序章 レンズ越しの爆発
レンズフレアが邪魔だ。ファインダー越しの風景を見ながら弓美はこう思った。
今日はマイカーでのんびりと門司港レトロまで足を伸ばした。
時代は二〇一〇年に突入してからしばらく経つ。この世には「スマートフォン」というものが誕生した。
すると、高画質な写真というものは誰にでも気軽に楽しめるものになった。弓美が写真の趣味に目覚めたのもそれがきっかけだったが、今ではアナログのカメラに手を出した。それはこだわりからではなく、単に弓美が凝り性だからだ。
強いてこだわりと呼べるならば、現像液に潜らせる瞬間——それは作品が羊水の中で産まれる瞬間だった。暗い現像室で、写真は産声を上げる。それは弓美にとって儀式のようなものだった。
赤い煉瓦造りの洋館、旧門司税関の横を弓は通り抜ける。そんな立派なアナログカメラを持ちながら、いかにも写真映えしそうなここを被写体にしないのか、と疑問に思う人もいるかもしれないが、弓美は構わなかった。
そうすると、喧騒から抜けた静かな街並みに入る。瓦づくりの日本建築と四角いビルが混在している。店舗にはシャッターが閉められているところも多く、閉店してしまったのだろうか、と弓美は思う。
じっと観察すると、手入れのされていない看板が見つかる。そうだった、弓美は手入れの行き届いた変わらない姿のキレイな建造物より、その影に隠れてひっそり息をする彼らの方に惹かれた。
シャッターをひとつ切る。ひと月前と同じ構図。——今回はどれくらい色褪せているだろうか。
この趣味を始めたころ、激務に追われた弓美は、帰り道、数ヶ月前にできたという整体マッサージ店の大きな看板を、吸い寄せられるように見ていた。看板は、プレハブ建築のシンプルな店の外壁、その四分の三ほどスペースを覆っているのではないか。
別にマッサージを受けようと思ったわけではなかったが、その看板に目が留まった。オレンジの縁取りに、紺色の文字が書いてある。いや、紺色……この紺色はもっと鮮やかではなかったか? 弓美は数ヶ月前のその看板の姿を思い出す。思えば、もっとツヤもあったような気がした。
雨や風にさらされて、インクは太陽光に褪色し……弓美は理屈ではいくらでも説明できた。しかし、それよりも何ヶ月もこの道を通っていたのに、こんなにこの看板の色が変わっていること、どうしてそれに気づかなかったのだろうと考えた。わたしが、見落としていることは想像以上に多いのかもしれない。そう思うと、弓美はスマートフォンをカバンから取り出し、看板に向かって構えた。カシャリと音がすると、スマホが目の前のマッサージ店を切り取る。それから、一ヶ月ごとに同じ場所で、同じように写真を撮り始めると、カメラロールに並べる。
看板は、さらにグラデーションのようにその色を落としていった。できるだけ同じ時間に撮影するようにしているが、季節によって陽の光の強さが違うのも面白かった。
夏は、まだ薄いオレンジの夕陽が空気を彩っているのに、真冬になると、もう黒いインクが夜を染めている。
わたしの趣味は「写真」ではなくて「記録」かもしれない……。
門司港の薄曇りの空が、街並みを上から押している。そんなことを考えていたら、ひと月前には見なかった看板を見つける。
弓美はカメラを構えそうになるが、慌てて下ろす。そこが、保育園だったからだ。
教師としても、大人としても……シャッターを押す手が止まる。弓美は小学校教諭だった。
弓美が勤めている小学校で、事件が起こったのだ。変質者が校内のイベントに潜り込み、児童の写真を撮ると、インターネットに流した。そのことを重く見た学校は、校内での生徒と保護者の撮影を一切禁止にした。
——警戒させてしまうだろうな……。
そう思うと弓美は、とても写真を撮影する気にはならなかった。レンズにカバーをかけると、カメラをケースにしまって、今来た道へ踵を返す。だいぶ住宅街に来てしまった。引き返さなければ。写真をどこに公表するわけではないが、やはり、誰かの生活空間を無許可で撮影することには気が引ける。
変質者のせいで……一部の悪さをする人間のために、真面目に生きている人間が割りを喰らったこと、これで何度目だろうと弓美は考えた。
変質者……奴らは本当に〝変質者〟なのだろうか。少なくともその〝姿〟をとっているのだろうか。きっと奴らは「普通の人間です」という顔で近づいてくるのかもしれない。我々は、そういった存在をモンスターかなにかと思ってはいないだろうか、きっと自分とは関係のない、どこか遠い魔境にでも住んでいる特別な存在だと——。
それでは、子どもたちを守れない。そんな思い込みを捨てなければ。弓美はそう考えると、マイカーの置いてあったコインパーキングに辿り着き、険しい顔でハンドルを握った。ゆっくりとアクセルを踏み込み加速してゆく。
