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一章 矢先の行方

 弓張月の綺麗な夜に生まれたから、名前は「弓美(ゆみ)

 少し安直に思われるかもしれないが、弓美は自分の名前が嫌いではなかった。弓は戦いの道具だから。

 しかし、美しい武器とはなんだろう……弓美はいつも考えていた。



 弓美は自分が務める小学校の窓から霞のように白い月を見上げる。青い昼の空は、この土地から見るとそんなに青くはない。工業地帯による煙のためだ、と弓美が小学生の時、学校の先生から聞いたことがある。しかし、ビルがないので空は広いことが皮肉に思えた。窓の外にはグラウンドが広がり、ビビッドな色で塗装されたトラックの大きなタイヤがその半身を埋めている。

 校門の向こうには二階建ての民家が広がり、大きな庭を持つ瓦づくりの家もまだ見られた。最近の主流である箱型の新しい民家もポツポツとそれに混ざり、歯科やコンビニ、町工場などが背丈を揃えたように風景と馴染む。

 ざらざらとした手触りを感じるような白い外壁、その横では犬用の小屋に、柴犬がキリリとした顔を出していた。隣から透かしブロック越しに覗く子どものように、ベージュのプレハブがその犬を興味深そうに見ている。


 

 弓美は、一度だけ行ったことのある東京旅行を思い出す。

 そこではレターラックを何倍も、何万倍も……大きくしたようなビルが並び、空を隠してしまっていた。灰色のアスファルトとコンクリートでデコレーションされた街並み、そこには微かに街路樹の緑が鼻を掠める。弓美がイメージした東京は、カラフルな看板が並んでいたが、しかし、オフィス街や表参道などの落ち着いた街には、意外と色が少なかった。

 一方で、皇居周辺のような開けた場所に出ると頭上の青は、琥珀糖のように透明なゼリーのように鮮やかだった。

 弓美が「東京観光」で一番覚えているのは、その青さかもしれない。


 弓美の住む街にも、新しい風は吹きはじめていた。何年か前のニュースは改札から切符が消えたことを告げた。正確には、ICチップで管理されたカードが切符の代わりを果たすという。カードの中にお金を「チャージ」して、改札機の所定の場所にタッチすれば、それでスッと改札を通過できるらしい。そのうち、カード一枚で全ての公共機関にアクセス出来るようになるとか、なんとか……。

 どちらにせよ、通勤もプライベートも、車移動ばかりしている弓美にはピンとこない話だった。

 ただ、新しい風はまた、この空の煙を吹き飛ばすかもしれない。そして。東京のあの琥珀糖の空と繋がるかもしれないのだ。弓美はそんな期待をしていた。


 養護教諭の山田(やまだ)先生は、デスクで書類仕事をしていた。

 保健室の中には、ベッドが二台置いてあり、そのうち一台がカーテンで仕切られている。弓美が担任をしている二年一組のクラスの児童、伊藤咲良(いとうさくら)が横になっているからだ。

 弓美は、カーテン越しに丸椅子を置いて、そこに座らせてもらっていた。

徳永(とくなが)先生、わたしが診ていますよ。お忙しいでしょ、職員室に戻ってください」

 黒いボブヘアを少し揺らしながら、山田先生は弓美に向かって気さくにこう言った。最近、仕事が立て込んでいる弓美を気遣ってくれているのだろう。

「ありがとうございます。いや、でもさっき伊藤さんの保護者から連絡があったんで。もうすぐ学校に到着するようですので、わたしが保護者説明を……」

 弓美が身体を捻って、ベッドの側から、デスクに向き直りこう言った。

 デスクの奥には、ガラスの引き戸で区切られたラックが置かれ、湿布や包帯、ガーゼやスプレー類が収納されていた。

「そうですか……お疲れ様です」

 少し、気の毒そうに山田先生は返した。こういった場合、咲良の母が保護者としてやってくる。その、母親がなんというか……話が通じない、といえばいいのだろうか。そんな相手だったからだ。

 弓美は、両の口の端を釣り上げ、苦笑いとも「大丈夫ですよ」とも取れる笑みを浮かべた。

 丸椅子から立ち上がると少し身体をかがめ、声をひそめ弓美は咲良に話しかけた。

「伊藤さん、起きとる?」

「……うん」

カーテンの向こうから、不安そうな咲良の声がした。

「カーテン、開けていいかな?」

 弓美が続けてこう尋ねると、また「うん」とか細い声がした。弓美は三秒数えると、ゆっくりと膜のような布を引いて、きちんと見なければならない、自分の児童をあらわにした。

