5話『オマセなカサンドラさん&神々の機嫌を取ろうアルテミス編』
「うーん、テティスの結婚式はまだみたいだね」
イーデ山にある二人の住居でオイノーネは座って足を組みながら、手元の板を見つつそう呟いた。
腕立て伏せをしているパリスの背中に座っているのだ。汗を掻き歯を食いしばりながらオイノーネを乗せて地中海式トレーニングに励むパリス。普段軽薄で努力と無縁な彼がこんな運動をしているのも、未来に起こり得る戦乱へ向けた訓練である。
というかこの前、レスリングの練習でヘクトールはおろか幼馴染みたいな相手だったアイネイアスにもあっさり負けてしまったので若干悔しかったのだ。
それに予言の未来ではヘレネーの夫メネラオスにパリスは一騎打ちでボロ負けしてしまった。寝取られ男にあっさり負ける寝取り男。これは恥ずかしかった。トロイア勢の視線がかなり突き刺さった。今の所、次に戦う予定は無いが、ああいう思いをするよりは鍛えた方がマシだ。
「そ……れ……は、よかった……のか? ところで……なんだその板」
「これ? 『ヘルメス魔法石版』って言って、神々の噂話が書き込まれる道具だよ。『ス魔法』とか『タブレット』って単純に呼ばれてるけど。ヘルメスの頼みでヘパイストスが作ったんだって。使用料金が掛かるけど情報収集のために買っちゃった」
「使用料金?」
「7日ごとに噂話一つ書き込まないといけない」
主に天空や海やオリュンポス山にいる神々が常に地上を監視しているわけでもないのに、どうして英雄に詳しかったりそのエピソードを知っているかというと、伝令の神ヘルメスの流す噂話が情報源であることが多々あった。
面白い話でも悪口でも密告でも、ヘルメスはとにかく情報を集めては広めてしまう。例えば神々も、現時点でパリスという男の名を聞けばタブレットで確認して「ああトロイアの王子で、下級女神を嫁にしている」と把握するぐらい、どこの国の王子が誰と付き合っているだとかそういう噂も知られている。
腕立てをするパリスの背中で石版を指でスマッスマッとスワイプしながら彼女は言う。
「でも意外と面白いんだよーこれ。デマの多い神々の噂話はともかく、運勢を占う『アポロン占いコーナー』とか女子のお悩み相談の『ヘカテー小町』とかさ。えーと今日も相談があげられてるな……何々。『二十児ぐらいの母です。一番下の娘の言ってることが最近よくわかりません。母が理解を示さないせいで、不良になりそうです。特に最近はヤカラみたいな息子とばかり遊んでいて心配です』……どっかで聞いたような話だね。回答『女神です。霊薬汁を飲ませなさい』。大抵コレだよね回答」
ヘカテーは闇と魔術の女神だが、エジプト方面では出産と結婚の神として崇められているのでそういった相談事に強いようだ。
他にも不定期に芸術女神の新作曲情報やまったく人気の無いヘパイストスが作者の4コマ漫画、他にも天声人語などが掲載されるようだ。
いい加減トレーニングに疲れてきたパリスが息を切らせながら聞く。
「……っていうか……はぁ……神々の噂話ってデマ多いのか……ふう」
「実際その現場誰が見てたんだよ……って感じの神話とか英雄譚って結構あるじゃん? ああいうのは『見ていた神が流した話』『アポロンや芸術女神が詩人向けに伝えた話』『ヘルメスが又聞きで広めた話』とかで内容が違うからね」
ギリシャ神話世界観の基本設定的な叙事詩『神統記』を伝えたことで有名な詩人のヘシオドスなどは明確で「ある日、ムーサから素晴らしい詩を聞いた」という序文から始まっている。そうして様々な話が伝えられる中で設定や年代が矛盾するのである。
「話のバラつきだと例えば……アルテミスの恋人だったオリオン知ってる?」
「えーと、確かポセイドンの子の狩人だろ? 星座になってる」
