密偵カムシス
イヴァンスは相変わらず、セラフィスの指導のもとで気配消しの訓練を続けていた。
訓練場の中央には、炎の魔法で作られた人形がいくつも並んでいる。
それらは侵入者の気配を察知すると反応する仕組みになっており、
イヴァンスの気配消しがどこまで通用するかを試すためのものだった。
以前に比べれば、確かに成果は出ている。
最初の頃は一歩踏み出しただけで反応していた炎の人形が、
今では数歩ほど近づいても動かないことが増えてきた。
だが――それでも、完全ではない。
ほんのわずかな気配の揺らぎ。
自分でも気づかないほどの息遣い。
そうした小さな“存在の揺れ”を、人形は決して見逃してはくれないのだった。
(……まだ足りない)
イヴァンスは内心でそう呟く。
魔法で気配を覆う感覚は、確かにつかみ始めている。
だが、それを完全に制御しきれているとは言えなかった。
そんなある日。
訓練の様子を見ていたマルティアが、ふと口を開いた。
「イヴァンス君」
声を掛けられ、イヴァンスはすぐに姿勢を正す。
「はい、マルティアさん」
マルティアは少し考えるように顎に指を当てながら言った。
「魔法で気配をある程度消せるようにはなったわね。
でも……やっぱり完璧ではないのよね?」
イヴァンスは素直に頷いた。
「はい。魔法で消せている感覚はあるんですが
……どうしても完全なところまで持っていけなくて」
言いながら、少し悔しそうに拳を握る。
努力している自覚はある。
だが、上に行くほど“あと一歩”が遠い。
そんなイヴァンスの様子を見て、マルティアは柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、一つ提案なんだけど」
イヴァンスは顔を上げる。
「軍務卿直属の密偵であるカムシスにお願いしてみるのはどうかしら?」
「カムシスさん……ですか?」
マルティアは頷いた。
「ええ。彼の気配消しは、軍務卿の部下の中でも一番と言われているの。
魔法だけじゃなくて、身体の使い方や呼吸まで含めた“本物の隠密”よ」
その言葉に、イヴァンスの目が少しだけ輝いた。
「……ぜひ、お願いしたいです」
迷いはなかった。
強くなれるなら、どんな訓練でも受けたい。
マルティアは満足そうに頷く。
「そう。じゃあ早速、軍務卿に話を通しておくわね」
その会話を聞いていたセラフィスが、ふいに頬を膨らませた。
「マルティア様~」
どこか拗ねたような声だった。
「私の訓練じゃダメってことなの?」
イヴァンスが慌てて振り返る。
セラフィスは腕を組み、じっとマルティアを見つめていた。
見た目は落ち着いた女性だが、その表情はどこか子供のように不満げだ。
マルティアはくすりと笑いながら手を振った。
「違うわよ、セラフィス様」
そして穏やかな声で続ける。
「ダメってことじゃなくて……これは“次の段階”ってこと」
「次の段階?」
「ええ。あなたの訓練があったからこそ、ここまで来られたのよ」
セラフィスは一瞬だけ黙り込んだ。
そして少しだけ視線を逸らし、照れくさそうに言う。
「……ふーん」
完全には機嫌が直ったわけではなさそうだが、怒っている様子でもない。
その様子を見て、マルティアは微笑んだ。
「それにね」
「?」
「セラフィス様の訓練は、相当厳しいもの。
普通ならここまで来る前に心が折れているわ」
その言葉に、セラフィスの頬がわずかに赤くなる。
「……まあ、私の指導だから当然よね」
少しだけ得意げに言いながら、ちらりとイヴァンスを見る。
「イヴァンス。カムシスの訓練もいいけど、
私の訓練から逃げられると思わないでね?」
その笑顔に、どこか危険な気配が混ざる。
イヴァンスは思わず背筋を伸ばした。
「は、はい!」
訓練場に、小さな笑いが広がった。
だが同時に――
イヴァンスの前には、さらに厳しい成長の道が開かれようとしていた。
翌日。
軍務卿からの正式な命令を受け、カムシスは学園の訓練場へとやってきていた。
昼下がりの訓練場には、イヴァンスとセラフィス、そして様子を見に来ていたマルティアの姿がある。
イヴァンスは周囲を見渡していた。
(まだ来ていないのか……?)
軍務卿直属の密偵――カムシス。
ストーン村の件や貴族裁判でも顔を合わせている男だ。
そのときだった。
「久しぶりだな、イヴァンス」
突然、背後から声がした。
イヴァンスは思わず振り向く。
そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。
黒に近い落ち着いた色の服。
身軽そうな装備。
だが、立っているだけなのに、
まるでそこに“存在していない”かのような不思議な違和感がある。
カムシスだった。
「カ、カムシスさん……!?」
イヴァンスの驚きに、男は肩をすくめて笑う。
「そんなに驚くな。
貴族裁判以来か。何でも気配消しを教えてほしいって話らしいな」
イヴァンスは慌てて頭を下げた。
「はい! ぜひお願いします!」
カムシスはちらりと周囲を見渡す。
その視線が、セラフィスとマルティアの方へ向いた。
「魔導士団長に王女様まで見学とは……随分と豪華だな」
軽く言うが、口調はどこか皮肉めいている。
セラフィスは腕を組みながら、少し面白くなさそうに言った。
「別に見学じゃないわよ。私の弟子なんだから」
「弟子、ね。お前、恐ろしい方の弟子になったんだな」
カムシスはイヴァンスをじっと見つめる。
その目は笑っているようでいて、鋭く観察しているようでもあった。
「なるほど。確かに魔力の流れは悪くない」
そして、ふっと小さく笑う。
「だが――」
次の瞬間。
カムシスの姿が、ふっと消えた。
「え?」
イヴァンスが目を見開く。
気配も、足音もない。
完全に視界から消えていた。
そして――
「今のままじゃ、密偵としては三流だな」
再び声がした。
イヴァンスが振り向くと、カムシスはいつの間にか背後に立っていた。
まったく気づけなかった。
イヴァンスの背中に、冷たい汗が流れる。
カムシスは軽く肩を回しながら言った。
「まあ安心しろ。教えるのが俺の仕事だからな」
そして、ニヤリと笑う。
「ただし――」
「訓練は、セラフィスさんよりはやさしいと思うぞ」
その瞬間。
「ちょっとカムシス!」
セラフィスが即座に反応した。
腕を組み、明らかに不満そうな顔をする。
「それ、どういう意味かしら?」
イヴァンスは(あ、まずい)と直感した。
カムシスは肩をすくめた。
「そのままの意味だ。
魔法で隠すのと、存在そのものを消すのは別物だからな」
そう言って、イヴァンスを見る。
「さて、始めるか。イヴァンス」
訓練場の空気が、少しだけ引き締まった。
これまでとは違う――
本物の“隠密”の訓練が、今まさに始まろうとしていた。




