6話『パリスの審判』
様々な神々の祭祀を行ったり、ヘクトールやアイネイアス相手に訓練を積んだりしてパリスは日々を過ごしていた。
そんなある日に、イーデ山の自宅にてオイノーネがタブレット片手に報告した。
「来たよー! 噂話で『女神テティスと英雄ペーレウスの結婚式案内』が出てきた!」
情報発信主はペリオン山に住む賢者ケイローン。ギリシャでも有名な教育者として数多く王族などの子弟を預かり、あらゆる技能を教えている半神のケンタウロスである。
ペリオン山はトロイアからエーゲ海を突っ切ってまっすぐ西に進み、ギリシャ本土に突き当たったところにあるペリオン半島にある山だ。その山頂でケイローンの友人である英雄ペーレウスと、女神の中でも人気者なテティスの結婚式が行われる。
案内の呟きには次々に参加を表明する神々の名で『いいね』が連なっていく。オリュンポスの有名所な神々は、冥界の管理をするハデスら冥界神以外は殆ど集まることになった。なんと珍しいことか、結婚式には磔を開放されたプロメテウスまでやってくるという。
この結婚は仲人としてゼウスが、自らがテティスを愛人にするのを諦めてペーレウスに譲ったという珍しい事情もあるので神々の噂としてはトップクラスに興味を引いたのだろう。
「まあ、ボクみたいな下級の土地神は滅多なことで土地を離れて出歩けないから不参加なんだけどさ」
「そうなのか。まあ確かに、オイノーネが披露宴に参加したって話は聞かなかったなあ」
「とにかくこれで、有名所には案内が行くはずなのに……不和の女神エリスは招待状が届かなかったんだよね」
「不和の女神を結婚式に呼ぶとか喧嘩売ってると思われるだろうしなあ……」
この不和の女神は夫婦の不和も担当しており、かつてとある大工の夫婦が「自分たちはゼウスとヘラよりも仲良し夫婦だよね」などと自慢しているのを聞いたヘラから送り込まれ、残虐なサイコホラーのような家庭崩壊へと導いた。
普通呼ばないという常識もわかっているし、呼ばれたらもれなく不和をプレゼントすることも自覚してたであろうエリスだったが、それはそれとして呼ばれないのは腹が立つのだ。
そのあたりの事情も予め、ゼウスやアレスあたりからエリスに話を通しておけば問題が起こることはなかったかもしれないが、エリスに引っ掻き回して貰おうと企んでいるのがゼウスなのでどうしようもない。
「結婚式が始まってから『不和の林檎』が投げ入れられて、それを巡って女神達が争うんだよね」
「言っちゃあなんだけど人の結婚式で凄い迷惑だよな」
「女神の辞書に人様の迷惑という文字は無いからね。もちろんありがた迷惑とかいい迷惑とかそういうのも」
「厄介すぎる……」
それで人間相手に善意で加護を与えて余計に酷い迷惑を受けさせたりもするのだが、一時的に悲劇を悲しむことこそあるが殆ど反省することもない。
「それで最後まで譲らずに残ったのがアフロディーテとアテナとヘラか……他の女神は降りたのか?」
「まあ……その三柱並に力のある女神は争ってまでの美しさに興味ない大人な神だし、後は立場が低い女神だから降りちゃうよね。でもこの三柱は、泡から産まれたアフロディーテ、ゼウスが単独で生み出したアテナ、ゼウスの正妻のヘラと上下関係が殆ど無いから譲り合わないんだね」
しかも普段から対立しているわけではないのだが、お互いにソリが合わない。
アフロディーテは処女神であるアテナを侮り、一夫一妻で厳格なヘラをあざ笑う。
アテナは理性を重視するので愛に狂わせるアフロディーテを下に見て、ヘラは口うるさい上に自分が支援する英雄の邪魔ばかりしていると思っている。
