第2話 森の中で焼くパンは、魔獣より危険な香りがします
「……うぅ、いい匂いがするのだ」
茂みから聞こえたその声は、低く唸るような響きがあったけれど、どこか切羽詰まった響きも含んでいた。
私は護身用の麺棒を構えたまま、じりじりと後ずさる。
迷いの森には、人を喰らう魔獣がいると聞いている。もしや、今の「いい匂い」というのは、パンのことではなく、私自身の肉の匂いのことだろうか。
「だ、誰ですか! 出てきなさい!」
声を張り上げると、ガサガサと茂みが激しく揺れた。
そして、ひょっこりと顔を出したのは――。
「……あ」
それは、茶色い毛並みの犬……いや、人間の子供のような姿をしていた。
頭にはぴんと立った三角形の耳。お尻の方からは、ふさふさとした尻尾が見え隠れしている。
年齢は十歳くらいだろうか。ボロボロの衣服をまとった、獣人の男の子だった。
(か、可愛い……!)
私の「もふもふセンサー」が激しく反応する。
つぶらな瞳に、少し濡れた鼻先。警戒して伏せられた耳。
恐怖心など一瞬で吹き飛び、私は思わず駆け寄りそうになった。いけない、相手は警戒している。
少年は私の手にある、食べかけの『極上生食パン』をじっと見つめていた。喉が鳴る音が、ここまではっきりと聞こえてくる。
「……お腹、空いてるの?」
私が問いかけると、少年はビクッと肩を震わせ、しかし正直にコクンと頷いた。
「迷子? それとも、ここに住んでいるの?」
「……森で、木の実を探してたんだ。でも、今日は全然見つからなくて……」
お腹の虫が、答え合わせをするようにギュルルルと鳴り響く。
獣人の国は土地が痩せていて食糧難だと聞いたことがあるけれど、こんな小さな子供までひもじい思いをしているなんて。
私は残っていたパンを二つに割り、彼に差し出した。
「これ、あげる。毒なんて入ってないわよ」
少年はおずおずと近づき、私の手からパンをひったくるように受け取ると、警戒しながらも一口かじりついた。
その瞬間。
彼のピンと立っていた耳が、ぺたりと寝た。
そして、閉じていた瞳がカッっと見開かれる。
「……っ!?」
「どう? お口に合うかしら」
「な、なんだこれ……! 雪みたいに消えた! でも、甘くて……うまい、うまい!」
少年は夢中でパンを頬張った。
普段、何を食べているのかは分からないけれど、少なくともこんなに柔らかいものは食べたことがないのだろう。
あっという間に平らげると、彼は私の指についたパン屑まで名残惜しそうに見つめた。
「ありがとう、人間の姉ちゃん! 俺、ポチっていうんだ! ……あ、やべっ、兄ちゃんたちに怒られる!」
ハッとしたように顔を上げたポチ君(仮名じゃなくて本当にポチだった)は、慌てて森の奥へと走り出した。
「あ、待って!」
私の呼びかけも虚しく、茶色い尻尾は茂みの向こうへ消えてしまった。
……行ってしまった。
もふもふを堪能する間もなかった。残念だ。
「でもまあ、いいか。まずは今日の寝床を確保しないと」
私は気を取り直し、近くにあった少し開けた場所を拠点にすることにした。
近くには小川も流れていて、水には困らなさそうだ。
マジックバッグから、簡易テントと調理器具を取り出す。
野宿など初めてだが、前世の記憶と「パンを焼くためなら野山も越える」という執念があればなんとかなる。
一通り準備を終えると、日はすでに傾きかけていた。
「さて……夜ご飯はどうしようかな」
さっきの生食パンは食べてしまったし、ポチ君にあげてしまった。
お腹はペコペコだ。それに、ここは森の中。夜になれば冷え込むだろう。
「温かくて、カロリーが高くて、食べた瞬間に元気が湧いてくるようなパンがいいわね」
