訓練場のお邪魔虫①
放課後の訓練場には、
夕刻特有の乾いた空気が満ちていた。
日中の喧騒が嘘のように引き、
石畳の上には、剣が交わる鈍い音だけが響いている。
イヴァンスは一歩下がり、
荒くなった呼吸を整えた。
額を伝う汗を腕で拭うと、
目の前に立つグレッグ将軍が、軽く顎を上げて合図を送る。
「今日はここまでだ。少し休め」
その声に甘え、イヴァンスは素直に剣を下ろした。
訓練用とはいえ、将軍相手では気を抜く暇など一瞬もない。
むしろ、気を抜いた瞬間に叩き伏せられる。
――それが、グレッグ将軍との訓練だった。
二人は訓練場の端に腰を下ろす。
周囲には誰もいない。
学園の生徒も、近衛騎士も、もう引き上げた後だ。
しばし沈黙が流れ、イヴァンスは水袋を口に運びながら、
ふと思い出したように視線を向けた。
「そういえば……」
前触れもなく、いつもの調子で口を開く。
「グレッグさんって、
マルティアさんとの関係、どうなったの?」
あまりにも自然な問いだった。
探りでもなければ、含みもない。
純粋な疑問を、そのまま言葉にしただけ
――イヴァンスらしいと言えば、それまでだった。
だが、その一言に、グレッグ将軍はわずかに動きを止めた。
一瞬、視線を逸らし、訓練場の奥を見る。
誰もいないことを確認してから、深く息を吐いた。
「……お前は、本当に遠慮というものを知らんな」
呆れたような口調だったが、そこに怒気はない。
むしろ、どこか苦笑に近い。
イヴァンスは首をかしげる。
「まずかったですか?」
「いや……今は、構わん」
そう言って、グレッグは背中を石壁に預けた。
いつもの威圧感のある立ち姿とは違い、
珍しく力の抜けた態度だった。
「今回な。軍務卿が、少しばかり気を利かせてくれた」
低い声で、淡々と語り始める。
「姫と過ごす時間が、これまで以上に取れるようになった。
形式ばった場ではなく、ああして言葉を交わせる時間だ」
イヴァンスは目を瞬かせた。
それがどれほど特別なことか、なんとなく分かる。
「……姫の気持ちに、きちんと応えたいと思っている」
グレッグはそう言い切った。
曖昧さのない言葉だった。
「避けて通るようなことはしない。
曖昧なまま、都合のいい距離でいるつもりもない。
進むと決めた以上は、真正面からだ」
イヴァンスは、思わず将軍の横顔を見つめた。
そこにあるのは、
戦場で見せる鋼のような覚悟とは、少し違う表情だった。
だが、次の言葉は、すぐに現実へと引き戻される。
「ただな……」
グレッグは、短く言葉を切った。
「姫の気持ちに応えるということは、
次期皇帝という重責も背負うということだ。
感情だけで進める話ではない」
イヴァンスは一瞬だけ考えるような素振りを見せたが、
すぐに視線がわずかに泳いだ。
何かある。
それだけは分かる。
だが――
なぜ、それが「進む」ことと結びつくのかが、分からない。
そんな顔だった。
グレッグ将軍は、その表情を一目見て、小さく息を吐いた。
「……貴族派だ」
あえて、言い直す。
「学生のお前には、まだよくわからんだろうがな。
大人の事情というやつだ」
イヴァンスは、曖昧にうなずいた。
正直なところ、理解したふりをしたに過ぎない。
「彼らを納得させねばならん。
力も、実績も、そして――支える人間もだ」
そこで、グレッグの視線が、まっすぐイヴァンスに向けられた。
「だからこそ、お前に期待している」
静かな声だったが、その重みははっきりと伝わってくる。
「イヴァンス。
お前には、騎士団の中核の一人になってほしい」
イヴァンスは、思わず言葉を失った。
「今回、こうして訓練に付き合っているのも、そのためだ。
個人の強さだけでは足りない。
だが――お前には、それを超える資質がある」
夕陽が訓練場を赤く染める中、
グレッグ将軍は、真剣な眼差しでそう告げた。
イヴァンスは、しばらく黙ったまま、剣の柄を見つめていた。
訓練場の入り口に、いつの間にか一人の女性が立っていた。
足音はない。
夕刻の風に衣がわずかに揺れるだけで、
その存在は、二人の背後に溶け込んでいる。
マルティア王女だった。
声をかける機会を待っていたのか、
あるいは偶然足を止めただけなのか。
その理由を確かめる者はいない。
だが、彼女は聞いてしまった。
「姫の気持ちに、きちんと応えたい」
グレッグ将軍のその言葉が、訓練場の静けさの中に落ちる。
マルティアは、思わず息を詰めた。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
これまで、彼が多くを語らなかったことは、承知している。
責務と立場が、感情の前に立ちはだかっていたことも。
それでも――
「進むと決めた以上は、真正面からだ」
その一言が、確かに届いた。
グレッグ将軍が、自分を娶り、皇帝になる決意を固めている。
それを、誰に誇るでもなく、静かに語っている。
その事実が、胸を強く打った。
マルティアは、その言葉一つひとつを噛みしめるように、静かに立っていた。
胸の奥に灯った熱が、まだ消えきらない。
――その横からだった。
視界いっぱいに、突然、赤が差し込んできた。
「きゃ!」
あまりの不意打ちに、マルティアは思わず小さな悲鳴を上げてしまう。
反射的に一歩下がり、差し出されたものを見て、目を見開いた。
バラの花束だった。
咲き誇る深紅の花弁が、夕陽を受けて不自然なほど鮮やかに映える。
マルティアは、花束ではなく、その奥にある男の顔を見た。
「おっと、驚かせてしまいましたかな」
芝居がかった声が、すぐそばから聞こえる。
「ああ、マルティア王女。
あなたには、このバラの花束が実によく似合うでしょう」
振り向いた先に立っていたのは、リーパルだった。
整えすぎた髪。
自信満々の笑み。
まるで舞台に登場するかのような、わざとらしい仕草。
マルティアは一瞬、言葉を失った。
(……なぜ、ここに)
訓練場という場にも、今の空気にも、あまりにもそぐわない存在。
イヴァンスとグレッグは、同時に訓練場を出た。
夕陽を背に、二人は自然とマルティアの前に立つ形になる。
その視線の先にいるのは、花束を抱え、余裕の笑みを浮かべた男。
リーパルだった。
訓練場に残っていた静けさは、そこで完全に消えた。