門司港から片側二車線の道を通り、小倉に入ると三車線へとレーンが増える。工業地帯のこの辺りには、工場へと通勤する車で溢れかえる。しかし、それは通勤時間帯の話なので、今はそれほど混んでいない。
カーステレオからは児童たちの間で流行っているJ-POPが流れていた。今度、授業で使ってみようと弓美は考えていた。下見、ならぬ下聴きだ。
女性ボーカルのバンドで、伸びやかな歌声が弓美の心を穏やかにした。スポーツイベントに使われた応援歌のようで、歌詞も全体を通して、励ますような言葉がまっすぐ耳に届いた。
弓美は、これは授業で使っても問題ないだろうと考える。むしろ素晴らしいと思った。
レーンが一本減ると、田園風景が目立つようになってくる。車道沿いには主要飲食チェーン店が建ち並ぶが、弓美はあまり利用していなかった。受け持ちの児童や、その保護者と遭遇してしまうので。
別にそれが悪いわけではないが、お互い気まずいだろうから。このあたりは弓美が務める小学校の学区を有する市内だった。
さらに進むと、住宅街に入る。北九州のベッドタウンと呼ばれる、弓美が住む町だ。
大型ショッピングモールには確実と言っていいほどに、知った顔があるだろう、だからその横をベージュの軽自動車で通り抜けると、近所のスーパーへと向かった。ディスカウントショップとも呼ばれる、ややこぢんまりとした店舗だった。
郊外地特有の広い駐車場に車を止める。早春だというのに日差しが強い。車から降りた弓美へ刺すように襲いかかるので、思わず片目を閉じた。バタンという音が響く。その鈍い音を突き破るように、遠くから声が聞こえてくる。
「危ないて、オトはじっとしとき」
焦りを含んだような高い声、弓美は何か良くないことが起きていると直感し、その声の主を探した。
駐車場の車に隠れているかのように、親子の姿があった。母親は五、六歳くらいの男の子の手を引いていて、もう片方の手でカートを握りしめていた。
カートにはお米と、箱入りのジュースが積んである。カートの車輪が溝に嵌ってしまったらしく、立ち往生している。かといって、こんなに車の出入りが多い場所で、息子の手を離すわけにはいかず、もう堂々巡りになってしまっているようだ。
「ママ、やっぱおれ、手伝うって。カート持ち上げるくらい出来るけん」
「ダメやって、カート重いんよ? オト、まだ体小さかろう? 指とか切ったら大変やけん」
いやに強い日差しがその親子を照らす。ブロロとどこかの車のエンジンは、わざとらしい音を立てて走り去っていった。弓美は、慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか? お手伝いしますね」
そう言うと、弓美は首にかけてあった一眼レフを背中に回し、両手でカートを掴むと左右に細かく揺らし、持ち上げようとした。お米と缶ジュース・ワンカートンは流石に重く、一回では持ち上げきれなかった。すると、
「ありがと、助かります」
と、カートの主がこう言い、カートを支える腕は三本に増えた。弓美は目を合わせて頷くと、
「さんのーがーハイ!」
掛け声を上げ、一気にカートを溝から持ち上げる。溝の金網が一部破れていて、そこへうまい具合に——いや決して〝うまい〟とは言いたくないが——嵌まってしまっていたようだった。
弓美がフーっと息を吐くと、
「ありがとう、助かった命の恩人やね! なんか、ジュースとかアイスとか……なんでもいいけんお礼させて!」
カートと、子どもの手をしっかり握りながらその女性はこう言う。
「いや、大袈裟ですって」
弓美は手を振って遠慮を示した。
「大袈裟やないって、だってウチら身動き取れんやったもん! まだ三月とはいえ、こんな日差しよ。このまま熱中症で、にっちもさっちもいかんくなってたかもやん。まっ、そうなる前に荷物手放せって? いやいや、これも生きるためには必要やん!」
そう言うと、彼女は大きな口を開けて笑った。
「いえいえ、困った時はお互い様ですから」
弓美はその少し強引な言動に困惑し、さらにこう答えた。
「いいと、あたしの気が済まんけん。ほらオト、このひとに感謝して。おかげで店に戻ってソフトクリーム食べられるんよ」
彼女は繋いでいた手を少しだけ引っ張ってこう促す。
「いや、ソフトクリームどうこうじゃなくて……」
と、小さな唇を尖らせたあと、オトと呼ばれている少年は続ける。
「ママを助けてもらって、ありがとうございました」
オトくんは頭を下げた。ママがその頭に優しく手を乗せると、また手を繋ぎ直す。