ヘラはアフロディーテのことを息子のアレスを誘惑していると怒り、アテナは自分が産んだのではなくゼウスが単独で生み出した上にアレスより優秀なのでやっかんでいた。
これでは譲るわけがない。
こうなってしまっては下手に他の女神の名を挙げたら、三女神全員の怒りを買うだろう。
例えば格の高い女神の例を挙げると、アルテミスであっても参入しようとすればヘラにかかれば殴り倒されてしまう。冥界の女王ペルセポネも容姿には自信があるのだが、彼女らには劣ると思われたくないので参加は見送るだろう。ヘスティアはこういうことに興味がないし、デメテルはさすがに年増すぎる。(人間の子供におばさん呼ばわりされてブチ切れたことがある)
ただこの裁定をゼウスが選んだとしても文句が起こる。なのでここは人間に選んで貰おうという話になった。
「で、なんでよりにもよってオレなんだ!? とんでもなくマイナーな人物じゃんオレ! 別に英雄でもなければ、神の血もそんなに入ってないだろ!」
どうしてトロイア王子のパリス、というピンポイントに名前が知られていたのか疑問なパリスであった。一応、トロイア王家はゼウスの血を引いているとされるが、パリスで7代目なのでそれぐらいの神の子孫はザラにいる。
地味にギリシャ世界では英雄全盛期とも言えるぐらいに群雄割拠しているのが今の状況だ。スーパーギリシャ英雄大集結ともいえるアルゴー号の冒険が同時期に起こるぐらいである。
「イアソンでもテセウスでもヘラクレスでも好きに選べばいいのに! よりにもよってオレ!」
「イアソンは珍しいヘラご贔屓の英雄だし、テセウスはアテネの王子でヘラクレスもアテナから支援されてたアテナ派閥の英雄だから公平じゃないんだよ。たぶん」
ギリシャに英雄は数多くいるのだが、大抵はどこかの神を贔屓にしているのが当然である。
他にもケイローンやオデュッセウス、パラメデスなどの知恵で知られた者に選ばせるというのも、彼らは知恵がある故に直感的に選ばずに宥め賺すような、或いは誤魔化すような言葉で翻弄するかもしれない。それでは競い合っている意味がない。
「キミが選ばれたのってあんまり特定の神への信仰心が薄いからなんじゃ……そうそう、地味にキミってアレスから気に入られてたからそこから名前知られたのかも」
「アレスから? ……なんで?」
「前にキミ、闘牛の大会でイキってたでしょ」
闘牛というのは牛対人で戦うのではなく、牛同士の角を突き合わせて戦う競技だ。勇敢で力強く闘志に燃える牛を育成するのは牛飼いの腕の見せ所でもある。
パリスはこれが得意で、イーデ山で行われる闘牛大会で連戦連勝を重ねていた。
「ああ、でもなんかやたら強い野牛が出てきて負けたんだよな」
「その野牛、アレスが化けたやつだったんだ。お、調子に乗ってるな。いっちょカマしてやるかって乱入してきて」
「お、おとなげなくないか?」
「まあアレスだから……で、負けたキミが素直にアレス牛を褒め称えて勝利者の冠まで与えたものだからアレスはかなり喜んでねえ。天界で色んな神に話して回ったらしいから、それでキミの名前が広まったんじゃないかな」
後はゼウスの能力を使って選ばれた、一番厄介ことになる人材だったか。
とはいえアフロディーテがパリスに掛けたヘレネーへの恋慕は凄まじく、トロイアの王子であったならば誰であってもヘレネーを攫いに行ってトロイア戦争が引き起こされただろう。
やはりパリスがちょっと目立ってたので目を付けられたのだ。
「さて……結婚式が始まればいよいよ、審判のときが始まるよ。覚悟はいい?」
「実はメチャクチャ怖い」
「弱気だなあ」
「いやだってあの三女神が目の前で、スゴイ眼差しで自分を選べ~って圧掛けてくるんだぜ!? おしっこチビらなかっただけオレ勇敢だと思う!」