「お母さん、来てくれるって。今日はもうお家帰っていいからね。……ちょっと疲れちゃったんかもしれんね」

枕に埋める青白い顔。ぐったりと脱力したその児童の体は、ベッドに沈み込んでいるかのようだった。

「うん、あんね。昨日、お母さんとお兄ちゃんと映画見に行ったん。そしたら怖い映画やったけん」

 咲良はだるそうにしながらも、堰を切ったように喋り始めた。うん、と弓美は頷いて続きを促す。

「あのね、画面に血がいっぱい出るけん、気持ちが悪くなって、お母さんに『怖い、もう出たい』って言ったん。でもね『お兄ちゃんがずっと観たいって言ってた映画やから、我慢しなさい。たかがアニメやろ、怖くない』って言ったん」

 弓美は話を聞きながら、眉をひそめそうになるのを堪える。

「家に帰ったら、吐き気がしたけん、トイレで吐こうとしたん。でも、お母さんが『あんた、トイレで吐き始めたら長いんやけ、お兄ちゃんがトイレ使えんくなるやろ』って。ポリ袋に吐けって言われたけど、ポリ袋には吐けんの。なんでかは分からんけど……だからずっと我慢してたら、教室で……ごめんね先生、みんなに迷惑かけて」

 弓美はゆっくりと、咲良に目線を合わせて頭を振った。咲良はまだ、顔色が悪い。


「先生〜スミマセーン。咲良が迷惑かけちゃってえ」

 ノックと同時に、保健室の引き戸が開いた。けたたましい声と共に、廊下の空気が保健室に流れ込んでくる。五月も終わるというのにひんやりとした空気だ。

 咲良の母は、ツカツカと咲良が横になっているベッドに歩み寄ると、

「今日、お兄ちゃんが部活遅くなるけん、お母さん、お兄ちゃん迎えに行くって言ったやろ、手間かけさせんでー」

 何が可笑しかったのか、弓美には分からなかったが、その女性はケラケラ笑いながらこう言った。

「お母さん、昨日の映画で咲良さんは気持ちが悪くなったことを、お気づきになりましたか? その時、可能なら咲良さんを映画から遠ざけてあげて欲しいのですが」

 弓美は、咲良の母の隣に立ち、あんまり感情的になりすぎないように抑えながら、淡々と言った。

「はあ? だって、もうチケット代払っとるやろ? それに、お兄ちゃんを映画館で一人にしろっていうんですか?」

 母親はつらつらと、言い訳を並べたが、その中に咲良の話は一切出てこなかった。弓美はこう続ける。

「お兄さんは、確か、中学一年生でしたよね。お兄さんは一人で映画を観られるのではないですか?」

「先生、あのね。先生は子どもがおらんから分からんのかもしれんけど、今は中学一年生でも安心して一人にできる治安やないとよ」

 ハーッとわざとらしいため息を吐きながら、咲良の母は下を向く。

 山田先生が書類を書く手を一瞬止めたような気がした。

 弓美は口を結んで、このことで咲良が家で母親に責められる可能性を、考慮しきれていなかったことを悔やむ。 

 すると、おずおずと下を向いていたが顔が、前を見る。

「いや、でもね。先生も……ねえ、その色々ご事情が……ね? それなら仕方ないかもしれないですよねえ」

 歯切れは悪いが、弓美はこの母親が何を言いたいか、すぐに分かった。こんな態度を取られたことは初めてではなかったからだ。そして、気遣っているのは決して弓美に対してではない。ため息を飲み込み弓美は、

「いえ、お気になさらず、自分の選択です」

 こう言い切った。咲良の母は「へえー、そうだったんですかあ、すみませんデリケートなことを言ったかと思ったあ」と、ニヤニヤ笑みを浮かべた。罪悪感から逃れられた安心と、少しの──いや、はっきりとした優越感がないまぜになった不気味な笑顔に、弓美は思えた。