「オリオンの死に様も『アポロンに騙されたアルテミスが射殺した』が有名だけど他にも『オリオンがアルテミスにエッチを誘ったらブチ切れたアルテミスに殺された』『オリオンがアルテミスの侍女にスケベしたらブチ切れたアルテミスに殺された』『オリオンがアルテミスと円盤投げで競おうとしたらブチ切れたアルテミスに殺された』とか色々違う話があるのはそのせいだね」
「アルテミスブチ切れ過ぎじゃない!? 円盤投げなんで!?」
「アルテミスって競技も得意だから、人間が私に勝てると思ってるのか死ね!ってなったんじゃないかな……」
哀れなお調子者の狩人の末路に、パリスは腕立てを力尽きて地面に伏せながら哀れんだ。女好きなのはわかるが、よくそんな気難しい女神を落とそうと思ったものだ。
まあしかし、大抵の場合人間にとって女神は大なり小なり気難しいのだ。アキレウスの父ペーレウスも大喜びで女神テティスを嫁にしたが子供を産んで即別居されたように。(そもそもテティスが結婚に乗り気ではなかったこともある)
「オイノーネさんは優しくて嬉しいなあ……」
「うんうん。もっと褒めたまえよキミ」
「お願いだからどいてくださいケツデカ女神様」
「呪うよ!?」
言いながらも気にしたのか尻を隠すように押さえつつオイノーネはパリスの背中から降りた。
大きく息を吐きながら上半身裸のパリスは立ち上がり、伸びをしてから腕に力こぶを作った。
「マッチョになった?」
「すぐには代わり映えしないかな」
ペタペタとパリスの胸板や腕を触ってみるオイノーネ。どうも彼は年齢よりも若く見えるため、少年といった雰囲気は拭えない。一応、パリスは素質があるのだから鍛えることは無駄にならないはずだ。
「でも個人的にはマッチョより今のままの姿が好きなんだけど。なんならヘカテーにプロテインキュケオーンの作り方を教えて貰って……」
などと話していると、入り口から元気の良い声が掛かった。
「こんにちはー今日は相談があって山にやってきたんですけ……ど……」
カサンドラだ。すっかり人間不信一歩手前な彼女は、近頃毎日イーデ山へとやってきている。『言葉が信用されない』という呪いはあくまで人間限定なので、イーデ山の下級女神や妖精たちとおしゃべりする分には問題がないのだ。それも最近、パリスに連れられてここに来るようになって判明したことだが。
彼女が家に入って目撃したもの。家の中では汗ばんで上半身裸なパリスとそれを触っている薄着(普段着である)のオイノーネ。
「ふ」
「ふ?」
「不潔────ッッ!!」
「うわー! カサンドラが泡を吹いてぶっ倒れたー!」
「ませた反応にしては過剰だねえ」
白目を剥いて口からキラキラした泡かゲロを吹き出し、背中から倒れていくカサンドラを慌ててパリスは助け起こす。
パリスに肩を掴まれてガクガクと震えるカサンドラ。目からは涙が溢れている。
「ど、どうしたんだカサンドラ!? 幾らなんでも反応がヤバいぞ!?」
「とりあえず落ち着かせよう。お薬お薬っと」
気付けの薬を棚から取り出して、壺の中に入っているドロドロとした薬草の煮込みを匙で掬いカサンドラの口に含ませる。
アポロンから習った薬草術に加え、ついでとばかりにアポロンの従姉妹である魔女の神ヘカテーからも軽い触りではあるが薬の製法を教えて貰っているオイノーネは実のところかなり優秀な薬師だ。
万能の賢者ケイローンすら解毒できなかったヒュドラ毒に冒されたパリスを治療できるというだけはある。特にキュケオーンは気付けや活力を与えるのに効果的である。
「まじゅっっっ!」
「見たまえボクの薬の効能を!」
「あまりの不味さに飛び起きたようにしか……とにかく大丈夫か、カサンドラ」
正気に戻ったカサンドラだが、若干怯えたような目でパリスを見る。
