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二章 もたらされる毒(後編)

 ビニールプールには色とりどりのスーパーボールが浮かんでいた。透明なプールにはフルーツポンチのようにぷかぷかと丸い合成ゴムが泳いでいる。


 ショッピングモールの大きな建物がランチョンマットを広げたみたいな中庭、そこにはちょっとした緑が植えてあり、その下にこの日のための小さな催しが並んでいた。

 もうすっかり帳を下ろした空に「金曜夜市」と書かれた提灯が陽気な明かりを灯していた。犬の散歩のように、提灯と提灯がお互いにリードを引き合い、細い縄で繋がれている。地上のささやかな星座だ。


 焼きたてメロンパンの赤いキッチンカーはバニラの香料を漂わせ、チョコチップが少し焦げた香ばしさが鼻をくすぐる。たまらなくなった紗智子(さちこ)(おと)はそのチョコレートの粒々がいっぱい入ったメロンパンを半分こさせ、分け合っていた。

「今日は座らんで食べてもいいん? 夜市やから? ていうか夜市久しぶりー!」

 律のはしゃいだ声が響いた。キッチンカーの横に申し訳程度の丸いテーブルが置いてあり、その近くで母から手渡された甘いパンを頬張っている。

「あんまり大きな声出さんとよ、夜市やから立って食べていいって覚えててえらかね。いつもはちゃんと座らなやけね」

 その弾んだ親子の後ろで、弓美(ゆみ)は鳴っているはずのない祭り囃子が聞こえた。

 小さな提灯と、水を張ったいくつかのプール。そこには水風船なども浮かんでいた。

 たったそれだけの小さな祭りの気配。

 それだけなのに、この情景は郷愁を誘う。ごく自然にBGMを運んできたのかと思ったら、本当にスピーカーから祭囃子の音を流しているようだった。

 一定の太鼓のリズムの上で、横笛の音が踊る。少し伸びたテープのようなアナログテイストも、むしろ味になっていた。



 弓美は行き交う人の群れの中に、白髪混じりの頭を見つけると少し身体が硬くなる。

 あれから、紗智子と一旦別れ、律と合流してからしばらく経つのに、たった今起こったことのように心臓をドクドクと刺激した。

 わたしたちはどうして、こんなに何かに、誰かに怯えないといけないのだろうか。

 紗智子はいつもこんな思いで生きているのか。初めて彼女の視線を借りた今、弓美はその名のように張り詰めた弦と鏃を想像する。それは決して……美しくなかった。

 

「ママ、スーパーボール掬いやっていい?」

 メロンパンを全部飲み込み終えた律が、そわそわした顔をビニールプールの方へ向けた。

「スーパーボールもう持っとるやろ、そんなにいっぱいあってどうするんね?」

 デニム生地のマキシスカートで紗智子は呆れた顔をする。

「まだ、青とピンクだけやん。五色集めて戦隊作ると!」

 両手の親指と人差し指で律は輪っかを作り、小刻みに上下させながら揺らした。

「はあ、でも今日は一回だけやからね。取れんやってもいじけんよ? 弓美さんちょっとごめんね、付き合わせて」

 プールに向かって小走りになる律をしっかり目で追いながら、紗智子は弓美の方をちらりと見てこう尋ねた。

「気にせんで、祭りやもんね。楽しまんと」

 弓美がぎこちなく笑いながらこう答えると、紗智子は口の端を大きく持ち上げ、もうすっかりしゃがみ込んだ律の隣に立った。

 すれ違う人は、朝顔の絵が入ったうちわで涼を取っている。


 直径二メートル弱のビニールプールには、他にも子どもがしゃがみ込んでいた。年々強くなる日差しに焼かれて、小麦色や赤くなった肌に比べると、律の肌は静かな薄橙色で佇んでいるようだ。

