外は雨、コーヒーの湯気
目を閉じると雨とドリッパーの上で小さく弾けるコーヒーの泡の音だけが耳に入ってくる。白髪の混ざる初老の店主は誰もいない店内を見て、今日は遅いな、と思った。
時刻は十時五十二分。十一時でモーニングが終わり、ランチタイムに切り替わる。
彼は小説家らしい。
店主は小説というものを殆ど読まないから、彼の作品のことをよく知らない。偶に明るい髪色の女性の方がやってきて相談しているのを見ると、一部で支持されているものの売れていない、という評価のようだ。
彼はいつも窓際ではなく一番奥の席に背を向けて座る。世間から顔を隠すようにして持ってきたノートパソコンを広げると、ああでもないこうでもないとぶつぶつと言いながら、キーボードを打ち込む。店内には彼の打鍵音とお代わりのコーヒーを落とす音だけが響く。
そんな空間と時間を店主は愛していた。
「あの、すみません」
初めて見る顔だった。女性客が入口のドアを開け、覗き込むようにして声を掛けた。
「お一人様ですね?」
「あ、いえ。その」
彼女は口ごもってから申し訳なさそうに「ここで働かせてくれませんか」と言った。
アルバイトやパートの募集は出していない。店主の男は彼女にそのことを伝えたが、彼女の方は「お金は要りませんから」とまで言い出す。
何か訳ありなのだろう。
しばらく様子を見るということで、簡単な仕事の手順を教えて少し働いてもらうことにした。
ただこの日、午後になっても彼は店に現れなかった。
その週末は珍しく客の多い日だった。朝から一日雨で、雨宿りをしていく人がいたからだろう。
彼女はすぐに仕事を覚え、教えなくてもあれこれと自分で工夫して、店主はただコーヒーを淹れ、ケーキを出したり、サンドイッチを作ったりするだけで良かった。洗い物も彼女が隙を見てやってくれた。
その雨は更に一週間ほど続いた。
やっと晴れ間が見えたと思ったその日の朝、ようやく彼が店に姿を現した。
疲れた様子で顔色も悪い。姿勢も背中が曲がり、店に入ってきた瞬間に倒れてしまうんじゃないかと思ったくらいだ。
彼は「ホットとクラブハウスサンド」とぼそりと告げ、決まった席へと歩いていく。いつもと違っていたのはその注文を受けたのが彼女だったことだ。
「いつものホットコーヒーとクラブハウスサンドですね。かしこまりました」
その声に驚いた彼は、照れたように「それでお願いします」と言ってから、やはり背を向けてノートパソコンを鞄から取り出した。




