第4話 魔王のような獣王様と、とろけるクリームパン
「クリームパン、だと?」
獣王レオンハルトの低い声が、石造りの謁見の間に響いた。
彼の手には、私が差し出した黄金色のパンが握られている。
獅子の剛力で握りつぶされてしまわないか、私はハラハラしながらそれを見守っていた。
彼の手のひらに乗ると、私のこぶし大のパンでさえ、まるで小さなお茶菓子のようだ。
「陛下、お待ちください!」
宰相補佐のギルバートが、鋭い声を上げて制止に入った。
「得体の知れないものを口になさってはいけません。その女は、我が国と敵対関係にある人間界の貴族。そのパンの中に、遅効性の猛毒が仕込まれている可能性もございます」
ギルバートの狐耳がピーンと立ち、私を睨みつける。
もっともな意見だ。
いきなり現れた追放令嬢が差し出した食べ物を、はいそうですかと食べる王様がいたら、それはそれで危機管理能力を疑う。
「毒ではありません。これは、ただのお菓子のようなパンです」
私は精一杯の虚勢を張って、真っ直ぐにレオンハルトを見つめ返した。
「それに、もし私が陛下を毒殺しようとしているなら、こんなに目立つ匂いのする料理は選びません。もっと無味無臭の毒を、水にでも混ぜます」
「……ほう。随分と口が回るな」
レオンハルトが、面白がるように口の端を吊り上げた。
その瞳は、獲物を前にした肉食獣のように爛々と輝いている。
「ギルバート、下がれ。ガルフが命を懸けて推薦したのだ。毒見の必要はないだろう」
「しかし!」
「それに……余の鼻は誤魔化せん。こいつからは、毒の臭気はせん。代わりに、妙に甘ったるい、脳が痺れるような匂いがするがな」
レオンハルトはそう言うと、クリームパンを鼻先に近づけ、スンスンと匂いを嗅いだ。
その仕草だけで、私の心臓は跳ね上がる。
威厳たっぷりの王様が、小さなパンの匂いを真剣に嗅いでいる図は、ギャップがありすぎる。
「見た目は、妙に丸くて艶があるな。我らが食っているパンとは似ても似つかん」
「はい。表面には卵黄を塗って焼いていますので、艶があります。そして中には……」
「中には?」
「『コカトリスの卵』と『タウロスミルク』、そして砂糖を煮詰めて作った特製カスタードクリームが詰まっています」
その説明を聞いた瞬間、レオンハルトの喉仏がゴクリと上下したのを、私は見逃さなかった。
甘いもの。
強面だけど、絶対に甘党だ。私の勘がそう告げている。
「……食ってやる。もし不味ければ、その場で貴様を地下牢に放り込む」
彼は大きな口を開け、クリームパンにかぶりついた。
ガブリ。
謁見の間に緊張が走る。
ガルフ隊長は祈るように手を組み、ギルバートはいつでも魔法を放てるよう構えている。
私はただ、レオンハルトの反応を待った。
咀嚼音は、ほとんどしなかった。
パン生地の薄皮が破れ、中のクリームが溢れ出す微かな音だけが聞こえる。
一秒。
二秒。
三秒。
レオンハルトの動きが止まった。
噛み付いた体勢のまま、石像のように固まっている。
「……へ、陛下?」
ギルバートが恐る恐る声をかける。
すると、レオンハルトの肩が小さく震えた。
「……なんだ、これは」
絞り出すような声だった。
「パン生地が……口の中で溶けた。いや、それだけではない。中から、とろりとした黄色い泥のようなものが……」
「泥じゃありません、クリームです」
私が訂正するのも耳に入っていないようだ。
彼は咀嚼を再開する。
一口、また一口。
その度に、彼の表情から険しさが抜け落ちていく。
眉間のシワが消え。
吊り上がっていた目尻が下がり。
そして何より――。
バンッ! バンッ! バンッ!
玉座の後ろから、何かを叩きつけるような音が響き渡った。
「えっ? なんの音?」
ギルバートが周囲を見回すが、敵襲の気配はない。
音の発生源は、間違いなくレオンハルトの背後だった。
ふさふさとした金色の尾。
ライオンの尻尾が、まるでメトロノームの倍速のような勢いで、玉座の肘掛けを激しく叩いているのだ。
(あ、あれは……!)