「まあ……ボクでもそんな状況になったら、せめてキレイな花にでも変えてくださいって思うけど……」
これらの大女神は、誰か一柱に不敬を働いたとしても悲惨な末路になった者の数は多いというのに、パリスがそうならなかったのは奇跡だろう。
或いは美しさコンテストだったので、いきなりマジギレして怪物に食わせでもしたらさすがに恥と思ったか。
「ああ~緊張するう~嫌だぁ~他のやつにならないかなあ~」
「情けないこと言わないの。っていうか対策してるキミと違って、他の王子とかが選ばれたら予言の未来そのままになるからね」
「そうだよなあ。デイポボスあたりがなったら絶対オレより悪い結果になるに決まってる」
「頑張りなよ旦那様。ボクらの未来のために!」
「オイノーネたんと幸せに暮らすために!」
「……」
冗談めかして言った言葉に同じく被せてきて、かなり真剣そうにそう言うパリスにオイノーネは呆気を取られた。
「ん? どうしたんだオイノーネ」
「キミってやつは、こう、仮にも捨てた女だってのにそういう言葉をしれっと吐いたりして……まったく! 度し難い男だね!」
顔を赤くしてポカポカとパリスを軽く叩くオイノーネであった。
*****
海の女神テティスは美しく心優しかった。その魅力は大神と言われるゼウスやポセイドンをも求婚させるほどであった。
ただしテティスは思慮深く、そのどちらの求婚を受けたとしてももう片方から恨まれるであろうことを予想した。彼女は敢えて、貞節の神であるヘラを頼って彼女の庇護下に入った。
あわやゼウスが浮気するところだったのに、女の方からヘラを頼って来たというのでヘラは大張り切りでテティスをギリシャ神話の種馬トップ2の手から守ったという。
そして予言の力を持つプロメテウスがこうゼウスに告げた。
「テティスから生まれる子は父親の能力を越えるだろう。ゼウスの子ならば雷霆を父よりも自在に操り、ポセイドンの子なら父を退け三叉槍の主になる」
基本的に我が子は可愛いゼウスとポセイドンであったが、自分より強い神が生まれるとなれば立場が危うくなる。二人は協議し、テティスを娶るのを諦めた。
そしてゼウスは提案をする。
「テティスから生まれる子は人間の子なれば、どれほどの英雄になろうとも神の力を超えることはなく、いずれ死ぬだろう」
というわけで人間の英雄で年頃な者を探そうとしたのだが、基本的に英雄と呼ばれるぐらいの立場になればモテモテで嫁や愛人を持つ者ばかりだ。
位の高い女神なのだから愛人や後妻という不名誉にあたらせるわけにもいかない。なんの栄誉も無い一般人に娶らせるわけにもいかない。また、選ばれた者がテティス以外の女を愛するような者でもダメだ。
テティス本人に選ばせようにも、彼女は人間との結婚がかなり乗り気じゃない。なにせ神々の中でもトップクラスの者から取り合いをされていて、困っちゃう私って罪よね……みたいな自尊心があったのに下等な人間に嫁入りしろと言われたのだ。テティスはがっかり感が半端なかった。
そして様々な条件が合致したのが、テッサリアにあるプティアの王ペーレウスである。
ペーレウスの血統はかなり良い。父親の名はアイアコス。ギリシャ中で知られた敬虔な人格者で、ゼウスの息子だ。あまりに人が良く有能なので、死後は冥界の審判官三巨頭の一人に任命された。つまりペーレウスはゼウスの孫でもある。
またペーレウスの経歴も、ヘラクレスの試練に何度も同行しては活躍して英雄に相応しい能力を見せている。しかも珍しく未婚であった。
