顔
狭いアパートの部屋にだみ声の大笑いが響いた。十四インチのブラウン管の中で芸人が互いを罵り合いながらも熱弁を揮っている。それが面白いらしい。
「お替り」
シンジは父親の皿の上からメザシの残りを奪い取り、空になったご飯茶碗を母親に突き出す。母親の方は「あらまあ」という顔をしただけで何も言わない。互いに慣れたものだ。
シンジの父親は道化師という仕事をしていた。ピエロと呼ばれるやつだ。真っ白に顔を塗りたくり、おどけて見せてサーカスの芸と芸の間を繋ぐ。
「そういえばシンジ、あんたまた学校サボったんだってね。先生から電話あったよ」
「あの告げ口野郎が」
「こーら。先生のことそんな風に言わないの」
うるせ、と言ってお替りを断り、ゴムボールを手に外に出る。そんな風にでも強がらないと、父親の仕事のせいで虐められているなんて口が避けても言えない。
ある土曜日の午後のことだった。
「これ、行っといで」
そう言って母親が財布から一枚のチケットを取り出して渡してきた。映画のチケットかと思ってよく見たら、サーカスの方だ。父親が貰ってきたのだろう。
「誰が行くかよ」
そう言って遊びに出たものの、実は一度目の前でサーカスというものを見てみたい好奇心には勝てず、二つ下の妹には悪いと思いつつ、劇場へと足を伸ばした。
初めて間近で見たサーカスのテントは巨大で、入口には人が列を成していた。
シンジがどうすればいいか分からずにまごまごしていると、髭の団長が声を掛けてくれ、父親がいるという控室に通してもらえた。
「何してんだ?」
化粧台の前で筆を手にしたまま震えていた父親は、振り返り苦笑を見せる。
「よ、よう」
「何やってんだよ。団長さんがすぐ出番だからって言ってたぞ」
「情けない話なんだがいつもこうなんだ。本番を前にすると手がぶるっちまって、うまく紅が引けなくなる。笑われなかったらどうしよう。会場冷やしちまったらどうしょうって」
それはいつも家で見ている父親の脱力しきった顔とは違った。ぴんと張り詰め、緊張で唇が細かく動いている。歯がカタカタと鳴り出すのを何とかしようと水を飲むが、少しするとまたカタカタとやり始める。
これが父親の仕事なんだ。
「なっさけねえな。俺が描いてやらあ」
シンジはそう言うと、父親の手から筆を受け取り、唇を赤くする。
「ちゃんと笑われてこいよ。父ちゃん」
そう言って送り出した父親は、背を見せたまま右腕を高々と挙げ、舞台へと出ていった。