ある英雄譚
漂う不気味な気配に、お月さまも顔を背けた暗い夜。正義の狩人ウェルダルフは、悪魔の目玉による監視網をかいくぐり、ついに邪悪なる大魔導士の部屋へと足を踏み入れたのでした。
薄暗い部屋の奥で、魔導士は手にしていた黒曜石の杯をそっと机に置くと、不敵な笑みを浮かべながら、ゆっくりと振り返りました。
「これは驚いた。こんな時間に客人とは」
「……それほど驚いてないように見えるがな」
「何かが起こる予感はしていたんでね。それで、見張りはどうした?」
「目を盗んだ。容易いことだ」
「なるほど。さすがは“狩人”ウェルダルフ」
「……知っていたのか」
「私を討てる者など、君をおいて他にはいない――うっ」
魔導士が机の引き出しに手を伸ばした、その瞬間でした。ウェルダルフは素早くボーガンの引き金を引きました。鋭く放たれた矢は真っすぐ飛び、魔導士の肩に深く突き刺さりました。がくりと膝をついた魔導士を見下ろし、ウェルダルフは一つ息を漏らしました。
しかし、次の瞬間、魔導士は低い声で笑い始めたのです。
「この程度で私を仕留められると思ったか? 私には再生能力があるのだよ!」
「いいや……だが、その矢には痺れ薬が塗ってある。しばらくは動けまい。あとは頭にこの雷獣の角を突き立てれば、それですべてが終わる……」
「ふっふっふっ……終わらんよ。私の命は七つあるのだからな。どれか一つでも残っていれば、私は蘇る! ふふふ、ふははははは!」
そうなのです。魔導士は自らの魂を七つに切り分け、それぞれを誰も知らない場所に隠していたのです。
しかし、ウェルダルフはふっと笑いました。
「もう潰した」
「何……?」
「お前の命は、今ここにあるただ一つだけだ」
そうです。魔の海域、断崖の神殿、不眠の森――ウェルダルフがこれまでの冒険で命を懸けて手に入れた秘宝は、すべて魔導士の魂の器だったのです。
「馬鹿な。どの場所にも見張りを置いた……。異変があればすぐにわかったはずだ」
「同じことを何度も言わせるな。器はすべてすり替えた上で破壊した」
「馬鹿な……私が……この私が死ぬというのか? 私がこの世界を導いてきたんだぞ! 誰も、国王すらも、私に逆らえぬというのに!」
「魔法で命を握ってな。お前は支配欲に溺れ、人々を苦しめている。だから俺が来た。すべてを終わらせるために……」
ウェルダルフは静かに魔導士へと歩を進めました。雷獣の角を構え、魔導士を見下ろすウェルダルフの瞳には、怒りではなく、深い哀れみが宿っていました。
ウェルダルフは深く息を吸い、鼓動を鎮めるようにそっと目を閉じました。そして再び目を開けて、腰を落とし、角を突き立てようとした――その瞬間。
「ふはははははは!」
魔導士の高笑いが室内に響きました。それはまるで、不眠の森に巣食う悪霊の哭き声のような、不吉な響きでした。
「貴様に終わらせられるかな? ウェルダルフよ」
「あがいても無駄だ」
ウェルダルフは魔導士の首を掴み、雷獣の角をゆっくりと押し当てました。
「ふふふふ……貴様、幼い娘がいるな」
その一言に、ウェルダルフの手がピタリと止まりました。
「娘が……どうした? 娘を知っているのか?」
「何を驚く? 『予感がしていた』と言っただろう? 貴様の名、その素性もすべて調べていたのだよ。この用心深さこそが、長くこの座に君臨してきた理由だよ、ぐっ」
「娘に何かしたのか! 言え! 言うんだ!」
ウェルダルフは怒りのままに、魔導士を何度も殴りつけました。その瞳は、風に揺れる水面に映るお月さまのように、揺らいでいました。
「ひひひ……あの子を私の器にしたのさ」
「器、だと……?」
「そうだ。私が死ねば魔法が発動し、あの子の意識は私のものに書き換えられる。つまり、私は死なない。死なないんだ! ふはははは! ……さあ、わかったのなら、ひざまずいて忠誠を誓え。これからは、貴様の技術はすべて私のために使うのだ。それとも……ふふ、今から慣らしておいたほうがいいかな。なあ、パパァ? ひひひ、ひはははは!」
人々の未来か、最愛の娘か。ウェルダルフに突きつけられたのは、選ぶことすら残酷な決断でした。そして、ウェルダルフは―
「お、なんだ、起きてたのか……」
「パパ! おかえりなさい!」
「ダメじゃないか。早く寝ないと具合が良くならないぞ」
「寝たって治らないもーん。アップデートしないとダメなんでしょ? 定期的にしなきゃいけないなんて、変なの。お金もかかるし」
「ああ……でもたぶん、これからは大丈夫さ」
「私はこのままでもいいからね! パパと一緒なら!」
「ああ、ずっと一緒さ……」
「ふふふ、あ、パパ。その箱ってなあに? お土産?」
「いや……パパのお仕事に関係あるものさ。さあ、もう寝なさい」
「はーい、ご本を読んでくれたらねー」
「しょうがないな……。ああ、またこの本か。今夜は他のにしたらどうだ……?」
「ううん、これがいい! だって、パパが書いてくれたお話だもん!」
「ふふっ、そうか……。じゃあ、読むよ。ウェルダルフは――」
『昨夜、ブライムマテック社の会長であり創始者のオーエン氏の頭部が、何者かによって切断・持ち去られました。警備システムはハッキングされており、犯人の行方は未だ不明です。氏の記憶データが目的であった可能性があり、氏が生存している可能性も残されていますが、警察は殺害事件として捜査を進めています。オーエン氏は人間のサイボーグ化技術における世界的権威であり、現在の年齢は三百七十六歳――』