ペーレウスは賢者ケイローンと親しかった。かつてぺーレウスがケンタウロス族に襲われた際に、ケイローンが彼に剣を渡して救ったのだ。それ以来、ペーレウスはケイローンの山に住まいまで作ってもらって寝食を共にするほど仲良くなった。
そこでゼウスはケイローン経由で、ペーレウスにテティスを娶る意志があるか聞いたところ、神々の勧めなら是非にと答えた。
しかしながらテティスは相変わらず乗り気ではなかったのでゼウスが一計を案じる。
「無理やり襲っちゃって後で責任取ればセーフだから」
ゼウスは懲りない。以前ハデスにもそのアドバイスをしてペルセポネを攫わせ、デメテルに怒られたというのに。
それはそうと、ペーレウスもやる気だし、ケイローンとしても親しい友人に協力するのは吝かではない。ケンタウロスは強引なプレイも得意なのだ。テティスを手篭めにする方法を教えてやった。
「いいですか、ペーレウス。彼女は変化の術を得意とします。恐らくそれを使って求婚を拒もうとしてくるでしょう」
「どうすればいいんだ、馬先生!」
「頑張って耐えてください。貴方の耐久力なら大丈夫でしょう」
「ケンタウロスの尻!(クソッタレを意味する古代ギリシャスラング)」
そして指示通り、海の女神らが踊る祭りの場に乱入してペーレウスは頑張った。
まずテティスがすかさず火に変身したことで抱きつこうとしたペーレウスは焼き払われた。
更に風に変身して吹き飛ばされ、水に変身して溺れさせられ、木に変身したらすがりついて、鳥に変身して上空へ連れ去られて落とされ、虎に変身して爪でずたずたにされ、ライオンに変身して食われ、蛇に変身して毒牙でやられた。それを見ていた神々は大盛りあがりである。
それでも諦めなかったペーレウスはとうとう力尽きたテティスを抱きしめて自らのものにしたのだ。
結婚披露宴となれば会場となったペリオン山の主であるケイローンは大盤振る舞いだ。
まず結婚式場を作った。ケイローンは建築技術も一流である。式場に飾る花も用意した。花のコーディネートも一流だ。月桂樹や鈴懸などの縁起のいい樹木も業者に頼んで(ペーネイオス川の神である)手配し、植えて整えた。庭木の剪定も一流。音楽隊も芸術女神のバンドを呼んで、酒もデュオニソスから最高の葡萄酒を、給仕はゼウスが認める最高のボーイなガニュメデスを、踊り子にテティスの友人らである海の妖精たちを。
更に聖木トネリコを柄にした槍をペーレウスへのプレゼントに作る際には強力な魔術まで掛けてやった。過保護なぐらいの宴会部長である。
そこまで用意を整えたもので、やってきた神々も大盛りあがりだ。
着飾った女神たちはテティスを(こいつ人間に嫁いでるとかウケるというやや上から目線で)祝福し、アポロンが竪琴をかき鳴らして、芸術女神ムーサたちは黄金のサンダルを踏み鳴らしながら沢山の得意とする楽器で演奏をした。
派手に現れたポセイドンが神馬をプレゼントして自慢し、ヘパイストスはペーレウス用の鎧を渡した。アダマント青銅合金で作られた神の鎧はアレスをも羨ましがらせる出来であり、これはヘパイストスの養い親でもあったテティスの夫になるが故に特別に作ったものだ。
それからその場で、奇妙なことが起こった。
神々の祝宴なのだから生まれる子供について予言を与えることは珍しくない。そこには予言が得意な神々が大勢集まっていたからだ。さて誰から予言をしてみるか、という空気になったときにアポロンは姿を消していたのだ。
彼がいつの間にか、ハデスから借りてきた『姿消しの兜』を被ったところを見た者は居ない。これを被ればたとえゼウスであろうとも姿を感知することはできない。疫病を司る死神でもあるアポロンは叔父ハデスとも親しいため、一時的に借りてきたのだ。宴会を盛り上げる道具だと言って。