 目を伏せたくなるのを、堪えて弓美は、

「お気になさらず」

と、答えたが、もう充分デリケートなことを切り裂いたんだよ──。弓美はそう思った。


「せんせえ……」

 咲良がまた不安そうな声を出す。弓美は咲良の方に体を向けると、

「大丈夫? 起き上がれるかな? 気分がまだ悪かったら、お母さんに待ってもらおうか」

こう声をかけた、しかしその声をかき消すように、

「あの、先生? 話聞いてました? 今日はお兄ちゃんを迎えに行かなきゃなんで、時間ないんですよ。ホラ咲良、帰るよ」

 咲良の母親が、少し苛つきながら咲良にむかって「おいでおいで」のポーズで手を振る。

 それでは、落ち着いた頃にわたしがお家まで送ります……。その言葉を弓美は飲み込んだ。全てのケースでそれが出来るわけではないからだ。自分が担任をもつこの二年間で。それでは、これは「贔屓」になってしまう。教師とは、目の前で気分が悪くなっている小さな子どもを、時に助けることも許されない。そんな、仕事なのだろうか。弓美は唇を噛み締める。

 咲良が少しふらつきながらベッドから降りると、山田先生が歩み寄りエチケット袋の黒いビニール袋を渡す。

「お守り。でも、使わんでも全然いいんやからね。ただ、これがあると思うとちょっと安心するやろ?」

 にっこりと柔やかな笑顔を浮かべる山田先生に、咲良も微笑み返す。袋を握りしめて、教諭二人にバイバイと手を振った。その動きを封じるかのように母親が手を引く。……こんなに子どもが、こんな風に大人に気を遣うなんて。弓美の心臓がごとりと音を立てた。

 手を引くというよりは引っ張っているようだ。まるでスーツケースを転がすように「どうも、お世話さま」とガタガタ片手でドアを引きながら、咲良を保健室からずり引き出した。


 『お母さん』としか呼ばんやったな、私。閉まったまま動かなくなったドアを見ながら、弓美はそう考える。教育現場ではそう珍しいことでもないが、彼女は最近、誰かに名前を読んでもらえたことはあるのだろうか、とふと考える。職員室に帰ったら、彼女の名前を児童台帳で調べてみようか、でもこれって自己満足やろうか……。考え込んでいると、鼻からフーッと息が漏れていたようで、

「徳永先生、大丈夫ですか?」

いつの間にか隣に立っていた山田先生が声をかけてくれた。

「あっ、すみません。大丈夫です」

弓美が心配そうな彼女に手を振り応えると、

「……学校の先生がしてあげられることって、限界がありますよね。わたし十五年目過ぎても、この遣る瀬なさ、まだ慣れません」

山田先生は寂しそうに笑った。弓美はそう言って自分を励ましてくれた彼女に、心から感謝し、

「そうですね」

と、小さく笑った。



 廊下から「女の子には優しくして!」という声が聞こえてくる。

 弓美は山田先生に一礼をして引き戸を開けると、

「ブース!」

 という男子児童の声と、廊下の角を曲がって走り去っててゆく女子児童が見えた。

「どうしたの!」

 弓美が廊下に飛び出して、男子児童に声をかける。自分の受け持つクラスの多田優人(ただゆうと)だった。弓美が視線を合わせようと膝を折るその瞬間に、優人は目を見開いたまま全速力で逃げてしまった。授業中でシンとした廊下にドンドンという足音が響いた。

「すみません、徳永先生。職員室にまで彼の声が聞こえてきたから、ぼくが対応に当たりました」

 保健室の隣、職員室の引き戸の前で同僚──同じ教師の加賀(かが)先生がこう言った。外国語の専科教員である彼は職員室で授業の準備をしていたのだろうか。半開きのドアの向こうでは同じように他の先生が、デスクに向かって授業準備をしていた。

「少し、話を聞きましたが。体育の授業中に気分が悪くなった児童を、保健係の彼女……先に走って行ったあの子が、保健室に付き添ったみたいです。でも、彼が強がってしまった様子ですよね」

少し、困ったような声色で加賀先生が説明した。心配そうな顔で、児童たちが走り去った教室へと続く角を見ている。

「ありがとうございました。でも……女の子だから優しくする、という指導はちょっと……」

弓美は感謝を告げながらも、言うべきことをはっきり言った。

「あっ、すみません。ぼくも小さい頃から言われてきたことだからつい、ダメですよね。まだ慣れない……今の時代はジェンダーフリーですよね」

 加賀先生は、恥ずかしそうに身振り手振りを大きくした。うんうんと頷いて自分に言い聞かせているようだ。

「わかります。わたしも新しい価値観にまだついていけんくて……でもね、加賀先生。それは、『時代のせい』じゃないんですよ」

 弓美がつい、こうこぼすと、加賀先生はハッと少し驚いたように弓美の顔を見た。

「時代が変わったからこうする、という意識では危険です。どうして変わったか、その理由の方を見ないと。ジェンダーフリーの件では、『男の子らしさ』や『女の子』らしさ、を押し付けることが人を苦しくさせてたからでしょう? なにも時代のせいではありません。我々は『処刑を娯楽として楽しんでいた十八世紀の価値観』を今では残酷だと、フラットに捉えられますよね。変わった、のではなく目が開いてきたんですよ」

