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二章 もたらされる毒(前編)

 夏の星座が弓張月を射落とそうとしているようだ。そう考えて由美(ゆみ)は、弓で弓を撃ち落とすなんてどんな状況? と、クスリと笑った。いや──ありえない話ではない、相手の武器を無効化することは、戦場では有効だ。ただ、それが出来る射手はかなりの凄腕に違いない。


 弓美は月極駐車場からアパートに帰る道すがら、束の間の天体ショーを楽しんでいたが、空に気を取られていたら危ないと思い、目線を前に戻した。蠍座のカサカサ乾いた足音が聞こえたような気がした。私が目を逸らしたことで、均衡状態が崩れた? 弓美は心の中でおどけた。


 駐車場からアパートまでの住宅街は、ポツポツと赤色灯が並び、車道の黄色いセンターラインとまるでリンクコーデのような色合いだ。車が二台行き交うだけでやっとのその道の脇には側溝が並んでおり、コンクリート蓋の上を弓美はガタガタと小さな音を立てて歩いてゆく。


 時々、コンクリートが砕けているので足を取られそうになる。用水路から洗剤と苔の混ざった匂いがした。

 弓美は、スーパーの溝でカートの車輪を挟まれ、立ち往生していた紗智子を思い出す。あの日から「教師と保護者」の範囲以上では、話をしていない。


 六月も終わりに近づくと、湿気を含んだ暑さだ。歩いていると服の中にサウナのような熱気がこもる。最近は夜になってから帰るのが当たり前のようになっている。こんな時間になっていては、日課である「整体マッサージ」の看板をいつもと同じ時間に撮ることが出来るだろうか、と思う。



 以前は、この趣味を活かしてPTAだよりに載せる写真を撮っていたが、それもなくなってしまった。学校貸与のカメラで「デジカメで」写真を撮る体験は貴重だったから。 

 弓美は自分の趣味ではアナログフィルムを使っていた。被写体によって、カラーフィルムを使うか、モノクロフィルムを使うか、あるいは気分でそれを決めていた。


 今日は、部屋のバルコニーから、星空を撮ってみようかと思う。わたしの名前を狙う半人半馬に対する「撮影」という反撃。でも、わたしとあなた、どこか少し似てるかもね……弓美は吹き出しそうになるのを堪えて、家路につく足を早めた。




 PTA活動が始まる。夏休み前のバザー準備のためだ。学校の会議室には保護者が集まっていた。両親あるいはその他の保護者、誰でもいいはずだが、そこにはほぼ女性の姿しかなかった。

 長机がコの字型に並べられたこの部屋には扇風機が何台か、首を降って風を運んでいたが、生ぬるい空気を攪拌しているだけだった。タオルハンカチで汗を拭ったり、手や扇子で煽いで少しでも涼を取ろうとする保護者の姿が並ぶ。

 白い光が部屋の色彩を一段階上げる。弓美は暗室で写真をモノクロ現像する時を思い出す。今日の景色は照射時間を短くした時のようなコントラストだと。もう夏だ。


「すみません、クーラーもついていないような部屋に……」

 弓美はカーテンがひるがえる窓際に歩き、これ以上窓を開けられるか確認した。目一杯開いているようだ。

 数名が「こんにちはー」と笑顔で手を振りながら声を上げた。弓美も会釈をしながら、笑顔で挨拶を返し、議長席へと着いた。

 入室から今まで、あちこちから視線が弓美に注がれる。人懐っこい笑顔や、面倒くさそうなため息、警戒してキョロキョロする顔、それぞれの感情が蝉の声に溶けてゆく。


 誰かがガサゴソと音を立てて、保冷バッグから水筒を取り出す。キュッと音を立ててキャップを外すと、ささやかな冷気がのぼり羨望の眼差しが集まる。弓美は冷たい飲み物を持ってくるように、あらかじめ勧めておけばよかったかな、と思う。年々確実に気温が上がってきているような気がした。汗が一筋、弓美の頬を伝うが、イヤにぬるくて、もうこの部屋の熱気に馴染んだかのようだった。


 会議といっても、弓美がバザーの日程や出品可能品目などを説明するだけだった。一通りその説明を終えると、今度は、出品物の仕分けや売り場担当の係決めをすることになった。

