第8話 一方その頃、人間の国ではパンで釘が打てます
ガリッ。バキッ。
不快な破壊音が、人間の国・ロイヤル王国の王宮食堂に響いていた。
「……リリィよ。今日のパンは、いつにも増して硬くないか?」
第一王子カイルは、スプーンで皿の中を突きながら、恨めしげに言った。
皿の中には、水っぽいスープが入っており、そこにレンガのような茶色い塊が浸されている。
三十分前から浸しているのに、その塊――『聖岩パン』は、ふやけるどころか、スープを吸ってさらに重量と硬度を増しているように見えた。
「何を仰いますの、カイル様」
向かいの席で、聖女リリィが恍惚とした表情で手を組んだ。
「これぞ、神の加護が増した証拠ですわ! 私の祈りが天に届き、パンの聖なる硬度が上がったのです。さあ、感謝して噛み砕いてください。歯が折れる痛みこそが、信心深さの証明なのですから」
「……そう、か」
カイルは引きつった笑みを浮かべ、スープに浸かった岩を口へ運んだ。
ガチィィン!
奥歯に激震が走る。
脳が揺れるほどの衝撃。
最近、カイルは慢性的な顎関節症と偏頭痛に悩まされていた。
(マズい。硬い上に、味がしない……)
泥を焼き固めたような味気なさ。
飲み込もうとしても喉に詰まり、胃に石が落ちたような重さを感じる。
ふと、カイルの脳裏に、かつての婚約者アメリアの顔がよぎった。
『カイル様、今日はブリオッシュを焼きましたの』
『生クリームを練り込んだ食パンですわ』
あの頃、彼女が持ってくるパンは、女子供の食べる菓子だと馬鹿にしていた。
だが今にして思えば、あれは……食べ物だった。
少なくとも、建設資材ではなかった。
「……もう、限界だ」
カイルがスプーンを投げ出した、その時だった。
食堂の扉が開き、影のような男が入ってきた。
隣国へ放っていた密偵だ。
「報告します。獣人国ガルディアにて、異変が起きています」
「異変だと? どうせ食糧難で暴動でも起きたのだろう」
カイルが鼻で笑うと、密偵は首を横に振った。
「いいえ。……食糧事情が劇的に改善されています。なんでも、『パンの魔女』と呼ばれる人間の女が現れ、噛まなくても溶ける『雲のようなパン』を作り出したとか」
「なっ……!?」
カイルが椅子を蹴って立ち上がった。
リリィも目を見開く。
「雲のようなパンですって? そんなふしだらな! パンとは硬くあるべきものですわ!」
「その魔女の名は、アメリア・ローズとのこと」
その名前を聞いた瞬間、カイルの心臓が早鐘を打った。
アメリア。
追放した元婚約者。
彼女が、あの野蛮な獣人の国で、そんな夢のような食べ物を?
「しかも、そのパンは……信じられないほど美味いそうです。獣王レオンハルトも骨抜きにされ、国民たちは涙を流してパンを崇めていると」
密偵は懐から、布に包まれた物体を取り出した。
潜入中に手に入れたという、数日前の『メロンパン』の欠片だ。
時間が経って少しパサついているが、それでも甘い香りが漂った。
カイルはそれをひったくり、口に放り込んだ。
「……!!」
数日経ってもなお残る、砂糖の甘みとバターの風味。
そして何より、今の『聖岩パン』とは比べ物にならない柔らかさ。
カイルの目から、一筋の涙がこぼれた。
感動ではない。悔しさと、食欲と、そして身勝手な独占欲による涙だ。
「騙されている……!」
カイルは叫んだ。
「アメリアは脅されているのだ! あの野獣どもに監禁され、無理やりパンを焼かされているに違いない! そうでなければ、私に献上すべきパンを、あんな下等生物どもに振る舞うはずがない!」
(これを取り戻せば、私は毎日この柔らかいパンが食える……!)
