」
猫が立ち止まったのは、オフィスのような部屋だった。灰色のワークデスクや椅子は床に転がっているのだが、ボロボロになった書類やメモなどは何故か一ヶ所にまとめられていた。
「儚いものです。人の夢とは、まさに字の通り。彼らも、忙殺されていた頃の方が、まだ希望を持ち合わせていたのでしょう。しかし、過去を積み重ねる事もまた決して無駄では無いのです」
猫はその紙の山に寝そべると、おもむろに体を沈めた。
「現に、私はこうして眠りに就く事が出来るのですから」
ここは城だ、と俺は思った。
どんなに汚らしい、どんなに殺風景な部屋だろうとも、その主が気高くあれば、そこは城となるのだ。
ここは、三毛猫の城なのだ。
「お前はそこで幸せなのか?」
「それは判りません。誰一人として、幸福を明確に定義する事は出来ません。高みを目指す事なのか、平凡を生きる事なのか、それとも私のような畜生である事なのかも」
「頼む、答えてくれ。そんな客観的なものじゃなく、お前自身が本当に幸せだと思っているのかを」
俺は焦っていた。どうしても、その答えが聞きたかったのだ。
「あなたはそれを聞いてどうするのです?」
「判らない。でも、だからこそ知りたいんだ」
「それが例え、知ってはならない事だとしてもでしょうか?」
沈黙が辺りを包んだ。しばらく俺と猫は向かい合って、互いに凝視していた。
そして、近くでガラスの割れるような音が響くと、猫が先に口を開いた。
「……あなたはもう帰ってください。ここは希望の跡地なのです。まだ若いあなたがそう長居する場所では無いのです。夜が明ける前に、早く。ここから戻れなくなる前に」
猫は手の平を返したように俺を急かした。周りの景色が歪み始めた。本当に、帰る道が判らなくなってしまうかもしれない。
それでも、俺は猫に問いかけた。
「最後に一つだけ、教えてくれ」
「何でしょう?」
「お前は、何者なんだ?」
猫は黙っていたが、やがて観念したのか、呟くような声で答えた。
「 」
目を覚ますと、俺は見覚えの無い部屋で寝かされていた。ベッドの上、白いシーツをかけられ、これまた白いカーテンで仕切られた空間。
そこは病院だった。
どうやらあの打ち上げが終わった夜に、俺は交通事故に遭ったようだった。轢き逃げだったらしい。場所は店のすぐそばで、俺が倒れているのを店員が発見して救急車を呼んだそうだ。日にちがあれから三日も経っていたのが何より驚いた。
見舞いは割と賑やかだったのを憶えている。実家の両親や会社の同僚、大学時代の友人など、普段はあまり会わない奴まで来てくれた。警察が病室を訪ねて来てくれたのは、貴重な経験だったろう。
これは退院してから判った事だが、あの店の向かいには廃ビルなんて存在しなかった。
代わりにあったのは、名前も知らない小さな会社の事務所で、中を覗くと数人の社員と思しき人物達が奔走しているのが目に付いた。
あれからあの猫には会っていない。
当然の事だと言えばそうなのかも知れない。現実に喋る猫など居ないのだ。
しかし、果たしてあの出来事は夢だったのか。
俺は、あの猫が最後に告げた言葉を思い出し、道を歩き続けた。
どうも、この小説を書いたSalと申します。
本当は夏のホラー2010に投稿しようと思って書いたものだったのですが、途中まで読んだ友人からは「これホラーじゃねーよ」と酷評され、いざサイトの参加方法を見たら5000字以上8000字以下という条件が。
これはもう間に合わないと思い、仕方なく普通に投稿することにしました。
さて、この小説は私的に色々挑戦してみた作品だったりします。
文章の書き方をいつもと変えたり、描写の書き方をちょっと工夫してみたり。
寓話をライトノベルっぽく書いたら、こんな風になるんじゃないかなぁとか考えながら書いてました。
猫とは一体何者なのでしょう。それには、きっと様々な解釈の仕方があると思います。良ければ少しだけ考えてみてください。
最後に、この作品を読んでいただきありがとうございました。