加賀先生の目がゆらゆら揺れて、弓美を見ている。

「あっ、すみません。……つい語りすぎて。ディベートの時間でもないのに」

 先輩風を吹かせすぎてしまったかもしれない、と弓美は反省した。自分より少し若いこの教師に。

「いえいえ、そっかなるほど、ってハッとしましたよ」

加賀先生は少し笑って、顔の前でブンブンと手を振る。そのまま腕を組むと、

「付き添ってくれたあの子を、たぶん好きなんですよ。だから、あんな態度を取ったんでしょうね……でも、それもずいぶん古い価値観ですよね」

 眉をひそめ、彼は考え込んでしまった。

「言ってる側からなんですけど、ぼくも男やから。〝古い男〟ね。まあ、あの子の気持ちもわかってしまうんですよね、悲しいことやけど」

加賀先生は首を傾げ、申し訳なさそうに息をゆっくりと吐く。

「……ありがとうございます。わたしから彼と話してみます。あまり自分を責めんでください。その視点、助かりましたよ」

励ますように、出来るだけ明るい声でこう言うと弓美は、

「お時間取らせて申し訳ないです、対応ありがとうございました」

 丁寧に礼を言い、古賀先生を職員室の入り口へと促した。彼はひとつ頷くと、職員室へと飲み込まれる。弓美もそれに続き、自分のデスクへと向かった。今は、体育の専科教員に授業を任せているが、この時間が終わったら自分も教室へ帰らないと。デスクに着くと次の授業準備に取り掛かる。



 四次限目の児童は疲れている。空腹もあるだろうし、なにより眠そうだ。

 五月晴れの空はポカポカと教室を照らし、舞い散った細かな埃を閃かせた。正面よりやや顎が上がった顔が目立つ教室を見渡すと、やや廊下側の席に優人が座っていた。机からぶら下げた水色の体操着袋を睨みながら、じっとしている。鎧をつけて敵の攻撃に備えているかのようだ。

 『女子に手助けされてる』そうやって、からかわれたのだろうか。男子が女子に助けてもらうのは恥ずかしいこと、その価値観はいまだに根強く残っていた。そう考えると弓美は『保健室に行かなくて大丈夫? 具合はもういいの?』と、みんなの前で声をかけるのは得策ではないと考える。

「授業をはじめます」

 弓美はそう声をかけると、国語の教科書を開いた。



 村上律(むらかみおと)に教科書を音読してもらっていた。窓から入る光が届く距離で、時々つっかえながらも、情感たっぷりに物語の主人公の台詞を読み上げる。それに耳を傾けながら、優人の様子を窺う。今の所、顔色が悪かったり、落ち着かなくなったり、そんな様子はないようだ。

 弓美はゆっくり歩いて教室を回った。教室が年々広く感じる。机と机の距離も弓美が小学校にいたときより広がっている気がした。それは単純に──子どもたちの数が減っているからだろう。


 律──先日スーパーで出会った紗智子(さちこ)の息子を入学式で見かけたとき、また会うだろうという()()()()は、やっぱり良いものではなかった、と弓美は思った。

 そうでなければ、紗智子とささやかな友情を育めたかもしれない、そう思えたから。わたしが「バニラを好きなこと」を笑いもしなければ、それでいいのか? という疑問の眼差しも向けなかったから。

 しかし、自分の受け持ちの児童の保護者と仲良くなることは好ましくない。「肩入れしているのではないか」という不満を他の保護者に抱かせてしまうから。ここでも〝贔屓〟だ……。


 入学式の日に弓美は、教室にクラスみんなが集まった後の自己紹介の時間で、保護者と児童と、名簿を見ながら「村上りつさん」と律に呼びかけた。誰も手を上げずにしんとする。弓美が次の読み方を思案していると、