その本音を「正義」という言葉でコーティングし、カイルは剣を抜いた。
「リリィ! 直ちに聖騎士団を招集せよ! これより獣人国へ進軍し、囚われのアメリアを救出する!」
「はい、カイル様! 私の『聖なる結界』で、邪悪な魔女のパンを焼き尽くして差し上げますわ!」
リリィの目は嫉妬で濁っていた。
自分の作る硬いパンが否定され、アメリアのパンがもてはやされているのが許せないのだ。
こうして、食欲と嫉妬にまみれた人間の軍勢が、獣人国へと向かうことになった。
◇
一方、獣人国ガルディア。
王城の会議室は、ピリピリとした緊張感に包まれていた。
「……ふざけるな」
獣王レオンハルトが、テーブルを拳で叩き割った。
分厚いオーク材のテーブルが、真っ二つに裂ける。
「アメリアを『救出』だと? よくもぬけぬけと……。自分たちで捨てておいて、価値が出たと知るや否や奪いに来る。それが人間のやり方か」
彼の全身から、紅蓮の闘気が立ち上っている。
金色の髪が逆立ち、尻尾は怒りで膨れ上がり、床を激しく叩いていた。
「ガルフ! 全軍に出撃命令を出せ! 国境を越え、ロイヤル王国の城まで焼き尽くしてやる!」
「はっ! すでに兵士たちは臨戦態勢です! アメリア様のパンを奪おうとする輩など、八つ裂きにしてやると息巻いております!」
ガルフ隊長もまた、牙を剥き出しにして唸っている。
この国の兵士たちは、今や全員がアメリアのファンだ。彼らにとって、アメリアを奪われることは、明日からの食事を失うことと同義なのだ。
「待ってください!」
私が声を上げると、殺気立っていた会議室が一瞬静まった。
「アメリア。……心配するな。お前は指一本触れさせん。余の後ろに隠れていろ」
レオンハルト様が、私を庇うように前に立つ。
その背中は大きくて頼もしいけれど、私は首を横に振った。
「武力で解決してはダメです。そんなことをすれば、多くの血が流れます。それに……」
私は地図の上に置かれた、敵軍の情報のコマを指差した。
「相手には、聖女リリィがいます。彼女の使う『聖なる結界』は、あらゆる物理攻撃と攻撃魔法を弾き返すと聞きました。正面から戦えば、泥沼の戦いになります」
「フン。あんな薄っぺらい結界、余の爪で引き裂いてくれるわ」
「ダメです。もしレオンハルト様に傷がついたら……私、悲しくてパンが焼けなくなります」
私が上目遣いでそう言うと、レオンハルト様は「うっ」と言葉を詰まらせた。
耳が赤くなり、膨れ上がっていた尻尾が少し大人しくなる。
チョロい……じゃなくて、優しい王様で助かった。
「では、どうするつもりだ?」
宰相補佐のギルバートが眼鏡を押し上げながら問う。
「アメリア様。相手は数千の軍勢です。話し合いで解決する相手ではありませんよ」
「ええ、分かっています。言葉は通じないでしょう」
私はエプロンのポケットから、麺棒を取り出した。
これはただの調理道具ではない。私の相棒だ。
「だから、パンで戦います」
「……は?」
全員が呆気にとられた顔をした。
「敵の目的は私、そして『美味しいパン』です。兵士たちは、王子や聖女の命令で無理やり連れてこられただけ。お腹を空かせ、硬いパンにうんざりしているはずです」
私はニヤリと笑った。
「空腹の軍隊ほど、脆いものはありません。剣も魔法も使いません。私が焼く、最高に美味しくて、凶悪な『誘惑』で、彼らの戦意を骨抜きにしてやります」
「……アメリア。お前、本当に悪役令嬢だったのか?」
レオンハルト様が、呆れたような、でもどこか楽しそうな顔で私を見た。
「はい。悪役令嬢らしく、卑怯で甘美な罠を仕掛けさせていただきます」
私はガルフ隊長に向き直った。
「隊長。厨房にある小麦粉と小豆、ありったけ用意してください。それと、風魔法の使える兵士を三十名ほど」
「小豆……? 豆を煮るのか?」
「ええ。人間の兵士たちが泣いて故郷を思い出すような、最強の兵器を作りますから」
◇
翌日。
国境沿いの平原にて、両軍が対峙した。
人間の国側は、銀色の甲冑に身を包んだ『聖騎士団』三千名。
中央には、豪華な馬車に乗ったカイル王子と聖女リリィがいる。
対する獣人国側は、レオンハルト様率いる精鋭部隊五百名。
数の上では圧倒的に不利だ。
「見ろ、あの少なさを! 野蛮人どもめ、我々の威光に恐れをなしたか!」
カイル王子が馬車の上から叫んだ。
「さあ、アメリアを返してもらおう! そして、その『柔らかいパン』の製法を全て吐け!」
「愚かな……」
先頭に立つレオンハルト様が、呆れたように呟く。
彼は武器を構えていなかった。
その代わり、彼の背後には、奇妙な部隊が展開していた。
巨大な送風機(風魔法の魔道具)を背負った部隊と、さらにその後ろには……屋台のような移動式キッチンが並んでいる。
「なんだあれは? 祭りの準備か?」
聖女リリィが嘲笑った。
「ふふっ、きっと降伏の印に料理でも振る舞うつもりですわ。でも、そんな餌には釣られませんことよ。全軍、突撃準備! 私の『聖なる結界』を展開します!」
リリィが杖を掲げると、聖騎士団全体を覆うように、半透明の光の壁が出現した。
矢も魔法も通さない、鉄壁の守りだ。
「行けぇぇぇ! 獣人どもを蹴散らせ!」
カイルの号令と共に、騎士たちが進軍を開始した。
地響きを立てて迫りくる三千の兵士。
普通なら恐怖で足がすくむ光景だ。
しかし、私はキッチンの前で、静かに鍋をかき混ぜていた。
「アメリア、敵との距離、三百メートル! いつでもいけるぞ!」
ガルフ隊長の声が飛ぶ。
「了解です。……さあ、作戦開始!」
私はオーブンの蓋を開けた。
「風魔法部隊、送風開始! 最大出力で!」
ゴォォォォッ!!
