貴族裁判⑥
軍務卿の一言が、法廷の空気を完全に支配した。
提出された決裁書。
その内容、署名、手続きの正当性――
どこをどう切り取っても、反論の余地はなかった。
カイル宰相は口を開きかけ、そして閉じた。
クレール法務卿もまた、視線を伏せたまま動かない。
――終わった。
沈黙を破ったのは、ピルバ司法卿だった。
「これより宣告いたします」
厳粛な声が、法廷に響く。
「本件、貴族裁判の申し立ては、
正式な手続きに瑕疵があったものと認められました。
よって――」
一拍、間を置き。
「この貴族裁判の申し立ては、正式に却下いたします。
これをもって、本裁判は終了といたします」
木槌が打ち下ろされる音が、はっきりと響いた。
貴族裁判、終了。
だが――
その結末を、到底受け入れられない者が一人いた。
「……ふざけるな!」
リーパルが、声を荒らげて立ち上がる。
「たかが決裁書一枚で、
貴族裁判が無効にできるわけがないだろう!
父上! 決裁書の無効を宣言すればいいだけの話です!
なぜ黙っているのですか!」
縋るような、命令口調の言葉。
だが、その瞬間――
「ほお」
低く、冷たい声が割り込んだ。
軍務卿だった。
「個人の判断にて、正式に決裁された案件を無効とする。
カイル宰相が、もしそのような判断をなされるというのなら――」
軍務卿は、ゆっくりと宰相を見据える。
「この件は、
ランジール皇帝陛下の御判断を仰がねばならぬ案件となりますな。
それでも、よろしいのですかな?
――カイル宰相」
宰相の喉が、小さく鳴った。
分かっている。
ここで個人的な判断を下せば――
これまで自らが行ってきた、貴族派に有利な数々の決裁。
それらすべてが、皇帝派の一言で覆されかねないことを。
沈黙ののち、カイル宰相は重く口を開いた。
「……いや」
疲れ切った声だった。
「私の決裁印が押されている以上、これは正式な決裁書だ。
有効である」
そして、絞り出すように続ける。
「……この裁判が無効となるのは、仕方あるまい」
その瞬間。
傍聴席から、堪えきれない歓声が湧き上がった。
「……っ!」
マルティアは、思わず隣にいたグレッグ将軍に抱きついていた。
「やった……! 本当に……!」
グレッグ将軍は一瞬だけ驚いた顔をし、
そして――完全に固まった。
顔はみるみるうちに赤くなり、
添えたはずの手も、どこに置けばいいのか分からなくなり、動かない。
マルティアに抱きつかれたのだから、仕方がない。
仕方がないのだが――
将軍としても、一人の男としても、
あまりに情けない硬直だった。
「……」
何も言えず、何もできず、ただ時間だけが過ぎていく。
その様子を、横から冷ややかに眺めていたベラミカが、
小さく、しかし確実に聞こえる声で呟いた。
「甲斐性ないんだから。グレッグ将軍……」
容赦のない一言だった。
軍務卿は、宰相に向けてわずかに一礼した。
「カイル宰相。
私の意図をお汲み取りいただき、感謝いたします。
必死で考えた語呂合わせにも、気づいていただいていたようで」
宰相は、胡散臭そうに軍務卿を見返す。
「……何のことだ?」
軍務卿は、いかにも楽しげに口元を緩めた。
「『ケー四、六、四、九、三、一、〇』――
“よろしく宰相”。
私からの、ささやかなお願いだったのですがな」
「……ふん」
宰相は鼻を鳴らし、あからさまに機嫌を悪くする。
だが軍務卿は、その様子など意に介さない。
むしろ、ここからが本番と言わんばかりだった。
「ああ、先ほど宰相より“監督不行き届き”とのご指摘をいただきましたな。
まことにその通り。私の至らぬ点でございました」
殊勝な言葉とは裏腹に、声には一切の反省がない。
「つきましては、明日より――
監督者として、グレッグ将軍を駐在させることにいたします」
宰相の眉が、ぴくりと動いた。
軍務卿は、視線を法廷の一角へと向ける。
「グレッグ将軍。
明日より、学園における訓練所の監督者として、学園に駐在するように。
――聞いておるのかね?」
その時。
マルティアに抱きつかれたまま、完全に固まっていたグレッグ将軍が、
はっと我に返った。
「ハッ!」
慌てて一歩下がり、背筋を正す。
「軍務卿!
明日より、学園の訓練所に駐在いたします!」
見事な敬礼とともに、命令を受領する。
こうして――
宰相公認のもと、
グレッグ将軍とマルティア王女は、
学園の訓練所で“共に仕事をする”ことになったのであった。
リーパルは、自分が起こした一連の騒動によって、
結果的に――
グレッグ将軍とマルティア王女の関係を深めてしまった事実に、
ようやく気づき、衝撃を受けていた。
だが、父がこれ以上擁護してくれるはずもない。
リーパルは、うなだれたまま、床を見つめ続ける。
「……くそ……」
かすれた声が、漏れた。
「なぜ……なぜマルティア様が、
グレッグなんかと一緒にいることになったんだ……」
その背中には、怒りも、悔しさも、
そしてどうしようもない敗北感だけが貼り付いていた。
一方で。
被告であったイヴァンスとレックは、
貴族裁判というものが、結局どういう意味を持つのかもよく分からないまま、
ただ一連の流れを見守っていた。
イヴァンスが、ぽつりとレックに小声で尋ねる。
「なあ、レック。
……俺たち、無罪になったんだよな?」
「ぴ?」
レックは、きょとんとした表情のまま首をかしげる。
二人は顔を見合わせ、
そして同時に、微妙に困ったような表情を浮かべた。
――当事者であるはずなのに、
事態を一番理解していないのは、どうやら彼らだったようだ。
だがその一方で――
うなだれたまま床を見つめるリーパルの瞳の奥には、
怒りとも、悔しさともつかない、
どす黒い感情が、まだ確かに燻っていた。
それは、敗北を受け入れた者のそれではない。
――このまま終わるはずがない。
そう告げるような、歪んだ光だけが、消えずに残っていた。




