イヴァンスの壁①
剣術科の授業開始を告げる鐘が鳴った。
一年生は全員、剣術道場へと集められている。
天井の高い石造りの道場は、
普段なら訓練用のざわめきに満ちているはずだった。
――だが、今日は違った。
道場に足を踏み入れた瞬間、
イヴァンスは空気が明確に“変わっている”ことを感じ取った。
数日前まで、ラプロスは型を仕込み、
動きの癖を指摘し、必要以上の圧をかけることはなかった。
厳しくはあったが、理にかなった指導
――少なくともそう見えていた。
しかし今日のラプロスには、
その「教官らしさ」が一切なかった。
――帝国騎士団総合指南役。
現在の騎士団長や幹部たちが、
若い頃に一度は叩き潰されている存在。
そして今なお、グレッグ将軍以外、
誰一人として「勝った」と名乗れない化け物。
その男が、剣を手に道場の中央に立つ。
道場の空気はもはや授業ではなかった。
戦場――その言葉以外、思い浮かべることはできない。
冷たく、重い緊張が床にまで染み込んでいた。
ラプロスの視線が、生徒たちをなぞる。
そして止まった。
「……イヴァンス」
名を呼ばれた瞬間、道場の一年生たちの視線が一斉に集まる。
ラプロスは淡々と告げた。
「今日は“授業”だ。実戦訓練ではない。安心しろ
――くっくっくっ……」
低く、乾いた声が道場に響く。
――ただし。
「死にはしないだけだ」
即座に付け足されたその一言で、
生徒たちの顔から血の気が引いた。
「前へ出ろ」
イヴァンスは一瞬だけ間を置き、
静かに道場の中央へ歩み出した。
「魔法は使えるものは使ってよいぞ」
ラプロスは肩をすくめる。
「まあ、まだ入学したばかりだ。
使えるようになっているものなど、ないだろうがな……」
口元がわずかに歪む。
笑み――だが、その温度は冷たく、理性的で残酷だった。
まるで獲物を前にした狼よりも、ずっと計算された捕食者の笑み。
「さあ、剣を構えろ。イヴァンス」
「そういえば、宰相の小童がいたな。『始め』の掛け声をしろ」
名を呼ばれたバリンスがびくりと肩を跳ねさせる。
「は、はい……」
明らかに動揺した声で、バリンスは喉を震わせて言った。
「は、始め!」
その声が道場に響いた――その瞬間だった。
イヴァンスの身体が、宙を舞った。
誰一人として、何が起きたのか理解できなかった。
目の前でラプロスが動いたのを、誰も見ていない。
始めの掛け声と同時に、
ラプロスはすでにイヴァンスの懐へ踏み込み、
腹部に鋭い突きを叩き込んでいた。
剣の感触はまったくない。
ただ――空間ごと押し潰され、
身体ごと吹き飛ばされた衝撃だけが残った。
床に叩きつけられ、転がる。
骨は折れず、歯も欠けない。
(……あれだけの衝撃で、飛ばされているのに……)
胸には鈍痛、皮膚には擦過傷だけ。
イヴァンスは立ち上がり、剣を構え直す。
――次の瞬間。
左から、振り下ろされる剣。
「ぐっ……!」
またしても身体が宙を舞い、横方向へ吹き飛ばされる。
受け身を取る間もなく、壁に叩きつけられ、床を転がる。
右、下、背後――
すべて一瞬で。
見えた時には、もう遅い。
身体を押し流すのは斬撃でも衝撃でもない。
重力そのものに叩きつけられる感覚。
床に叩きつけられるたび、全身が悲鳴を上げる。
だが骨は折れず、歯も欠けない。
皮膚が熱を帯びるだけだ。
ラプロスの声が頭上から落ちた。
「前評判倒れか……」
その瞬間も、剣は振られる。
腹部、胸、横腹、背中。
身体が宙に浮かび、壁に叩きつけられ、床を跳ね回る。
視界が白くなり、意識が揺れる。
(……まだ、立て……)
歯を食いしばり、
剣を支えに立ち上がろうとするが、力が入らない。
身体が命令を拒む。
視界の端が暗く沈む。
ラプロスは無言で歩み寄り、倒れたイヴァンスを見下ろす。
淡々とした声が道場に落ちる。
「確かこの学年に、セーニャという聖女がいたな。どいつだ!」
ラプロスの視線が、道場をぐるりと見渡す。
「私です、先生」
小さな声だったが、確かに名乗った。
セーニャがゆっくりと立ち上がる。
ラプロスは冷たく言い放つ。
「こいつを治療しろ。立てるようになったら――訓練再開だ」
その言葉を聞いた瞬間、セーニャの瞳に決意が宿る。
迷わず、駆けるようにイヴァンスの横に膝をついた。
「イヴァンス……!」
セーニャは手をかざす。
「――ヒール」
淡い光がイヴァンスの身体を包み、
擦り傷が塞がり、呼吸が少しずつ整う。
だが、立ち上がるにはまだ力が足りなかった。
ラプロスの声が、再び道場に冷たく響く。
「身体は治っている。
動かないのは魔法でも剣でもない
――単なる疲労と恐怖だ」
その視線は、倒れたイヴァンスをまっすぐに貫く。
「立て」
命令だった。
授業は、まだ始まったばかりだ。
その冷たい瞳がイヴァンスを貫いた瞬間、道場全体に、
これから始まる“悪夢の授業”の影が落ちた。




