血の洗礼①
翌日。
魔約の塔の横に広がる庭――
森と呼ぶには整いすぎているが、訓練場と呼ぶには複雑すぎる場所。
木々は程よく配置され、視界を遮り、足場はわずかに傾斜している。
踏みしめるたびにわずかに沈む土。
枝葉の影は一定ではなく、時間と共に揺らぎ続ける。
自然を模しているが、明らかに“意図的に作られた地形”だった。
逃げるには十分。
隠れるにも十分。
そして――追い詰めるにも十分。
その中央に、イヴァンス隊の面々が立っている。
空気は静かだった。
だが、昨日とは違う。
“始まる前”の静けさではない。
“すでに始まっている”静けさだった。
風が、わずかに葉を揺らす。
その音すら、やけに遠い。
「へぇ~、ちゃんと来たんだ」
木の上から、ジャックの声が落ちてくる。
枝に寝転ぶようにして、こちらを見下ろしている。
「逃げるかと思ったのに」
くすくすと笑う。
「逃げたら楽になれるのにね~?」
その言葉に、誰も返さない。
返す余裕がないのではない。
返す価値がないと分かっているからだ。
「……学園の方はどうした?」
スランザが短く問う。
ベラミカが肩をすくめる。
「軍務省からの要請ってことになってるわよ。
“特別野外実習”扱いで、約一ヶ月」
少しだけ皮肉を込めて続ける。
「グレッグ将軍との訓練をイヴァンス隊全体で郊外でするって。
それが理由ってことになってるわ」
「ディハン軍務卿が根回ししたんでしょうね」
「さっすがディハン、いい仕事してるわね」
セラフィスがくすりと笑う。
「でも――作戦完了までは一ヶ月しかないってことよね~。
まあ、期限がある方が、緊張感あっていっか」
軽く言っているようで、その言葉は重かった。
その声音は、どこまでも楽しげだった。
「いいじゃねぇか。これで死ぬ気でやれるな」
スランザが軽く言う。
軽く――言っているだけだ。
「なんかスランザさん。楽しそう」
イヴァンスが低く返す。
視線は逸らさない。
スランザの口元が、わずかに歪んだ。
「言うじゃねぇか」
その時。
ぱちん、と軽い音が響いた。
セラフィスが手を叩く。
「はいはい、じゃあ始めましょうか」
にこり、と笑う。
その笑みは、昨日と何も変わらない。
「今日はちゃんと“血の洗礼”やるわよ?」
軽い調子。
だが――
その場にいる全員が理解していた。
それが冗談ではないことを。
「ルールは簡単」
セラフィスが指を一本立てる。
「“捕まらないこと”と“捕まえること”」
くるり、と指を回す。
「逃げてもいいし、隠れてもいいし、戦ってもいいわ」
一拍。
風が止まる。
「ただし――」
その笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「ミスしたら、ちゃんと“教えてあげる”から」
ぞわり、と空気が冷えた。
スランザが一歩前に出る。
「イヴァンス隊にスリープをかけちまうと訓練にならねーからな」
淡々と告げる。
「だから――」
指を軽く鳴らす。
「ミスした瞬間、激痛が走る」
空気が張り詰める。
「安心しろ。死にはしねーよ」
一瞬、間を置く。
「――ここではな」
その一言が、静かに沈む。
くすくす、とセラフィスが笑う。
「スランザちゃん、女の子なのに容赦ないんだから~」
楽しそうに、様子を眺めている。
「……あんたの方がよっぽどだろ」
スランザが即座に返す。
「こんな環境作っといて、よく言うぜ」
「やだ~、ちゃんと“死なないように”してるじゃない」
セラフィスはにこりと笑う。
その笑顔に――
誰も、安心はしなかった。
ベラミカが小さく舌打ちする。
「全然安心できないんだけど?」
「安心する必要ねぇだろ」
スランザが即答する。
「覚えろ。それだけだ」
ジャックが木の上から身を乗り出す。
「あとさ~」
楽しそうに笑う。
「今日はぼくちゃんたち、全員で相手するからね~?」
その一言で、空気が完全に変わった。
「……は?」
イヴァンスが眉を寄せる。
「全員って……」
その瞬間。
気配が、増えた。
上。
横。
背後。
“感じた”時には、もう遅い。
ボルックス。
リータン。
レキサル。
ダントム。
音もなく。
気配もなく。
いつの間にか、四方を囲まれている。
逃げ場はない。
「逃げ場、ないよ~?」
ジャックが笑う。
枝の上で足を揺らしながら、見下ろしている。
「“選択肢を消す”って、こういうことなのよね~」
にやり、と口元が歪む。
「君たちのさぁ――」
視線がゆっくりと一人ずつを舐める。
「恐怖におののく顔。
激痛で歪む顔。
それと――悲鳴」
くつくつ、と喉の奥で笑う。
「ひひひ……ぼくちゃん、もう、最……高……」
空気が、冷えた。
その時。
「も~、ジャック。真面目にやるのよ~」
軽い声。
だが、場を制するには十分だった。
セラフィスが、にこりと笑っている。
「一応、アルフォース帝国のことに関わってるんだから」
その言葉に――
空気が、わずかに締まる。
遊びではない、と。
改めて突きつけられる。
一拍。
ボルックスが静かに前へ出た。
「セラフィス様がああ仰ってるんだ」
視線を上に向ける。
「ジャック――本気で行くぞ」
その声音に、迷いはない。
命令ではない。
だが、従わないという選択肢もない。
「もちろ~ん♪」
ジャックが軽く肩をすくめる。
その笑みは、さっきまでと変わらない。
だが――
「こんな楽しい舞台、セラッちに感謝~」
次の瞬間。
すっと、気配が消えた。
完全に。
音も、存在感も、何もかも。
「……っ」
誰かが息を呑む。
“消え方”が違う。
さっきまでの軽さが、一切ない。
「来るわよ」
セーニャが低く告げる。
「分かってる」
プラーサが即座に応じる。
鼓動を探る。
重なる。
揺れる。
だが――
(……読めない……)
一瞬の遅れ。
その瞬間。
「始めましょうか」
セラフィスの声が落ちる。
軽く、優しく。
だが――
逃げ場はない。
次の瞬間。
風が、消えた。
音が、消えた。
気配が――断ち切られる。
そして。
「――っ!?」
最初の“ミス”が、生まれる。
ズキン――ッ!!
脳を焼き裂くような激痛が、森に弾けた。




