8話『愛で殺して』
トロイア王族は王子だけで50人、王女が12人いる。
トロイア王プリアモスの正妃はヘカベーという、どこの生まれなのかはっきりしない女性だがさすがにこの王妃がそんな数を産んだわけではない。ヘカベーが産んだのはそのうち30人ほどだ。十分凄いですね。プリアモス王も。
それで子供全員に愛情を注ぐ王ならいい話なのだが、「ヘクトール以外全員カス」と公言までする父親なのであるが。
嫡男ヘクトール、捨てられて最近戻ってきたパリス、軍の将であるデイポボス、アポロンから予言の力を受けたヘレノスなどが多くの王子の中でも有名所だ。他にも足が早かったりやたら美少年だったりする者もいるが、次々に名前を挙げても枚挙にいとまがないのでひとまず置いておく。
パリスは大事な話があるというのでヘクトールにまず相談をし、ヘクトールが王や王子らを宮殿に集めてパリスの審判についての話を聞くことになった。老王であるプリアモスよりも、実質的に嫡男ヘクトールは皆の纏め役になっている。
王子らも全員は集まらないが(イーデ山で牧童をしていたり、周辺都市で役人をしていたりするので)二十名ばかりやってきて、ついでにカサンドラも会議に参加していた。
「それでパリスよ、緊急に皆を集めて知らせたいこととは何だ? 申してみるがよい」
父プリアモスが尊大にそう告げてきた。どうも、体面的な問題でパリスを再び王子として召し上げたものの親子の情は薄い。なにせ占い師の忠告によるものであるが、赤子のパリスを殺せと命じたぐらいだ。
一方でパリスの方も実質的に彼を育てたのはアゲラオスという牧童の養父であり、仲が良かったのは牧童やニュンペーの幼馴染たちなので正直なところ家族の親しみが薄い。
とはいえ、自分のヘマで国ごと全滅してはさすがに心苦しく思うのだが。
「つまらんことで呼んでいたらボコボコにするぞパリス」
「オメェはうるせえよデイポボス」
偉そうに腕を組んでいる鎧姿の兄弟デイポボスにパリスは面倒そうな顔を向けて言い返した。どちらが兄か弟か、実のところお互いにわかっていない同年代の男なのだが、微妙に相性が悪い。顔立ちからすると厳しいデイポボスの方が優男風なパリスよりも年上に見える。
というのもデイポボスは全軍司令官な兄ヘクトールに憧れ、自らも軍人としての道を万進していた。日頃から鍛錬を繰り返し行い、忙しいヘクトールにも時間を割いて貰ってストイックに強くなろうとしてきたのだ。彼からすれば、役人や牧童、神託者となった兄弟は軟弱者に見えただろう。
だがその牧童育ちで気楽に生きてきたであろうパリスが飛び込みで競技会に参加し、デイポボスを負かしたのだから心象も複雑になるというものだ。
「パリスお兄様パリスお兄様。あの野郎、パリスお兄様が死んだあとヘレネーたんモエモエ~とか言って嫁にしてましたよ」
「デイポボスくん評価マイナス100ね。後で屋上に来るように。前歯全部折ってやるからよォ……!」
「今カサンドラから何吹き込まれて俺にキレたんだ!?」
カサンドラの予言が聞こえないデイポボスは突如パリスが殺気を向けてきたのに理不尽さを感じた。カサンドラはすっかりパリス贔屓である。唯一彼しか話が通じないので当然だった。
自分が死んだ後でヘレネーが放っておかれないのは、まあパリスも理解できた。だがよりにもよってデイポボスが嫁にしたというのはムカつく。特にデイポボスは散々、ヘレネーをギリシャに返せとか、女に狂って国を滅ぼすパリスまじカスとか罵ってきていたのだ。なのに自分がヘレネーモエモエになってどうするんだと。嫉妬だったのかよと。
とはいえ、未だ起こらない……そして今後起こるかどうかわからない未来のことでムカつかれても困るだろうが。
「デイポボスはどうでもいいとして、父上、それにヘク兄。報告したいことがあります。つい昨日のことですが、イーデ山にて女神アフロディーテ、アテナ、ヘラの三柱が現れ、オレに『この中で一番美しい女神は誰か、選べ』と審判を求めてきました」