「先生ー『おと』でーす。おとって読みます」

 教室の後ろ、黒板の前に立っていた保護者がこう声をかけた。紗智子だった。スーパーで会った時は、Tシャツにジーンズとラフな格好だったが、今日はフォーマルスーツに身を固めていた。胸元のコサージュが息子の入学をそっとお祝いしている。

 ここで弓美は、あの時のオトくんが「自分のクラスの村上律くん」だと、繋がった。

 すると、ざわざわと声が上がりだす。児童の何人かが、不安そうに後ろを振り向くが、そんなことはお構いなしに、保護者同士で「おかしなことを見つけた」連帯感で歯止めが効かなくなっているようだった。ざわめきははっきり言葉へと変わってくる。「当て字がひどくない?」「ずっと、訂正を強要される人生、この子が可哀想」そんな言葉だった。

 ──これは、知っている、懐かしくてそして、すごく……嫌だったあの感情を思い出す。このままではいけない。弓美はそう思った。

 弓美は教室前方の明かりを落とした。そして漢字源を取り出し、窓際に置いてある教師用事務机に向かいながら、

「じゃあ、この旋律の律の字、みなさん一緒に漢字源で見てみませんか?」

 と、教室を見渡してこう言った。嫌味っぽくならないように最大限穏やかな声になるよう気をつけたが、ちゃんと出来ていただろうか。

 天井からスクリーンを下ろし、ページをめくった漢字源の『律』の項目を書画カメラで映し出す。<名付け>の部分をアップにすると、〝おと/ただし/ただす/たて/のり〟と書いてあった。保護者から「へーっ」という声が上がる。

 弓美は少しホッとし、

「他にも自分の名前に、どんな読み方があるのか気になったら言ってね。時間が足りるまでは話すけん」

と、子どもたちに呼びかけた。好奇心旺盛な児童から何人か質問が上がったので、その度に弓美は手短に、しかし丁寧に説明した。

 ふと、律の方を見ると、ニコニコと弓美の顔を見ていた。胸が痛んだ。なぜ、自分のお母さんが過剰に攻撃されたのか、この子はまだわかっていないだろうから……。


 

 

 律が、所定の部分を読み終わり、弓美に向かってにっと笑う。

「ありがとうございました、村上さん。席についてください」

 弓美は、そう言うと、やや早足で教卓に戻る。児童たちを何名か指名すると、読み上げてくれた部分をどういうふうに思ったか、質問して答えてもらった。その意見をもとに解説をしていたら、教室の時計が授業の終わりを予告していた。

「少し早いですが、今日は終わりますね」

 弓美がこう言って、教科書をまとめていると、授業が終わるチャイムが鳴った。

 児童たちが、トイレや給食の準備で慌ただしく動く流れを縫って、弓美は、優人の席にそっと歩み寄ると、

「体調、大丈夫? 給食とホームルームが終わったらお話しせん?」

 と、その席の主に小声で尋ねた。

 相変わらず、鎧で身を固めていた優人は小さく頷いた。弓美も小さく頷き返すと、ゆっくり体を転換させ、教室から出て行った。



 「来てくれてありがとね、体調は大丈夫なん?」

 放課後の誰もいない教室、優人の机とその前の机を向かい合わせて、弓美はこう尋ねた。優人は下を向いたままほんの小さく首を縦に動かした。

「そう、無理はせんでね。また具合悪くなったらちゃんと言ってね」

 優人は「怒られる」と、思っているのだろうか。ピクリとも動こうとしない。弓美は警戒させないように細心の注意を払う。

「具合悪いから、保健係の井上(いのうえ)さんに八つ当たりしちゃったん?」

 井上さんとは、先ほど、優人より先に走り去って行った女子児童だ。彼女の名前が弓美の口から出た途端に、優人の体が、ビクッと跳ねる。

 加賀先生が言っていたことは、ほぼ間違いないかもしれない。ただ、決めつけもいけない。弓美は違った角度から言わねばならぬことをまた言う。

「あのね、人のこと『ブス』とか言ったら絶対にいけんよ。相手が男子だろうが、女子だろうが、誰が相手でも」

 弓美は少し語気を荒める。すると、優人がガバッと顔を上げた。

「だって……! 珠緒(みお)ちゃんに『かわいい』って言っても、全然喜ばんのやもん! ならブスって言うしかないやん!」

 珠緒ちゃん、それは「井上さん」の下の名前だった。優人は、真っ赤な顔で涙をためて、フーフーと息を吐きながら弓美を睨んだ。

 ……児童心理としては、彼の言い分は分かった。

 ただし、今この身勝手な言い分を許すわけにはならない。この男児を、優人を甘やかすことになるから。それは他でもない優人の将来を縛ることになる。好きな女の子に「意地悪をしていい」そんな、理屈を許していては、彼は一生、女性との関係を健全に育むことが出来ないだろう。