アポロンが姿を消して移動し、パーティ会場の外に出た。そこには場が盛り上がるタイミングを見計らっていた不和の女神エリスがいる。
彼はさり気ない仕草でその女神が持っていた黄金の林檎をパーティ会場へと叩き落として転がした。エリスが、何事かと思って周囲を見回すがアポロンの姿は見えない。
彼女が林檎を投げ入れることはゼウスが決めた確定事項だ。それを防ぐことはゼウスへの反逆に近い。だが、タイミングをずらすことならばできる。誰にも見られないままに。
今このタイミングで林檎を投げ入れる理由──それは、予言の確定未来を乱すためだ。
ケイローンやモイライのような力ある神が予言をすることは、人間が行うことよりも遥かに未来を決定する能力が高い。運命が予言通りに収束されてしまう。特に、この他の神々も聞いている場ではまるで未来を契約して他の神々が署名したかのように予言の精度が高まる。
そこでトロイアの破滅などを予言されれば覆すのは困難だっただろう。本来の歴史ならば、二人の間に生まれる子アキレウスの運命を占い、トロイアで大暴れする未来を確定されてしまう。
故にアポロンは先に不和の林檎がもたらすカオスを投げ込み、予言を行わせないようにしたのである。誰よりも先に、トロイア戦争を予言で知ったが故に。
不和の林檎が投げ込まれたパーティは即座に女神同士のバトルシティと化した。主催者のケイローンの気持ちは察して余りある。もはや新郎新婦に予言を聞かせるどころではない。
兎にも角にも三女神が最終的に残るまで、平穏無事に話が進んだはずがない。牽制。派閥争い。裏切り。仲違い。タイミングはズレたものの、不和の女神は大爆笑である。
そしてどうやら譲らぬ譲れぬ三女神の、最後の審判が迫っていた──
*****
戦々恐々とパリスは待ち構えていたのだが日常はこなさなくてはならない。
王子としての仕事は基本的に戦時に向けた訓練以外、今までと同じく牧童として牛を育てていた。他に王子の仕事が無いのかというとギリシャの影響が強いこのトロイアにおいても、労働というのは貴族のやることではないので働かないのが基本である。そんな中で牛飼いは労働というよりもアポロンへの奉仕に近い。
ある日のこと。
「おおホイホイ、おおホイホイ!」
「うわー変な掛け声を出しながら牛を盗んでいくやつが居たー!」
「オレが捕まえる!」
牧童の叫び声に、牛に跨って走り去っていく泥棒をパリスが追いかける。他の牧童は別の牛が狙われないように抑えて牛舎へと戻す作業である。
牛だというのにベレロポンの操るペガサスもかくやと言う速さで、牛に乗って泥棒が山を掛けていくのをパリスが全力で追いすがり──
「──あれ。見失った」
先程まで追いかけていた牛の足跡すら見つからない。随分と山の奥まで来たが、近くには人も妖精も居ないように静まり返っていた。
キョロキョロと周囲を見回すパリス──と、突然誰かが親しげに肩を組んで耳のすぐ側で声を掛けてきた。
「ゴメンゴメン! 盗みたくて盗んだわけじゃないんだけど、そういう性分なんだ。大事にされている牛を見るとね、つい手が出るっていうか、好きなんだ。盗むの。うんやっぱり盗みたくて盗んでるな、僕。前言撤回!」
明るく通りの良い青年の声。パリスがぎょっとした目を肩越しに向けようとすると、そこにはもう誰も居ない。肩に掛けられた腕の感触もない。
パリスが顔を向けた反対側からまた声が聞こえる。
「牛泥棒といえば前にアポロンの牛を盗んだことあるんだけどさ、足跡を消してアリバイを作って証言でも『僕生まれたばっかりの赤ちゃんでバブゥ盗めるわけないバブゥ』って完璧にやったのに、アポロンときたら占いで僕が犯人だと特定したって証拠一つで有罪にしてきたんだよ。酷くない? 司法の敗北って感じ。確かに盗んだんだけど」