 保護者たちの動きが一瞬止まったかのように思える。すると、今度は張り詰めたような空気が流れ始めた。誰もが目をキョロキョロ動かし、その役割を押し付けたい「どうか、自分ではありませんように」と、その視線が語っていた。

 弓美は下を向いて、ため息をつきそうになってしまうので堪えた。何年やってもこの雰囲気には慣れない。誰だって余計な仕事を背負いたくないと、その気持ちも分かるからだ。

 ──それなら、このバザーは誰のものだろう。 

 弓美はそれでも、子どもたちが品物を手に取り、冷たいかき氷に目を細める光景を思い出してしまう。



咲良(さくら)ちゃんママ、専業主婦やったよね。パートもしとらんで」

 どこからか声が上がる。その声で、部屋中の目が咲良ちゃんママ──児童台帳には「すみれ」と書いてあった──の方をを向く。

 彼女は、引き攣った顔で口の端を持ち上げると、小さな声で「はい」と頷いた。こうなることを予想というか、覚悟していたようだ。

 すると、紗智子(さちこ)が「はい」と手を上げた。議長席から一番遠い席、入り口に一番近い席で、すみれの横に座っていた。

「あたしも何か係やりますよ」

 そう言った顔はにっこりと笑っていた。

(おと)くんママは大変なんやない? だって、ねえ……ホラ仕事があるやろ?」

 保護者たちは、しばらく思い思いに顔を見合わせていたが、誰かが気まずそうにおずおずとこう答えた。

「大丈夫ですよー休ませてもらえます。律の体調が悪くなった時や、PTA行事の時は遠慮なく休んでって、院長も言ってくれてますし」

 紗智子は、初めて会った時と、なんら変わらない朗らかさでこう告げた。

「そう、やったんですね……へえ」

 紗智子の、対応の良い職場に対するやっかみ、自分が尻込みしたことを易々と引き受けた相手に対する、気後れ──再び様々な感情が交錯した。すると、

「点数稼ぎ……?」と、ほんの小石が池に投げ込まれた。波紋は声を押し殺したようなクスクスという笑い声を乗せ、静かに波打つ。

 弓美は、佐智子の方を見る。特に意に介したような様子はない。聞こえていなければいいが、と弓美は思う。

 そもそも、なんの点数を稼ごうというのだろうか。一体、誰に対して。弓美は波に揺られて酔いそうだ。

「えっと、それじゃあたしと、咲良ちゃんママで決定ということで……他に誰か希望者はいますか。係はおいおい決めるとして……」

 紗智子は弓美の方を見てこう尋ねた。 

「何人くらい、いたらいいですかね?」

「そうですね、このクラスからは、出品物の仕分けに各二名、売り場担当も各二名。売り場に関しては当日のシフトもありますので、拘束されっぱなしということはないので安心してください。そしてかき氷提供係も二名お願いします」

 書類を確かめながら、弓美はこう答えた。

 それから何名かは立候補が上がったが、最後は結局ジャンケンになってしまった。それでも、力を貸してもらえるならありがたかった。いや、やらせたくないことをジャンケンひとつで強要しているとも、取れるのだろうか。

 今の世の中は、教師も保護者もとにかく余裕が──ない。



 解散となった会議室内では、何組かがグループを作って雑談に興じていた。専業主婦がパートをして家計を支えるスタイルの家庭が多いこのPTAでは、この時間こそが情報交換の絶好のチャンスであり、家族やパート先以外の人間と交流できる息抜きの場でもあった。楽しそうな笑い声があちこちで上がる。あるいは、それは何か後ろめたいことを隠すためのものだろうか。細めた目が何かを探っているかのようにきょろきょろと動いているようだ。

 

 すみれは、その輪には入らず、一人黙々とテーブル上のコップをスタッキングして回収していた。

 会議中に、加賀(かが)先生が差し入れてくれた麦茶のコップだった。

 その時、弓美が感謝の視線を送ろうと加賀先生の顔を見ると、彼も同じタイミングで弓美の方を見ていたので、自然に目が合い二人は会釈した。そうすると加賀はフッと天井に視線を移し小走りで職員室に戻った。