 あまり、律は外に出て遊んだりはしないのだろうか。

「よっしゃ、黄緑ゲット! 紫も欲しい、この色ニコイチやけん……」

 ……それって補色だ、と弓美は思いながらも、だからこそ戦隊でその配色をモチーフにしているのだろうと考えた。子どもが自然と目で見て楽しくなるように。


 そんな思いを知ってか知らずか、律は少し緊張で震えた手つきでポイを操作してゆく。

「ああ、破れたー!」

 その律の声とほぼ同時に、トプンと小さな水柱が上がる。律は唇を結びみるみると眉間に皺が寄ってゆくが、

「まあでも、一個取れたからいいもん」

 すぐに紗智子に向き直り、大きく口を開けこう言った。

「おお、強いね。そうやね、その子も大事にしちゃってね」

 紗智子が感心した様子で律に声をかけると、

「うん、今日は悔しくて泣かんもんね」

 律は今仲間に加わったばかりの、五百円玉より一回り大きいほどのボールを、手の中にしっかりと握り締めじっと見た。

「律が言わんやったら、そんなこと先生は知らんかったやろ」

 紗智子は、少しびっくりしながら律にこう言う。律はハッと何かに気づいたように目を見開くと、弓美の方を見て、

「今のナシ、聞かんかったことにして」

と、少し恥ずかしそうに俯いた。

「大丈夫、今日は我慢できてえらかったね。でも、悔しくて泣いても悪いことやないんよ」

 弓美は少し笑って嗜めると、律はまた顔をあげて弓美を見た。

「でも、もう小学二年生やもん。ちゃんと我慢する」

 まだ少しはにかみながらも律は笑ってこう言った。

 スーパーボールの落とした影が、波に揺られ走り抜けて行った。


「弓美さんよかったらお食事していかない? もう家帰って作るの無理よー」

 他のプールには何が浮かんでいるのか、興味深そうに眺めていた弓美に、紗智子が泣き笑いのような顔を浮かべながらこう提案した。

「そうやね、もとよりそのつもりやったし。モールの飲食フロア、二十二時までやったよね?」

 弓美は頷くと、その提案を飲んだ。さっきメロンパンを食べなかったのもこのためだ。

「やったー助かる。律、なんか食べたいもんある?」

 親子は食べたいものを言い合って楽しそうにしているが、弓美は先ほどスーパーで紗智子が言っていた「セクハラ」とは、いったいどの程度のものを言っているのだろう、と思う。

 もちろん、セクシャルハラスメントに大小はない、受けた時点で最大限に警戒してしまうものだ。

 しかし、それでも……それが先ほどの腹いせに紗智子に付きまとうほど酷いものだったら──ショッピングセンターの方も行ってみたらいいんやろか──男の声がリフレインする。 

 弓美はこんなに熱帯夜だというのに、ふと触った頬が冷たいような気がした。

 つい、キョロキョロとあたりを見渡しながら、弓美は母子生活支援施設の方がセキリュティー面では安心できたかもしれないと考えた。

 ……ただ、今夜は紗智子のそばにいてあげたい気分だった──いや〝あげたい〟というのは傲慢だろうか。

 ショッピングモール一階のレストラン街へと、三人は足早に進んでゆく。もっとも、きっと律はただはしゃいでいるだけだが、今はそれこそが安心だ。



「あ、生パスタだって。新しく出来とる、食べてみたいな」

 国土、雪、愛国者の血、を意味するトリコローレカラーで彩られた店先で、紗智子が足を止める。

「パスタ好き! 食べたい」

 食品サンプルが飾られたショーケースの前で、律も笑顔を浮かべると、目をきょろきょろさせた。

 バジル、モッツァレラチーズ、トマトでその国旗を再現したといわれるマルゲリータピッツァ。ガラスの向こうでツヤリと淡い光を湛えていた。

「弓美さん、生パスタとかどうやろうか。あたしまだこのお店入ったことなくて……」

 少し遠慮がちに紗智子が尋ねた。律は今にもショーケースに張り付いてしまいそうだ。

「うん、わたしもまだ入ったことない。食べてみたいな」

 嘘ではなかったし、弓美も食べてみたいと思った。視界の端でキッズメニューを形どった塩化ビニールが、ビビッドカラーでにこにこ微笑む。

 

 湯気に乗って小麦の香りが漂って来るようだ。店内は活気があり、赤いギンガムチェックのテーブルクロスでおめかししたテーブルが並ぶ。

 そのほとんどは、湯気がほっこりと浮かんだパスタやピザでお客さんをもてなしている。

 弓美はショートステイのホストファミリーと、こんな風に食卓を囲んだことを思い出す。特別なご馳走ではなかったが、ぎこちない会話でみんな一緒に、キッチンでぎゅうぎゅうとにんじんの皮を剥いた。そんなことを、思い出しながらパスタの到着を待った。


 

 卓上にメニューが揃うと、律はミートソーススパゲッティを器用にフォークへ巻き取り、キッズメニューがあることを気にしたのは余計なお世話だったな、と弓美は肩をすくめた。

 弓美はジェノベーゼ、紗智子はカルボナーラをそれぞれ迎え、偶然にもマルゲリータ王妃に捧げた国旗と同じ色になる。

 コーンとイタリアンソーセージが乗ったピザを三人でシェアして食べる。

「律、肘ついたらダメよ」

 はしゃぎ疲れたのか、少し前のめりにぐったり倒れている律は確かに肘をついて、やや迎え口気味にピザのチーズを伸ばしていた。

 律は気だるそうに背筋を伸ばす。紗智子が小さなため息をついたその時、律より少し年下の、きょうだいらしき男の子と女の子が弓美たちのテーブルの横を走り抜けた。

 テーブルとテーブルの間はゆったりとしていて、大人でも二、三人余裕ですれ違えるが、子どもの頭のすぐ上では、店員によって運ばれる出来たての料理や、ドリンクバーで淹れたホットコーヒーが行き交う。

 きょうだいは、壁際まで走って折り返すと、また弓美たちが座るテーブルまで近づいてくる。

「危ないやろ、走ったらダメ。熱い料理が降ってくるよ」

 いきなり──彼らから見るとだが──声を掛けられた子どもたちは、一瞬びっくりしたような顔で弓美を見るが、すぐに弓美の側から離れて、パーティションの向こうに姿を隠してしまった。


 弓美は、教育者の顔を出す。

 いや、こういった場合は必ずと言っていいほど声を掛けていた。

 何故なら、熱くて痛い思いをするのは子どもたちだからだ。〝見ていたはずが見落とされていた〟そんな幼い自分が彼らに重なる。


 

