当然のこと
夕刻。
学園からの帰り道。
セーニャは、そのまま屋敷へ戻ることはなかった。
向かった先は――聖教会。
帝都の中心にそびえる白亜の大聖堂は、夕日の光を浴び、静かな輝きを放っている。
高く伸びる柱。
色鮮やかなステンドグラス。
長い年月、多くの人々の祈りを受け止めてきた神聖な空間。
そこへ足を踏み入れると、セーニャは自然と小さく息を吐いた。
ここに来ると、不思議と心が落ち着く。
――聖女としての務め。
それは、ただ祈りを捧げることだけではない。
大聖堂の奥に設けられた診療所では、今日も多くの人が彼女を待っていた。
「順番に診ていきますね」
「大丈夫です。慌てなくても、ちゃんと診ますから」
柔らかな声。
患者一人ひとりに向き合い、手をかざす。
淡い光が広がり、傷を癒し、痛みを和らげていく。
「ありがとうございます、聖女様」
「いいえ」
セーニャは微笑む。
「元気になってくれて、それが一番嬉しいです」
それは決して作った笑顔ではない。
誰かの役に立てること。誰かの苦しみを少しでも減らせること。
それは、幼い頃から変わらない彼女自身の願いだった。
やがて診療所が落ち着きを取り戻す。
患者の前では、いつものように穏やかな笑顔を浮かべる。
けれど、誰もいなくなった瞬間だけ、小さく息を吐いた。
「……少し、疲れましたね」
それは聖女としてではなく、ただの少女として漏れた言葉だった。
セーニャは小さく息を吐き、そのまま大聖堂へ向かった。
少しだけ祈る時間が欲しかった。
今日はいろいろなことがあった。
レックのこと。
バリンスのこと。
それを整理するために。
祭壇の前へ立った、その時だった。
「……あれ?」
少し離れた場所。
見覚えのある背中があった。その足元には、小さな影。
「……イヴァンス君?」
声をかける。
イヴァンスが振り返った。
「あ、セーニャ」
少し驚いた顔。
「どうしたの?」
「それは私の台詞ですね」
セーニャは少し笑う。
「祈りに来ていたんですか?」
「ああ」
イヴァンスは祭壇を見る。
「なんというか……」
少し照れくさそうに笑った。
「子供の頃からなんだよね」
「ストーン村の教会にも、よく行ってた」
その言葉に、セーニャは少し驚く。
「信心深いんですね」
「いや、そこまでではないんだけどね」
イヴァンスは苦笑する。
「ただ……ここにいると、何となく落ち着くんだ」
「ぴ」
足元でレックが鳴く。
「あ、ごめん」
イヴァンスが笑う。
「こいつも一緒だったな」
セーニャはレックを見る。
「そういえば……大丈夫なんですか?」
「うん」
イヴァンスは頷く。
「宿場の食堂で食べたら、もうこの通り」
レックは胸を張る。
「ぴっ」
「ふふ」
セーニャは思わず笑った。
さっきまで泣いていたとは思えない。
「よかったですね、レック」
「そういえばイヴァンス君のお家は?」
「ああ」
少し間を置いてから、イヴァンスは答えた。
「ニコラさんが、ワーラン宿場の一室を貸してくれててさ。そこから通ってるんだ」
さらりとした口調だったが、その言い方に、セーニャはわずかな事情を感じ取った。
「だから、普段の食事は――酒場の女将さんのルシアナさんが作ってくれてる」
「レックの様子を見てさ、“体力つけなきゃね”って、お肉もらったら……この通り」
視線は、元気そうなレックへ。
「よかったね。レック」
そう言って、セーニャはレックの様子を見て、ほっとしたように微笑む。
そして、ふと思い出したようにイヴァンスへ視線を向けた。
「……それにしても」
セーニャはふと思い出した。
「イヴァンス君」
「はい?」
「ニコラさんって……」
少し首を傾げる。
「あのニコラ商会の会長さんですよね?」
「そうだけど」
「それなのに、普通にニコラさんって呼んでいますし」
くすりと笑う。
「王女殿下にも“さん付け”ですし」
「いったい、どんな人脈を持っているんですか?」
「いや……」
イヴァンスは困ったように笑った。
「俺は本当に普通の庶民だよ」
「ストーン村で生まれて、そこで育っただけ」
その言葉には、嘘も飾りもなかった。
セーニャは思う。
この人は本当に。
自分が特別なことをしていると思っていない。
だからこそ――
「そうだ」
イヴァンスが思い出したように言う。
「セーニャ」
「はい?」
「バリンスのこと」
セーニャの表情が少し曇る。
「もし困ったことがあったら言ってくれ」
「俺とレックで――」
一瞬、間を置いて。
「守ってあげるからさ」
「……」
セーニャは言葉を失った。
今日、別の人間からも、似たような言葉を聞いた。
でも。
意味は全く違った。
バリンスは。
「自分が正しいから」
そう思っていた。
イヴァンスは。
「困っているから」
ただ、それだけだった。
「でも……」
セーニャは一瞬言葉を止める。
「バリンス様の件で、イヴァンス君まで巻き込んでしまったら……」
「ぴ」
レックが鳴く。
まるで当然だと言うように。
セーニャは思わず視線を逸らした。
頬が熱い。
「……ありがとうございます」
小さな声。
「でも、そんなふうに言われると……」
少し困ったように笑う。
「照れてしまいますね」
イヴァンスは不思議そうに首を傾げる。
「そうか?」
本気で分かっていない。
それがまた、セーニャには困ってしまう。
「……はい」
「でも……ありがとうございます」
その言葉に。
イヴァンスはいつものように笑った。
「ああ」
「困ったらいつでも言ってよ」
それだけ。それ以上は何もない。
だからこそ、その無意識の優しさはセーニャの心に、静かに残った。