 弓美は、まだすみれが回収していないコップを積み上げると、加賀先生が置いていったトレーに乗せ、すみれの方へ歩み寄る。

「すみません、片付けていただいて。助かりました」

すみれは小さく体を跳ね上がらせたあと、ゆっくりと弓美の方へ顔を向ける。すみれはぎこちなく口角を上げると、目を伏せつつもこう尋ねた。

「……バザーってなんのためにあるんですか?」

 弓美は、それが全て言葉通りの質問ではないだろうな、と思いながらもこう答える。

「表向きは、リユースの推奨と環境教育の一環です。資源っていうのは有限なものだと、自然に学習してもらうことが目的なんですよ。でも……実際は、金銭的に生活が苦しいご家庭への支援の側面もあるんですね。服にしろ上履きにしろ、サイズアウトが盛んな年頃ですから、その度に買い換えるのは……ね」

「へえ、そうやったんですね」

案の定というか、すみれは温度のない声で淡々と答えた。

「バザー品には出品履歴カードの提出が義務付けられていますので、透明性を安心して購入してもらえる、というのも学校でのバザーの意義です」 

 そう言うと弓美は、この場合の「安心」って一体なんなんだろう? と、ふと疑問に思った。同じ学校の人間同士で回している間は安全だという大前提、その過信はどこから来るのだろう。


 弓美が考え込んでいると、口をギュッと結んでいたかと思ったすみれが、ゆっくりと唇を持ち上げこう続ける。

「わたし……専業主婦やからって、暇やないんですよ。お兄ちゃんは本当に手間がかかるからほっとけんし。咲良はほんとうに手伝ってくれん。イラストっていうんですか? 絵ばっか描きよるんですよあの子」

 すみれの口調にはどこへ向けたらよいのか分からない苛立ちが滲んでいるようだ。弓美は、「パートもしてない専業主婦だから」と真っ先に名指しされた彼女のことを思い出す。……やっぱりそうだよな、あんなの押し付けられたのも同然だ、と眉間をひそめるとこう続ける。しかしだからといって……。


「小学二年生である咲良さんのお手伝いを、過剰にあてにするのはよくありせん」という言葉を飲み込む。正論も時には得策ではない。弓美はそのこともよく知っていた。


「……はい、そんななか手伝っていただけることは、本当に感謝しきれません。自治体もね……学校に対して『目標』を示すだけで、人手も予算もちっとも寄越さんのですよ。現場に丸投げ、その皺寄せを保護者の方に、」

「先生は行政に文句が言える権利があっていいですね。()()()()()()()()()()は『税金も払っとらんのに、文句だけはいっちょまえに言うな』っち、言われるんですよ」

 弓美の語尾に被せるように、すみれの言葉は小石を乱暴に池へ投げ込んだようだった。飛沫が上がると、水が丸く跳ねて、今度はわんわんと円状に速く鋭く波が立ち、弓美の心をぐわぐわと勢いよく揺らした。

 そのすみれの顔は弓美を睨みつけているようで、目にはいっぱい涙を溜め込んでいるようにも見える。


 ──児童が見せる、駄々っ子の目と一緒だ。

 弓美は、またひとつ「見落としていたこと」を思い知る。十五年以上教師を続けていたのに、初めて知った視点。

 なんて……情けない。弓美は唇を噛み締めそうになるのを必死で我慢する。

「すみれさん……」

 気がついたら、弓美はすみれの目をまっすぐ見て彼女の名前を呼んでいた。

 しかし、あとの言葉が続かない。口を開けたまま、何度か喉の奥から息を吐き出した。

「わたしの名前、知っとったんですか?」

 すみれがみるみる目を見開き、小さくわなわな震えていると、鼻が赤くなったと同時に、はらりと雫が落ちた。

 ハッとして、すみれは涙を拭うと、小さな声で「それじゃあ……」と呟き、まだおしゃべりに興じていたグループの間を縫って、走り去ってしまった。


 弓美は、すみれが走り去って行った方角を見つめながら、歯痒い思いで拳を軽く握りしめた。

 ──偽善者……弓美は心の中でこう繰り返すが、そう結論づけたほうが「自分が楽になるからだ」と分かるのもまた──嫌だった。



 


 とある放課後、弓美は大石(おおいし)校長先生に呼び出された。「徳永先生、パソコン部やったですよね」と、話を切り出された。ICT教育というものが導入されるらしい。タブレットという端末が登場してから、あっという間に普及したのも記憶に新しい。