「なんと!?」
「へ~……そりゃ、随分と」
驚く老王に、すぐさま状況のマズさを把握したのか顔を曇らせるヘクトール。
女神を直接目にする状況は、ありがたいというよりかなり畏れ多いのが常識である。それが三柱も、しかも争いの種になることを持ちかけてきたのだ。
凶兆である。どよめく王子たちの中でも神託者であるヘレノスは不安げな顔をしていた。
どこで神々に聞かれているかわからないのでパリスは言葉を選びながら説明を続ける。
「もちろん三女神ともいずれ劣らぬ美貌揃い……悩みましたがオレは直感的にアテナを選びました。そうするとアテナは大層に喜び、戦になっても加護を与えてくれるように約束をしてくれました」
「そうか……女神の中から美しきを選ぶというのは、想像するだけで怖いものがあるが……」
「どれを選ぼうとも危険ですぞ、父上!」
そう声を荒げたのは、身に纏った長衣からでも太った体型が見える、何か黒い長髪がしっとりしている感じの中年男だ。
男の名はアイサコス。プリアモス王の息子の中でも最も年齢の高いが、正妃ではない生まれなので嫡男ではない。夢占いをしている神託者である。
彼はパリスを睨んだ後で唾を飛ばさんばかりに父へと進言した。
「やはりパリスは国に災いをもたらす者です! 神々の怒りに触れる前に早く追放せねば!」
と、言うのもパリスが生まれたときに、いずれ国を滅ぼすという予言を受けて捨てさせたのがアイサコスであった。
自分の予言が覆されたためにパリスの存在を危惧し、忌々しく毛嫌いすらしていた。
だが新しくできた弟も大事に思っているヘクトールが二人をなだめるように言う。
「なに、兄上、父上、落ち着いてください。誰か選ぶのを拒否するとなるとそれこそパリスに罰がくだされますから、仕方がないものです。その中でアテナを選んだというのは、悪くない選択に思えます」
「ヘクトール、お前がそういうのなら……」
老王は頷いた。とりあえずややこしくなるので、パリスも世界一の美女が貰えるとかアシアの王になれるとかそういった特典の話はしなかった。
誰を選んでも何かしら問題が降りかかるならば、目に見えて利益のわかりやすいアテナが客観的にマシだろう。ヘラに恨まれるのは怖いが。
「今後どうなるかわからんが、とにかくパリスにはアテナの加護が付いていると思えば対処の仕様もあります。具体的には最前線に突っ込ませるとか怪物退治に行かせるとか」
「なるほど」
平穏に見えるトロイアだが、蛮族との小競り合いや祖父の代にはポセイドンの怪物が現れて被害に悩まされたこともある。
アテナの加護を与えられた英雄にはもってこいの敵であるが、パリスは英雄志向なんて無いので慌てて止める。
「ヘク兄!? ちょっと待てよ!?」
「いよっ未来の英雄候補!」
アテナから直接の啓示を受けたのならば、この弟に英雄としての素質があるのかもしれない。ペルセウスだってヘラクレスだってアテナから加護と支援を受けて偉業を成したのだから。
ヘクトールは調子に乗らせようと彼の背中をバシっと叩いて──硬い感触と、パリスの背中に括り付けている盾に気づいた。
「これは?」
「ああ、これはアテナからとりあえずの褒美として貰ったアイギスの盾だ。カバーは外さないでくれよな。ゴルゴンの首が付いてるから」
「うわっ!? アイギスをバシッと叩いたのかよおれ!?」
まさか国宝級の神具、伝説名高いアイギスを気軽に叩いてしまうとは。
慌ててヘクトールが手を引っ込めて離れ、心の中でアテナとゼウスに詫びた。バチでも当たるかもしれない。
「で、出任せだ! パリスなんかが女神に認められ、アイギスを渡されるなんて……! それを見せてみろ!」
デイポボスが動揺した様子でパリスに迫ってきた。ただでさえ気に食わないこの兄弟が、更に伝説の英雄みたいなイベントまでやってしまうとは信じられないし、認めたくなかった。
