晴れ舞台のグァルネリ
ピアノやビオラ、チェロの音合わせの響きが控室まで入ってきた。誰かがドアを開けたことに気づき、月丘杏子は顔を上げる。音楽エージェントのフランクだった。金色に黒髪が混ざり、やや低い鼻は日本人の父譲りで嫌いだと言っていた。
「会場の準備はできている。あとは杏子が来るだけだ」
「ごめんなさい」
「またそれか。一体誰に対しての謝罪だ? 君は何を失敗した?」
その美貌とヴァイオリンの技術が認められ、杏子は今これから米国の音楽界にデビューしようとしていた。
フランクの小言が終わると「すぐ行きます」とだけ言い、彼に部屋から出てもらう。スマートフォンを今一度確認したがメッセージは入っていなかった。チケットを送ったあの人は来ない。
杏子はヴァイオリンの名器グァルネリ・デル・ジェスを手に控室を出た。
五千という収容人数は多くはない。それでも無名の新人にこの人数を満足させる価値は、まだ生まれていないのだ。
音楽に身を捧げた母が常々言っていた――名前は評価ではなく単なる保険で、本当の音楽の価値は楽器の前で平等なもの――だと。
舞台に上がり、一礼する。会場から拍手が湧いたがその中にやはりあの人はいない。
ライトが消え、会場は静まり返る。
杏子が音楽の道に戻って来られたのは、全てある一人の男性のお陰だった。杏子が知らない父親代わりとなり、その楽しさを、苦しさを、可能性を、教えてくれた。
けれど杏子が渡米する直前に、彼は目の前から姿を消した。結局さよならも言えないまま、単身こっちにやってくることになった。
杏子にだけ、スポットライトが当たる。だが彼女の腕は震えていた。弦に弓を当てれば耳障りな音が鳴ってしまう。こんな状態では弾けない。
――助けて。
その心の声に応えるかのような、ピアノ音色を聴いた……気がした。
一瞬バックのピアノを確認するが、弾いてはいない。
けれどそこに彼がいるような気がして、杏子は呼吸を整える。
落ち着いて、音の波を感じ、リズムに乗るようにして、弓を動かし始めた。
皮膚にまとわりつくような音の流れ。それはグァルネリの魅力を何倍にも引き出し、会場を恍惚の海へと引き込んでゆく。哀愁が、徐々に柔らかな木漏れ日の空気に変わり、最後は炎が全てを消してしまう程に激しく幾重にも音が重なり、それは頂点を極めて唐突に消えた。
父ほどの年齢のあの人と共に生きることは出来ない。それでも、音楽だけは二人を繋いでくれる。きっと、今も、どこかで。