 その板型の端末に、児童用に制限をかけたインターネット機能、教科書などを掲載したアプリを使えるようにして、行く行くは一人一台を目指して導入してゆくそうだ。

 例えば、動物の鳴き声を鳴らすなど、紙のテキストでは出来ないことが出来るようになる。弓美はそれは子どもの好奇心をくすぐる良い方法だと、考えた。


 校長室には弓美より十ほど年上の大石敏子(おおいしとしこ)校長が座っていた。パンツスーツでいることが多いが、時々ジャージも着ている。休み時間には児童たちのドッジボールに加わって生の声を聞いていた。校長先生も激務なのに、弓美は頭が下がる思いだった。気力と体力がなければ出来ることではない。


 大石校長は独身であり「子供がおらんけできることよ」と、朗らかな笑顔で時々弓美にこぼすが、弓美はその言葉に密かな連帯感を感じていた。実際に弓美以外にはそのようなことを言わないので、校長なりに想いを託しているのだろう。時々……それが重荷に感じることもあるが、弓美は彼女のことが嫌いではなかった。


 彼女は子どものことが好き、というよりは子どもは未来そのものだと考えているようだ。

 子どもを導き学ばせることが、教員としての責務だということを、誰よりも引き受けている印象を受ける。使命感に燃えた人なのだ。


「それでね、ICT支援員っていう外部の職員が配置されることになったとですよ。パソコンのエキスパートの人。だから徳永先生にはその支援員と組んで『ICT担当係』を引き受けて欲しいんですけど、すんません。忙しいやろうに……」

 ひと通り弓美に説明をすると、大石校長は申し訳なさそうに本題を切り出す。胸の前で組んだ手から彼女の緊張が伝わった。

「構いませんよ。えーっと、忙しいことは確かですから、そう熱心にできるかは分かりませんけど……」

 弓美は予防線を引きながらも、本当に構わなかった。正直なことを言うと、プログラムの通りに動いて読みやすい、コンピューターの方が気楽なことがあるので。弓美はメカをいじることが好きだった。


 今日は淡いピンク色のパンツスーツを纏った大石校長。「いろんな色の洋服で試した結果、ピンク色がやはり子どもに安心感を与えるらしい」と、彼女なりの気づきを聞いたことがある。


「あー、よかった、ありがとうねー。出来るだけ負担のないようにしたいと思っちょるけど……夏休み入ったらそれの研修あるけん、あとでプリントしてスケジュール持っていくから」

 ホッとした表情を浮かべ、眉を下げながら校長はこう答えた。弓美が頷くと校長は「くれぐれも無理はせんでね」と続け、今度はハッとした顔になる。

「無理はせんでねもなんも、もうすでに……先生方には無理させとおやんね。前からずっと」

 大石校長は伏せ目で呟くと、はあと大きく息を吐いた。弓美は苦笑いと愛想笑いが混ざったような表情を浮かべながらも、否定はできない、そう思った。

「はあ、時代のスピードが早すぎるんよね。教育現場では色々な変化があったとはいえ……子どもたちに、これから生きるためのスキルを教える必要があるのは、分かっとる。情報化社会の進み方も、凄まじいやろ? ただ、教える大人がついていけんって、切ないんよね……これが本当に子どもたちのためなんかも、分からんとよ」

 校長先生の言葉に頷きながらも弓美は、導入しては見直しで消えていった政策や教育を思い起こす。

『ゆとり教育』は本当の意味でこどもたちに〝ゆとり〟を与えたのだろうか。

 

 弓美はふと、大石校長の後ろがオレンジ色に染まるのを見届ける。校長もほぼ同時に、

「ああ、ごめん。もうこんな時間やんね。戻ってください。プリント届けますから、先生がおらんやったら机に置いとくね」

 目線を弓美の顔に合わせ、こう言った。


 校長の笑顔には、隠しきれない疲れが滲んでいたが、このオレンジ色の西陽も、いまカメラを構えたら六角形のレンズフレアになって校長のことを飾りつけるだろうと思った。

 弓美は、もうそれを邪魔だとは思わなくなったが、それが良いことかもまだ分からない。弓美は微笑みを返すと、挨拶をして校長室から出ていった。


 弓美は職員室で校長からのプリントを受け取ったあと、今日は早めに帰ろうか、と思う。

 一日の空がオレンジ色でいる時間は非常に少ない。今日はなぜかその斜陽の中を歩いてみたくなった。ヒグラシがカナカナと鳴くグラウンドを、空が燃えるうちに歩いてみようと思った。

 