 弓美は自分の趣味は撮影というより「記録」だと思っていた。

 鮮やかさの奪われた町の看板。

 自分が写真を撮らないと、設置された瞬間と色褪せたその間にあるグラデーション、「その日にしかない色」が死んでしまうような気がした。


 いや、弓美が撮ったところでその日にしかない色は死んでしまうんだろう。人間の細胞と一緒だ。

 時間と一緒に街並みも、その中で息づく人たちも脈々と日々を過ごしてゆく。それは例外なく、のべつ幕なし。


 弓美は理解した、自分がやっていることは子どもの「成長記録」をつけるのと一緒だと。成長も細胞の死なくしては成り立たない。

 成長と死、それは表裏一体のように同じところを走っていた。

 そうか、わたしは……フィルムを焼きつける光で、この町が続ける新陳代謝を「記録」していたんだな。

 それは、手を伸ばすことに似ていた。伸ばした手は何かを掴むためだろうか、しかし、差し伸べていたい。誰かに、自分に。


 「親が変な顔して見とるけど、あの子らはちゃんとソファに座っとおから一安心やね。弓美さん大丈夫?……手が止まっとるけど」

 紗智子の声で弓美は我にかえる。彼女は少し首を伸ばしてパーティションの向こうを覗いている

「あ、大丈夫、大丈夫。こんな時までうるさくてごめんね」

 弓美はまた咄嗟に、自分を貶めるようなジョークを言ってしまう。いつからだろう、考え方にこんな癖がついたのは。

 案の定、紗智子は弓美を見咎めるように、首をすくめて目玉を回した。ハリウッド映画で見るような豊かな感情表現。その姿は弓美にとって眩しく、そして羨ましく思えた。

「弓美さんが言わんかったら、あたしが言ったよ。だって痛い思いをするのはあの子たちやろ?」

 弓美と同じことを、紗智子も考えていたので、心強くて弓美はふっと笑った。



 食事が終わると、一同はトイレを済ませて帰路に着くことにした。

「あ、ファミリートイレ、二階のフードコートのとこにしかなかったんやった。弓美さん、ちょっとごめん、うちら二階に……」

 一階レストランの側にあるトイレの前で立ち止まると、紗智子は律の手を取り、また申し訳なさそうに弓美に声を掛けた。

 館内放送にザワザワとした活気が乗り、まだお祭りが終わっていないことを実感させる。

「大丈夫って、おれもう小学二年生やから一人で行けるって」

 律はその手をパッと離すと、強気なトーンではっきりこう言った。

「でも、人多いし……」

 対して紗智子は心配そうに弱気な声を出す。

「今までも一人で行ったことあるやん、やないとおれ、一生一人でトイレに行けんやん」

 律なりにこちらを気遣っているようだ。

「サッと行ってくる」

 勢いよく振り向くと、まるでその背中で「大丈夫」と言いたいかのように、力強く律は男子トイレへと歩を進めた。

「交代で入りましょうか? 紗智子さん」

 弓美がこう提案する、せめてトイレの出入り口で見守っていると安心だろうから。

「いいや、それは悪いって。弓美さん、ウチらもサッと済ませましょう」

 紗智子がブンブンと手を振って、弓美のこの申し出を固辞する。


 弓美の頭の中で「いつも同じ対応ができないのなら……」と、あのフレーズがこだまする。手を差し伸べたくなっても、諦めなければいけない時、頭の中で流れるこの台詞。一体誰が言っているのだろう。

 しかし弓美は、この時この言葉に、従ってしまった。

 


 個室が並ぶ部屋に入る前、パウダールームを抜ける際「ウチらもとか言ってしまったけど、弓美さんは慌てんでいいからね」と、紗智子が気遣ってくれた。弓美は頷いたが、出来るだけ素早く用を足してトイレから出る。

 すると、ひと足先に出ていた紗智子が心配そうに男子トイレへ目線を送る。

「……大丈夫やろか、お腹でも痛いんかな? いつもはあたしより遅いなんて、殆どないから」

 弓美の気配を感じ取ると、そわそわとした様子で紗智子がこうこぼした。

「律くん、ケータイやスマホは持っとる?」

 その落ち着かない様子を感じ取った弓美はこう言った。

「いや、持たせてない。まだ早いかと思っとって……」

 紗智子の顔をはだんだん青ざめてきた。しまった、なおさら不安にさせてしまっただろうか、と弓美は考えた。

「わたし、その辺見てこようか?」

 弓美の頭に、あの白髪頭が思い浮かぶので、軽く頭を振って追い出す。

「いや待って、お願い弓美さん、ここにいてね」

 意を決した様子で、紗智子は男子トイレの出入り口まで駆けてゆく。

「すみません」

 大きな声で紗智子は謝り、

「律ー! おるんなら返事して」

 と、さらに大きな声で叫ぶ。ザワザワとした賑わいと、陽気な館内BGMしか聞こえない。

「あの、なにかお困りですか」

 大学生くらいの男性がトイレから出るなり、手をハンカチで拭きながら、おずおずと紗智子に声を掛けた。

「トイレの中に小さい男ん子おらんやったですか? こんくらいの……」

 紗智子は手のひらを床に向け、ワイパーように左右に揺れて律の背丈を示した。

「いや、いなかったと思うんですが……ちょっと確認して来ますね」

 その男性は困惑を浮かべたが、すぐに踵を返し、トイレの中へと戻ってくれた。

 