巨大な送風機が唸りを上げ、オーブンから立ち上る熱気と香りを吸い込み、一直線に敵軍へと吹き付けた。
戦場に、場違いな匂いが漂った。
それは、焦げた小麦の香ばしさ。
そして、甘く煮詰められた小豆の、心安らぐ香り。
誰もが子供の頃に食べたことのある、郷愁を誘う匂い。
進軍していた騎士たちの足が、ピタリと止まった。
「……なんだ、この匂いは」
「甘い……。懐かしい匂いがする」
「俺の、田舎のばあちゃんが作ってくれた菓子みたいな……」
鉄壁の『聖なる結界』は、物理攻撃は防げる。
だが、空気そのものである「匂い」は防げない。
そして、「敵意」は弾けても、「美味しいものを食べてほしい」という「善意」は、聖なる力であればあるほど、素通ししてしまうのだ。
「な、何をしているのです! 止まるな! 進め!」
リリィが金切り声を上げるが、兵士たちは動かない。
いや、動けなかった。
彼らの腹の虫が、一斉に「グゥゥゥゥ」と鳴り響いたからだ。
毎日の硬いパンと薄いスープで飢えきっていた彼らにとって、この匂いはどんな魔法よりも強力な精神攻撃だった。
「ここよ! 第二波、投入!」
私が合図を送ると、獣人の兵士たちが、大きなカゴを抱えて前線へ飛び出した。
武器の代わりに彼らが手にしているのは、焼きたての丸いパン。
艶やかな茶色の焼き色。
真ん中にちょこんと乗った、桜の塩漬けやケシの実。
日本人の魂、いや、パン好きの魂を揺さぶる王道。
『あんぱん』だ。
「食らえぇぇぇ!」
獣人兵士たちが、結界のすぐ外側から、あんぱんを投げ込み始めた。
それは攻撃ではない。差し入れだ。
ポスッ、ポスッ。
柔らかいパンは、結界をすり抜けて、呆然とする騎士たちの手の中に落ちていく。
「なんだこれは……柔らかい」
「温かいぞ」
一人の若い騎士が、我慢できずにそれを口に運んだ。
パクッ。
薄いパン生地の中から、溢れ出すのは熱々の粒あん。
小豆の皮が弾ける食感と、濃厚な甘み。
疲れた体に、糖分が染み渡っていく。
「う……うまい……!」
その騎士はその場に泣き崩れた。
「こんな美味いもの、何年ぶりに食っただろう……」
「母ちゃん……」
一人が食べ始めれば、もう止まらない。
騎士たちは剣を捨て、空から降ってくるあんぱんに群がった。
「俺にもくれぇぇ!」
「こっちはこしあんだぞ!」
「牛乳はないか! この甘さには牛乳が必要だ!」
戦場は一瞬にして、巨大なパン試食会場へと変貌した。
もはや誰も戦おうとはしていない。
みんな、幸せそうな顔であんぱんを頬張っている。
「な、な……っ!」
馬車の上で、カイル王子とリリィだけが取り残されていた。
「貴様ら! 何をしている! それは敵の罠だ! 毒が入っているかもしれんぞ!」
カイルが叫ぶが、口の周りをあんこだらけにした騎士団長が振り返って言った。
「殿下! 毒など入っておりません! これは……『愛』が入っております!」
「はぁ!?」
「こんなに丁寧に炊かれたあんこ、敵意があって作れるはずがありません! 我々は、このパン職人と戦うことなどできません!」
騎士団の寝返り。
それこそが、私の狙いだった。
「……チェックメイトですね」
私はエプロンを外し、レオンハルト様の隣に立った。
彼もまた、呆気にとられつつも、満足げに笑っている。
「見事だ、アメリア。……剣一本抜かずに、三千の軍勢を制圧するとはな」
「ふふっ。美味しいものは、世界を救うんです」
さあ、あとはあの二人――カイル王子とリリィとの決着をつけるだけだ。
私はワゴンに最後のとっておきを乗せて、ゆっくりと敵陣へと歩き出した。