「真犯人がわかったのならむしろ勝利なんじゃ……」
「そうかな? まあどっちでもいいや。僕は裁判の正義とは縁が遠いからね」
声のする方をパリスが振り向こうとするが、その度に姿はかき消えて声は別の方向から聞こえる。
パリスは大きく息を吐いて腕を組み、まっすぐ前を向きながら言う。予言で体験したつもりになっていたとはいえ、実際に体験するとこういった出会いの詳細は忘れてしまうのだから不便なものだ。
「ヘルメス神……ですよね?」
「──ご明察!」
そう言いながらパリスの目の前にあった大木の上から薄ぼんやりと黄金に輝く美形の青年が飛び降りてきた。動きやすいように丈を短くした衣服ヒマティオンに、旅用のマントを羽織っている。金髪の頭には幅広の帽子ペタソスをかぶり、足には羽の生えたサンダルを履いていた。そして手には二本の蛇が巻き付いて羽を広げたデザインの杖を持っていた。
彼は地面に降りてから自分の服装を気にしつつ呟く。
「せっかく一目でわかって貰えるように正装してやってきたんだけどな。どう? 似合ってる? 洗濯屋のタグとか付いてない?」
「確かに一発でヘルメスってわかる格好ではありますが」
「あーよかった。前にゼウスとオフの格好で人里に出て街ブラしたら誰も僕らが神だって気づかなかったから、最近オーラ出てないかなって気にしてたんだ。まあその街は不敬だってことでゼウスが洪水で滅ぼしたけど」
「凄く迷惑なクイズだ!」
ヘルメスはにこやかに関係ないことまでペラペラと喋りだした。オイノーネがヘルメスのことを話好きだと言っていたのも頷けるな、とパリスは思う。
見た目は好青年なのだが、どうもオーバーリアクションで手振りをしながら会話をしているのは道化めいて見える。
「ところで僕は伝令の神なのだけれど、パリスくんに我らが偉大なる父ゼウスの伝令を告げよう。ささっ背筋伸ばして。拝聴の態度が悪いと雷が落ちるぞ」
「はいっ!」
「冗談だけど」
「……」
「コホン。『これパリス。今よりお連れするお三方の女神の中で、誰が一番美しいか、お前の口から申し上げ、この黄金の林檎を渡すがよい』……あと『断ると罰を与える』だった。こっちは冗談じゃない」
「が……頑張りますが、できれば不在者投票とかの方が……」
「もう連れてきちゃってるんだからガタガタ言わない。あれ? ガタガタであってたっけか? とにかくこっちに来て。女神が待ってる」
と、パリスを手招きするので足取り重くパリスは向かう。
パリスの審判、と呼ばれるギリシャ神話のイベントなのだが、そこへ赴くパリスの暗い表情は己が審判をするのではなく、己が罪の審判をさせられるような雰囲気だった。
暫く歩くと、確かこの先には泉があったよなとパリスは思い出す。一旦泉が見えないところで立ち止まって、ヘルメスは大声で確認をする。
「おーい、もう大丈夫かい?」
そうすると泉の方から鈴を鳴らすような美しい声が聞こえてきた。
「あらヘルメス。予定よりちょっと早いですわね。でも、あたくしはもう準備万端ですの」
アフロディーテだ。甘えるような愛の女神の声は意識をしっかり持たねば、人間の男が聞いたら脳まで蕩けてしまいそうであった。
その声に被さるようにして、別の気が強そうな美声が止めた。
「待てアフロディーテ。お前、その腰帯! それは魅了の魔法が籠もったやつではないか。反則だ。外せ外せ」
その声はアテナだろう。不正を許さずに咎める強い口調に思わずパリスも背筋が伸びそうになる。
