第7話 王様の秘密と、深夜のフレンチトースト
深夜、王都の鐘が十二回鳴り響いた。
私は店の二階にある自室のキッチンで、そわそわと落ち着かない時間を過ごしていた。
心臓がうるさい。
原因は、昨日のレオンハルト様の言葉だ。
『今日の夜食は、余が直々に受け取りに行く』
部屋の鍵は開けてある。
パンの仕込みは完璧だ。
でも、本当に来るのだろうか? 一国の王様が、こんな夜更けに、パン屋の娘の部屋に?
「……落ち着きなさい、アメリア。あくまで、夜食の配達よ。パンを渡して、はいサヨナラ。それだけなんだから」
自分にそう言い聞かせ、冷たい水を一杯飲んだ、その時だった。
コン、コン。
窓ガラスが軽く叩かれた。
玄関ではない。バルコニーの方だ。
私が慌ててカーテンを開けると、そこには月光を背に受けた巨大な影が立っていた。
黒いローブを纏っているが、その隙間から覗く金色の髪と、立派な獣耳は隠せていない。
「……陛下!?」
鍵を開けて窓を押し開くと、レオンハルト様が音もなく部屋の中へと滑り込んできた。
夜風と共に、どこか冷たく乾いた夜の匂いと、微かな獣の香りが漂ってくる。
「すまん。正面から入ると、近衛兵に見つかるのでな」
彼はフードを外し、重たげなため息をついた。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
酷く、疲れている。
いつもは鋭い眼光を放つ紅蓮の瞳が、今は少し虚ろで、目の下には薄っすらと隈ができている。
自慢の金色の髪も少し乱れ、何より、あの感情豊かな尻尾が、今は何の反応もなくダラリと垂れ下がっていた。
「……陛下、何かあったのですか?」
「……ギルバートの奴め、余を過労死させる気か」
レオンハルト様は、私の部屋の小さなソファに、どかっと体を沈めた。
その重みでソファが軋む。
「北の部族との交渉、東の食糧輸入ルートの確保、そして貴様の元婚約者である人間国からの嫌がらせのような抗議文の処理……。朝から水一杯しか飲んでおらん」
「えっ、水一杯!?」
「食欲がなくてな。……硬い肉も、パサパサのパンも、今の余の喉は受け付けんのだ」
彼は天井を仰ぎ、力なく目を閉じた。
「アメリア。……何か、腹に入れられるものをくれ。お前のパンなら、食える気がする」
その声は、王の命令というより、弱った迷子のようだった。
私の胸が、きゅっと締め付けられる。
この人は、強面で最強の獣王だけど、その肩には一国の命運と、食糧難にあえぐ国民の生活がのしかかっているのだ。
「分かりました。すぐに、元気が出るものを作りますね」
私はキッチンへと向かった。
彼が今求めているのは、消化が良く、温かく、そして糖分たっぷりで脳を癒やすものだ。
冷蔵庫(氷魔法石を使った保冷庫)から取り出したのは、昨日焼いて少し硬くなってしまった食パン。
本来なら廃棄するか、パン粉にするものだが、これこそが最高の食材になる。
「作るわよ、『究極のフレンチトースト』!」
ボウルに『コカトリスの卵』を三つ割り入れる。黄身が濃く、オレンジ色に近い濃厚な卵だ。
そこに『タウロスミルク』と、『スターシュガー』と呼ばれる星屑のようにキラキラした砂糖をたっぷりと。
隠し味に、バニラビーンズを一鞘。
カシャカシャカシャ。
卵液を丁寧に混ぜ合わせる。
そして、厚切りにした食パンを、その黄金色の液に浸した。
「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ」
魔法で少し時間を加速させ、パンの中心まで卵液を染み込ませる。
スポンジのように液を吸ったパンは、ずっしりと重く、フルフルと震える柔らかさになった。
フライパンを火にかけ、『ホーンカウ』のバターを落とす。
ジュワァ……。
バターが溶け、厨房に芳醇な香りが充満する。
そこに、卵液を吸ったパンをそっと置く。
ジジジジ……。