 弓美は仕事と荷物を纏めると、足早に昇降口へと向かう。どこかの家から夕餉の気配が漂う。お味噌汁の香りに包まれて、弓美はなぜだか泣きたくなった。




 金曜日の夕方は寂しさといそいそとした感情が混ざり合う街並みだ。もうすっかり豆電球の灯りは落とされ、モノクロテレビが映し出すような薄灰色の空には、紫のフィルムを重ねたようにほんのりと色づく。


 弓美の愛車はその街並みを時速四〇キロで横切る。

 時速と言いながら一〇分もかからずにスーパーへ到着したので、残りの五〇分はどこへ行ったんだろうと、敢えてとぼけると弓美はフフッと笑った。


 ディスカウントストアとも呼ばれる郊外型のこのスーパー。

 弓美が務める小学校の校庭くらいはあろうかという広い駐車場は、いくつもの車を招き入れていた。大きさも色もバラバラなその中に、偶然同じ車が二台連なって停まっているのを見ると、弓美はポーカーのワンペアを揃えた時のような、ささやかな楽しさがあった。

 今日は何か良いことがありそうだ。


 そんなことを考えながら、カートにカゴをセッティングすると、冷気に乗って夏の果実の甘い香りが弓美の鼻を掠めた。アメリカンチェリーの深い赤や、パイナップルの黄色など目にも鮮やかな売り場を横切ると、見慣れた顔があった。

 以前、ここでも会ったことのある紗智子の姿が見えた。

 弓美は「しまった、いつも遅いから保護者にも会わんかったけど、今日は早く帰ったんやった」と、咄嗟に通路を変えて鉢合わせないようにする。

 しかし、それより早く紗智子も弓美に気づき、

「先生! 今帰りですか?」

 と、いつもの明るい声をかけた。

 弓美はギクシャクと進路を戻し、それに答えるように紗智子の元に歩み寄った。


「お疲れ様です、村上さんも今帰りですか?」

「はい、今日は患者さんの予約もわりと少なくて……律の好きなもん作っちゃろうと思って、張り切って買い物に!」

 紗智子はこう答えると、また朗らかに笑った。

「今、律くんは……?」

 弓美はこう尋ねた後に、少し踏み込み過ぎたかな、とヒヤリとした。

「母子支援の学習室にいると……思いますけど、最近は部屋に戻って友達とオンラインでゲームもしてるからなあ」

 紗智子は、気分を害した様子もなくまた笑った。

 弓美は微笑みを返しながらも、一体どれくらい会話を弾ませればいいのか考えあぐねていた。


すると、

「紗智子さん! 紗智子さんやないね」

 男性の声が、青果コーナーとは反対側から、紗智子を呼び止める。

 その男性はいくつかの房が白く染まった髪で、半袖のワイシャツとグレーのスラックスを着ていた。

「おや、その方は? 姉妹いたっけね?」

「あ、こちらは息子の担任の先生で、今バッタリ会ったんですよ。徳永先生、こちらはえっと、上司……です」

 男性がぐんぐんと近づいて来たので、紗智子は少し焦ってこう答えた。朗らかな笑顔は急に愛想笑いに変わったようだ。弓美は「それじゃあ」と、その場を去ろうかと思ったが、目を伏せて無理に笑顔を浮かべるその顔は「帰らないで」と、告げているようだった。


「ああ、先生やったんですか」

 上司は弓美に一瞥だけくれると、すぐにまた紗智子の方に向き直りニヤニヤとした笑顔を浮かべてこう続けた。

「刺身、なんかいいのないかなってスーパーに寄ってみたら、紗智子さんに会えたから運が良かったわ」

 グハハと下品な笑い声を上げると、彼はさらにこう続ける。

「母ちゃんがね、あ、ワタクシの奥さんのことね。気がきかんけん刺身もなかなか買ってくれんのよ。もう、子どもが好きなもん中心になるんよ、食卓が。気のきかんよねえ、紗智子さんと違ってね、グハハ。だから自分で買いに来たと。でも、あんま品揃え良くないね、ショッピングセンターの方も行ってみたらいいんやろか」

 一方的に捲し立てる上司の言葉に、紗智子は困ったような笑顔を浮かべながら相槌を打つ。


 この人は、なんで紗智子さんが困ってることに気が付かんのやろうか、今日は律くんの好きなもの作るって言っとった。──この話はいつまで続くんだろう。時間が削られると、その分料理にかけられる時間は少なくなってしまうというのに。

