第1話 そのパンは、凶器ですか?
ゴッ、という重たい音が、華やかな王宮のパーティー会場に響き渡った。
それは到底、食べ物が皿に置かれた音ではなかった。まるで石材か、あるいは鈍器を叩きつけたような音だ。
「……素晴らしい。これぞ、神の恵みだ」
王国の第一王子カイルが、うっとりとした表情でその物体を讃える。
彼の目の前にあるのは、焦げ茶色をした直方体の塊。
表面はひび割れ、ナイフを通せば刃こぼれしそうなほどの硬度を誇るそれを、この国の人々は『パン』と呼んでいる。
「ありがとうございます、カイル様。毎朝、聖なる魔力を込めてこね上げましたの。保存性も抜群ですし、噛めば噛むほど……その、顎が鍛えられますわ」
頬を赤らめて答えたのは、この国の聖女リリィだった。
彼女が焼いたパンは『聖岩パン』と呼ばれ、教会から神聖なものとして崇められている。
私はその光景を、冷めた目で見つめていた。
公爵令嬢アメリア・ローズ。それが私の名前だ。
そして私の前世は、日本という国でパン屋を営んでいたパン職人である。
(あれはパンじゃないわ。建材よ)
心の中でそっと毒づく。
この世界の食文化は、なぜか異常な方向に進化してしまっていた。
「硬さこそ正義」「咀嚼こそ祈り」という謎の教義のおかげで、貴族も平民も、毎日歯が折れそうなほど硬いパンを水でふやかして食べているのだ。
「さて、アメリア。君が用意したパンとやらはどこだ?」
カイル王子が私に向き直り、嘲るような視線を向けた。
今日は王子の誕生パーティー。婚約者である私は、手作りのパンを献上することになっていた。
私は深呼吸をして、ワゴンに乗せた銀の蓋を開ける。
ふわり。
その瞬間、甘く芳醇な香りが会場に広がった。
黄金色の小麦、たっぷり使ったミルクとバター、そして元気に働いてくれた酵母たちの香り。
そこに鎮座しているのは、私の自信作『極上生食パン』だ。
耳まで白く柔らかく、指で押せば赤ちゃんの肌のように押し返してくる弾力。
「……なんだこれは」
カイル王子が眉をひそめた。
「パンでございます、殿下。アストラル小麦の最上級粉を使い、天然酵母でじっくりと発酵させました。焼かずにそのまま食べられるほどの柔らかさです」
「発酵だと? 腐らせたのか!」
バンッ! と王子がテーブルを叩く。
「軟弱だ! こんな気色の悪い、ふにゃふにゃした物体を王族の口に入れろと言うのか! パンとは、聖女リリィの作るもののように、硬く、重く、人を強くするものでなければならん!」
ああ、やっぱりそうなってしまった。
私は小さくため息をつく。
この国では「発酵」という概念が「腐敗」と混同され、忌み嫌われている。
パンを膨らませる技術は失われ、ただ水と粉を練って焼き固めただけの保存食が主流なのだ。
聖女リリィが、勝ち誇ったように口を開く。
「そうですわ、アメリア様。そのような空気ばかり含んだスカスカのパン……まるで、アメリア様の中身のようですわね」
会場中から、クスクスという失笑が漏れる。
「君のような、伝統を軽んじ、怪しげな術を使う女は王妃にふさわしくない」
カイル王子が高らかに宣言した。
「アメリア・ローズ! 貴様との婚約を、たった今破棄する!」
会場がざわめく。しかし、驚きはそれだけではなかった。
「さらに、貴様のような異端者を国内に置いておくわけにはいかん。貴様を国外追放とする! 行き先は……そうだな、あの野蛮な獣人どもが住む『ガルディア王国』との国境にある、迷いの森がお似合いだ!」
獣人の国。
人間とは異なる姿形をした亜人たちが住む、未開の地と恐れられている場所だ。
獰猛で、血に飢えた野獣の王が支配しているという噂もある。
普通の令嬢なら、泣き崩れて慈悲を乞う場面だろう。
迷いの森に捨てられるなんて、死刑宣告と同じなのだから。
けれど。
(……え? 行っていいの?)