私はマジックバッグの中身を確認する。
『太陽の小麦』の強力粉。
『コカトリスの卵』から作った特製マヨネーズ。
『ホーンカウ』の濃厚バター。
そして、缶詰にしておいたスイートコーン。
「よし、決まり」
私は即席で組み立てた石竈(魔法で石を積み上げただけのものだが)の前に立ち、腕まくりをした。
「いざ、【発酵魔法】!」
私の手から、淡い光が溢れ出す。
本来、パン作りには時間がかかる。生地を捏ね、一次発酵で数時間、成形して二次発酵でまた数十分。
だが、私にはこのチート能力がある。
温度と湿度を完璧にコントロールし、酵母菌たちの働きを極限まで活性化させることで、発酵時間を数分に短縮できるのだ。
ボウルの中で、生地が生き物のようにむくむくと膨らんでいく。
赤ちゃんのほっぺたのように滑らかで、吸い付くような白生地。
それを分割し、手早く成形していく。
一つは、生地を平たく伸ばしてコーンとマヨネーズをたっぷりと乗せた『マヨコーンパン』。
もう一つは、バターを幾重にも折り込み、三日月の形に巻いた『クロワッサン』。
「さあ、美味しく焼けてね」
魔石を燃料にした携帯用オーブンに生地を滑り込ませる。
数分後。
森の静寂を、暴力的なまでの香りが支配した。
バターが熱で溶け出し、小麦と絡み合う甘く香ばしい匂い。
そして、マヨネーズが焦げる独特の酸味とコクを含んだ、食欲をダイレクトに殴りつけるような香り。
「……んん~、いい焼け具合!」
オーブンを開けると、黄金色に輝くパンたちが顔を出した。
マヨネーズがグツグツと音を立て、コーンが艶やかに光っている。クロワッサンは幾層にも重なった層がパリパリに焼き上がり、見事なハニカム構造を作っているはずだ。
「いただきまーす!」
熱々のマヨコーンパンを手に取り、口に運ぼうとした、その時だった。
ガサガサガサッ!
今度は、一箇所ではない。
周囲の茂みという茂みが、一斉に揺れた。
「グルルルル……」
「……っ!」
私はパンを持ったまま硬直する。
暗闇から現れたのは、ポチ君のような可愛い子供ではない。
身長二メートルはありそうな、鎧をまとった屈強な狼の獣人たちだった。
手には槍や剣を持ち、その鋭い眼光は完全に私をロックオンしている。
一人、二人ではない。十人以上の部隊に、完全に包囲されていた。
(終わった……)
やはり、森で無防備に料理なんてするべきではなかったのだ。
魔獣除けの結界は張っていたけれど、彼らは知能のある獣人。結界など意味をなさない。
部隊のリーダーらしき、左目に傷のある灰色の狼獣人が、槍を突きつけて前に出た。
「動くな、人間! ここが我らガルディア王国の領土と知っての狼藉か!」
低い声が腹に響く。怖い。腰が抜けそうだ。
でも、不思議なことが一つあった。
彼らの鼻が、ひくひくと動いているのだ。
いや、鼻だけではない。ピンと立った耳も、私の手元にあるパンの方角を向いている。
「その手に持っている……茶色い物体はなんだ。我らを毒殺するための兵器か?」
「へ?」
兵器。
確かに、このカロリー爆弾はダイエット中の女性にとっては兵器かもしれないけれど。
「ち、違います! これはパンです! 私が食べるために焼いただけです!」
「パンだと? 嘘をつくな!」
リーダーが吼える。
「俺たちが知っているパンは、もっと白くて、硬くて、壁の補修材にもなるようなものだ! こんなに毒々しい色をして、鼻が曲がりそうなほど強烈な匂いを放つものがパンであるはずがない!」
(壁の補修材って……獣人の国でもパン事情は最悪なのね)
私は少し同情した。
そして同時に、パン職人としての魂に火がついた。
私のパンを「毒」呼ばわりされて、黙っていられるものですか。
