気配消しの第一歩
カムシスのイヴァンスに対する訓練は、まず呼吸を整えることから始まった。
「……呼吸?」
イヴァンスは首を傾げる。
剣の訓練でも、魔法の訓練でもない。
ただ呼吸を整えろと言われたのだ。
カムシスは腕を組み、淡々と言った。
「気配ってのはな、足音より先に出る」
「へえ?」
「呼吸だ」
イヴァンスの胸を指さす。
「人は息をしてるだけで音を出してる。胸も動く。空気も揺れる。
それだけで“誰かいる”って分かるもんだ」
セラフィスが横で小さく頷いた。
「確かにね~。人は完全に静止することはできないもん」
カムシスは続ける。
「だから最初に覚えるのはこれだ」
「呼吸を小さくする」
「腹で吸え。胸を動かすな」
イヴァンスは一度息を吐き、ゆっくり吸ってみる。
「……こんな感じ?」
カムシスは首を振った。
「違う」
「力が入ってる」
カムシスは自分の胸に手を当てる。
「もっと抜け」
「息をするな。空気が勝手に出入りしてるくらいの感じだ」
イヴァンスが苦笑した。
「難しいこと言うなあ」
マルティアが様子を見ながら笑う。
「さすがに難しそうね」
カムシスは気にせず続けた。
「呼吸が消えたら、次は歩き方だ」
「気配ってのはな――」
木剣を肩に担ぐ。
「体の癖全部から出る」
そしてニヤリと笑った。
「それ全部消せるようになったら」
「最後に魔法を重ねろ」
セラフィスが呟く。
「私の魔法だと完全に消せるのに~」
カムシスが首を振る。
「セラフィスさん。
あんたの魔法のレベルは、普通の人間が真似できるようなもんじゃない」
少し肩をすくめる。
「普通はな、魔法だけで完全に気配を消すことなんて出来ないんだ」
そう言うと、カムシスは顎で訓練場の奥を示した。
「まあ、理屈はいい。やってみろ」
「え?」
「俺の後ろに立て」
イヴァンスが眉を上げる。
「それだけ?」
「それだけだ」
カムシスは背を向けたまま腕を組んだ。
「魔法は禁止だぞ」
「はいはい」
イヴァンスは軽く肩を回すと、一度大きく息を吐いた。
さっき言われた通り、呼吸を整える。
胸を動かさないよう、腹で静かに空気を吸う。
そして――
一歩。
足音を殺すように、ゆっくり踏み出す。
もう一歩。
石の床を滑るように進む。
距離は十歩ほど。
観ていたマルティアが、小さく呟いた。
「……あれ、意外と静かね」
セラフィスも腕を組んで眺めている。
イヴァンスはさらに距離を詰めた。
あと三歩。
あと二歩。
その瞬間だった。
「右」
カムシスがぽつりと言った。
同時に身体を半身にひねり、木剣がぴたりとイヴァンスの喉元で止まる。
「――っと」
イヴァンスが足を止めた。
「……ばれてたか」
カムシスはため息をつく。
「丸わかりだ」
「え、そんなに?」
マルティアが少し驚いた顔をする。
カムシスは指を二本立てた。
「二つ」
「まず呼吸」
イヴァンスの胸を軽く突く。
「まだ大きい」
「それと」
足元を指す。
「重心」
イヴァンスが首を傾げる。
「重心?」
「踏み込む瞬間に体重が落ちてる」
カムシスは軽く地面を踏んだ。
コツ、と乾いた音が響く。
「この“落ちる”感じが気配になる」
イヴァンスは感心したように頷いた。
「なるほどねえ」
セラフィスがくすっと笑う。
「意外と奥深いわね~」
カムシスは木剣を肩に担ぎ直した。
「気配ってのはな」
イヴァンスを見て言う。
「音だけじゃない」
「呼吸、重心、視線、殺気」
指を折って数える。
「全部だ」
そしてニヤリと笑った。
「それ全部消してからだ」
「魔法を重ねるのは」
イヴァンスは少し楽しそうに笑った。
「なるほど」
「つまり――」
軽く肩をすくめる。
「俺はまだ入口ってわけだ」
カムシスが頷く。
「そういうことだ」
そして再び背を向けた。
「ほら、もう一回」
「今度は呼吸からやり直せ」
イヴァンスは小さく息を吐いた。
「了解、カムシスさん」
イヴァンスは軽く肩を回すと、もう一度その場に立った。
深く息を吐く。
さっきカムシスに言われた通り、胸を動かさない。
腹で、静かに空気を吸う。
ゆっくり吐く。
もう一度。
呼吸を小さくする。
空気が出入りしているのかどうか分からないほど、静かに。
カムシスは背を向けたまま腕を組んでいる。
「まだだ」
振り向きもせずに言った。
イヴァンスが苦笑する。
「まだ何もしてないぞ」
「呼吸がうるさい」
セラフィスが吹き出した。
「ははっ、そこからなのね」
カムシスは続ける。
「まず呼吸を消せ」
「動くのはそれからだ」
イヴァンスは言われた通り、もう一度呼吸を整える。
肩の力を抜く。
胸を動かさない。
腹だけを、ゆっくり動かす。
訓練場に静かな時間が流れる。
マルティアが小さく呟いた。
「……なんだか瞑想みたいね」
セラフィスも面白そうに見ている。
「こういう訓練もあるのねぇ」
しばらくして。
カムシスがぽつりと言った。
「……今のは悪くない」
イヴァンスの口元が少し上がる。
「やっと合格?」
「まだだ」
カムシスが即答した。
そしてゆっくりと振り返る。
その目は、先ほどまでの軽い雰囲気とは違っていた。
「呼吸が消えたら、次は体だ」
木剣を肩から外し、軽く構える。
「気配を消すってのはな――」
イヴァンスを真っ直ぐ見据える。
「自分が“そこにいる”ってこと自体を忘れさせることだ」
そして口の端をわずかに上げた。
「さあ、ここからが本当の訓練だ」