近寄って盾を手に取ろうとするデイポボスを慌ててヘレノスが羽交い締めにする。小柄な弟なので殆ど背中に張り付くようだったが。
「落ち着いてくださいデイポボス兄上! まずそんな嘘ついたら不敬で神々に罰を与えられますからパリス兄様は嘘をつきませんよ! それに、本当だったとしてアテナの加護を疑い、パリス兄様個人に送られた神の宝を奪い取ったら間違いなく罰せられます! 下手したら兄弟一同連座で!」
「うっ!」
確かにアテナからすれば現状でパリスが大のお気に入り。そこを不埒な兄弟がイチャモンを付けてきたとなれば、怒りを露わにすることは想像に難くない。
だがそれはそれとして父プリアモスは畏れを持ってアイギスの盾へと視線を向ける。一度は捨てた息子が英雄の気質を持っていたことは嬉しくもあり、怖くもあった。大抵物語では英雄を幼少期に捨てた親は逆襲されてしまう。それに、プリアモスは昔ヘラクレスに襲われて一族が全滅させられたので、パリスが同じくアテナの加護を得ているというのがなんとも言えない感情だった。
「ちょっと見せてくれんかのう。すぐに返すが、儂からも女神アテナにこの国を守ってくださるように祈りを捧げたい」
そう頼んでくるのでパリスは、アテナから常に身につけておけと言われていたが、
「まあちょっとだけなら」
と、プリアモスに渡した。盾を手にすると、神聖で神々しいオーラを感じて、身震いするほどだった。間違いなく神の盾であろう。以前にアイネイアスが持っている神の盾を見たことがあるが、それよりも格段に息を呑むような気配を感じる。
なんなら国宝にしてしまいたいぐらいだった。以前国宝として持っていた神馬はヘラクレスに持っていかれてしまったからだ。
とにかく、アテナの神殿においてから祈りでも……と思ったその時であった。
「パパッパッパッパー、アイラービュー!」
その声が会議場に響いた。全員が入り口を見ると、手に翼のような造形の小さな弓矢を持つ、紅顔の美少年がにこやかに立っている。
彼はプリアモスが手にアイギスを持っていることに頷くと、迷わずに弓を引いて番えられた黒光りする矢を放った。狙いは──パリスだ。
「危ない!!」
咄嗟に動いたのはヘクトールだった。彼は腰に帯びていた剣を抜き放ち、矢を撃ち落とす軌道でパリスの前に立って振るった。一瞬の早業だ。
しかし刹那、ヘクトールの剣に阻まれる寸前だった矢がぐにゃりと動きを変えて、すり抜けてパリスの心臓に突き刺さった。
「ぐあっっ!!」
「クッ……! パリス! 大丈夫か!?」
パリスに呼びかけるが曲者は陽気な言葉を口ずさむ。
「ハッピィ──セェッ♪」
弓使いは次に黄金に輝く矢を取り出して無造作の早撃ちを行った。次はヘクトールが庇う暇もなく、手を伸ばすしかできなかった。狙われた相手は──カサンドラだ。
カサンドラが反応する間もなく、胸を矢で打たれた彼女は人形のように倒れた。ようやく他の王子らも、狼藉者が襲撃をしてきたことに理解が追いついて色めきだち、幾人かは剣を抜き放つ。
「カサンドラ! カサンドラが! 誰か医者を!」
ヘレノスが上ずった声で悲鳴をあげ、姉を抱き起こす。いきなりの凶行を見て、母のヘカベーなどは目眩を起こし崩れ落ちそうであった。
「貴様!!」
デイポボスが怒りも露わに少年へと掴みかかるが、すいと風に戯れる羽毛のように少年は身を躱して、
「アディオース!」
そう言って手を振りながらさっと入り口から消え、デイポボスが追いかけたがどこにも見当たらなくなった。「くそっ!」と悪態をつく。
「パリス! 大丈夫かパリス!」
「う、うううぐ」
「傷口は……無い!?」
ヘクトールがパリスを介抱しようとするが、黒い矢で打たれた心臓には傷一つ付いておらず、その凶器も現場に残されていない。ただし胸に、黒いハートマークが入れ墨のように残されていた。
「な、なんかスッゲエ気分が悪い……胃がムカムカする……」