「あんね、好きな相手は大事にせなあかんの。冷たくしたり、怒鳴ったりしたら嫌われてしまうよ。当たり前やと思わん?」

 女性がルックスのことで傷つくのは彼女たちのせいではない。長い間社会が「そう刷り込んだ」せいだ。女性は「ルックスこそが全ての価値」だと。本当はそんなことはないのに……。でも、それでも。男性からは想像が及ばないほどに、傷ついてしまう。それこそ、一生許してもらえないかもしれない。

 これを優人に伝えるためにどう噛み砕こうかと、弓美は逡巡していた。額から汗が流れる。

「じゃあ……どうしたらいいん?」

優人は弓美にこう尋ねながら、ついにポロポロと涙をこぼしてしまった。

「仲良くなるために頑張らないといかん。井上さんが好きなお話、楽しいと思うお話を一生懸命探すんよ。好きな人に優しくするのは、全然恥ずかしいことやないんよ。むしろ、それが人としての強さやん」

弓美がこう諭すと、優人はついに声を上げて泣いてしまった。机の上に、ぼたぼたと丸い雫が落ちては小さな水たまりを作る。

 弓美は彼が落ち着くまで待った。



 下を向いたままだが、机から立ち上がり優人はランドセルを背負った。

「一人で帰れる?」

 弓美は心配そうに優人に声をかける。優人はまだ赤い顔でうんと頷いた。

「そう、気をつけて帰ってね。保護者の方、呼ぼうか?」

 ブンブンと顔を振る優人。彼にとって、今は一人の時間も必要なのかもしれない。

「じゃあ、さようなら多田さん。ほんとうに気をつけて帰るんよ」

 優人は顔を上げて、弓美の方を見たが、思い詰めたような様子はなかった。弓美は彼に向かって頷くと、優人は教室の出入り口まで振り返らずに、ズンズンと歩いて行った。

 廊下に出て、優人の姿を見るとふらついたりはしていなかったので、ひとまず安心する。


 ──人に優しくすることこそが強さか……。じゃあわたしは弱い人間だ。

 弓美は心の中で、自嘲した。




 弓美にはかつて、一人だけ恋人がいた。十五年以上も前の話だが。ひどく傷つけて、別れてしまったが。

 そうするとしかなかったと、自分ではそう思っていたけれどそれでも。傷つけたことに変わりはない……。

 彼とは……(まこと)とは、高校生の時、パソコン部で知り合った。学年が違ったので、ここでしか接点はなかった。しかし、接すれば接するほど、彼に惹かれていった。亮は良くも悪くも「異性を特別視」しなかった。そしてそれは、弓美にとって居心地のいい思いだった。周りの人たちから言われる「愛想よくしろ」という言葉も、当然のように彼は決して口にしなかったから。

 

 彼は同じクラスの部活仲間に「宇宙人」と呼ばれていたが、それがどうしてなのかは、そういえば訊いてみたことはなかった。


 いつしか、亮は弓美の気持ちを受け入れるようになってくれ、弓美は有頂天だった。交際は順調に続き、お互いの就職が決まった頃、結婚の話も出るようになった。

 両親はいつも「孫が見たい」と言っていた。だから、弓美は当然、親のその胸に孫を抱いてもらう気でいた。そうすることで、親の期待に応えられる、そう信じて疑っていなかったから。


 しかし、現実は逆だった。


 結婚の話が具体的になった頃、母親が車の中で不意にこう切り出した。

 新しい生活用品を、母と一緒に買い揃えて、その帰りだった。街灯だけが町を照らしていた。いや、本当は道路沿いのお店や民家から、灯りが漏れていたのかもしれないけど、弓美には届かなかった。