弱火でじっくりと焼く。焦がしてはいけない。
表面はカリッと、中はプリンのように蒸し焼きにするのだ。
背後で、衣擦れの音がした。
振り返ると、いつの間にかレオンハルト様がキッチンの入り口に立ち、壁に寄りかかってこちらを見ていた。
「……甘い、いい匂いだ。母上のミルクのような」
「もうすぐ焼けますからね」
私はフライパンを返し、裏面にも焼き色をつける。
最後に、仕上げの追いバター。
完成だ。
皿に盛り付け、上から『メイプルツリーの樹液』を煮詰めたシロップをたっぷりと回しかける。
熱で溶けたバターとシロップが混ざり合い、黄金色の海を作っている。
「どうぞ、陛下」
私は湯気の立つ皿を、ソファの前のローテーブルに置いた。
レオンハルト様が、ゆっくりと身を起こす。
「……これが、パンか? まるで金の塊のようだ」
「フレンチトーストです。硬くなったパンを蘇らせる魔法の料理ですよ」
彼はフォークを手に取り、パンに突き刺した。
抵抗などない。ナイフなど不要だ。
パンは自重で崩れそうなほど柔らかく、フルフルと揺れている。
彼はそれを口に運んだ。
ハフッ。
「……っ」
レオンハルト様の動きが止まった。
「……熱い。だが……」
咀嚼する必要さえない。
口の中で、ジュワリと溢れ出す温かい卵液とミルクのコク。
焦げたバターの塩気と、シロップの甘みが、疲労した脳髄を優しく、しかし強烈に刺激する。
「溶けた……。パンが、舌の上で消えていく……」
「いかがですか?」
「……暴力だ」
彼は震える声で言った。
「これは、優しさという名の暴力だ。こんなにとろとろで、甘やかされたら……余はもう、戦場に戻れん体になってしまう」
そう言いながらも、彼の手は止まらない。
一口、また一口。
食べるたびに、彼の瞳に光が戻っていく。
顔色は良くなり、目の下の隈も薄らいで見える。
そして何より――。
バタン、バタン、バタン!
彼の尻尾が復活した。
ソファの背もたれを、リズミカルに叩いている。
その音は、私の心臓の鼓動と重なって聞こえた。
あっという間に、二枚の厚切りフレンチトーストは彼の胃袋へと消えた。
彼は皿に残ったシロップまで、行儀悪く指で掬って舐めた。
「……ふぅ。極上の夢を見ていた気分だ」
レオンハルト様は深く息を吐き、ソファに体を預けた。
その表情は、私が初めて見るほど無防備で、穏やかだった。
「獣王」の仮面を脱ぎ捨てた、一人の青年の顔。
「アメリア」
「はい」
私は彼にお茶を差し出した。
彼はそれを受け取らず、私の手首を掴んだ。
強くはない。でも、決して逃さないような手つきで。
「こっちへ来い」
「えっ……」
引かれるままに、私は彼の隣、ソファの隙間に座らされた。
近い。
彼の体温と、甘いシロップの香りが混ざり合った匂いがする。
「お前は、不思議な女だ」
彼は私の手を取ったまま、その指先をじっと見つめた。
パンを捏ね、焼き上げる、職人の手。
貴族令嬢のような白魚の手ではない。小さな火傷の痕もあるし、爪も短く切り揃えてある。
「余は、ずっと気を張っていた。この国の王として、誰よりも強く、誰よりも獰猛でなければならないと。弱い王など、誰もついてこないからな」
彼は親指で、私の手の甲を優しく摩った。
「だが、お前のパンを食っている時だけは……余は、自分がただの『レオンハルト』に戻れる気がするのだ。鎧を脱いで、腹一杯食って、眠る。そんな当たり前の幸せを、お前が思い出させてくれた」
「陛下……」
「アメリア。……余の髪に、触れてみてくれないか」
唐突な願いだった。
私が驚いて見上げると、彼は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「子供の頃、母上に撫でられるのが好きだった。……お前の手は、温かいから」
王様が、甘えている。
そのギャップに、私の胸は爆発寸前だった。
拒否する理由なんてない。むしろ、私だって触ってみたかったのだ。あの黄金色のたてがみを。