 にわかに緊張感が走るショッピングモールの片隅で、紗智子は手をこすり合わせ、体を小刻みに揺らしていた。

 しばらくすると、例の男性がまた飛び出し、

「個室とかも全部見てみたんですが、見当たりません。念の為……すみません、怖がらせたら……でも、掃除用具スペースとかも見ました」

 申し訳なさそうにこう言った。

 こんなに優しそうに見える男性まで、正直に言うと弓美は疑ってしまう。嘘を言っていないかと、それは、とても悲しくて悲しくて仕方がない事だった。


 すると、その男性の知り合いと見られる女性が彼の元へ心配そうに駆け寄った。

「今、誰もいなかったし、僕らもここで見張ってるんで、お母さんよかったら中、確認を……」

 その言葉に、今にも泣きそうな声でお礼を言うと、紗智子は勢いよく男子トイレへと入って行った。我が子の名を呼ぶ声がここまで聞こえてくる。

「わたしは、彼女の友達です」

 弓美は、見張ってくれている彼らにこう声を掛けると、隣に立った先ほどの女性と顔を見合わせながら、コクコクと頷いて視線を合わせてくれた。


 息が上がった様子で紗智子がトイレから飛び出してくると、

「おらんやった!」

 と、少し取り乱した様子で、彼女がこう言う。


 弓美の頭の中に、またしつこくあの白髪の男が浮かんでくる。グハハという下品な笑い声がこびりついて離れない。

 わたしたちは、どうして、誰に怯え、いったいいつまで、何を、疑い続けなければいけないのだろうか。


「紗智子さん、ごめんね。落ち着いて、やっぱりわたしその辺を探してくるから」

 弓美は紗智子の両肩を掴み、彼女を宥めるように言った。

「弓美さん、どうしよう……あたしやっぱりファミリートイレに行っておけば」

 紗智子は、片手で顔を押さえ俯いてしまった。

「そんなこと言うなら、わたしだって。交代で見張っておくべきやった、今は落ち着いて律くん探そ、ね?」

 弓美はこう言うと、紗智子に向かって力強く頷く。

 なんでわたしは教師としての対応に縛られとったんやろうか、今はプライベート、そして大人としてどう世間と向き合うべきかの話やったんに──弓美は奥歯を噛んで、激しく後悔した。


 ピンポンパンポーン、という館内チャイムが不意に流れる。

『迷子のお知らせです』

 というアナウンスが流れると、二人はハッと顔を見合わせる。

 ──そうだ! 迷子センター。

 弓美はその続きをじっくり聞こうと、耳を澄ますと、

「ママー、先生ー!」

 聞き覚えのある声が遠くから響いた。

「待たせてごめんねー」

 妙に呑気に聞こえるその声に向かって、紗智子は走り出す。

 

 さっき食べた生パスタのお店と、その横の飲食街案内図に挟まれながら歩いていた律。その律の肩をがっしり掴むと、紗智子はへたり込むような勢いで膝を折り曲げ、

「どこ行っとったんね? 勝手にいなくなったらダメっていつも言っとるやろ」

 律に目線を合わせて語気強くこう言い放った。


 ビクッと身体を跳ね上がらせると、ゆっくりと俯いて律はポロポロと涙をこぼした。

「ごめん……なさい。おれより小さな子が、迷子で、泣いとったけん……どうしても放っておけんやった。迷子センターは、覚えとったから、連れて行ったん」

 時々しゃくり上げながらも、律は言葉を拙くも紡ぎ上げる。弓美は先ほどの「迷子のご案内」の館内放送を思い出した。そうか、律の手柄だったんやね……。弓美は口を結んで目を瞑った。