「あなたは、ソフトクリームやなくても、なんでもいいから。待っててね、いま荷物、車に積むけん。そしたら、スーパーでなんか奢らせて、ちょっとしたものね」
微笑みながら、弓美の顔を見てその女性は慎重にカートを動かす。こんな重い荷物を片手で操作するなんて大変だ。
弓美は手伝おうとしたが、それは固辞された。彼女は自分の車に到着すると、オトくんとふたりで協力して荷物を車に詰め込んだ。
「腐るようなもんは買ってないから、このまま行こ……えーっと、あなたお名前は? あ、しくった。なんであたし、命の恩人の名前、今まで聞かんやったんやろ」
そう言うと、芝居がかった仕草で片手を顔に乗せ天を仰ぐ。オトくんが隣で苦笑いしている。
「弓美っていいます」
弓美が名乗ると、
「あたし……あ、またしくった。名前を聞くなら自分から名乗れやんね。あたしはサチコ、こっちは息子のオト」
サチコは微笑んでこう答えた。
三人は、スーパーのフードコートに座ってソフトクリームを食べた。スチールの一本足が生えたテーブルに、プラスチック製の赤や、緑、カラフルな椅子が並んでいる。
「ソフトクリームでよかったん?」
サチコが気を遣って、なんども弓美にこう尋ねる。
「はい、わたし本当にソフトクリーム大好きで」
嘘ではなかった。ただ、この仏頂面がそうは思わせないのだろうか、と弓美は考える。
弓美は感情表現が得意ではなかった。この時間も、実はちゃんと楽しんでいるのだが。ふいに訪れた人との交流の時間を。弓美は冷たいクリームと一緒にため息を飲み込む。
「バニラが好きなんです。よく『バニラでいいの?』って訊かれますけど、わたしはバニラこそが好きなんです」
弓美は、弓美なりの冗談を言ってみた。サチコは穏やかに目を細める。
——あれ? 滑ったかな?
そう思って、弓美が冷や汗をかきそうになると、斜向かいに座ったオトが、
「おれも、バニラが好き! 変わっとーねって言われるけど、美味しいやんね」
と、言った。
そうか、この子にとっても冗談やなかったんやね。弓美はそう考えると、
「そうやね」
と、オトに返した。
ソフトクリームを食べ終わり、弓美が人心地ついていると、
「ユミさん、それ立派なカメラやね。ユミさんはカメラマンなん?」
と、サチコが尋ねた。すると、間髪入れずに、
「あ、ごめん。個人情報やんね。言えんやったら言わんでいいよ」
と、慌てて彼女は手をブンブン振った。
「いいや、構いませんよ。でもカメラマンではないんです。趣味で写真やってます」
背中から正面に戻したカメラを持ち上げながら弓美は答えた。なんとなく、小学校教諭をやっています、とは言えなかった。
「へえー! ねえねえ、よかったらウチらも撮ってくれない?」
サチコは朗らかな笑顔でこう言う。冗談かもしれないが弓美には分からなかった。今、会ったばかりのひとに写真を撮ってもらって嬉しいものなのか。
「まあ、フィルムの無駄やんね。そっかそっか」
寂しそうに笑うと、サチコは自嘲気味にこう言った。
「いいですよ、プロのカメラマンほど上手くはないですけど。スマホ持ってます? よかったらそれで……」
弓美は、出来るだけ穏やかにこう言った。この親子、ちゃんと写真を残せているのだろうか、そんなお節介が弓美の心を掠めたから。
「ありがとう! ユミさん」
サチコは弾けるような笑顔を浮かべた。
スーパーの入り口、人の往来の邪魔にならないところまで避けると、サチコとオトのふたりは並んで弓美の方を見る。
オトがピースサインを顔の横に掲げた。その嬉しそうな顔を見ると、たまにはお節介も悪くないか、と弓美は思う。
「はい、サンで撮りますよ、イチ、ニ……」
そう声をかけながら、弓美はまたレンズフレアが邪魔だなと思う。西に傾き始めた、少し豆電球色のその暖かい光。いつも、邪魔だと思っていたそれが、なんだか今は必要に思えた。
このふたりにぴったりの「効果」に思える。弓美はその六角形の光を帯びたまま、ふたりの姿を切り取る。
スマホ画面の中で、サチコとオトの頭上から降り注ぐ、太陽の光。——レンズを通さないと見えない——をぼーっと見ながら、サチコにスマホを返す。
サチコは何度も頭を下げて、車に乗り込んでいった。オトが笑顔でブンブンと手を振る。
朗らかなひとやったな、わたしもあれだけ笑えたら「愛想よくしろ」なんて言われんかったんかな——。
弓美はオトに手をふり返しながら、こんなことを考えてしまって、自己嫌悪から頭をブンブンと振る。
太陽という爆発。
それが引き起こすレンズフレア。
弓美にとっては今まで、それが邪魔に思えて仕方がなかった。
また、彼女に会うかもしれない。弓美はそう思ったが、それは良い予感では決してなかった。このスーパーもまた、学区内にあるのだから。