「お兄様は服を着てください!」
「あ、はい」
「汚らわしい!」
「酷くない!?」
妹のあんまりな態度にぶつくさ言いながら、肌蹴て腰に巻いていた上半身の服を着込む。そもそもこの時代では割と全裸に近い格好の男も多いのだが。
とりあえずパリスが服を着てから、オイノーネの汲んできた水を飲んでカサンドラは若干落ち着いたようだ。
「それで、どうしたんだ?」
「すみません……実は昨晩、予言をしまして……クレウーサお姉様がアイネイアス様と結婚するって話で、果たして言葉が通じないわたしはどういう結婚をするのかと未来を見て……」
「いい結果ではなかったような感じだな」
「最悪ですよ! トロイアがギリシャ軍に攻め滅ぼされた日に、アイアスってギリシャの武将に……! むっ無理やり!」
「うわー! 思い出さなくていいよ! 可哀想に!」
成長したカサンドラは相変わらずトロイアの中で信用されない未来を送っていて、陥落した日にアイアスから手篭めにされてしまったのだ。その記憶が先程フラッシュバックして凄まじい嫌悪感に気絶したのだろう。オイノーネが気を使って制止する。
パリスは死んでいて知らなかったのだ、こんな可愛い妹がむくつけきギリシャ軍の手に掛かると思うと、頭に血が上って来た。
「なんだと! アイアスって小さい方のアイアスか!?」
ギリシャ軍ではアイアスという名の英雄が二人参加していたので、強さAランクのサラミス島の王子を大アイアス、強さBランクのロクリスの王子を小アイアスと区別していた。どっちも神を敬わないため無残に死ぬ末路まで似ている。
大アイアスはアキレウスが死んでから割とすぐに自殺していて、トロイア陥落まで生き残っているのは小のほうだろうとパリスは推測した。
「あそこも小さかったから怪我はしなかったですけど……」
「許せねえあの短小アイアス! オレはちょっと勝てないからアイネイアスあたりが討ち取ってやる!」
「強気なのか弱気なのか。そもそもまだ起こっていない未来を理由に因縁付けないでよね」
「しかもその後、ギリシャ軍総大将のアガメムノンにまで奴隷妻として連れて行かれて酷い扱いをされて……」
「うーわ……」
「更にギリシャに連れて帰られてアガメムノンの妻から『夫をたぶらかした毒婦め!』って刺し殺される始末で……」
トロイア戦争でもっとも不幸な登場人物の一人はカサンドラである。自分に過失は殆ど無いというのに、何一つ良いことなく悪いことばかりが積み重なり死んでいく。
そんな未来を見てしまったものだから相談にやってきたのだが。
暗澹たる展望に目を曇らせているカサンドラを、どう励ましたものか。パリスはしゃがんで目線を合わせ、妹を抱きしめてやった。
「……戦乱が回避できないとしても、絶対カサンドラにはそういう目を合わせないようにする。オレに任せろ! アテナから加護を貰って、もし小アイアスが攻めて来てもオレがやっつけてやる!」
「大アイアスが来てもですか?」
「大きい方のやつが来たらヘク兄に加護付けてもらってぶっ殺してもらおう!」
「そこは弱気なんだね……」
実際アテナの加護は戦場で凄まじく、軍団全員の勇気を奮わせるものを基本として彼女が目を付けた英雄個人に、一定時間強化の加護が与えられればその者は能力を遥かに超えて強くなる。
ギリシャ軍の英雄ディオメデスがアテナの加護を得たときは特に恐ろしく、アイネイアスを一瞬で半殺しにして、それを庇いに入ったアフロディーテを追い払い、戦神アレスの土手っ腹に槍を突き立てた。
その時アレスはマジ泣きしてゼウスに「あんなのアリか!?」ってアテナの超強化加護に文句をつけたのだが、父ゼウスから「戦の神が情けないこと言うな!」と怒られた。オリュンポス十二神すら凌駕する武力を人間に与えるというアテナパワーである。
