7話『彼の選択とその代償』
神というのは人に理解しがたい超常なる存在か、或いは俗な存在か。
時代と地域によって流行り廃りというものがある。
あまりに凄まじい全知全能で宇宙そのもの、世界すべてを管理して現在過去未来を見通すような神がかつて存在していた。しかしそれは凄すぎて人間には理解が及ばないし、矛盾も多く持つ。それに何もかも神が世界を運営しているとすれば、一番偉いはずなのに忙しく働いている感じになってしまう。
そこから権能を分けたような個性的で人間的で、間違いもすれば悪事も行うような神々だと人々はキャラクターとして捉えやすく、親しみやすい。
ギリシャの神々も直接人が見るとあまりに存在が超級すぎるのであるが、ふとした瞬間に親しみやすい一面を出すときがある。
「え……? わ、私か?」
目をパチパチさせて、黄金の林檎を捧げられたアテナが困惑したように自分の顔を指差している。その左右では信じられないと言わんばかりのアフロディーテとヘラ。三女神とも相変わらず体は輝いているのだが、そこはかとなくオーラが軽減したように感じられた。ヘルメスの口笛が聞こえる。
パリスは冷や汗をどっさりと背中に掻きながらも、声を絞り出して答える。
「はい! オレはアテナ様が一番だと思ってまゲホッゴホッ! 炭酸水貰っていいっすか……」
「飲みさしだけど、どうぞ」
緊張のあまりに咳き込んだ。ヘルメスが炭酸水を渡してくれたので喉を潤す。
アテナは手に持った黄金の林檎を見ながら、明晰な頭脳で現況を把握していた。
彼女は優れた戦術思考と理性を持つ女神である。戦って暴れればそれでいいと考えている同じ戦神のアレスとは違う。戦局の有利不利や個々人の技量を把握して最善の考えを生み出す。
そんなアテナがこの『一番美しい女神』勝負で考えていたことは、実に自分は不利な状況だということだった。
なにせ相手は色欲の女神アフロディーテ。性格は悪く性根も悪く男の趣味まで最悪なのだが、美しさを技量とするなら最高の技量を持つ。
それにゼウスの后である大女神ヘラ。その美しさはアフロディーテに劣らないほどだが、人間界にまで広く知られているのは異常な嫉妬心だ。彼女がヘラクレス相手にやらかした妨害を頑張ってフォローしていたのはアテナとヘルメスなのでよく知っている。
その話を聞くものならば恐れてヘラを選ぶという可能性も少なくない。
一方で、アテナ。美しさは負けていない、と自負している。自負しているのだが、プライドを脇において理性的な判断をすれば、神々の中でも抜きん出た美女であるアテナであったとして、アフロディーテとヘラには一歩譲ってしまう。
不利だからといって勝負もせずに負けるのはアテナとしても容認し難かった。細いチャンスとして、選ぶのが英雄や武人ならばアテナを敬うだろう。そういった相手が喜びそうな特典として加護も提案した。武人系を狙い撃ちの目論見である。
とはいえ、あのゼウスが『公平に判断してくれる』と審判に決めたのがパリス王子である。最初からアテナを選ぶことが確定しているような武人ではないからこそのパリスだ。アテナのチャンスは非常に儚かった。
だというのに、アテナが選ばれた。
正々堂々、正面から戦ってアテナの美しさが他の女神に勝利した。紛れもなく、ゼウスの名において認められる公平な審判として。
嬉しい。アテナの脳内に、勝利の女神ニケの翼がバサァーっと広がり、オリーブの木がにょきにょきと成長して祝福してくれている。違った。脳内だけではなくそこら中に生えてきた。
「そ、そうかそうか! 私が一番か! そうであろう、そうであろう! 私の髪はアフロディーテよりも美しく、肌の色艶はヘラよりきめ細かい! それに美しさとは内面から表れるものだからな! 他の連中とは一線を画する、私の秘された美しさに気づき選ぶとは、偉いぞパリス!」
「ぺッ」
「ちっ」
小鼻をふくらませて喜色満面、自分を上げてパリスを褒め称えるアテナの調子に乗りまくった様子に、アフロディーテとヘラが露骨に機嫌が悪くなる。