私は必死で笑いを堪えた。
言葉では「なんだこれは」と威厳を保っているけれど、尻尾は雄弁だ。
「美味い!」「なんだこれ最高!」「もっとくれ!」と叫んでいるようにしか見えない。
「……うまい」
ついに、レオンハルトの本音が漏れた。
「タウロスミルクの濃厚なコク……それに、この黒い粒から香る甘い匂い……」
「バニラビーンズです。南の島国から取り寄せた香辛料です」
「バニラ……。素晴らしい。これほどの甘味、王族の祝宴で出る最高級のケーキでさえ及ばぬ……!」
彼は残りの半分を一気に口に放り込むと、指についたクリームまで舐め取った。
その顔は、もう「魔王」ではない。
美味しいおやつをもらった、ただの大きな猫ちゃんだった。
「……コホン」
我に返ったレオンハルトが、わざとらしく咳払いをした。
しかし、まだ尻尾はゆらゆらと揺れている。
「アメリアと言ったな」
「はい、陛下」
「貴様のパンが、毒ではないことは証明された。それに、味も……まあ、悪くはない」
「悪くはない」と言う割に、彼の目は私のマジックバッグをロックオンしていた。まだお代わりがあるのか探っている目だ。
「それで、貴様は我が国で何を望む? 命の保証か? それとも金か?」
王の顔に戻った彼が問う。
私は背筋を伸ばし、本来の目的を切り出した。
「お店を出させてください」
「店?」
「はい。私はパン職人です。この国でパン屋を開き、美味しいパンを皆様に食べていただきたいのです。……来る途中で見ましたが、この国の方々は、硬い食事に苦労されているようですから」
私の言葉に、レオンハルトは少しだけ表情を曇らせた。
「……よく見ているな。確かに、我が国の食糧事情は良くない。硬い肉や木の実を噛み砕く強い顎を持つ者が尊ばれるが、それは裏を返せば、弱者は飢えるということだ」
彼は玉座の肘掛けを指で叩いた。
「よかろう。アメリア・ローズ。貴様に、城下町の一等地での営業許可を与える。資金と店舗の手配は、ギルバートに行わせよう」
「えっ、本当ですか!?」
まさか一等地をもらえるとは思っていなかった。
廃屋でも借りられれば御の字だと思っていたのに。
「ただし!」
レオンハルトが身を乗り出し、私を指差した。
その瞳孔が、再びカッと開かれる。
「条件がある」
「じょ、条件……ですか?」
売り上げの何割かを税金として納めろとかだろうか。
それとも、軍隊の糧食を作れとか?
私は身構えた。
「毎日、朝昼晩の三食、および三時のおやつに、余の元へパンを献上せよ」
「……はい?」
「特に、今の『くりーむぱん』だ。あれは必須とする。……あと、ガルフが食べていた『まよこーん』というのも気になっている」
レオンハルトは真顔だった。
「余の執務の疲れを癒やすには、貴様のパンが必要不可欠だと判断した。これは王命である。……拒否権はないぞ」
そう言う彼の尻尾が、期待でまた揺れ始めている。
なんだろう、この既視感。
まるで、野良猫に餌付けをしてしまった時のような。
「……謹んで、お受けいたします」
私がカーテシーをすると、レオンハルトは満足げに頷いた。
「契約成立だ。ギルバート、すぐに彼女を賓客用の部屋へ案内しろ。厨房も自由に使わせてやれ」
「は、はい……承知いたしました」
ギルバートは、まだ信じられないものを見る目で王を見ていたが、主君の命令には逆らえない。
彼は眼鏡の位置を直すと、私に向き直った。
「ついて来なさい、アメリア様。……まったく、あの陛下をたった一個のパンで懐柔するとは。貴女は魔女ですか?」
「いいえ、ただのパン屋です」
私は胸を張って答えた。
◇
案内されたのは、王城の離れにある立派な建物だった。
一階が広い厨房と店舗スペースになっていて、二階が住居になっている。
元々は王族専用の料理人が使っていた場所らしいが、今は空き家になっていたそうだ。
「すごい……! こんな立派なキッチン、前世でも使ったことない!」
私は目を輝かせた。
広々とした調理台に、魔石式の大型オーブン。
発酵機こそないが、それは私の【発酵魔法】があれば問題ない。
水回りも清潔で、食材庫も完備されている。