「さっきの黒い矢……まさか」
ヘクトールがカサンドラの方を振り向くと、彼女はヘレノスらに心配されつつも立ち上がっていたところだった。やはりその胸にも傷口は残されておらず、黄金の矢も消えている。
虚ろな目に光が灯ると、瞳の奥にピンク色に明滅するハートマークが僅かに浮かんでいるのが見えた。
カサンドラが苦しげなパリスの姿を認めると、「ほぅ」と息を吐いてから蕩けた表情を浮かべて呟いた。
「パリスお兄様……好き♥♥♥」
「ぎゃああああ!」
その言葉が耳に入った途端、大音量の巨人の叫びを聞いて鼓膜が脳ごと破壊されたかのようにパリスが苦しみだした。
カサンドラが周囲の手を振り払って、パリスの方へ飛びついてきた。
「好き好き好き好き♥ 愛していますわパリスお兄様♥♥ 結婚しましょう誰にも渡しませんわ私だけのパリスお兄様だーい好きです♥♥」
「ヒッヒッヒィーッ!!」
「しゅきしゅきしゅきしゅきあーもうパリスお兄様逃げないでくださいませきっと家族も神々も祝福してくれますわ♥ 二人で不義の子を作りましょう♥♥」
「オエッ! ビシャッ! おろろろろろろ!!」
「ウワーッ! パリスがゲロ吐いたー!」
「汚え!」
「カサンドラは何を言ってるんだ?」
すり寄ってくるカサンドラから高速で後ずさって離れつつ、カサンドラの告白を聞いて嫌悪感から吐瀉するパリス。
回りの兄弟や両親はカサンドラが何を言っているのかまるで理解できないので、突然カサンドラが飛びついたとしかわからない。
てっきり、お互いに無事を確かめて喜んでいるのかな?ぐらいの理解度である。声も聞こえなければ、カサンドラの行動に対する理解度も低い状態なのが呪いである。
ギリシャ世界において、近親相姦は大きな罪である。ゼウスが姉や妹を孕ませているという意見はあるが、神々のことは神々のこと。人間の倫理とは関係がない。
法的に罰せられる罪というより常識として、そのような行為はあってはならないとされているタブーであった。
狂気に冒されて父親と子作りしてしまった王女ミュラーの話では、父親はそれを知ると川に飛び込んで自殺し、娘はショックのあまりに木へと変化してしまう。
知らずに母親を后とした英雄オイディプスの話では、それを知ったときにオイディプスは己の目は盲人の如しだったと後悔して目を潰し、母親は自害した。
そういう事例があるぐらいにタブーな行為である。
だから突然妹に迫られたパリスが嫌悪感を覚えるのも仕方がないのだが──苦しみ方は過剰でもあった。
「……エロースだ!」
突然ヘクトールが叫んだ。妹攻めシチュエーションに興奮したわけではない。
「恋心の神エロースがカサンドラとパリスに呪いの矢を打ち込んだんだ! カサンドラには強烈な好意を抱かせる黄金の矢を、パリスには黄金の矢で射抜かれた相手に耐えられない嫌悪感を覚えるようになる鉛の矢を」
「そ、そうか……エロースはアフロディーテの使いでもあるから、審判で選ばれなかったアフロディーテが呪ってきたのか!」
まさにアイギスを手放す瞬間を狙っていたのだろう。あらゆる呪いを弾くアイギスならば防げたかもしれないが、もう遅い。
「パリスお兄様♥♥ 逃げないで二人でお話しましょう♥♥ 子供の名前とか♥♥」
「ぎゃああああ! た、助けてえええええ!! いやああああ!!」
パリスが顔を真っ青にして発情したカサンドラから逃げ回っている。
彼の主観からすると、カサンドラというのはもはや可愛い妹ではなくなっている。ゴルゴン姉妹の一人のような、人間として直視できない嫌悪感と恐怖の塊である。
恐怖といっても相手はまだ十歳の少女なのだろう、と思われるかもしれないが、ギリシャ世界では真に迫った恐怖は人間を発狂・即死・石化・星座化など洒落にならない症状を出す。
かつて黄金の矢で打ち抜かれたアポロンが、鉛の矢で打ち抜かれた下級女神に迫ったときは、そのニュンペーは恐怖と苦痛のあまりに月桂樹へと姿を変えてしまったほどだ。