 だいたい、子どもの好きなものを食卓に並べて何が悪いのだろうか……。


 弓美がぐるぐる考えていると、上司の男は弓美にいきなり話を振った。

「いやあ、先生。紗智子さんに誰かいい人紹介してやらんね? 経産婦なことを除けば、気のきく完璧ないい女なんやけどね、貰い手がおらん方がおかしい、」

「謝ってください」

 男の口はまだまだ回りそうだったが、弓美はわなわな体を震わせながら、思わずこう呟いていた。低く、小さな声だが、怒りを最大限に抑えていた。

 紗智子は泣きそうな顔で笑っていたが、今は凍りついている。

「だってそうやろうもん! なんがおかしい?」

 男は、声を荒げる。何を指摘されたか全くもってわかっていないようだった。

「経産婦だけならただの事実ですが、侮辱的な、いや差別的なニュアンスで言っているのが問題なんです、本当にわからないんですか?」

 弓美は男の方に、ずいと一歩近づくと、追い討ちをかける。

「本当に分からないんですか?」

 低く平坦な声、怒りに肩を震わせ、目を尖らせて弓美は男を睨みつける。


 男は、舌打ちをすると、何かブツブツと呟きながら、踵を返して鮮魚コーナーの方へと戻って行った。

 弓美が何も言わずにいまだに震えていると、

「弓美さん、大丈夫? ありがとう庇ってくれて」

 紗智子が、心配そうな声で弓美に声をかけて、その肩にそっと手を置こうとする。

「ああ……! ごめん紗智子さん、余計なこと言った。紗智子さんが職場で居心地悪くなったらどうしよう」

 弓美が両手で顔を包み、紗智子に背を向けると、その背中を丸めてしまった。すると、紗智子の笑い声が聞こえた。

 初めて会った時、大きな口を開けて笑っていた彼女の顔を思い出す。

「大丈夫なんよ、上司っていっても、前の職場の院長やけ。今の院長はあの人のことやんわり出禁にしとると。アタシにセクハラしとったけんね」


 ゆっくりと振り向くと、弓美は紗智子の方を向いた。彼女は何かを諦めたように笑っていた。

 その様子を見た弓美は、ゆっくりと声をかけた。

「怖かったね。無理に笑わんでいいんよ。笑い話になんかにせんでいい。あの人のこと、ちゃんと怖がっていいんよ」

 紗智子はハッと弾かれたような顔をすると、下を向いてしまった。

 しばらく黙ったあと、紗智子はおずおずと言葉を絞り出す。

「そっか、あたし。あの人のこと、嫌ってよかったんやね……恩があっても? 律のことで融通きかせてもらった相手でも?」

 弓美は強く頷くと、

「それと、これとは別問題やから」

 はっきりとこう言い切った。


 紗智子が口を手で覆うと、涙がハラハラとこぼれ落ちた。


 弓美は彼女の進路を確保しながら、二人分のカートを片付けて、店の外へ出た。

 紗智子を自分の車の助手席に乗せると、彼女が泣き止むまで待った。


 紗智子の啜り泣く声もだんだんと小さくなってゆき、シンとした空気が流れる頃、

「ごめん、律くんのご飯作る時間、だいぶ奪っちゃったね……」

 弓美は申し訳なく思い、こう切り出した。

「じゃあ、先生……責任とって。あたしと律を金曜夜市に連れて行ってよ。律ね、お祭りの雰囲気が大好きなんよ」

 紗智子は涙で腫らした目で、悪戯っぽく笑った。


 毎週第三金曜日の夜は、商店街で「金曜夜市」という地域密着型のお祭りが開催された。商店街の飲食店がちょっとした出店を出したり、水風船や、スーパーボール掬いなどもあった。


 ──自分の受け持ちの児童の保護者と仲良くなることは好ましくない──

 弓美の頭にこの言葉がリフレインする。


 夏の星座の射手座。ケンタウロス族だと言われている彼は、毒に苦しんだ結果、自ら命を絶ってほしいと望んだ。

 わたしとちょっと似ているかも、と笑った彼。わたしにも毒が回って来たのだろうかと、弓美は考える。

 甘美な毒なんてありはしない。教師としてそれは絶対に譲れない主張だ。


 しかし、なんだか今日は毒に冒されたい気分だ。なぜか知らないけれど、弓美はそう思った。

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