第5話 もふもふ行列と、深夜の暴君(甘党)
開店初日の午後。
私の店『陽だまりの麦』は、戦場のような忙しさに包まれていた。
「いらっしゃいませー! 焼きたてですよ!」
トングをカチカチと鳴らしながら声を上げると、店内を埋め尽くす獣人たちが一斉に振り返る。
彼らの耳がピコンと立ち、鼻がヒクヒクと動き、そして尻尾がブンブンと振られる光景は壮観だ。
「嬢ちゃん! 俺にはその、ソーセージが乗ったやつをくれ!」
「私はこの甘い匂いのする白いパンを!」
「ママ、僕あれがいい! チョコが入ってるやつ!」
飛ぶようにパンが売れていく。
私が前世の記憶と【発酵魔法】をフル活用して焼き上げたパンたちは、彼らにとって未知の宝石のようなものだった。
特に、この国の食文化を変える衝撃を与えたのが、お昼時に出した『たまごサンド』だ。
「……ふごふご。わしはもう、ろくに歯が残っておらんのじゃが……」
杖をついた羊獣人のおじいさんが、心配そうにショーケースを覗き込んでいた。
彼の口元は痩せこけ、硬い干し肉や木の実を食べることを諦めてしまった老人特有の弱々しさがある。
「大丈夫ですよ。これを食べてみてください」
私は、『コカトリスの卵』をたっぷりのマヨネーズで和え、耳を落とした食パンで挟んだ『特製たまごサンド』を差し出した。
おじいさんは震える手でそれを受け取る。
「……柔らかい。まるで、刈りたての羊毛のようじゃ」
彼は恐る恐る、パンをハムリと口に含んだ。
その瞬間。
おじいさんの丸まった背筋が、ピンと伸びた。
そして、全身のもこもことした羊毛が、喜びを表すようにブワッと膨れ上がったのだ。
「おおぉぉ……!」
「いかがですか?」
「噛まなくていい……。パンが、舌の上で卵と一緒に溶けていく……! わしは今、数年ぶりに『食事』を楽しんでおるぞ……!」
おじいさんの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう、ありがとう……。長生きはしてみるもんじゃのぅ」
その姿を見て、周囲にいた他の客たちも貰い泣きをしている。
獣人の国では、「老い」は「食の楽しみを失うこと」と同義だったのだ。
硬いものが食べられなくなり、スープばかり啜る余生。
そんな常識を、私のふわふわパンが打ち砕いた。
「店主! 俺の親父にも食わせてやりてぇ! そのサンドイッチ、あるだけ全部くれ!」
「ずるいぞ! 私だって祖母に買っていきたいんだ!」
店内は感動の涙と、新たな争奪戦の熱気に包まれた。
私は追加の生地を捏ねながら、心の中でガッツポーズをする。
(よし、掴みはバッチリね!)
◇
嵐のようなランチタイムが過ぎ、夕暮れ時。
学校帰りらしき子供の獣人たちがやってきた。
「姉ちゃん、来たぞー!」
先頭を切って飛び込んできたのは、森で出会ったポチ君だ。
彼は友達らしい猫獣人と狸獣人の男の子を引き連れている。
「いらっしゃい、ポチ君。お友達も一緒?」
「うん! 姉ちゃんのパンがすげーんだって教えてやったんだ! あいつら、嘘だーって信じないからさ」
猫耳の少年が、疑わしそうな目で私を見た。
「だってさ、柔らかくて甘いパンなんてあるわけないじゃん。俺たちのおやつなんて、これだぜ?」
彼がポケットから取り出したのは、ゴツゴツした黒い木の実だった。
『アイアンナッツ』と呼ばれる、この国特有の木の実だ。
「これ、石じゃないの?」
私が指で突っつくと、カチカチと硬質な音がする。
「石じゃねーよ。これを奥歯で思いっきり噛み砕くと、中の苦い汁が吸えるんだ。たまに歯が欠けるけどな」
(なんて過酷なおやつなの……)
子供の楽しみであるおやつが、歯の耐久テストだなんて。
私は悲しくなりながら、とっておきの新作をトレイに乗せた。
「じゃあ、これを食べてみて。噛まなくていいし、苦くもないわよ」
出したのは、『チョココロネ』だ。
巻貝のような形をしたパンの中に、南の島国から輸入したカカオと、たっぷりのミルクで作ったチョコクリームが詰まっている。
「……なんだこれ、変な形。貝殻か?」
猫耳少年が怪訝そうにコロネを手に取り、パクっと先端をかじった。
「!!」
彼の猫耳が、見えない糸で引っ張られたようにピンと立った。
そして、瞳孔が丸く大きくなる。
「あ、あめぇぇぇっ!!」
「えっ、何これ、中から黒いのが出てきた!」
狸耳の少年も慌ててかぶりつく。
「うわっ、すごい! 泥みたいだけど、すっごく甘い! 口の中が幸せだ!」
「でしょ? チョコクリームっていうのよ」
子供たちは夢中でチョココロネを頬張った。
口の周りをチョコだらけにして、「うめぇうめぇ」と尻尾を振り回す姿は、まさに天使のようだ。
「姉ちゃん、これいくら!? 俺、お小遣い貯めて毎日来る!」
「僕も! アイアンナッツなんて捨ててやる!」
彼らが帰る頃には、店内の商品はすっかり売り切れていた。
私の初めての営業は、大成功のうちに幕を閉じたのだ。
「ふぅ……疲れたけど、楽しかった」
閉店の札を出し、私は空っぽになったショーケースを満足げに眺めた。
小麦粉のストックが心もとないけれど、明日ギルバートさんに追加発注をお願いしよう。