「ふんだ。そういうアテナこそなんでアイギスの盾を手に持っているのかしら? まさかそれに付いているゴルゴンの首で脅すのではないでしょうね」
「私がそんな卑怯な真似をするか。ヘラを見ならえ。栗色のババ臭い衣で出ていこうとしているだろう」
「あら本当。栗色だから腰痛矯正バンドかと思ったわ」
クスクスと笑う二人の声に、落ち着いた女性の声が呆れたように言う。
「薄らやかましいわぁ自分ら。ウチのような大人はこういう落ち着いた色が似合うんや。それにひと目見ればウチを選ぶんは、そらもう決定事項やわ」
独特のミュケナイ弁で喋るその声はヘラだろう。自信と威厳に満ちたまさに神々の女王の風格がある声である。
「……いや待てヘラ! その手に持ったヒュドラの幼体はなんだ!?」
「『ウチを選べばこの国がヒュドラに襲われんようにしたりますぅ』言えばイチコロやんな」
「直接的な脅しはダメよ! これだから怪物の親玉は! 神々の女王じゃなくて怪物の女王なんじゃないの!?」
「おいヘルメス! このヒュドラを始末しておけよ!」
ヘルメスが向こうからポーンと投げられてきた蛇を「よっと」軽い声を出してどこから取り出したのか鉄串に刺してキャッチしながら、「今夜は蒲焼きかな?」と肩を竦めた。
わいわいと見えないところで言い合っているのを聞いて、パリスは顔を青くして震えだす。こんなんだっけ? 前に予言の未来で体験したとき。そう思った。
ヘルメスは木に体重を預けてモデルのようなポーズを取りつつ、小瓶を取り出して言ってきた。
「ちょっとおめかし中だから待ってくれ。炭酸水でも飲む? シケリア産だよ?」
「いえ……」
「そんなに青い顔してたら怒られるぞ。彼女ら、怒ったら怖いことは折り紙付きで保証する」
「ううう……もしヘルメスだったら、誰を選びます?」
「おっと! 僕の意見を参考にしたとか言い出したらダメだぞ。僕は公平に選べないしね。そもそもアフロディーテとの間に子供いるし。あっ! これヘパイストスには内緒ね。オフレコ。呟くなよ」
「あまりに美しすぎて目が潰れるとかそういうことないでしょうか」
「ゼウスは直視したら死ぬかもしれないけど、彼女らだったら……そういえばそんなこともあったっけ。おーいアテナー! キミを見たからってパリスくんの目を潰すとかそういうの禁止なー」
かつて事故でアテナの沐浴を目にしてしまったが故に目を潰されたのはテイレシアスという男だ。その時はテイレシアスの親であるニュンペーがガチ抗議をして治してもらった。
奥のアテナがやや考えるような間を開けて、ぽつりと言う。
「『私を選べば盲目を治してしかも予言の力も与える』……」
「アテナが卑怯なことを考えていますわ!」
「こん卑怯モン! こじらせ処女! 頭アレス!」
「うるさい! 考えただけだ! あと頭アレスは止めろヘラ! お前の息子だろ頭アレスなのは!」
「ウチの息子は全身アレスやし! ……どうしてくれるんウチのアレスを!」
「知るか!」
「アレスは頭がアレスだけど、顔が綺麗で体たくましいから素敵だと思うの。頭アレスだけど」
ヘルメスは炭酸水を飲みながら、若干遠い目で言う。
「彼女ら仲いいよね。そう思わない?」
「ある意味そうなのかも」
「実はこの黄金の林檎、ヘパイストスがアフロディーテに送るために作っておいたのをエリスが盗んできたって噂があるんだけどどう思う? こんな名品、ヘパイストスぐらいしか作れないはずなんだよねヘラの管理している果樹園の天然物以外だと」
「余計面倒なことになりそうなので、できれば暫く黙っていて欲しいです」
そうして待っていると、やがて泉の方から薄布一枚を身にまとったこの世のものではない美女が姿を現した。