「気に入っていただけましたか?」
ギルバートが、少し呆れたように私を見る。
「はい! 最高です! これなら、いくらでもパンが焼けます!」
「それは重畳。……ですが、本当に大丈夫なのですか? 人間の貴女が店を開いても、獣人たちが受け入れるかどうか」
ギルバートの懸念はもっともだった。
人間と獣人は、長い間対立してきた歴史がある。
ガルフ隊長たちのように、食べてくれれば分かってもらえる自信はあるけれど、まず店に入ってもらうハードルが高い。
「大丈夫です。私には作戦がありますから」
「作戦?」
私はニヤリと笑った。
パン屋にとって、最強の集客ツール。
それは看板でもチラシでもない。
「『匂い』です」
◇
翌朝。
私は夜明け前から厨房に立ち、準備を始めていた。
今日のラインナップは、獣人たちの好みを分析して決めた。
彼らは肉が好きだ。でも、甘いものにも飢えている。
そして何より、柔らかいものへの憧れがある。
「まずは、王道中の王道で攻めるわよ」
生地を捏ね、【発酵魔法】で膨らませ、成形する。
オーブンに入れると、すぐに香ばしい匂いが立ち上り始めた。
そして、朝日が昇り、街の人々が動き出す時間。
私は店の窓を全開にし、換気扇(風魔法の魔道具)をフル稼働させた。
城下町の大通りを歩いていた獣人たちが、一斉に鼻をひくつかせた。
「くんくん……なんだ、この匂いは?」
「甘くて、香ばしくて……腹の虫が暴れ出しそうだ!」
「人間の店か? でも、たまらなくいい匂いがするぞ!」
私の店の前を通る風に乗せて、焼きたてのパンの香りを街中に拡散させたのだ。
最初に焼き上がったのは、『サクサククッキーのメロンパン』。
網目模様のついたクッキー生地が、オーブンの熱でカリッと焼き上がり、中はふんわりとしたブリオッシュ生地。
バターと砂糖の焦げる匂いは、種族の壁を越えて脳髄を刺激する。
「お、おい……あれを見ろ!」
店の前に置いたワゴンに、焼きたてのメロンパンを並べると、通りかかった子供の獣人たちが足を止めた。
兎の獣人の女の子が、よだれを垂らしながら見つめている。
「お嬢ちゃん、一つどう? 試食だよ」
私は一口大にカットしたメロンパンを差し出した。
母親らしき女性が止めようとする前に、女の子はそれをパクりと口に入れた。
「……!!」
女の子の長い耳が、ピンと立った。
「あまーい! ふわふわ! ママ、これ雲食べてるみたい!」
「えっ、雲? そんな馬鹿な……」
母親も恐る恐る口にする。
次の瞬間、彼女の目は見開かれ、頬がとろけた。
「な、なんて美味しいの……! 歯がいらないわ!」
その声は、呼び水となった。
遠巻きに見ていた獣人たちが、我先にと押し寄せてくる。
「俺にもくれ!」
「私にも!」
「その黄色い丸いのはなんだ!」
あっという間に、店の前には黒山の人だかりができてしまった。
もふもふした耳や尻尾が密集している光景は、私にとっては天国のような眺めだ。
「はいはい、押さないでくださいね! パンはたくさん焼いていますから!」
嬉しい悲鳴を上げながら接客をしていると、行列の後ろの方から、ひときわ大きな影が近づいてくるのが見えた。
漆黒のローブを目深にかぶり、顔を隠している大柄な男。
でも、そのローブの裾から、金色の太い尻尾が見えている。
(……えっ、まさか)
男は列に並ぶと、野太い声(を変えようとして裏返った声)で言った。
「……め、めろんぱん、というのを一つ頼む。あと、くりーむぱんを十個だ」
どう見ても、お忍び(忍べていない)でやって来た、国王レオンハルト様だった。
「はい、ありがとうございます」
私が笑いを堪えながらパンを渡すと、彼は「うむ」と短く答え、大事そうにパンを抱えて路地裏へと消えていった。
きっと我慢できずに、あそこで食べるつもりなのだろう。
こうして、私のパン屋『陽だまりの麦』は、開店初日から大盛況となった。
硬いパンに苦しめられていた獣人の国に、革命が起きた瞬間だった。
けれど、私はまだ知らなかった。
この噂が、遠く離れた私の故郷――人間界の王都にまで届き、元婚約者たちを巻き込んだ騒動に発展することを。