「それにしてもカサンドラ不憫だねー……よし、じゃあカサンドラも予言の未来を待っているだけじゃなくて、セルフ救済頑張ってみようか?」
「セルフ救済?」
オイノーネの提案にカサンドラは首を傾げる。
「アポロンの呪いをどうにかできないかなーって考えてみたんだけどさ、本人に祈って呪いを解いてもらうのってやっぱり難しいわけ。そこで天才ニュンペーのオイノーネさんは考えた。本人じゃなくて関係者の神々に祈ればそのうちどうにかなるんじゃないかって」
「関係者っていうと」
「姉の処女神アルテミスと母親の豊穣神レト……あと従姉妹の魔女神ヘカテーや同僚の太陽神ヘリオスあたりかな。アルテミス以外は割と面倒見のいい神々だから、それら相手に敬虔にアポロンから呪われた子が祀っていれば可哀想だからって治してくれるかも」
特にヘカテーとヘリオスは人間を助ける逸話を複数持っている。カサンドラの境遇にも同情してくれる可能性もあるだろう。
「アルテミスだって処女神だから、女にだらしないアポロンのことは姉弟なりに苦々しく思っているしさ。そのアポロンの誘いを断ったという少女なら、見上げたものだと思うか、神々をフるとかナメてるのか死ね!と思うか半々の可能性が……」
そこまで思い至ってオイノーネは頷いた。
「よし。やっぱりまずアルテミスの機嫌を取ろう」
瞬間湯沸かし機(ヘパイストス製)のように突如キレるかもしれないアルテミスを放置しておくのはカサンドラにも危険だと判断した。
*****
「アルテミスへの祭礼に使うから雄熊を狩ってきて。ただし間違えて雌熊を狩ったらダメ。アルテミスの庇護下の熊かもしれないし、そもそもキミは赤子の頃に雌熊の乳で生き延びたので雌熊を狩ることは大変失礼だからね! 注意してよ!」
そういう準備の手伝いをさせられることになってパリスは山を駆けずり回り、発見した熊を凝視していた。
熊。熊。ベアー。
四つん這いで山を歩く熊を見て素人はそれの雌雄を同定できるだろうか?
まず熊自体が雄でも雌でもずんぐりむっくりしていて、多少雄の方が大きい特徴があるのだが個体差が顕著なので雄並に大きな雌もいる。
そして短い尻尾が固く尻のあたりを隠しており、中々に遠くからでは性器で判断するのも分かりづらい。
これが何の因縁もなければ雄でも雌でも関係ない!と矢を射掛けるのだが、ギリシャ世界ではうっかり神の持ち物である獣を狩っただけでデッドエンドになりかねない。狩人という職業につくものはことさら気をつけ、神々への捧げものを欠かさないのだ。
「……っていうかムリ! 見分けるの! よしさっきアイネイアスを見かけたから連れてこよう!」
と、パリスは友人のアイネイアスに雄熊退治の手伝いを依頼したら、快く彼も引き受けてくれた。
アルテミスの祭礼は男は参加できないが、準備を手伝うだけでも神々への敬いになる。アイネイアスは自身がアフロディーテの子であり、父親はうっかりそれを自慢したためにゼウスから雷を落とされてしまったため、神々に対して敬虔でその態度は神々も喜ばしく思っていた。
「で、どうするのかしら、パリスちゃん」
「まずアイネイアスが熊の前に飛び出して威嚇するだろ? 熊が立ち上がったときにオチンをディスカバーしたら雄だから合図してくれ。オレが熊の後ろから仕留める」
「雌だったら?」
「頑張って逃げろよアイネイアス! お前なら大丈夫! いやむしろ雌熊が惚れて寄ってくるかもな!」
「危ない役目を押し付けてないかしら!?」
しかしながら他に有効な確かめる方法もなく、もし熊と格闘戦になってもアイネイアスの方がパリスよりも上手くやるだろうということで、作戦は決行。