「あのね、子どもは産まん方がいいんやないかねえ」

 弓美の心臓はギュッと掴まれた。さっきまで少しハイテンションで「やっと孫を抱かせてあげられるよ」と、話していたばかりだった。

「おじいちゃんも、孫より子どもの方が大事ってお母さんに言ってたんよ。だからね、お母さんも、子どもの方が大事、だから、あのね無理してほしくないんよお」

 母親の言葉を聞きながら、頭は凪いでいるのに、心臓は嫌にドクドク音が鳴った。

え? 孫を産むならお母さん頑張るよって、最近まで言っとたやん、ていうか、おじいちゃん、わたしのこと大事やなかったん? 弓美の頭にぐるぐると言葉が回る。え? お母さん、ひょっとして白雪姫の母のコンプレックスなん? わたしの幸せが、許せんと? まるで洗濯機のようにゴウンゴウンと音を立てて激しく回っていた。


 後になって弓美は思う、私が「育てにくい子。無愛想な子」だったから、その遺伝子を残すな、ということだろう、かと。

 それに気づいた時、弓美はポッキリと心が折れてしまった。親は子どもに、孫を産んでほしいと思い込んでいたから。その自分が与えられたと思っていた役割をいきなり奪われては、ふにゃりとへたり込むしかなかった。


 弓美は、亮に別れを告げた。この人に「子どもを持たない」という人生を押し付けることになると、そう思ってしまったから。しかし、話し合いを求める亮に、由美は何も告げず音信不通状態で、亮の住む町から遠く離れた。




 弓美の住むアパートには駐車場がなかった。そのため、徒歩十分程度の場所に月極駐車場を借りている。

 駐車場から家までの帰り道、そこに例の「写真趣味に目覚めた整体マッサージ」の看板があった。今日は通り過ぎるだけ。撮影の時間帯も違うし、まだ撮る時期ではない。その看板を横目に歩くと、古びた玩具屋さんが見えてきた。

 いつもこのお店には、全体的に色褪せた看板が並んでいた。しかし、その店内に新しいポスターを見つける。色鮮やかで艶やかなその紙は「スポーツカーの模型、リバイバル発売」と書いてあった。

 それは、かつて弓美の欲しかったものなので釘付けになる。


 弓美は小学生の頃、兄の影響で「レーシングカーを模した、実際に走らせられるミニチュアマシン」に興味を持った。両親は、弓美のお小遣いを「誕生日やクリスマスプレゼントの前借り」としてほとんど与えなかった。

 実際に、弓美は誕生日やクリスマスプレゼントにずっと欲しかった、少し値の貼るものをねだっていたので仕方がないのか、と思っていた。

 次、プレゼントをもらえるのはクリスマス。今は六月。弓美はクリスマスまでが長く感じた。


 ある日、おばちゃんが家に遊びに来ることになり、「好きなもん、なんでも買うちゃる」と、弓美に言った。

 弓美は素直に嬉しかった。二つ返事で、バスに乗ってお婆ちゃんとデパートへ出かけた。

 駅前の五階建のデパート。こぢんまりとしていたが、今日ばかりは大きな宝箱のように煌々と光って見えた。エスカレートに乗っている時も、冒険のように心がわくわくした。やっとの思いで、おもちゃ売り場にたどり着くと、ずらりと四角い箱の並ぶ、ミニチュアマシンのコーナーに店員さんを呼び「これください」と、ようやく手に入る、そんな緊張した思いを滲ませながらこう言った。

 店員は困った顔をすると「これ、男の子のおもちゃよ、やめとき」と弓美に言い聞かせるように、こう言った。

 弓美は頭にカッと血が上った思いだった。だが、努めて冷静を装い「これ欲しい」と、それだけを言った。

 こんどはおばあちゃんが「本当にこれでいいん? ぬいぐるみでいいやろ。いつもそれ買うとるやん」と、店員さんを援護するように言った。「うん、その方がいいよ。ぬいぐるみかわいいやん、そうしな」店員さんは安心したように言った。それからのことはよく覚えていない。わたしは、きっとなにかのぬいぐるみを握りしめていた。

 次のクリスマス、弓美は母親にまたミニチュアカーを頼んだが「いや、あの時のあの前借りがるからあ」と、軽くあしらわれた。そういえば、弓美はそんな感じで言うほど、クリスマスや誕生日にプレゼントをもらったことがなかったことを思い出した。




 新しい貼り紙なんて、弓美はいつもなら喜んでカメラを家に取りに帰り、そのままファインダー越しの景色を切り取っただろう。しかし、今日はカメラを構える気にはとてもならなかった。

 ふと、夜風が吹くと頬が冷たく感じ、弓美は自分がさめざめと泣いていたことに気づいた。

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