 紗智子はみるみると目を見開くと、顔をくしゃくしゃにして、ついには泣いてしまった。

「大きな声出してごめんね、律のことが心配でたまらんやったんよ。えらかったね、困ってる子を助けたんやね」

 律が嗚咽を漏らし始めたので、紗智子は律を抱きしめた。


「良かったです。それじゃあ、おれたちはこれで……」

 先ほど、見張ってくれていた男性が弓美に声を掛けてくれた。

「ありがとうございました。あの、何かお礼でも……」

 弓美が咄嗟にこう答えると、

「いえいえ、お役に立てたのであれば嬉しかったです。それじゃあ」

 彼ら二人組は、にっこりと会釈をすると、そのまま踵を返し、振り返らずにまっすぐと人混みに紛れていった。

 あんな気の良さそうな人さえ疑ってしまうことに、弓美は本当に心が痛む。



 すっかり口数が少なくなってしまった紗智子と律を、弓美は自分の車に乗せた。

「ありがとね、弓美さん。送ってくれて」

 紗智子は微笑みを浮かべてはいるが、その表情には疲れが滲んでいた……いや、きっと疲れだけではない。

 律は、シートベルトに埋もれて、目の周りを赤く、うとうとしていた。

「紗智子さんたちは歩いて来たんよね?」

「うん、すぐそこやったから。駐車場も多くて停められんやったらアレやし……手っ取り早いと思って」

 紗智子がなおも笑いながらこう続けると、

「やったら、わたしんちまで連れていくけ、いい?」

 と、弓美が言った。

 紗智子は、ルームミラー越しに目を丸くすると、やがてゆらゆらと下を向き、

「ありがとう、本当のこと言うと心強い。助かる」

 こう答えた。律が紗智子を見上げてキョトンとしていると、

「律、今日は先生のところにお泊まりさせてもらえるけん。お礼言って」

 彼女は律の顔を少し覗き込み、こう促した。律は顔をぱっと明るくすると、

「本当に? ありがとう、先生」

 と、少し元気を取り戻したようだった。


 どこまで走っても平尾台がドンと待ち構えるこの町で、スパッタリングのように散りばめられた星が、物語を形どっている。

 三日月はわたしたちを見張るけど、何をするわけでもない。ただ、ぽっかりと銀河の中で、名もなき星までを放牧させている。

 それは、ある意味では「公平」に思えた。


 駐車場に着くと、バタンというやや重めの音が三回響く。

「ぼ・う・け・ん、ぼ・う・け・ん♪」

 と、律が口ずさむので、紗智子はまた、

「律、大きな声出さんよ。もう眠ってる人おるかもやろ」

と、小声で律に注意する。そして、その手をしっかり握った。

「ジュニアシートがないからヒヤヒヤしたよ。駐車場から家まで、少し歩くけ……五分くらい」

 弓美が黒くて小さなボタンを押すと、車にロックが掛かった。紗智子は微笑んで頷くと、弓美の後について歩き出す。

 空の色を写し取ったように、家々は黒く染まっていた。その家の庭木を抜けると、センサーが反応してパッと玄関のライトが灯る。

 車道から押されたように側溝を歩くと、足元のコンクリートは今日もガタガタと音を立てていた。木琴のようだ。


 築二十年程の、木造アパートはレンガ色のタイルで彩られていた。

 玄関を開けると、先に紗智子たちを通す。二階へと続く木製の細長い階段が出迎えた。

 弓美は、周囲を二度三度見渡すと、しっかりとドアを閉め鍵を掛けた。



 2DKのアパートの一室に息を潜める親子ふたりと、その友達。

 シャワーで今日の疲れを洗い流すと、紗智子はいつも育児バッグに持ち歩いている、替えの下着を律に持たせた。

 律はシャワールームの方へかけて行く。

「弓美さん、部屋着借りて申し訳ない……新しいの買って返すけん」

 ドライヤーで乾かした明るい茶色の髪を纏めながら、紗智子は申し訳なさそうにこう言う。

「いいんよ……わたしが余計なこと言わんかったら、ここまで怯えさせることはなかったんやし」

 弓美も、バツが悪そうに俯くと紗智子は、

「余計なこと?」

 と、眉をひそめて聞き返した。

「うん、スーパーで、あの……元? 院長に」

 弓美が言いにくそうにこう告げると、紗智子はため息混じりに「ああ」と顔をしかめた。

「いいんよ、それこそ弓美さんが言ってくれんやったら、あたしがいつか言った」

 紗智子は乾いた笑い声をひとつあげると、はあと息を吐く。コチコチと時計の刻む音が響く。

 リビングも兼ねているこの寝室には、シンプルなベッドと木製のローテーブルが静かに佇んでいた。

 教材を確認するときにも使うテレビと、それを支える簡素なラックには資料が詰め込まれている。本棚にも、資料と本がパンパンに詰め込まれ、その横のデスクにはノートパソコンが置かれていた。


「弓美さん、あたし。再婚しないといけないんやろか」

 紗智子は、白色灯に照らされたミント色のカーテンをじっと見ながらこう尋ねた。

「紗智子さんがしたくないなら、せんでいいやろ」

 弓美がこう答えると、紗智子は安心したようにふっと笑った。今までのどんな笑顔よりも……笑っている気がした。

「そう言ってもらえて嬉しい。あんね、だってあたしまだ七実(ななみ)と結婚しとるんやもん。なのに他の人と結婚なんか出来んやんね」

 照れ臭そうに笑うと、紗智子は口に手を当ててクスクスと笑い声を上げた。

 すると、ふと真顔に戻りこう呟く。

「あたし、律に対して過保護やろうか……どうしても、やっと出来た子やからと思ってしまうんよ」

 カーテン越しの青い光が、重苦しくふたりを包む。

 弓美が答えあぐねて口をぱくぱくさせていると、紗智子はまたふふと笑う。

「律もひとりの人格として独立させないけん、理屈では分かっとるんやけど……もう七実との子は作れんなって、どうしても考えてしまうんよ、色んな意味で最悪の道筋をね」

 紗智子は、んーっと呻くような声をあげると、またひとつため息をつく。

「なんやろね、人に産まれたからには……好きな人との間に子を授かる、それは最高の幸せやと思っとったんに……」

 そこまで言うと、紗智子は言葉を詰まらせた。──思ったのと違った、思ったより幸せでなかった、どう続くのだろうと考えながら、弓美もポツリと呟いた。

「わたしも、そう思っとったよ。それが親孝行やって……まさか、親の方がそれを拒否するとは、思ってもみなかった」

 本当に、口をついて出てしまったので、弓美はハッとして顔を上げると、紗智子はじっと弓美を見ていた。

「いいよ、続けて……律が帰ってくるまでね」

 紗智子は小さく笑うと、嗜めるように弓美にこう言った。その顔は少し寂しそうに見える。

「……ありがとう。わたしも昔、付き合っとる人がいたんやけど、もう……わたしに子どもを産む気がなくなったから、自分の方から離れてしまったんよ」

 おそるおそると、弓美は言葉を組み立てる。このことを他人に打ち明けたのは初めてだった。だからかもしれない、慎重にやらないと崩れてしまいそうだ。

「……あたしは、逆よ。親からも義理の両親からも『早く産めって』急かされて。やっとできた律が男の子やったから『でかした!』って漫画みたいなこと言われてね、でも……」

