第9話 決戦! フルーツサンドは宝石の輝きで、元婚約者を黙らせます
国境の平原に漂うのは、血の匂いではなく、どこか懐かしく甘い香りだった。
「うめぇ……なんだこの黒い餡は……」
「甘い……疲れが吹き飛ぶ……」
「もう戦いたくない。俺、ここで畑を耕して暮らしたい……」
ロイヤル王国の誇る聖騎士団三千名は、完全に無力化されていた。
剣を捨て、兜を脱ぎ、地面に車座になって『あんぱん』を頬張っている。
彼らは「聖なる硬いパン」しか食べてこなかった人々だ。
薄いパン生地の中から溢れる、しっとりとした小豆の甘さと、『タウロスミルク』のコク。それが彼らの荒んだ心を優しく溶かしてしまったのだ。
「……勝負ありだな」
隣に立つ獣王レオンハルト様が、呆れたように、しかし満足げに鼻を鳴らした。
その金色の尻尾は、勝利の喜び……というより、「余も早くあのあんぱんを食いたい」という欲求で落ち着きなく揺れている。
「はい。お腹がいっぱいになって、美味しいものを食べれば、人は争う気力をなくすものです」
私はワゴンを押し、敵の本陣――カイル王子と聖女リリィが乗る豪華な馬車へと歩みを進めた。
「待て、アメリア。危険だ」
「大丈夫です。今の彼らに、私を傷つける力はありません」
レオンハルト様は渋々といった様子だが、万が一のために抜身の剣を提げ、私の護衛としてぴったりと寄り添ってくれる。
馬車の周囲だけは、まだピリピリとした空気が残っていた。
カイル王子と聖女リリィ、そして数名の側近たちだけが、プライドが邪魔をしてあんぱんを食べられず、こちらを睨みつけている。
「……アメリア!」
私が近づくと、カイル王子が馬車から転がり落ちるようにして降りてきた。
その顔はやつれ、目は血走っている。
空腹と屈辱、そして漂ってくる甘い香りの拷問に耐えきれなくなっているのだ。
「よくも……よくも私の騎士団を! 卑怯だぞ、毒を盛るとは!」
「毒ではありません。ただの餡子です」
私は冷淡に告げた。
「兵士の皆様を見てください。毒で苦しんでいるように見えますか? 皆さん、久しぶりの『柔らかい食事』に涙を流して喜んでいらっしゃいますよ」
「ぐぬぬ……っ!」
カイル王子は言葉に詰まった。
彼の視界の端では、厳格だったあの騎士団長でさえ、口の周りを餡子だらけにして「幸せだ……」と空を仰いでいるのだから。
「アメリア様! このふしだらな魔女め!」
聖女リリィも馬車から降りてきた。
彼女は悔しさで顔を真っ赤にし、杖を私に向けている。
「パンとは、神が与えた試練! 硬く、味気なく、咀嚼することで信仰心を試すものなのです! それを、こんな……空気を食べているような軟弱なものに変えるなんて、神への冒涜ですわ!」
彼女の主張は、この国では絶対の正義だった。
けれど、もうそのメッキは剥がれかけている。
「リリィ様。……食べることは、試練ではありません。幸せであるべきです」
私はワゴンの上の保冷箱を開けた。
「兵士の皆様には『あんぱん』をお配りしましたが……お二人には、特別なお品をご用意しました」
ひんやりとした冷気と共に取り出したのは、真っ白な食パンに、色とりどりの果実を挟み込んだ『フルーツサンド』だ。
「……な、なんだそれは」
カイル王子の目が釘付けになる。
真っ白で、耳まで切り落とされた食パン。
その間には、雪のように白い生クリームがたっぷりと。
そして、そのクリームの中に埋め込まれているのは、ルビーのように赤い『宝石イチゴ』、黄金色の『スターマンゴー』、エメラルドのような『森のキウイ』。
断面の美しさは、まさに食べる宝石箱。
「『宝石のフルーツサンド』です。パンは極限まで柔らかく焼き上げ、クリームは甘さを控えめにし、果実の酸味を引き立てています」
ゴクリ。
カイル王子の喉が鳴った。
リリィも、杖を持つ手が震えている。
彼女たちが食べているレンガのような『聖岩パン』とは、次元が違う食べ物だということは、見ただけで分かる。
「さあ、どうぞ。毒見が必要なら、私が先に食べますが」
「い、いらん! 私が毒見をしてやる!」
カイル王子は我慢の限界だった。
私の手からフルーツサンドをひったくると、大口を開けてかぶりついた。
パクッ。
その瞬間、戦場に静寂が訪れた。
カイル王子の動きが止まる。
彼の手から、食べかけのサンドイッチが滑り落ちそうになり、慌てて両手で支える。
「……」
「カイル様? いかがですの、すぐに吐き出してくださいまし! そんなふにゃふにゃしたパン!」
リリィが叫ぶが、カイル王子は聞こえていないようだった。
彼の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちたのだ。
「……嘘だ」
震える声で、彼は呟いた。
「パンが……消えた。クリームと一緒に、舌の上で溶けて……果実の果汁が弾けて……」
彼は泣きながら、二口目を食べた。
「甘い。冷たい。優しい……。俺は今まで、何を食べていたんだ? あんな、煉瓦のような塊をありがたがって……こんなに美味いものが、この世にあったのか……」
「カイル様!?」
「リリィ、お前も食ってみろ……。我々が信じていた『正義』が、いかに虚しいものだったか分かる」
カイル王子に促され、リリィも恐る恐る、サンドイッチの切れ端を口にした。
ハムッ。
彼女の表情が凍りついた。
そして次の瞬間、杖を取り落とし、その場に膝から崩れ落ちた。
「あ……ありえませんわ……。パンが、こんなに美味しいなんて……。私の焼くパンが、まるで石ころみたいじゃないですか……!」
彼女のプライドである「聖なる硬いパン」が、たった一口のフルーツサンドによって粉砕された瞬間だった。
彼女は泣き崩れ、その場でサンドイッチをむさぼり始めた。
もう、聖女の威厳など欠片もない。
「勝負あったな」
レオンハルト様が、冷ややかに告げた。
「カイル王子。貴様の負けだ。兵士たちは戦意を喪失し、貴様ら自身も、アメリアのパンに屈服した」
「……ぐぅっ」
カイル王子は、口元のクリームを拭い、私を睨んだ。
いや、その目は睨んでいるのではない。
縋るような、未練がましい目だった。
「アメリア……戻ってこい」
「はい?」
「お前を追放したのは間違いだった! 許してやる! だから国に戻って、毎日私のためにこのパンを焼け! そうすれば、再び婚約者にしてやってもいいぞ!」
この期に及んで、まだそんなことを。
私は呆れてため息をつこうとしたが、それより早く、隣の獣王が動いた。
ドォォォン!!