それぐらい我慢できず、もはや死んだほうがマシだと思うようなレベルの精神ダメージを負うようになるのがエロースの神具『鉛の矢』であった。
しかしながらパリスは心底真剣にカサンドラを拒否しているのだが、回りの兄弟からするとカサンドラの言葉が理解できないこともあるし、カサンドラがゴルゴン並みに怖いという苦痛がまるで想像できないので、『妹から好かれているけど泣きながら逃げ回っているパリス』というなんとも情けない姿にしか見えず、真剣に心配されていない。
だが神話や伝説に詳しい知識を持つヘクトールとヘレノスはお互いに「まずいな」「はい」と言い合った。
エロースの弓矢は大神であるアポロンどころか、エロース自身が打たれても耐えきれないほど強烈な効果だ。人間が耐えきれるものではない。
恐怖しているパリスが限界になれば死を選ぶ可能性が高いように、恋い焦がれるカサンドラも恋が叶わないとか、パリスが先に死ぬとかした場合は心が耐えきれずに死ぬかもしれない。
ヘクトールはなにか方法は無いかと見回し、父の持っているアイギスに気づいた。それを借りて床に起き、アテナに祈りを捧げる。
「女神アテナよ! 我が弟と妹の心が、恋の狂気に冒されてしまいました。弟パリスは貴女様を最も慕う若者です。どうか二人をお救いくださいませ……!」
ヘクトールがそう祈ると、妹への恐怖でいっぱいだったパリスの頭の中に女神の声が響いてきた。
『まったく、アレほどアイギスを手放すなと言っていたのに。エロースの矢とは厄介な……よし』
アイギスの盾を持っていれば矢も防げたはずなのだが、アテナとしてもアフロディーテがこれほど早く嫌がらせをしてくるとは思わなかった。
しかしながら自分がせっかく目をかけた英雄候補が、妹から迫られた嫌悪感で死んでしまってはアフロディーテに負けたようで屈辱的だ。
そのとき、パリスの頭上に林檎ほどの大きさをした石が出現して脳天に落ちてきた。
がつんと頭部に直撃。目の前に火花が飛ぶような衝撃にパリスは「イッテェー!」と叫んだ。
そして僅かに、心を蝕む嫌悪感がマシになったのを感じる。こちらに迫ってくるカサンドラの姿が、醜悪なゴルゴンから醜悪な灰髪魔女にランクダウンした気がする。
グライアイとはゴルゴンの姉妹とも呼ばれる醜い魔女たちで、三人で一つの目玉、一つの歯しか持たない。後世の絵画で魔女三人がイーッヒッヒッヒって雰囲気で大鍋を混ぜている絵があれば、グライアイが元ネタである。
あまりの恐怖に石になることはないが、おぞましい気持ち悪さは変わらない。
「なんすかこの石!?」
パリスが頭に当たった石を手に取りアテナに尋ねた。
『それは『強い意志』という石だ。頭を殴れば多少は正気に戻れる。ヘラクレスが発狂して子供を殺したときにこれで殴って7日ぐらい気絶させたら元に戻ったが……とりあえずエロースの矢には気休めだな。対処法を考えるから暫くそれで我慢しておけ』
そうアテナからアドバイスがあり、パリスはひとまず石で自分の頭をガンガン殴る。多少吐き気がマシになるが、根本的には解決しなそうだ。
そして回りの兄弟たちは突如石で自傷行為を始めたパリスに軽く引いている。
「パリスお兄様♥♥ いざ二人でXXXX(記載不能)しましょう~♥」
「うわあああどこで覚えて来たんだー!?」
カサンドラが愛欲の女神ピロテースも恥じらうような要求をしながら抱きついてくる。周りは聞こえないのできょとんとしているが、人間性を疑われるようなシモネタである。
幼女なのだが、うっかり予言により大人の体験を理解してしまったために過激な内容も知っている耳年増なのだ。
そういうのを理解させたアイアスとアガメムノンに殺意が湧くパリスだが、同時にカサンドラにも呪いによって凄まじく嫌な感情が浮かんでしまう。
「うおおお!」
パリスはおもむろに『強い意志』でカサンドラの頭を殴った! ガツン! ガツン!
