イヴァンスの壁④
グレッグ将軍が治療室を出ていくと少しだけ静寂な時が流れた。
プラーサは待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「イヴァンス君。ちょっと聞きたいんだけど」
指を突きつけるようにして、にやりと笑う。
「あの“バカでアール隊”って、なによ?
めっちゃ面白そうなんだけど」
「……え?」
イヴァンスは一瞬きょとんとし、それから天井を見上げて考え込む。
「うーん……」
少し間を置いて、困ったように笑った。
「たぶん、名前の頭文字だったと思う。
数年前に叫んだ記憶が、さっき急に蘇ってきてさ」
プラーサは一瞬きょとんとしたあと、
何かに気づいたようにぱちんと指を鳴らした。
「……あ」
「バリンスの“バ”と――」
指を折りながら、にやりと笑う。
「取り巻きは、カデフ、アセプト、ルフィン……でしょ?」
イヴァンスが目を瞬かせる。
「……ああ」
「はい、納得」
プラーサは即答した。
「それで“バ・カ・で・アール隊”ね」
セーニャが思わず吹き出し、慌てて口元を押さえる。
「ちょ、ちょっとプラーサ……」
「いいじゃない」
プラーサは肩をすくめて続けた。
「あいつらに、これ以上ぴったりの呼び名なんてないわ」
イヴァンスは苦笑する。
「……そう言われると、否定できないな」
「でしょ?」
プラーサは満足そうに頷いた。
「決まりね」
「あいつらの呼び名は、今日から正式に――
バカでアール隊」
治療室に、また笑いが広がる。
安堵したのかイヴァンスは目を細める。
「なんか……急に眠くなってきた……」
「無理しないで」
セーニャの声は柔らかい。
「まだ、ちゃんと休まないと……」
「うん……」
その返事を最後に、
イヴァンスの呼吸はゆっくりと整い、
ほどなく静かな寝息に変わった。
――完全に、落ちた。
「……はやっ」
プラーサが小声で言う。
セーニャはベッドの横に座ったまま、
眠ったイヴァンスから目を離さない。
その指先は、無意識のうちにシーツを握りしめていた。
「……」
「ねえ、セーニャ」
「……はい?」
呼ばれて振り向いた瞬間、
プラーサの目が、にやりと細くなる。
「さっきの道場での第一声」
セーニャが一瞬、固まった。
「……え?」
「『……先生、それ以上は……』」
わざと真似て言う。
「ずいぶん必死だったじゃない」
「……っ」
セーニャの耳まで、一気に赤く染まる。
「ち、違います! あれは、その……!」
「はいはい」
プラーサは楽しそうに頷く。
「“聖女として当然”ね。便利な言い訳」
「そ、そんな……」
セーニャは再びイヴァンスを見る。
眠った横顔は、無防備そのものだった。
「……怖かったんです」
ぽつりと、漏れる。
「このまま、立たなくなるんじゃないかって……」
プラーサは、その表情をじっと見てから、
少しだけ声の調子を落とした。
「……ふーん」
「じゃあ聞くけど」
少し身を乗り出す。
「もし“ただの同級生”だったらさ、
あそこまで睨み返して、
あそこまで必死にヒールかけてた?」
「…………」
セーニャは答えない。
答えられない。
プラーサは、その沈黙を待っていたかのように、
小さく肩をすくめた。
「ねぇ。
“無意識”って、いちばん正直なのよ。
嘘をつけないし、言い訳もしない」
視線を逸らしたままのセーニャに、
さらに一歩、声を落とす。
「自覚してないなら、なおさらタチ悪い。
感情だけ先に走って、
理屈はあとから追いかけてくるんだから」
一瞬、悪戯っぽく口角を上げる。
「安心しなさい。
誰も責めてないし、
今すぐどうこうしろとも言ってない」
そして、少しだけ優しい声になる。
「ただね――
“同級生”って顔じゃなかったわよ。
あの時のあんた」
セーニャの指先が、ぎゅっと毛布を掴む。
プラーサは、それを見て満足そうに頷いた。
「はい、確認終了」
いきなり、プラーサが話題を切り替えた。
「でもね、今回のラプロスおじさんは――
絶対に許さない」
「……プラーサ、知り合いなの?」
「ああ。パパが同級生なのよ。
さっきグレッグ将軍が言ってたでしょ。
陛下と同級生だって。うちのパパも同級生なの」
少し肩をすくめて、続ける。
「なんでも『悪ガキトリオ』って呼ばれる有名人だったらしいわ。
今じゃ三人とも、皇帝、軍務卿、帝国騎士団総指南役――
肩書きだけ聞くと、笑っちゃうくらい立派だけどね」
プラーサは鼻で笑う。
「で、そのラプロスおじさん。
五歳の娘さんがいるのよ。
よく遊んであげててね」
その瞬間、プラーサの目が、いたずらっ子のように輝いた。
「だから決めたの」
一拍。
「娘ちゃんにね。
“プラーサお姉さんを悲しませるようなことをした”って、
しっかり刷り込んであげるの」
「フ・フ・フ……」
喉の奥で笑う。
「娘ちゃんが口をきいてくれなくなった時の、
ラプロスおじさんの顔――
もう、目に浮かぶわ」
プラーサはそう言って、満足そうに笑った。
それは、戦場では決して見られぬ種類の笑み――
あまりにも無邪気で、あまりにも残酷なものだった。
セーニャは思った。
帝国最強の剣士ラプロスでさえ、
この少女の企みにだけは、勝てないのではないかと。
そして――
イヴァンスは、
帝国騎士団総指南役ラプロスと、
グレッグ将軍という
帝国の頂に立つ二人に師事することになる。
この日を境に、
イヴァンスは剣の道を進み始める。
仲間の助けを得ながら、
幾度も叩き伏せられ、
それでも立ち上がりながら。
ただ――
帝国最強の剣に選ばれるということは、
同時に、
逃げ場のない場所へ立たされるということでもあった。