 ふうと、息を吐いて紗智子は続ける。

「義理の両親から『男の子やけど、紗智子さんに似てるから可愛くない』ってハッキリ言われて」

〝男の子やけど、紗智子さんに似てるから可愛くない〟この部分は、歌舞伎のように表情を大袈裟に作って、誰かの口調に似せるように紗智子は言った。そうやって茶化さないと言葉にできない気持ちが、弓美には手に取るように分かる。

「……まあ、他にも色々あったけど、決定打やね。これで七実は『もうおれの実家に顔を見せに行かなくていい』って、こう言ってくれたんよね」

 ここまで話し終えると紗智子は、眉間に皺を寄せ、その皺をなぞるように指を当てる。

「弓美さん、あたしら逆やね。でも……逆やのにおんなじように心痛いよねきっと、不思議なもんやね」

 いまだに言葉を探せずにぼぅっと宙を見る弓美に、紗智子は不器用な笑顔を見せた。今度は笑っているのに、痛そうだった。


 はらはらと月が、雲から雲へと渡る音が聞こえてきそうだ。

 その影がこの八帖の部屋をぐるりと通過すると、ブカブカのスウェットを着た律が湯気を上げながらシャワールームから戻ってきた。

 同級生みたいなふたりはいったん姿を隠し、また保護者と教師の顔を覗かせた。


「ああ、いくらなんでもブカブカやったかね。危ないからあんまり動かん方がいいやろ。どこかに引っ掛かったりしたら危ない」

 弓美は、眉を下げた困り顔で律に声を掛ける。

「えー! おれ、先生の家、探検しようと思っとったんにー!」

 まだ少し頬を赤くしている律が、小さく抗議した。

「律! よそ様のうちを探検とかせんのよ、失礼やろ。ちゃんと髪乾かした?」

 紗智子が恥ずかしそうに嗜めた後、少ししっとりして見える律の髪に目をとめる。

 少しむくれた律は、それでも、

「はーい」

 と返事をした。

「えらかったね、じゃあご褒美に暗室だけ探検していいよ」

 弓美は、くすりと笑うと悪戯っぽく律にこう言う。

「アンシツ? よお分からんけど、やったあ! 一回素直に『ハイ』って言うんが正解やったとか、童話みたいやんね。危なかったー!」

 律は目の前で星が弾けたかのように笑うと、楽しそうに声を上げた。

「律、静かに」

 テンションと一緒に上がる律の声の音量を気にして、紗智子はハラハラしているようだ。

「その代わり、暗室の探検が終わったらもう寝る。それは約束してね」

 律に目線を合わせて膝をつきながら、その目をじっと弓美は見つめる。

「うん! 約束する。 おれ、もう充分眠いから大丈夫……あっ、探検するヨユーはある眠気やけ」

 あわあわと律が手を振るので、弓美は目を細めて微笑み掛けると、

「じゃ、行ってみようか」

 と、号令を出した。



「暗室って、写真現像する部屋やろ? そんなん普通のアパートにあると?」

 わくわくと軽い足取りの律の後ろからぴたりとくっつくような位置を取り、紗智子はこう尋ねた。

 弓美はダイニングを挟んだ反対方向の部屋の扉の前で足を止める。

「いや、大家さんに許可をもらって少し改造した。と言っても現状復帰できる範囲でね。まあ、窓に遮光テープ貼って光が入らんようにして、赤色灯を取り付けたくらいやけどね」

 ふふっと笑うと、弓美はもったいぶるようにドアをゆっくり開けた。


 パチンと音が鳴って白色電灯が点くと、書画カメラをさらに大きくしたような機械が門番のようにずっしりと構えていた。

 キリンのように細い首を伸ばしたそれは黒い塔のようだ。首の部分にはレンズが取り付けられており、台座のように取り付けられたイーゼルを使って作業する板状のスペースを、真上から見下ろしている。

 

「うわあ、大きなメカだー」

 律が一歩部屋に入ると、すぐそちらに目を向け、声をひそめつつもはしゃいだ声を上げた。弓美はすぐに律を追い越すと、

「これは、引き伸ばし機っていうん。プリント……写真を紙にまあ、わかりすく言うと『印刷』やね、そうする時に使うと」

 こう説明した。

「薬品、お水の形をしたお薬を使う部屋やから、部屋にあるものに触っちゃダメだよ」

 弓美は律の目を見て釘を刺すと、律はコクコクと頷く。紗智子はさりげなく、律の後ろから肩のあたりに手を伸ばし、軽くホールドしているようだ。


 部屋の隅を横断する長い机が壁沿いに置いてあり、レターケースやファイルケースなどが並び、タイマーがいくつか置いてあった。

 机の手前側は開けており、料理で使うようなプラスチック製のバットと、竹製のトングが置いてあった。

 奥には複合印刷機のような大きめな機械があり、それはカラーフィルム現像用のものだ。

 廃部した中学の写真部から安価で譲り受けたもので「……中学校 198……年 ……記念」というステッカーが貼ってあるが、ところどころ、擦り減って読めなかった。

 そして、部屋の隅から隅まで張っているロープからはモノクロフィルムがぶら下がっていた。先日現像したものを乾かしていた。


 一般的に、写真の「現像」といえばプリントまで終わった状態を思い浮かべるが、現像とは、実際は撮影済みのフィルムに薬品を使って化学反応を起こし、目に見える像を浮かび上がらせる行程を指す。