私は震える手を伸ばし、彼の頭に触れた。
ふわり。
見た目は豪快な金髪だが、触り心地は驚くほど柔らかかった。
高級な絹糸のようで、でもその下にはしっかりとした獣の毛並みの弾力がある。
「……ん」
私が指を滑らせて髪を梳くと、レオンハルト様が気持ちよさそうに喉を鳴らした。
ゴロゴロ……グルルル……。
それは、大きな猫が喉を鳴らす音そのものだった。
「……気持ちいいか?」
「はい。すごく、ふわふわです」
「そうか。……余もだ」
彼はそう言うと、不意に私の肩に頭を預けてきた。
重い。
ずっしりとした頭の重みが、心地よい。
「……アメリア。責任を取れよ」
耳元で、甘い低音が響く。
「え?」
「お前のせいで、余は骨抜きにされた。もう、あの硬い干し肉には戻れん。お前のパンがないと生きていけない体にされたのだ」
彼は顔を上げ、至近距離で私を見つめた。
その紅蓮の瞳が、熱っぽく揺れている。
「だから……一生、余のそばでパンを焼け。これは王命ではない。……レオンハルトという男からの、求婚だ」
時が止まった気がした。
求婚。プロポーズ。
追放された悪役令嬢が、隣国の王様に?
「わ、私は……ただのパン屋で……」
「ただのパン屋ではない。余の胃袋と、心を掌握した魔女だ」
彼はニッと悪戯っぽく笑うと、私の頬についた小麦粉(いつの間にかついていたらしい)を、親指で拭った。
そして、その指を自分の唇に当てた。
「返事は?」
断る選択肢なんて、最初からなかった。
私はこの国に来て、この人の笑顔を見るためにパンを焼くことに、無上の喜びを感じているのだから。
「……はい。もし、私のパンでよろしければ……死ぬまで、あなたのために焼かせてください」
私が答えると、レオンハルト様は破顔した。
それは、今まで見たどの表情よりも輝いていて、格好良かった。
「うむ。契約成立だ」
彼は私を力強く引き寄せ、抱きしめた。
彼の広い胸板に顔が埋まる。
温かい。
そして、背中を回された腕の力強さと、顔に触れるたてがみの柔らかさが、私を包み込む。
「アメリア……愛している」
「私も……お慕いしております、レオンハルト様」
深夜のキッチン。
甘いフレンチトーストの香りと、幸せな空気に包まれて、私たちはしばらくの間、そうして抱き合っていた。
この幸せが、永遠に続けばいい。
そう思っていた。
だが。
物語には必ず、試練が訪れる。
翌朝。
甘い余韻に浸りながら店を開けた私の元に、血相を変えたガルフ隊長が飛び込んできた。
「た、大変だアメリア殿!」
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
「国境の砦が突破された! 人間の軍勢だ!」
ガルフ隊長は息を切らしながら叫んだ。
「貴殿の元婚約者……カイル王子と聖女リリィが率いる『聖騎士団』が、貴殿の身柄を要求して進軍してきた! 『聖女を惑わす魔女を処刑し、パンの製法を回収する』と言って!」
私の手から、トングが滑り落ちた。
カラン、と乾いた音が店内に響く。
幸せな時間は終わりを告げた。
私の過去が、最強の理不尽となって襲いかかってきたのだ。
「……レオンハルト様は?」
「陛下は直ちに出撃の準備をされている! だが、相手は聖女の『結界魔法』を使う。普通の攻撃が通じない厄介な相手だ!」
私は拳を握りしめた。
震えそうになる膝を叩く。
守られるだけで終わるなんて、パン職人の名折れだ。
彼らが欲しいのが私なら、そしてパンなら。
受けて立とうじゃないの。
「ガルフ隊長。……厨房を使います」
「えっ? 逃げないのか!?」
「逃げません。……聖女様の結界がどれほど硬いか知りませんが、私のパンより硬いものなんて、この世にありませんから」
私はエプロンの紐をキリリと締め直した。
これは戦争だ。
剣と魔法ではなく、パンとプライドを懸けた、女同士の戦いだ。