そんな二女神の様子にパリスはアワアワとする。アテナが他の女神を下げて自慢すれば自慢するほど、自分がそれに追従したように思われる。
急激に顔色を険のある表情に染めた女神らにアテナは気づき、凄まじく優越感に満ちた笑みを見せた。
「おや? まだ居たのか。残念ながら勝利の女神ニケは私に微笑んだようだからもう帰ってもいいぞ、もっとも美しい女神じゃなかった二人とも」
「ビキィ」
「……すぞ」
「ヘルメス! 送っていってやれ。冥界でもいいぞ。ペルセポネも混ぜて残念だったねパーティでも開くといい。さあさあ、パリス。そうだな、まずは手付けにこのアイギスの盾を貸してやろう。ゴルゴンの首が勝手に発動しないように山羊革のカバーを掛けてだな……」
調子ノリノリなアテナは二柱を省みることなく、急速にお気に入りの人間と化したパリスに最強アイテムを渡すべく解説を始めるのであった。
ふつふつと殺意が湧き出ていて髪の毛がゴルゴンのようにゾワゾワ蠢いているアフロディーテとヘラを前に、ヘルメスは流石に引きつった笑顔でなだめる。
「じゃ、じゃあ帰ろっか。二人共落ち着いて、ね? 帰り道でチキン屋でも寄っていく? 美味しい店知ってるんだ。コーカサス山近くなんだけど。餌がいいのかな? プロメテウスが餌やりしてるらしいんだけど」
「許さない許さない許さない許さない」
「まさかあの小娘に負けるなんて間違いやわ目ェ腐ってんのとちゃうんあの人間……ヘルメス! ヒュドラは!?」
「もう鉄串で刺して後は焼くだけだからさ。まあまあ一旦帰ってからね、いい勝負だったと思ってるんだけど僕は。ほらアフロディーテはアレスに慰めて貰えばいいし、ヘラはゼウスにとって一番だよ! アテナは寂しい子なんだから二人共年長者としてさあ」
どうにか宥めて二人を押してオリュンポスへと連れて行くのに難儀しているのであった。
眉間にシワを寄せた表情で並んで帰るアフロディーテとヘラが、互いに視線を合わせた。この二女神は普段から仲がいいわけではない。恋多き神と貞節の神だから当然だ。しかしある一つの事象に関しては共通して楽しむことがある。
それはプライドの高いアテナをおちょくるときだ。
以前もアテナが角笛を発明し、それを吹いて見せた際にはコンビネーションで「アテナの笛吹いてるときの顔ブッサ!」「ようけ頬を膨らませてフグの物真似が得意なんやねぇ」「失礼よ。アテナがフグに似ているんじゃなくて、フグがアテナに似ているのだから!」などと散々笑いものにした。アテナはキレて笛を地上に投げ捨てた。そういう関係なのだ。
「こりゃ、ただじゃ済まないぞ。パリス、ガンバ☆」
ヘルメスはパリスに心ばかりのエールを送った。彼は伝令として、ゼウスが人間世界に大きな戦争を起こして人を減らそうとしている真意も理解している。当初の予定ではアフロディーテが選ばれるはずであったが、どうやら何かしら手違いがあったようだ。
だがまあそれもいい。ヘルメスは賭博の神でもある。振ったサイコロは毎回違う目になるからこそ楽しいのだから。
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「終わった……」
フラフラと審判の場所から家に戻ってきたパリスはぶっ倒れながらそう呟いた。
オイノーネが駆け寄り、パリスを抱き起こしながら言う。
「うわーっ!? 大丈夫? って何その盾?」
「アイギスらしい……」
「げげっ、ゼウスの至宝じゃん。っていうか貰ったの? そんなの」
神界でも有名な防具にオイノーネはビクつくように突いて確かめる。
アイギスの盾。それはゼウスを育てた山羊アマルティアの革とアダマント、オレイカルコスなどの希少金属を組み合わせて鍛冶神ヘパイストスが作り上げたギリシャ神話最高の盾である。
その硬さはゼウスの折り紙付きであり、最強の神ゼウスが放つ宇宙を切り裂く雷霆ケラウノスの一撃を受け止めるほどだから、ギリシャ世界で数多くある『不壊の盾』の中でも真に壊れず最硬の強さを誇る。(例えばアキレウスの盾やアイネイアスの盾がヘパイストス製であるものの、ゼウスの一撃を喰らえばさすがに壊れるだろう)