アイネイアスは組み付かれたときの防具として上半身に獅子革の鎧と青銅の小手を装備し、はちきれんばかりに腕の筋肉を膨らませながら熊の前に飛び出して、叫んだ。
「うおおおお!!」
「ゴアアアアアア!?」
いきなり叫び声を上げて現れた自分よりも巨漢のマッチョに熊は驚いて二本足で立ち上がる。オチンを発見。
「オチンポロンよォー!」
「了解!」
すかさずパリスの放った矢が正確に熊の額へと吸い込まれ──刺さらないで弾かれた。熊の頭蓋骨は非常に固く、ときに投石兵の投石でも受け止めてしまう。
「あっヤバっ」
「パリスちゃーンッ!! ぬあーッ!」
アイネイアスから非難の声が上がるが、怒った熊が振り上げた前足を薙ぎ払おうとするまえに相撲のようにアイネイアスが正面から熊に組み付いた。
重さが400kgはある熊の巨体を持ち上げて動きを封じる。その間に再び矢を番えたパリスが、次は熊の脇腹から心臓を貫く位置へと打ち込み、熊はもがいた後に絶命した。
ぜいぜいと息を吐きながらアイネイアスは叫ぶ。
「死ぬかと思ったわ!」
「もう一匹狩らないといけないから頑張ってね」
「次はアナタがやりなさいよ!」
「嫌だよ怖い!」
押し問答をした後にパリスが押し切られ、今度は囮役をパリスがすることになった。
次の熊を見つけて、パリスは緊張からくる動悸を抑えながら呼吸を整える。落ち着け。たかが熊だ。暴れ狂うアキレウスよりマシだ。なんならこの前、闘牛大会で乱入してきた超凶暴な野牛とバトルしたこともある。負けたが。怯えるほどのものじゃない。
パリスは掛け声を出しながら飛び出した!
「う、おー!」
「……」
パリスの雄叫び! 警戒に値しなかったのか、熊はシケ顔で四つん這いのままパリスを睨んだ。
(パリスちゃん! もっと熊を怒らせて立ち上がらせないと!)
(わかってる!)
興奮した攻撃体勢を取らせてオチンポロンを確認しないといけない。パリスは腕を振り上げたり、「ホッホァー!」と奇声を発してみたが、熊は顔にシワを寄せて「噛み付いたろか」と威嚇するばかりで、立ち上がろうとしない。
まずい。このままだと殺られる。パリスは咄嗟に、声を潜めるように口元に手を当てて熊にだけ聞かせる言葉を呟いた。
「お前の嫁は淫売のクソ雌だったぜ……」
「────!? ガアアッ!」
実績ある寝取り男の囁きが通じたのか、熊が怒りで我を忘れたようになって立ち上がった。確認!
「オチンピック!!」
「合点承知!」
熊の背後へと忍び寄ったアイネイアスが、手に持った人間の頭大ほどの岩で熊をぶん殴る!
ザクロが割れるのと似た音が鳴って熊の頭が破壊された。アイネイアスの手に持った岩が砕けているほどなのだから、どれだけの剛力で殴ったかがわかる。
得意げな顔になっているアイネイアスに、パリスはハッと気づいて警告の声を発した。
「アイネイアス! 後ろにもう一匹──!」
「なぬっ!?」
アイネイアスの背後に別の大熊が近づいており、腕を振りかぶっていた。
咄嗟にアイネイアスは手元に残った砕けた後の小さな石粒を熊の顔に投げつけつつ、尻もちを付くように倒れて腕から逃れる。僅かに爪へと掠った肌が裂けて出血した。
援護するにも熊を脅すために弓は置いてきたので攻撃ができない。
「アイネイアス! お前のこと忘れない!」
「おのれー!」
のしかかって噛み付いてくる熊に抵抗しながらアイネイアスが叫んだとき、ヒュボッという空気を切り裂く音が遅れて聞こえた。
先に見えたのは熊が突然、巨人に蹴飛ばされたように跳ねたところだった。そして近くの木に叩きつけられ、その体を縫い止める槍が深々と木の幹に貫通して突き刺さっている。一瞬で絶命したであろう熊はビクリとも動かなかった。
その光景が見えてから空気が破裂した音が大きく響き、森の葉を吹き飛ばして散らした。