私は顔を伏せ、必死で笑みがこぼれるのを堪えた。
この国にいる限り、私は「公爵令嬢」という肩書きに縛られ、硬いパンを無理やり食べさせられる毎日だ。
大好きなパンを焼いても「腐っている」と捨てられ、酵母たちにも申し訳ない日々。
でも、追放されれば?
誰にも邪魔されず、好きなだけパンが焼ける。
もしかしたら、私のパンを「美味しい」と言ってくれる誰かに出会えるかもしれない。
「……謹んで、お受けいたします」
私は優雅にカーテシーをした。
震える声(笑いを堪えているだけだが)で告げた私を見て、カイル王子は「ようやく自分の愚かさに気づいて泣いているのか」と満足げに鼻を鳴らす。
「衛兵! この女を直ちに馬車に乗せろ! 二度と私の前に顔を見せるな!」
◇
数時間後。
私は粗末な馬車から降ろされていた。
目の前に広がるのは、鬱蒼とした大森林。
ここが人間領と獣人領の緩衝地帯、『迷いの森』だ。
「おい、さっさと行け。魔獣に食われても知らねぇぞ」
御兵たちは私を乱暴に突き放すと、逃げるように馬車を走らせて去っていった。
砂煙を上げて遠ざかる馬車を見送り、私はふぅと息を吐く。
静寂が戻った森の中で、私は一人きりになった。
持ち物は、着ているドレスと、追放される際にこれだけはとねじ込んだ鞄ひとつ。
中には少々の着替えと、なにより大切な『魔法の鞄』が入っている。
前世の記憶に目覚めた時、こっそりと集めておいた製パン道具と、最高品質の小麦粉、そして培養した酵母種たちが眠るマジックバッグだ。
「さてと……」
私は周囲を見渡す。
巨木が空を覆い隠し、薄暗い森の中は不気味な気配に満ちている。
どこからか、獣の遠吠えも聞こえてきた。
けれど、私の心は不思議と軽かった。
「やっと、自由だわ」
ドレスの裾をたくし上げ、私は落ちていた手頃な枝を拾う。
まずは火を起こせる場所と、安全な寝床を探さなくては。
「お腹も空いちゃった。王子たちの相手をしていて、何も食べてないもの」
そういえば、あのパーティー会場からつまみ出される時、私の焼いた生食パンも一緒にゴミとして捨てられそうになったのだ。
もちろん、私がすかさず回収してきた。
鞄から、ラップに包んだ白いパンを取り出す。
まだほんのりと温かい。
「いただきます」
一口かじる。
しっとりとした生地が舌の上で解け、小麦本来の甘みが広がる。
噛む必要なんてないほど柔らかいけれど、しっかりとした弾力が心地よい。
「んん~っ! やっぱり美味しい!」
森の静寂を破るように、私は声を上げた。
最高だ。誰にも文句を言われず、硬い岩のようなパンを強要されることもなく、自分の焼いたパンを味わえる幸せ。
これさえあれば、私はどこでだって生きていける。
「よし、元気が出た。まずは拠点作りね」
私はパンを完食すると、意気揚々と森の奥へと歩き出した。
自分が向かっている先が、恐ろしい獣人の王が支配する領域だということも、あまり気にしていなかった。
だって、どんなに怖い獣人だとしても、あの「歯が折れるパン」を強要してくる王子よりはマシなはずだから。
けれど私はまだ知らなかったのだ。
この森を抜けた先に待っている獣人たちが、私の想像を遥かに超える『もふもふ天国』であり、そして彼らが未知の食文化に飢えた『腹ペコ軍団』であることを。
ガサガサッ。
茂みが揺れる音がした。
私は足を止める。
風の音ではない。何かが、こちらを覗いている気配がする。
魔獣だろうか。私はとっさに身構え、鞄の奥にしまっていた麺棒(護身用)を握りしめた。
茂みから現れたのは、光る二つの目。
そして――。
「……うぅ、いい匂いがするのだ」
低く、唸るような声が聞こえた。