「正気に戻ってくれカサンドラ! お前のためだ! お前のためだ! くらえ! このマイナレス!(上級アバズレを意味する口汚い古代ギリシャスラング)」
一瞬でパリスはヘクトールに羽交い締めにされてデイポボスから顔面をぶん殴られた。さすがに妹に向かって発狂酒乱欲情女は正気の沙汰ではない発言だ。
「バカかお前パリスこの野郎!? なにしてるんだ!?」
「離せェー! あのキッしょいカサンドラを正気に戻すんだァー!」
「お前が正気に戻れよ!?」
周囲からすると自傷行為をしていたパリスが今度は妹を罵倒しながら石で殴りつけ始めたのである。どう見ても発狂した悪者はパリスであった。
殴られたカサンドラが頭にたんこぶを作って煙を出しつつ(多分狂気が煙状になって出ているとかそういうのだ)目を回しているというギャグで済む程度でなければ大惨事だったに違いない。
少しはマシになったとはいえ、いつカサンドラが復活して迫ってくるとも限らない。毒蛇がうじゃうじゃと住む巣穴に放り込まれたような不安感に苛まれるパリス。
一秒たりともカサンドラと同じ部屋にいたくない。
大事な妹だという認識もあるし、これまで仲良くなってきたという記憶もある。
だが本当にムリだ。人を食い殺しまくった獅子が懐いてきても可愛いとは思わず恐怖にしか感じない。そういう精神状態にある。
「とにかく、オレは一旦、対策ができるまで街を離れるからカサンドラを暴走しないように閉じ込めておいてくれ! この石を置いていくからカサンドラに持たせとくとかして!」
カサンドラから物理的に離れれば症状も良くなるはずだと、パリスは羽交い締めを振りほどいて逃げ出す。
強い意志も殴るだけではなく触れているだけでも効果はある。ヘラクレスだってアテナからあの石でぶん殴られたあとに石の山に埋められて7日目に目覚めたのだ。周囲の人は埋葬されたのかと思ってびっくりしたという。
嫌悪感というのは会わなければ薄れるが、恋心は会わないと募らせていく。なので一旦離れた際に石を持って緩和させる必要があるのはカサンドラの方だろう。そういった心遣いをするのがパリスにとってもギリギリだった。下手をすればアイギスの盾でカサンドラを石化させたい衝動に襲われるかもしれない。
細かい事情はヘクトールやヘレノスが皆に説明してくれるだろう。パリスはイーデ山に戻るため、這々の体で王宮から去っていった。
街を離れればパリスもかなり心が落ち着いてきた。
だが幾らあの嫌悪感が鉛の矢による呪いなのだと、理性で理解していてもカサンドラのことを可愛い妹だと、大事な家族だと、守るべき少女だという親愛の感情が持てなくなっていることに落胆する。
(すまんカサンドラ……! 呪いのせいなんだ……! いやまあ、呪いでなくても妹が性的に迫ってくるのはマジムリなんだが……!)