更に硬いだけではなく持っている間は呪いを受け付けない力と、盾に組み込まれたゴルゴンの首によって石化光線を発射する攻撃性能まである。英雄ペルセウスがアテナより借りてゴルゴン退治に使ったことで有名だ。
形状は小型の円盾であり、腕に持って使う以外にも胸や腹、肩に鎧として装着したり、背負ったりしても邪魔にならない大きさである。なお人間サイズに調整されているようで、神としての姿のアテナやゼウスが持つときは当然ながら体格に合わせて大きくなる。
「アテナがなんかあるかもしれないから常に持っておけって……」
「大丈夫? 『私を選んだ勇者ならば功績の一つでもあげねばな。アイギスを持って怪物退治に向かえ!』とか命じられてない?」
「そういうリアルなモノマネは止めてくれ。今の所は何も言われてないから……あ~緊張した怖かった~」
元々の審判を体験した記憶では、これほど恐怖は感じなかったように思うパリスである。
なにせアフロディーテを選んだときから頭の中は世界一の美女ヘレネーだけで占められ、自分はなんて幸運なのだろうとウキウキ気分だったからだ。
「調子に乗って他の女神をこき下ろしたりしなかっただろうね、キミ」
「オレはしなかったぞ! でもアテナがノリノリでこき下ろしてた……」
「うわあ……普段から鬱憤溜まってたんだろうなあアテナ」
いくら自分の美しさに自信があったとはいえ、ヘラとアフロディーテと対等の立場で並んで比較されることなどなかっただろうし、アテナも避けたい事態だったはずだ。
だがそのシチュエーションで勝利した。アテナは有頂天であった。欲しい武器があればヘパイストスに依頼しておくとまで言われたので、一応弓矢を頼んでおいた。
「疲れたぁ~オイノーネ癒やしてくれ~」
「はいはい。頑張ったね。ナデナデしてあげようではないか」
「癒やされるなあ……やっぱりああいう上級女神じゃなくてオレにはオイノーネみたいな下級女神が最高だなあ」
「褒められているのかけなされているのか」
一通りイチャイチャしてから、二人は改めて向き直った。
「それよりアフロディーテとヘラが怒ってなにかしでかさないか心配だよね」
「ヘラはヒュドラをその辺に解き放とうとしてたけど」
「止めてよね!? イーデ山ごと汚染されちゃうよ!? なんか不安だなあ。ちょっと占いやってみるから、暫く一人にして」
「了解。オレも何があったか、親父やらヘク兄に報告しないといけないしな。カサンドラの予言は伝わらないけど、実際に起きたことなら話も通じるはず」
そういうことになり、パリスは一旦トロイアの王宮に戻ろうとした。証拠の品としてアイギスも背負っていく。
彼が出かける前に、オイノーネは咳払いを一つして呼び止める。
「どうしたんだ?」
「あの……その、ね! いや大したことじゃないんだけど……ほら、破滅的な未来を覆すためのイベントを一つ回避したわけだろ? キミ」
「まあな。これからどうなるかわからないけどな」
「それで……そのお祝いというか……占いで大きな危険が差し迫ってなかったらだけど」
「ん?」
「こっ……今晩、ううううう~……ボッ、ボクは、キミのものに……なっちゃおうカナー……なんて……あー! あー! もう恥ずかしい!」
「オ、オイノーネたん……」
パリスは感無量に涙ぐんだ。山育ちであったパリスが幼い頃から友達になり、姉のように、悪友のように付き合ってきて、自然と二人は一緒に暮らし、夫婦という立場になっていたオイノーネ。
ただし女神は簡単に体を許さなかった。他のニュンペーからパリスにも忠告があった。大抵の神話では、女神に無理やり迫って関係すると碌な目に合わない結末になってしまう。だからパリスはオイノーネを抱けなくてもひたすら耐えていた。当のオイノーネは、悪友的距離感から体を許すのに恥ずかしいという一点で前に進めなかったのだが。