 その作業を終えたネガフィルムがぶら下がっているのだ。


 では、プリントは何かというと、そのフィルムに浮かび上がらせた像を白黒反転させて感光紙に焼き付ける作業をいう。

 少しややこしいが、モノクロフィルムを現像する時、光が当たった部分ほど薬品による反応が進んで黒くなる仕組みなので、明るい場所ほどフイルム上では黒くなる。

 だからプリントで焼き付ける時に、もう一度反転させるのだ。そうすることで、実際の明暗に戻る。


「先生! あの大きな機械はなん?」

 律がカラーフィルム用の機械を見つけると、控えめに指差してこう尋ねた。

「あれは、カラー写真用のフィルムを現像する機械。て言ってもプロ用の大きな機械じゃなくて、写真部からもらったやつ。温度を保ってくれるタンク式の機械。えーっと、薄い版画板みたいなものに自動で絵を彫ってくれるみたいなことをしてくれるんよ」

「へー! すごい」

 弓美の説明に、律は目をキラキラさせる。

「ただね、カラーの写真の場合は現像までしか出来んと。そのあとは難しい作業やから、スマホのスキャンする機能を使って写真をプリントするんよ」

「そうなん? んー、難しくて半分くらいしか分からんけどすごいね、未来のロボットみたいやん。版画を自動でやってくれるとか」

 紗智子は律の後ろでニコニコと笑っていた。


 弓美は、引き伸ばし機の前に立ち、もう大体の処理を終わらせてあるフィルムをラックから取り出した。

「紗智子さん、律くん見て、フィルムに埃がついとおやろ、これは印刷に映ると黒い点々になってしまうから、ブロアっていう空気を吹きつける道具で、フィルムについたホコリを飛ばすんよ」

 紗智子と律が、フィルムの方に注目すると、弓美はブロアをシャコシャコと音を立てながら、握って開いてを繰り返す。

 探検者ふたりから「おおっ」と、声が上がる。

「なんか、コバエとか引っ付いとる時はイラっとするね。アナログフィルムなんに、デジタルの『バグ』みたいやん」

 弓美は、フィルムをひっくり返してチェックしたりしながら、軽口を叩く。

「バグって、ゲームしてたらなんか、変になるやつ?」

「あぁ、スマホでなんかかんか調べてたら、文字化けしてたりさ? なんか勝手に再起動したり? 確かにバグっとるって言うわ」

 律と紗智子が口々に、尋ねるので、弓美はくすりと笑いながらそうそうと答えた。

「デジタルの代表格と言える『コンピュータ』に『物理的に蛾という虫が入ってたこと』がバグっていう言葉の語源とされとるんよね。それがさ、アナログフィルムの表面にコバエという虫が張り付いてたら、もうそれは『アナログ版のバグ』やんって、可笑しくて」

 言い終わると同時に弓美は吹き出し、つられて紗智子も笑ってしまった。律はキョトンとしているが、ふたりが笑ったことを可笑しく思ったようで、肩を持ち上げてにこりと笑った。


 ひとしきり笑い終えると、

「弓美さんは、なんでモノクロとカラーの写真を両方撮るん?」

 と、紗智子が尋ねた。

「うん、簡単に言うと、それぞれ良さがあるからね。モノクロ写真はね……時に白黒のコントラストが、ものすごく雄弁に語ったりするんよ」

 弓美が、プリントした写真の入ったファイルケースを取り出し、パラパラめくる。

「へえ、弓美さんは看板を撮るのが好きなんやね」

 紗智子は興味深そうにこう言った。律はじーっと黙ってファイルの透明なフィルム越しに写真を見ていた。

「うん、看板っていうのはね、いつも同じ色しとらんと、日光や雨風で割とすぐ色褪せるんよね。カラーフィルムでその色褪せ具合を残す場合もあるけど、モノクロだとね、また違った発見があるんよ」

 弓美はファイルをめくり終えると、パタンと閉じた。

「ね、弓美さん。図々しいかもやけど……また写真撮ってもらえんやろうか? 今度は三人で。モノクロ写真をプリントするところ、またいつか見たいから。フィルムが終わった時でいいから、また来ていいかな?」

