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千文字小説百物騙  作者: 凪司工房
第九乃段
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晴れ舞台のグァルネリ

 ピアノやビオラ、チェロの音合わせの響きが控室まで入ってきた。誰かがドアを開けたことに気づき、月丘杏子は顔を上げる。音楽エージェントのフランクだった。金色に黒髪が混ざり、やや低い鼻は日本人の父譲りで嫌いだと言っていた。

「会場の準備はできている。あとは杏子が来るだけだ」

「ごめんなさい」

「またそれか。一体誰に対しての謝罪だ? 君は何を失敗した?」

 その美貌びぼうとヴァイオリンの技術が認められ、杏子は今これから米国の音楽界にデビューしようとしていた。

 フランクの小言が終わると「すぐ行きます」とだけ言い、彼に部屋から出てもらう。スマートフォンを今一度確認したがメッセージは入っていなかった。チケットを送ったあの人は来ない。

 杏子はヴァイオリンの名器グァルネリ・デル・ジェスを手に控室を出た。

 五千という収容人数は多くはない。それでも無名の新人にこの人数を満足させる価値は、まだ生まれていないのだ。

 音楽に身を捧げた母が常々言っていた――名前は評価ではなく単なる保険で、本当の音楽の価値は楽器の前で平等なもの――だと。

 舞台に上がり、一礼する。会場から拍手が湧いたがその中にやはりあの人はいない。

 ライトが消え、会場は静まり返る。

 杏子が音楽の道に戻って来られたのは、全てある一人の男性のお陰だった。杏子が知らない父親代わりとなり、その楽しさを、苦しさを、可能性を、教えてくれた。

 けれど杏子が渡米する直前に、彼は目の前から姿を消した。結局さよならも言えないまま、単身こっちにやってくることになった。

 杏子にだけ、スポットライトが当たる。だが彼女の腕は震えていた。弦に弓を当てれば耳障りな音が鳴ってしまう。こんな状態では弾けない。

 ――助けて。

 その心の声に応えるかのような、ピアノ音色を聴いた……気がした。

 一瞬バックのピアノを確認するが、弾いてはいない。

 けれどそこに彼がいるような気がして、杏子は呼吸を整える。

 落ち着いて、音の波を感じ、リズムに乗るようにして、弓を動かし始めた。

 皮膚にまとわりつくような音の流れ。それはグァルネリの魅力を何倍にも引き出し、会場を恍惚こうこつの海へと引き込んでゆく。哀愁あいしゅうが、徐々に柔らかな木漏れ日の空気に変わり、最後は炎が全てを消してしまう程に激しく幾重にも音が重なり、それは頂点を極めて唐突に消えた。

 父ほどの年齢のあの人と共に生きることは出来ない。それでも、音楽だけは二人を繋いでくれる。きっと、今も、どこかで。


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