月下の祈り
厨房の奥から姿を現したクラリスが、三人に気づく。
「あれ、アイクさんたちじゃない。
やっぱりイヴァンスの対戦相手、アイクさんたちだったんだ」
ルーフィが振り向く。
「お、クラリスちゃんじゃねえか!
え? わざわざ俺のためにストーン村から追っかけてきてくれたの?」
間髪入れずに切り返す。
「何言ってんの。
私はもう“売れてる”って、いつも言ってるでしょ?」
「……売れてる?」
「つまり、もう相手がいるってこと。
あんたの出番はないの」
軽い。明るい。悪意はない。
本当に、ただのいつものやり取り。
でも――
セーニャの指先が止まった。
皿から料理を取り分けていたその手が、ほんのわずかに。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないほどの、かすかな静止。
ルーフィが食い下がる。
「相手って誰だよ」
クラリスは肩をすくめ、あっさりと言う。
「目の前にいるでしょ。あんたが負けた相手よ」
「もしかしてイヴァンスか?」
ルーフィが目を丸くする。
フックスが吹き出す。
「はは、ルーフィ、勝負あったようだな。
今回の対戦でこてんぱんに負けたんだ」
笑いが起きる。
イヴァンスは苦笑しながら頭をかく。
「そうか……イヴァンスか……。
確かに俺、今回の対戦いいとこ無しだもんなあ……」
肩を落とすルーフィ。
そこへ、クラリスが容赦なく追撃する。
「いつも言ってるでしょ。言葉遣いに気をつけなさいって」
そして、わざとらしく低い声を真似る。
「“姉ちゃん、若い連中に混ざって何やってんだ?
年ごまかすのも大変だろ。
若い血でもすすらなきゃ、その面も保てねぇのか?”」
食堂が一瞬、静まり返る。
「うわああああああ! それ言うなぁぁ!」
ルーフィが頭を抱える。
「依頼主に向かってあんな言葉遣いするから、いつも怒らせるのよ」
クラリスはぴしゃりと言い放つ。
「アイクさんがどれだけフォローしてると思ってんの?」
視線が自然とアイクに集まる。
アイクは静かに微笑む。
「……否定はしません」
「すみませんでした!!」
即土下座。
爆笑が起きる。
空気は明るい。
誰も傷ついていない。
――はずだった。
セーニャは、笑っていた。
ちゃんと。
いつも通りに。
けれど胸の奥で、さきほどの言葉がまだ残っている。
「目の前にいるでしょ」
その一言だけが、
なぜか何度も、静かに反芻される。
イヴァンスは気づかない。
クラリスも、もちろん悪気はない。
ルーフィは自爆中。
笑い声に紛れて、
セーニャはそっと視線を落とした。
ほんの少しだけ。
誰にも見えない角度で。
胸の奥が、きゅっと締まる。
息が、わずかに浅くなる。
――だめ。
ここで顔を曇らせてはいけない。
聖女は、人を不安にさせない。
「……皆さん、ごめんなさい」
声は、いつも通り穏やかだった。
柔らかく、澄んでいて、揺れはない。
「少し、気分が優れなくて……。先に失礼します」
「え、セーニャ?」
呼び止める声が上がるよりも早く、
彼女は一礼し、
静かにその場を離れた。
誰にも悟られないように。
扉が閉まる。
祝勝会の笑い声が、また戻る。
まるで何事もなかったかのように。
けれど――
廊下に出た瞬間。
胸の奥の痛みが、わずかに強まる。
さっきまで平気だったはずなのに。
どうしてだろう。
ただの冗談。
ただの好意。
ただの、他人の恋。
それだけなのに。
足が、少しだけ重い。
セーニャは、ゆっくりと自分の胸元に手を当てた。
鼓動が、やけに近い。
――これが。
初めて知る、痛みだった。
夜風に当たりながら、セーニャは宿屋ワーランを後にした。
笑い声は扉の向こうに置き去りにして。
石畳の道を、静かに歩く。
いつもなら何でもない帰り道が、今日はやけに長く感じた。
部屋の中は静かだった。
姉妹で暮らす小さな家。
窓の外には、夜の街の灯りが揺れている。
祝勝会の喧騒は、もう届かない。
ここには、ただ静かな夜だけがあった。
ベッドに腰を下ろしたまま、セーニャは両手を胸の前で重ねていた。
祈るように。
けれど、祈りの言葉は出てこない。
ぽたり。
膝の上に、小さな雫が落ちる。
音はしない。
次の雫も、また次も。
声は、出ない。
ただ、制服に、小さな染みが増えていくだけだった。
――コン、コン。
控えめなノック。
「セーニャ?」
扉が開く。
入ってきたのはベラミカだった。
月明かりに照らされた横顔が、やわらかく揺れる。
「……お姉さま」
涙を拭おうとして、拭いきれない。
ベラミカは何も言わず、隣に腰を下ろす。
しばらく沈黙。
それから、静かに言った。
「気づいてはいたけど」
優しく、寄り添うような声で。
「イヴァンスのこと、好きだったのね」
否定は、出てこなかった。
代わりに、喉の奥が震える。
「……はい」
小さな、かすれた声。
「いつからかは、分からないんです」
視線を落としたまま続ける。
「でも……あの人が笑っていると、嬉しくて。
無茶をすると心配で。
怪我をすると……胸が苦しくて」
言葉にしてしまうと、もう隠せない。
涙がまた零れる。
「私、聖女なのに……」
ぽつり。
「こんなことで、こんなに……」
ベラミカがそっと、セーニャの頭を撫でた。
「聖女だって、人間よ」
いつもの強気な声音ではない。
姉の声だった。
「好きになるのに資格なんていらないわ」
セーニャの肩が、小さく震える。
「……でも」
「でも?」
「応援、したいって思ってしまうんです」
苦しいのに。
離れたいのに。
それでも。
「あの人が幸せなら、それでいいって……」
とうとう声が揺れた。
「それって、変ですか……?」
ベラミカは少しだけ目を細める。
「いいえ」
即答だった。
「それが本気ってやつよ」
部屋の中は静かだ。
ベラミカはそっと言う。
「泣きなさい。今夜だけは」
セーニャは、堪えていた息を吐いた。
声を殺して。
けれど、今度は隠さずに。
聖女ではなく、
ただの一人の少女として。
静かな夜が、更けていく。