驚異的な速度で飛来した槍の飛んできた先を見ると、腕を振り下ろした姿をした長兄のヘクトールがいた。彼は手を上げて気軽そうに話しかける。
「よう。大丈夫か? なんか熊狩りしてるってアンティポスが言ってたもんで、兄ちゃんも参加させて貰おうかってな」
「ヘクトールちゃあああん、助かったわああああ!」
「いやもうなんか、ヘク兄がやると大人げない威力だよなコレ」
パリスが一生懸命脇腹の骨の隙間を狙って矢を打ったのが馬鹿らしくなる強さだ。ヘクトールはあらゆる武器に通ずるが、その投槍は完全武装したギリシャ兵を数名纏めて串刺しにする威力を誇り、投槍のヘクトールと投石のアイネイアスが城壁の上で構えたらギリシャ軍はアキレウスですら近寄れなかったほどだった。
アンティポスとはトロイアの王子でも異色の若者で、城壁内に住まないでイーデ山で牧童たちの管理をして山の中に住んでいる弟だった。牧畜業者の纏め役というと役人の仕事らしいが、本人も牛を飼ってのんびり暮らしている王子らしからぬ少年だった。
住んでいるところがここイーデ山なので以前から牧童であったパリスとは知り合いでもある。
「で、なんだっけ? アルテミスの祭礼をするとか?」
「そうだった。ヘク兄も熊を解体するの手伝ってくれよな」
「へいへい。今晩はご馳走だな。パリスが取ってきたって教えりゃ親父やお袋、兄弟も喜ぶだろ」
ヘクトールの肩を竦めながら微笑む姿を見て、パリスはふと気づいた。
なんだかんだとヘクトールは、新たに家族になったばかりであり、まだ他の家族と距離感もあるであろうパリスが早く受け入れられるように、狩りで獲物を取ってきたという手柄をくれてやりたいのだろう。
カサンドラも祭礼を行って呪いが軽減されて欲しいと思っているし、日頃王宮に通わずにイーデ山暮らしな弟達の様子を見に来るほどに家族思いである。
パリスは頭を掻きながらさり気ない兄の気遣いに感謝した。
予言の未来ではパリスは家族関係がまったく良い風に発展しなかった記憶もある。なにせ王子になって暫くしたら女神の審判。その後すぐにパリスはヘレネー狂いになってしまい、家族が止めるのも聞かずに部下を使って船造りに邁進。その後ヘレネーを攫ってきたら他の家族とコミュニケーションを取らずに嫁といちゃつく毎日。そして戦争勃発。何一つ、家族に受け入れられる要素がなかった。
ちゃんとオレも家族を大事にしないとな、と思いつつ牧童の手伝いを借りて三頭の熊を解体するのであった。
熊は毛皮を綺麗に剥ぎ取り、即席で綺麗に洗う。なめすのはまた今度だ。
血と内臓を抜いて銀の器に入れる。睾丸も切り取って祭壇に並べる。容赦なく睾丸を切り取る、祭礼に詳しいオイノーネの手付きに男三人は己のタマがヒュンとした。
肉を切り分け、骨を外す。皮を剥いだ頭はそのまま、骨格を丁寧に並べておく。
「切り取った肉と内臓は人間が貰っていいんだ。その代わり骨と血は神に捧げるのが基本!」
「不味そうな部分を神にやるんだな……」
パリスの疑問にオイノーネは当然の知識だと言わんばかりに並べながら解説をする。
「昔昔、獣や家畜を捌いたとき人間に与える部分と神々に捧げさせる部分を決めようってことになったの。そのときに案を出したのが神々を出し抜く知恵者プロメテウスだった。骨の回りに脂と血で作った美味しく見える部分と、肉と内臓を食べられない毛皮で包んだ変な塊をゼウスに差し出して、どっちが神々に相応しいかと選ばせたわけ。そうして全知全能のゼウスすら欺いて、神々は骨と脂と血を受け取る方を選んじゃった」
「ほへー」
プロメテウスという名前の由来は「先を語る者」という意味がある。彼も未来を予知して運命を変える能力を持っていた。