愛を失う呪いとしか言いようがない。カサンドラの目の前から離れ、狂気が薄らいでもあの正気を削られるような悍ましさは絶対に耐えられそうにない。
有毒の巨大な不快害虫がすり寄ってくるような具合に感じる。泣くほど嫌だ。こうしてやや冷静に状況を考えられるのは強い意志の効果と、以前の予言で死んだ経験により臨死の狂気を味わったからだろう。
(アテナがどうにかしてくれるまで離れないと……)
そう思ってイーデ山の家で暫く過ごそう、と決めた。カサンドラが脱獄しないように見てくれないと困るが、そこらへんはヘレノスたちが止めてくれることを祈る。
なにせカサンドラは言葉を誰にも信用されないので、言葉巧みに周囲の人間を騙して逃げ出すことはできないはずだ。どれだけカサンドラの恋心が酷いヤバさなのかも通じていないのは難点だが、彼女が信用されないのは助かる。
これからどうするべきか、オイノーネに予言で占ってもらうのも良いかもしれない。パリスはまだ水風呂に入った後のように収縮する心臓を抑えながら、馬に乗って自宅へと走った。
イーデ山の山道を進むに連れてパリスは心臓の動悸が激しくなっていくのを感じる。心筋梗塞の前兆みたく胸が痛む。
「顔が真っ青だよ?」と心配してくるニュンペーや、水を分けてくれる牧童の知り合いたちに乾いた笑顔を返しながら、どうにか進む。
(家に帰ったら寝よう。何もかも忘れてぐっすり寝て、それから今後のことを考えよう……)
ヘラクレスが七日間の眠りから目覚めて狂気が覚めたように、ギリシャ世界では眠ることでヒュプノスやオネイロスといった眠りの神が精神を癒やしてくれると考えられていた。
家に近づくに連れて足取りが重くなる。冷や汗が全身に浮かび、ちりちりと目が痛む。息が跡切れ跡切れになりながら、唾がすべて乾ききった。
(あの……玄関をくぐれば……オイノーネが出迎えてくれて……オイノーネ?)
オイノーネ。幼馴染で可愛い妻。帰ってきたら良いことしようと約束を……
(あれ!? なんだこの……感情は……?)
パリスが脳に浮かぶ大きな疑問符と共に、家に入った瞬間。
背中を向けていたオイノーネが、ぐるりと上体を反らしてこちらへ振り向いた。
「お・か・え・り~っっっ♥♥ 旦那様~ッ♥♥♥」
──ぎょろっと見開いた爛々と輝くその瞳はピンク色に輝くハートマークが浮かんでいた。
そしてパリスの全身がぞわっと怖気に竦む。髪の毛が逆立ち、生命の危機と根源的な恐怖を本能に伝える。
オイノーネも既に、エロースの黄金の矢で打ち抜かれていた──そして、パリスへの恋愛感情はマックスになり、同時にパリスの精神状態が最低最悪に低下する。
「遅いぞーっ♥♥ だーい好きなお嫁さんのお出迎えアンドイチャラブターイム♥♥♥ 旦那様好きピッピハ────グッ♥♥」
立ち上がったオイノーネがパリスに向かって両手を広げ飛びついてこようとする。
動揺で体が止まっているパリスは、徐々に近づいてくるゴルゴン姉妹レベルの邪悪な生物に、
(あの旦那様好きピッピハグを食らって抱きつかれたら、オレは間違いなく死ぬだろう)
そう確信したのであった────
『エロースは少年の姿で、アフロディーテの従者なんてやっていて可愛がられているが、あいつ私より年上だぞ。ガイアお祖母様と同期のロートルだ』────関係者Z
『大変だ! 今からパリスの生存ロールを回すから、評価ポイントとブクマ入れていい目が出るように祈っててよ! ファンブったら次で最終回ね』────賭博神H