レオンハルト様が地面を踏み抜いた音だ。
大地が揺れ、カイル王子が尻餅をつく。
「……聞き捨てならんな、人間」
レオンハルト様が、私を背に庇い、カイル王子を見下ろした。
その全身から放たれる覇気は、先ほどまでの「あんぱん食べたいオーラ」とは別人のものだ。
本物の、獣王の怒り。
「許してやる、だと? アメリアがお前に許しを請うことなど何一つない。お前たちが勝手に彼女の才能を否定し、捨てたのだ」
彼は私の肩を抱き寄せた。
「拾ったのは余だ。彼女の価値に気づき、その手を取り、愛したのは余だ。今更返せと言われても、もう遅い」
「なっ……愛だと!? 野獣ごときが!」
「野獣で結構。……だが、余はこの国の誰よりも、アメリアのパンを愛し、アメリア自身を大切にしている自信がある」
レオンハルト様は、私に向き直り、皆の前で――三千人の兵士と、カイル王子の前で、私の手を取った。
「アメリア。お前はもう、余の番だ。……いや、この国の王妃となる女だ。そうだろ?」
「……っ!」
こんな大勢の前で宣言されるなんて聞いていない。
顔が沸騰しそうだったけれど、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
「はい……レオンハルト様。私は、あなたとこの国を選びます」
私はカイル王子に向き直り、はっきりと告げた。
「カイル様。私はもう、あなたの婚約者ではありません。私はこの国で、パン職人として、そしてレオンハルト様のパートナーとして生きていきます」
「そ、そんな……アメリア……」
カイル王子は絶望に顔を歪めた。
美味しいパンを失ったことへの後悔か、それとも私自身への未練か。
きっとその両方だろうけれど、もう私の心は動かなかった。
「……撤収だ!!」
カイル王子が、涙声で叫んだ。
「これ以上ここにいても、恥を晒すだけだ! ……おい、そこの兵士! 余ったあんぱんを全部馬車に積め! 持って帰るぞ!」
「セコい……」
ボソッと誰かが呟いたが、カイル王子はなりふり構っていられなかったようだ。
プライドよりも食欲が勝ってしまった元王子。
「待ってください」
私は撤収しようとするカイル王子に声をかけた。
「……お土産です」
私はワゴンに残っていたパンを全て、紙袋に詰めて渡した。
「『食パン』一斤と、『あんぱん』の詰め合わせです。……国に帰ったら、国民の皆様にも、もっと柔らかくて美味しいパンの焼き方を広めてあげてください。レシピも入れておきますから」
「……なっ!?」
カイル王子は目を見開いた。
「敵に塩を送るというのか?」
「いいえ。パンを送るんです。……美味しいものを食べている時は、誰もが笑顔になります。私は、私の故郷の人たちにも、歯が折れるような思いをしてほしくないだけです」
カイル王子は震える手で紙袋を受け取った。
その中から漂う優しい香りに、彼の表情が歪み……そして、深く頭を下げた。
「……すまなかった」
蚊の鳴くような声だったが、確かに聞こえた。
彼は逃げるように馬車に乗り込み、聖女リリィもそれに続いた。
兵士たちは、名残惜しそうに獣人の兵士たちと握手を交わし、
「また来るよ!」「今度はジャムを持ってきてくれ!」と約束しながら去っていった。
戦争は終わった。
血を一滴も流すことなく、小麦粉と砂糖とバターの力で。
「……見事だ、アメリア」
レオンハルト様が、私の頭をポンポンと撫でた。
「お前は本当に、最強の魔女だな。人間の国まで骨抜きにしてしまうとは」
「ふふっ。美味しいものは、国境を越えるんです」
夕日が沈む平原に、穏やかな風が吹いた。
それはもう、血の匂いではなく、甘く香ばしい、平和の匂いがした。
「さあ、帰ろうアメリア。城に戻ったら、戦勝祝いだ」
レオンハルト様が私の腰を引き寄せ、耳元で囁く。
「……そして、忘れていないな? さっきの『王妃となる』という言葉を」
「えっ……」
「言ったはずだ。余は、お前を一生離さないと。……城に戻ったら、覚悟しておけよ」
彼の瞳が、夕日よりも赤く、熱っぽく燃え上がっている。
戦争は終わったけれど、私にとっては、これからが本当の意味での「戦い(甘い駆け引き)」の始まりのようだった。
「……はい、レオンハルト様」
私たちは寄り添いながら、もふもふの国民たちが待つ獣人の国へと歩き出した。
幸せな結婚式まで、あと少し。




