貴族裁判②
ディアン軍務卿の執務室の扉が、ノックもそこそこに開いた。
飛び込んできたのは、側近のカムシスだった。
「軍務卿、やばい。イヴァンスとレックが連行された」
切迫した声に、執務室の空気が一瞬だけ張りつめる。
壁際に控えていた文官たちが、思わず息を呑んだ。
「リーパルの野郎が貴族裁判を申し立てた。
今から司法卿のところで裁判だ」
相当走ってきたのだろう。
カムシスは肩で息をし、額には汗が浮かんでいる。
その姿だけで、事態の異常さは十分に伝わっていた。
ディアン軍務卿は、手にしていた書類から静かに視線を上げた。
「……直ちに開始、というわけか。罪状は?」
「リーパルに対するレックの暗殺未遂。
それと、イヴァンスの監督不行き届きって話だ。
司法卿から、あんたにも出頭命令が来てる」
一拍の沈黙。
執務室の奥で、時計の針が進む音だけがやけに大きく響いた。
ディアン軍務卿は、ゆっくりと椅子にもたれた。
「――餌に、食いついたか」
その呟きは、カムシスにもほとんど聞こえないほど小さなものだった。
「軍務卿、どうすんだ。貴族裁判だぞ」
思わず、声が低くなる。
「あんな馬鹿げた制度でも、
始まっちまえば貴族側の言い分しか通らない。
被告が誰であろうと、結果は最初から決まってる」
それは経験に裏打ちされた言葉だった。
正義でも理屈でもなく、
血筋と立場だけで決まる裁き――それが貴族裁判だ。
カムシスは一瞬だけ、視線を伏せた。
「……せっかくイヴァンスを学園に入学させたばかりだ。
ここで前科でもつけば、
あいつの将来は簡単に潰される」
貴族裁判の名の下で、
才能も、努力も、人生も踏み潰されてきた例を、
カムシスは嫌というほど見てきた。
「軍務卿、聞いてるのか?
あいつの将来を考えてるのは、あんたも同じなんだろ」
ディアン軍務卿は、表情を変えない。
「カムシス。法務省へ行きなさい。
『ケ―四、六、四、九、三、一、〇』。
その書類を取って来るのです」
「……今からか?」
カムシスは思わず眉をひそめた。
貴族裁判は、始まってしまえば早い。
一刻を争うこの状況で、
それでもなお“法務省の書類”を指示するということは――
(そこまで重要な代物ってわけか?)
常識的に考えれば、
裁判に軍務卿が出頭するだけでも十分なはずだ。
「……このタイミングで、
法務省案件を挟むほどの書類なのか?」
混乱は、言葉にもにじんでいた。
(だが――)
カムシスは軍務卿の横顔を見る。
そこに焦りはない。
むしろ、この展開すら予定の一部であるかのような、
冷静すぎるほどの落ち着きがあった。
(あんたがそう言うなら、何か理由があるんだろ)
「……分かった」
カムシスは短く息を吐く。
「書類を届けるまで、
判決が出ないように頼んだぜ。軍務卿」
「言うに及ばずだ。
さ、すぐに行きたまえ。
――ああ、それと。グレッグ将軍にも伝えてください。
司法省に来るように、と」
一拍置いて、ディアン軍務卿は穏やかに続けた。
「よろしくお願いしますよ」
「任せとけ」
カムシスはそう言い残すと、踵を返し、
今度こそ迷いなく執務室を飛び出していった。
執務室の隅で控えていた数名の文官たちは、
二人のやり取りを前に、互いに目配せを交わした。
「――本日の執務は、ここまでで結構です」
ディハンの静かな一言に、
誰一人、異を唱える者はいない。
「急ぎでない案件は、明日回してください」
「はっ」
短い返答とともに、
文官たちは一礼し、足早に執務室を後にした。
扉が閉まり、静寂が戻る。
ディアンは、念のため周囲に気配がないことを確かめ、
それから、ほんのわずかに声を落とした。
「さて……私も行かねばなりませんな」
誰に向けるでもない呟き。
「――ランジール君には、
なかなか良い報告ができそうだ」
その口元に、
楽しげとも取れる、微かな笑みが浮かんでいた。
同時刻、カイル宰相の執務室にも、
貴族裁判への正式な出頭命令が届けられていた。
「ほう……」
リーパルが、イヴァンスに対して貴族裁判を申し立てた。
その報告を受けた瞬間、カイルの口元は大きく歪んだ。
「いいじゃないか」
満面の笑みだった。
「軍務卿に一泡吹かせてやれそうだな。
この状況を使えば、グレッグ将軍とマルティア王女の関係も切り離せる」
机に手をつき、低く言い切る。
「何としても――リーパルを、皇帝にせねばならん」
そう言いながら、
カイルは迷いなく上着を取り、素早く身支度を整え始めた。
この裁判を、勝ちの場にするつもりで。
一方、司法省にある裁判室。
高い天井と重厚な壁に囲まれたその空間で、
司法卿が壇上に鎮座していた。
被告席には、イヴァンスとレック。
その背後の傍聴席には、
マルティア王女、ベラミカ、シルフィス、ドキ。
さらに、騒動を聞きつけたレンミル学園長の姿もある。
原告席には、
リーパルとバリンス、
そして彼らに付き従う貴族たちが並んでいた。
加えて――
宰相、法務卿、軍務卿。
帝国の中枢に名を連ねる者たちに、
正式な出頭命令が出されている。
本来なら、
一学生の不祥事で揃うはずのない顔ぶれだった。
その裁判が執り行われる部屋には、
最初から――異様としか言いようのない空気が流れていた。