二階の住居スペースに上がり、自分用の夕食でも作ろうかと思った、その時だった。
コンコン。
店のドアが控えめに、しかし力強くノックされた。
「あ、すみません! 今日はもう売り切れで……」
私はエプロンを外しかけたまま、ドアを開けた。
そこに立っていたのは、深々とフードを被った巨体。
そして、隠しきれない王者の覇気。
「……売り切れ、だと?」
地を這うような低い声。
フードの下から覗く紅蓮の瞳が、絶望に染まっている。
「れ、レオンハルト様!?」
国王陛下が、なぜこんな時間に。
しかも、護衛の姿も見当たらない。完全なお忍びだ。
彼はズカズカと店内に入ってくると、空っぽのショーケースを見て愕然とした。
「嘘だろう……。余は、公務を死ぬ気で終わらせて来たのだぞ。あの『めろんぱん』とやらを、もう一度味わうために……」
その背中から漂う哀愁が凄まじい。
世界が終わったかのような落ち込みようだ。
そして、そのお尻にある立派な尻尾が、力なく垂れ下がって床を引きずっている。
「あの、朝にお買い上げいただいた分は……?」
「食べた。執務の合間に、全てな。ギルバートに取られそうになったのを死守して完食した」
(十個以上あったはずだけど……)
恐るべき甘党。そして恐るべき胃袋。
「すまない、アメリア。……何か、ないか? 余のこの、パンを求めて乾ききった心を癒やすものは」
レオンハルト様が、フードを外して私に詰め寄る。
至近距離で見ると、その顔立ちは整った野性味があり、ドキッとするほど格好いい。
なのに、言っていることは「お腹空いた」と駄々をこねる子供と同じだ。
「……生地も残っていないんです。でも、私の賄い用に残しておいた食パンなら少しありますが」
「それでいい! いや、それがいい!」
彼の耳がピクリと反応し、垂れていた尻尾が再び持ち上がった。
「分かりました。では、少し手を加えてお出ししますね。奥へどうぞ」
私は彼を厨房の奥にある、小さなテーブル席へと案内した。
あり合わせの材料で作れる、最高に贅沢な夜食。
私が選んだのは『ハニーバタートースト』だ。
厚切りにした食パンに、賽の目状の切り込みを入れる。
その上に、『ホーンカウ』のバターをたっぷりと乗せ、オーブンへ。
ジュワジュワ……。
バターが溶け、パンの切り込みに染み込んでいく音が静かな店内に響く。
香ばしい香りが漂うと、テーブルで待つレオンハルト様の喉がゴクリと鳴った。
焼き上がったトーストを取り出し、仕上げに『キラービー』の黄金色の蜂蜜を、これでもかとかける。
さらに追いバターを一欠片。
「お待たせしました。熱々のうちにどうぞ」
皿を置くと、レオンハルト様は獲物を狙う猛獣の目になった。
「……凶悪な見た目をしているな。黄金色に輝いている」
彼はフォークを使うのももどかしそうに、手でトーストの端を千切った。
溶けたバターと蜂蜜が、指を伝って滴り落ちる。
パクリ。
「ん……ッ!」
彼の動きが止まり、カッと目が見開かれた。
「表面はカリッとしているのに、中は……なんだ、このジューシーさは。パンなのに、まるで極上の肉汁を飲んでいるようだ」
「バターと蜂蜜が、パンの気泡に染み込んでいるんです」
「甘い……そして塩っぱい……。この無限に続く味の波状攻撃、余の理性を破壊する気か……」
レオンハルト様は、夢中でトーストを口に運んだ。
口の端に蜂蜜がついても気にする様子はない。
その食べっぷりは豪快で、見ていて気持ちがいいほどだ。
あっという間に厚切りトースト一枚が消滅した。
彼は名残惜しそうに、指についた蜂蜜をペロリと舐めとった。
その仕草が、妙に色っぽくて、私は思わず顔を背けてしまった。
「……ふぅ。生き返った」
満足げなため息をつき、レオンハルト様が私を見る。
その瞳は、先ほどまでの空腹の獣ではなく、穏やかで、しかし熱を帯びた男性のものだった。
「アメリア」
「は、はい」
「美味かった。……お前をこの国に招いたのは、余の生涯で最良の決断だったかもしれん」
彼は大きな手で、私の頭をポンと撫でた。
その手は温かく、ゴツゴツしていて、でも優しかった。
「お前は、この国の……いや、余だけのパン職人だ。誰にも渡さんぞ」
独占欲を含んだその言葉に、私の心臓がトクンと跳ねる。
これは、美味しいパンを独占したいという意味だ。分かっている。
分かっているけれど、そんな熱い目で見つめられたら、勘違いしてしまいそうになる。
「……光栄です、陛下」
私が顔を赤くして答えると、彼は満足げに喉を鳴らした。
「明日の朝も、焼きたてを頼むぞ。……特に、あの黒い渦巻きのパン(チョココロネ)を確保しておけ」
「はい、承知いたしました」
レオンハルト様はフードを被り直し、夜の闇へと消えていった。
後に残ったのは、甘い蜂蜜の香りと、私の胸の高鳴りだけ。
こうして、私の獣人国での生活は順風満帆に……いや、甘くて刺激的な日々として幕を開けたのだった。
だが、私は忘れていた。
幸せな香りは、時として招かれざる客を引き寄せるということを。
数日後。
国境を越え、私の元婚約者であるカイル王子と聖女リリィの魔の手が、この店に迫ろうとしていた。