「毒じゃありません! 信じられないなら、食べてみてください!」
私は震える手で、焼きたてのマヨコーンパンを一つ、リーダーに差し出した。
「なっ……貴様、俺を実験台にする気か」
「兄ちゃん! その姉ちゃんは悪いやつじゃないぞ!」
兵士たちの後ろから、ひょこっとポチ君が飛び出してきた。
「ポチ! 戻っていろと言っただろう!」
「でも、その姉ちゃんのパン、すっげー美味かったんだ! 毒じゃないよ!」
弟の必死の訴えに、リーダーの狼獣人は迷うように視線を泳がせた。
しかし、部下の手前、引き下がるわけにはいかないのだろう。彼は覚悟を決めたように槍を収め、私の手からパンをひったくった。
「……いいだろう。もしこれが毒であれば、即座に貴様の首を跳ねる」
ゴクリ、と兵士たちが固唾を飲んで見守る中、彼は大きな口を開け、マヨコーンパンにかぶりついた。
カリッ。
ジュワッ。
静まり返った森に、小気味良い音が響く。
パンの端の焦げたマヨネーズ部分と、コーンの弾ける音だ。
リーダーの動きが止まった。
険しかった眉間の皺が、見る見るうちに解けていく。
鋭く尖っていた瞳孔が丸くなり、ピンと張っていた耳がふにゃりと垂れ下がった。
「……なん、だこれは」
震える声で彼が呟く。
「表面はサクサクしているのに、中は……なんだこの柔らかさは。綿毛か? いや、それ以上に……この黄色い粒の甘みと、白いドロドロしたものの酸味が、口の中で暴れ回る……!」
「マヨネーズとコーンのハーモニーです」
私が補足すると、彼は膝から崩れ落ちるように地面に手をついた。
毒が回ったのではない。あまりの衝撃に足腰が立たなくなったのだ。
「う、うまい……。肉よりも濃厚で、果実よりも甘い……。こんな食べ物が、この世に存在するのか……!」
「隊長!?」
部下の兵士たちが駆け寄る。
しかし、彼らの視線もまた、私が持っている残りのパンに釘付けだった。
隊長の口元についたマヨネーズの香りに、抗えない本能が刺激されているのだ。
彼らの尻尾が、隠しきれずにブンブンと左右に振られている。
(……ちょろい?)
私は内心でガッツポーズをした。
「あ、あの……よかったら、皆様の分もありますけど……」
私がクロワッサンが入ったカゴを差し出すと、屈強な狼男たちは「わふっ!?」と犬のような声を上げた。
もう、誰も私に槍を向ける者はいなかった。
十分後。
そこには、サクサクのクロワッサンを両手で大事そうに持ち、涙を流しながら頬張る狼騎士団の姿があった。
「なんだこの層は! 芸術か!」
「バターの香りが脳を溶かすぞ……!」
「俺、田舎の母ちゃんにも食わせてやりてぇ……」
もはや騎士団の威厳はどこにもない。ただの巨大なワンコ集団である。
パンを完食し、正気を取り戻したリーダー(名前はガルフというらしい)は、コーン一粒残さず指を舐めとると、居住まいを正して私に向き直った。
「……人間の女、いや、パン職人殿」
「アメリアです」
「アメリア殿。貴公を、重要参考人として城へ連行する」
「えっ、やっぱり逮捕ですか!?」
「違う! ……このような危険な(ほど美味い)ものを森で焼かれては、我々の警備に支障が出る。それに、国王陛下……レオンハルト様に、この味を報告せねばならん」
ガルフ隊長は、真剣な眼差しで言った。
「頼む。俺たちの城に来て、もっと焼いてくれ。……あ、いや、焼いていただけないでしょうか」
その頭の上にある耳が、期待でプルプルと震えているのを見て、私は断ることなんてできなかった。
こうして私は、追放された当日に、なぜか獣人たちの厳重な護衛(という名のパンのおかわり待ち)付きで、獣人王国の城下町へと向かうことになったのだった。