しかし二人は予言にて、破局した後に心中するという悲劇的な末路を知り、それを覆すために努力をしてきた。そして大きな流れは変更された今。オイノーネは勇気を出したのだ。この前カサンドラに散々煽られたこともあるかもしれない。
「うおおおお! オイノーネ! 好きだー! オイノーネ!」
「ちょっ、恥ずかしいから止めてよ! 夜になってからだから! もう!」
抱きついてくるパリスに顔を赤くしながらグイグイと手で押し返して抵抗をするオイノーネ。
パリスは先程までの、三女神圧迫面接による心労がスッキリと晴れた様子で、ニコニコしながら馬に乗ってトロイアへと向かっていった。
彼を送り出してからオイノーネは占いの準備を行う。
大気中に薄く分散している霊気を儀式で集めてそれを触媒に用いるため、少々時間が掛かる。占いの聖地デルフォイだとこの霊気が地面から吹き出てくるので占い仕放題なのである。
アポロンへの捧げものとして鹿の頭蓋骨を祭壇に飾り、幾つかの言葉を彫った石を配置する。
『汝自身を知れ』
『過ぎたるは及ばざるが如し』
『誓約と破滅は紙一重』
託宣を聞くものが心がける3つの言葉だ。予言は良き未来だけではなく、覆せない破滅をも引き込むことがある。そのことを忘れてはならない。
やがて、日が沈む直前に占いの結果が現れた。
『──ただ一人守れる者から離れるべからず。
審判者は盾を決して手放してはならない。
汝の最も大事なものを失うことになる……』
「これって……」
オイノーネは予言の内容を思い浮かべて、背中に怖気が走った。
間違いなくパリスに関わる悪い予言だ。それもすぐさま起こることを示している。
危険だ。パリスに伝えに行かないといけない。オイノーネは立ち上がり──家の入り口から吹く風が頬を撫でて、ビクリとしながら振り向いた。
何かが居る。
こちらを見ている。
「だれだッ────……え?」
相手を確かめようとした瞬間に────オイノーネの心臓を飛来した矢が貫いていた。振り向いて僅かに見えた入り口には、現れた何者かが打ち放った弓を構えている。
どん、と強く胸を叩かれたような衝撃が遅れてやってきた。肺に溜まっていた空気がすべて抜け出し、涙が溢れる。
ひどく体が重たくなっていった。
「あ……あああ……うそ、だろ……」
急速に、意識が遠のいていく────
「ボク……まだキミに……伝えてないことが……たくさん……」
ああ。
ボクはキミのことが好きだった。ずっとずっと、キミが好きだったんだ。
幼いキミのあどけない顔が好きです。自分を庇護する両親が居なくても、陽気に笑う顔が好きです。
少し大きくなって、牧童の仲間から仕事を教えてもらうときの真剣な顔が好きです。自分が育てている家畜を獣から守るときの勇猛な顔が好きです。
オトナになっても相手が人間でもニュンペーでも変わらず、笑顔と親愛で接してくれる態度が好きです。神々に捧げものをするとき、他に望むものも無いから皆の幸せを願うキミが好きです。
家を作るキミが好きです。ニュンペーと一緒になろうにも、川の神は自分の土地を離れられないと知っても、それでも躊躇わずに一緒に住もうという選択をしてくれるキミが好きです。
ボクのことが好きだなんて、そんなこれから面倒なことだらけで、諦めなよって、他にいい子いるよって言っても、笑顔で手を握ってくれたキミが好きです。
そんな、そんなこともまだ伝えていなかったのに──
オイノーネの全身から力が抜けて、彼女は眠るようにその場に倒れた。
開け放たれた入り口の外にいた誰かは、オイノーネの胸に刺さった矢を無造作に抜き取って、次にトロイアの方へと向かう──
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『人間たちは【神はサイコロを振らない】というらしいが、ヘルメスやエジプトのトトはサイコロ賭博が大得意だ。インドのシヴァはサイコロ遊びが下手過ぎて嫁に呆れられている絵が残っている。結構振っているな。私も嫌いじゃない』────関係者Z