『黄金の』アフロディーテ。『輝く瞳の』アテナ。『白き腕の』ヘラ。三者とも眩くなりそうな異名を持つだけあって、人間の美女とは格が違う支配的な美しさを目にぶつけてくるようだ。
花に例えれば、例えた花が呪われる。
宝石に例えれば、例えた宝石が砕け散る。
星に例えれば、その星が射落とされる。
凡俗の比喩では例えるだけで不敬になりかねない美女神の殆ど裸に近い姿。黄金。青。白。栗色。それらの光が体から溢れ出ている。
それを目の当たりにしてもパリスは、あまりの衝撃に性的魅力という判断基準が破壊されてしまうようだった。
飢えて、乾いて、苦しんで、暗闇の中をずっと這いずり回った後で美しい風景を目にしたときに浮かぶ感動のような。
一流の芸術家がパリスと同じ場所でこの光景を見たら、一生を掛けて彼女らの美を表現するために費やし、そして決してそれが叶うことなく無念のあまり自らの屋敷に火を付けて未完成の作品と共に死ぬことを選ぶだろう。
(アイネイアスの親父、よくこんな恐れ多いほど美しいアフロディーテを抱けたな!?)
この中でもアフロディーテは恋多き神であり、人間とも愛し合うことが幾度もあったのだが、女神の裸体を見たパリスからすれば情欲を浮かべるだけでも不敬になりそうでむしろ恐怖だった。親友アイネイアスの父親はアフロディーテとの間に子供を作ったのだが、逆に尊敬する。
アテナの裸を目にして盲目にされてしまったテイレシアスは、不幸を嘆いたかもしれないがそれはそれとして素晴らしいものを見たと思っただろう。
「さあパリス」
どの女神の口から発せられた声か──
脳がとろけるような誘いの言葉に、パリスは正気を保つので精一杯だった。
唾を飲み込み、覚悟を決めてパリスは拳を握る。ここが運命の分かれ道だ。すべてを台無しにしてしまわないように。予言を覆し、運命に抗うために。
パリスの選び直しのときがやってきた。
「誰が一番美しいのか、選ぶがよい」
A:やっぱり……アテナ様だぜー!
B:体が勝手に……アフロディーテ様に!
C:良いことを思いついたぜー! ヘラ様に決めた!
D:うちの妻のオイノーネさんです! 命だけは勘弁してください!
E:エリスさんです! オラ! 表に出ろ!
F:この林檎美味しいね(ムシャムシャ)
ケンタウロスの尻!(使いやすいな)
※ルーベンス作の絵画『パリスの審判』を御覧ください
http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/peter-paul-rubens-the-judgement-of-paris/
本当にアテナはアイギスの盾を持ち込んでるし、ヘラ(右)はババ臭い衣を持ってきてるし、ヘルメスは他人事のような態度でパリスはこの世の終わりみたいな顔です。
『……え? 三女神のこと? 正直、アフロディーテのことは嫌いじゃないんだ。彼女は僕のこと嫌ってるし邪険に扱うけど、ほら好きの反対は嫌いじゃなくて無関心って言うらしいから、他の絶対関わろうとしてこない神々よりはきっといい関係だと思うし。母上のことは……正直複雑だな。無理やり謝らせたけど、余計に疎遠になった気がして今度は会うのに気が引けてしまう。アテナは……僕が勘違いで恥ずかしい思いをしたからちょっと今では苦手だし怖いところあるけど、割と僕に直接仕事を頼んでくるのは嬉しくもあって……』────非モテ鍛冶神H
『そういうネチネチとしたところが他の神から嫌われているのだぞ、ヘパイストス』────関係者Z
『評価ポイントを入れて、落ち込んだヘパイストスを励ましてあげてね──って結婚で落ち込んでるのは私なんですけど。ぴえん』────人妻女神T