勘違いの貴族の嗜み
宰相邸は、夜になっても灯りが消えることはなかった。
帝国中枢の一角にある屋敷は、日が落ちてもなお、重く張り詰めた空気を保っている。
その応接の間に、父である宰相が帰宅すると、
バリンスは待ち構えていたかのように駆け寄った。
「父上! お話があります。
マルティア王女が……マルティア王女が学園に――」
「落ち着くのだ、バリンス」
カイル宰相は静かに手を挙げ、息子の興奮を制した。
「その様子では、学園で何かあったのだな」
バリンスは口を噤み、わずかに不服そうに眉をひそめる。
学園で起きた出来事が、どうにも腹に据えかねている――
そんな感情が、顔にありありと浮かんでいた。
一度、深く息を吐き、
それからバリンスは言葉を選ぶこともなく口を開いた。
「今日の学園でのことですが――
マルティア王女が、イヴァンスと一緒に園長室から出てきたのです!」
「……ほう」
「庶民のくせに、王女と同室ですよ?
ありえないと思われませんか。
しかも、不潔な動物まで連れているのです。
学園がけがれてしまいます!」
吐き捨てるように言い切り、
さらに鬱憤をぶつけるように続ける。
「それに、イヴァンスのやつ、
私がセーニャという庶民に学園での振る舞いを教えてやろうとしているのに、
いつも一緒に行動して――
私が手ほどきする隙もないのです!」
拳を握りしめ、歯噛みする。
「くそっ……!
せっかくあの子に優しく接してやろうと思っているのに、
邪魔しやがって!」
その言葉を聞きながら、
カイル宰相は小さく眉をひそめた。
(……やはりか。
兄弟揃って、自己主張が強すぎる)
秩序や家の名よりも、
まず自分の感情が先に立つ――
その幼さに、内心で頭を抱える。
そのとき、応接の扉が開いた。
軽やかな足取りで、リーパルが部屋に入ってくる。
まるで舞踏会にでも現れたかのような、芝居がかった所作。
生まれながらに貴族として育った男の気質が、動きの端々ににじみ出ていた。
「弟よ」
穏やかな声音で、しかしどこか期待を含んで言う。
「今、マルティア王女の名前が聞こえたが……
何かあったのか?」
その瞬間、
バリンスは待っていましたとばかりに声を張り上げた。
「兄上!
今日、マルティア王女が学園に来園していたのです!」
「――なに?」
リーパルの表情が、目に見えて明るくなる。
「本当か!
ああ、ついに……ついに近衛騎士団の建物からお出になったのだな。
ここ数年、ほとんど姿を拝見できなかったというのに……」
大仰に胸に手を当て、
どこかうっとりとした表情を浮かべる。
「――ああ、マルティア王女」
芝居がかった仕草で天を仰ぐ。
「私のために、近衛騎士団の務めに区切りをつけ、
わざわざ弟のいる学園へと足を運ばれたのですね」
「……」
カイル宰相は黙して何も言わない。
そんな兄を見て、
バリンスは畳みかけるように続けた。
「兄上、聞いてください。
マルティア王女と一緒にいたのが、
庶民のイヴァンスってやつなんですよ?」
鼻で笑い、吐き捨てる。
「王族と庶民が同室だなんて、
ありえないでしょう?」
リーパルは腕を組み、深くうなずいた。
――完全に、理解したつもりで。
「確かに、バリンスの言う通りだな。
王族が庶民と同室など、許されてはならぬ」
そして、妙に満足げな笑みを浮かべる。
「これは放ってはおけん。
一度、私が学園に正式に話を通し、
そのイヴァンスとやらを――
きっちり躾けてやらねばなるまいな」
その言葉に、
カイル宰相の胸中で、違和感が強く渦を巻いた。
マルティアが学園を訪れた真意。
園長室にイヴァンスが同席していた理由。
そのどれもが、まだ見えていない。
(……軍務卿が絡んでいる可能性もあるな。
明日にでも調査を入れるべきか)
真意が分からぬままリーパルが動けば、
責任は最終的に宰相である自分に返ってくる。
「リーパル、少し待ちなさい」
静かに、しかしはっきりと言う。
「これは皇帝派に何らかの動きがあったやもしれん。
中身が分かるまでは、軽率な行動は慎むのだ」
だが――
リーパルは一歩も引かなかった。
「父上。
庶民に躾を施すのは、貴族の嗜みですぞ」
胸を張り、当然の理として言い切る。
「それを疎かにしていては、帝国の秩序は保てません。
この件ばかりは、譲れませぬな」
その言葉に、
バリンスは待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「兄上、頼りにしていますよ。
それに……イヴァンスのやつ、
私が目をつけている庶民の娘を囲っているのです」
吐き捨てるように言い、鼻で笑う。
「そんな不届き者から、
貴族である私が解放してやらねばなりません。
庶民には、分相応というものを教えてやらねば」
その瞬間、
カイル宰相のこめかみが、ぴくりと動いた。
(……なるほど。
秩序ではないな。
これは、ただの私怨だ)
兄は正義を語り、
弟は欲望を語る。
――どちらも、自分が正しい側だと疑っていない。
カイルは内心で深くため息をついた。
この一家が、いま、どれほどの火薬を抱え込んでいるのか――
その重さを、痛いほど理解しながら。