「あとアルテミスは血とか大好きだから。タマタマを切り取って並べるのも機嫌良くなる。前に切り取った牛のタマタマをファッションで服にたくさんぶら下げてたときはちょっと神々一同コメントに困ったけど……」
「怖い……」
※『エペソスの女神』で調べれば大量の丸い装飾を付けたアルテミス像が見られる。乳房をモチーフにしたと言われているが、一説によれば睾丸である。
そして祭礼の準備が整ったので、泉で身を清めてから祈りを捧げ、熊の毛皮を身にまとった乙女──オイノーネとカサンドラが踊りを奉納する。また、イーデ山から集まってきたニュンペーも黄色い布を手にして踊りに混じる。
狩人の神であるのだが処女の神でもあるので、基本的に男ばかりな狩人が祭礼を行うときは村まで降りてきてそこの少女たちに頼むという。特にアルテミスは子供(幼かったら少年でも)を守る性質を持つので、少女が祭礼を行うのは理にかなっている。逆に豊穣の女神デメテルの祭礼の際は既婚女性しか参加できないなど、ルールが様々にあるのだ。余談だがデメテルの祭りでは人妻が裸になってムチを振り回して叩きあい、卑猥な言葉を叫ぶというのはまるで企画モノのビデオみたいである。
幻想的な祭祀の光景をパリスたちは神妙な心地で眺めていた。
儀式が終わった後でふとカサンドラは気になった。
「ところでこの踊りって……乙女が踊るんですよね?」
「そうだよ?」
「オイノーネさん、お兄様の奥さんですよね?」
「……そ、そうだよ?」
「……」
「……」
気まずそうに視線を逸らすオイノーネ。カサンドラの顔が引きつる。
「え!? まだ寝てないんですか!? 一回も!?」
「う、うるさいな! こういうのは雰囲気が大事なの! ボクたちはこう……幼馴染からそのまま流れで結婚した感じだから、劇的な雰囲気が必要なの!」
「寝てないのにお兄様が寝取られた!とか言ってたんですか!? 普通寝てから言いますよ!? そんなんだから(予言の未来の)パリスお兄様も『オイノーネとは一回も寝てないし子供も居ないから離婚していっか』って納得したんですよ!」
「えーいズケズケ言うなあこのお子様は! キミにはまだ早いんだ、男女の付き合いというのは!」
男たちに聞こえない程度の声量で言い合う二人を見ながら、呑気な男衆は「仲がいいなあ」と考えるのであった。
その夜、王宮にてパリスたちが狩ってきた熊の肉が振るわれ、新たな王子パリスは割と評価をあげた。
狩りで獲物を取ってくるというのは王族や戦士としても褒められるべき行いである。いかにして雄熊を見つけて倒したか、パリスは雄弁に語った。
その食卓にて。
カサンドラの席の前だけ、グツグツと煮えたぎる怪しげな霊薬汁が出されていた。
「あの……お母様。これはいったい?」
「母です。飲むといい感じです」
カサンドラの正面の席に座っている母ヘカベーは、感情の見えない目を向けながらそう平坦な口調で言う。食事の場だというのにいつも身につけている魔女姿──とんがり帽子にマントに下着姿をした、妙齢に見える母である。
ヘカベーは出身地がプリュギアなせいか、他の者よりはカサンドラの言葉が通じたり通じなかったりするので、カサンドラは控えめにキュケオーンへの苦情を言ってみる。
「凄く不味そうなんですけど……わたしもお肉がいいっていうか……」
「母です。ヘカテー様もおすすめの品ですよ?」
「うううっ」
死ぬほど苦くて不味いキュケオーンを三口も食べれば、カサンドラはメインディッシュであった熊肉のハーブ焼きがまったく味を感じないようになってしまったという。
神々の好感度変化
アルテミス(^o^)↑
『自分の妻が不満だというやつは嫌いだ。私の妻なんてヘラなんだぞ!』────関係者Z
『ポイント・ブクマ登録をよろしく。感想も僕のタブレットから書き込めるよ。あれ?サポート期間切れてるの?』────伝令神H