 紗智子は遠慮がちに軽く頭を下げると、おずおずとお願いをした。

「いいね、それ。うん、いいよ、また集まって今度はプリントするとこ、探検していって」

 弓美は微笑むと、部屋の隅に置いてあった三脚を取りに行く。


 今度はタイマー付きカメラを持ってきた弓美は、

「これ、モノクロフィルムをセットしとる」

 と、言いながら三脚にセットした。

 遮光カーテンの前に、律と紗智子を並ばせると、紗智子はタイマーをセットしてそのふたりに合流する。

 律を真ん中にして、三人でカメラが持つ大きな目をじっと見ると、カシャリという小気味のいい音が響いた。


「えっ? これもう撮れたん?」

 ほぼデジタルのカメラしか知らない律は、不思議に思ったようだった。

「うんそう、じゃあ。また現像する時にこの秘密基地に集まろうね」

 弓美は、律の方に顔を向けてこう言った。

 紗智子と律は嬉しそうに笑った、と思った次の瞬間、律がくず折れた。

「律くん?」

 心配になって弓美が声をかけると、

「ああ、ごめん弓美さん。律、寝ちゃった」

紗智子が、律を抱っこする。垂直に持ち上げるように、この部屋の荷物に当たらないように無駄のない動きだった。

「あらら、無理させちゃったかな」

申し訳なさそうに弓美が呟くと、

「んーん、楽しそうな寝顔おしとおよ。今ごろ夢の中で探検の続きでもしとるやろ」

紗智子がニッと笑ってこう答えた。



 律を暗室からそっと運び出すと、弓美はベッドの横に来客用の布団を敷き、そこに律を寝かせた。

 紗智子はその横で同じ布団に潜る。

「ごめんね、布団、一組しかなくて」

 弓美が謝ると、

「んーん、こうやってたまには親子で一緒に寝るのも悪くない。ていうか、こんな機会なければもうなかったかもしれんね」

 紗智子は寂しそうに笑った。

「……ママ」

ふいに、か細い律の声がした。

「おお、どうした律」

少しびっくりした様子で、紗智子は律の方に顔を向けた。

「……あんね、黄緑と紫はホントにニコイチなん、迎えに行かんと……また夜市連れて行ってくれるよね? 先生も来てくれる?」

 今にもまた眠ってしまいそうな声で、律がこう尋ねた。

「ママはもちろん。でも先生は無理言わんであげてよ……」

 紗智子は少し困った様子でこう答えると、

「ううん、先生も行こうね一緒に。でも、そん時は『先生』やないよ、ママの友達としてね」

 寝そべったベッドの上から、交互に紗智子と律を見て由美はこう言った。

 律は、それを聞くと安心したように、スゥッとまた寝息を立て始めた。

「弓美さん、ありがとう」

 照れたように、嬉しそうに呟く紗智子に、弓美は頷いた。

 

 ──弓美は今日は約束をふたつもしてしまったな、と思う。弓美は約束が好きだった。それはまた次に会えることを意味しているから。


「弓美さん、あたしたちいつまで……」

 紗智子がポツリと呟く。弓美が紗智子の顔をじっと見ていたら、

「ううん、なんでもない。おやすみ」

 と、彼女は言って目を閉じた。弓美は、聞かなくてもその先は分かった。弓美もまた今日、ずっと思っていたことだから。



 

 夏休みもいよいよ近づく放課後、弓美はICT教育についての研修準備に取り掛かっていた。ほとんどのデスクに、教員が座っており、今学期最後の大詰めを迎えようとしているようだ。


 ふと、窓から見上げた入道雲がもくもくと分厚くて、弓美はついため息を吐く。帰る頃に、大雨が降らなければいいが……とついつい思ってしまうのだ。

 しばらく睨みつけるように、窓の外を見ていると、

「徳永先生、ちょっと……」

 と、声を掛けられた。友近教頭だ。

 教頭は職務に対して非常に忠実で、いつも光沢のあるグレーのスーツを着ていた。短い髪は匂いのないワックスでいつもカッチリ固めている。

 表情の乏しい教頭に対して、弓美は親近感が湧かない訳ではなかったが、あまり友近教頭のことは……得意ではなかった。


 スッと、流れるように校長室に促されると、大石校長はデスクにもう控えており、神妙な顔で座っていた。

 デスクから見て右前に教頭が立っているので、弓美は何歩か下がり、校長の直線上あたりに立った。

「徳永先生、早速本題ですが」

 友近先生は淡々と告げる。

「徳永先生、保護者から報告を受けたのですが、先生は特定の保護者および児童と、個人的な付き合いをしているようですね」

 弓美は、紗智子と律の顔が一瞬で浮かび上がる。あの祭囃子が頭の中で賑やかに鳴り始めた。

「特定の保護者と児童に肩入れするのは好ましくありません。公平さが失われます。できれば今後、プライベートでは関わらない方が望ましいでしょう」

 教頭は顔色ひとつ変えずにここまで言い切った。校長はバツの悪そうな顔でただ弓美を見ていた。



 ポーン、ポーン、ポーン。

 何かのエラー音が頭の中で響く。祭囃子と混ざり合って訳がわからなくなる。


 ……そうだ、わたし、あの時も約束を破った。(まこと)と交わした「結婚しよう」っていうあの約束。

 何が「約束は好き」だ、この偽善者。

 わたしはまた、約束を破ろうとしている。しかもふたつも……。


 コバエがブンブンと、耳のそばでやかましく羽音を立てる。

 あの日カサカサと音を立てて逃げていったあの蠍座……バグ。


 ──バグは、わたしだ。

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