30話『舞い降りる翼』
一時的に復活した生命力を失い、再びアイギスの盾に埋め込まれたようになっているメデューサの首。
そこにはメカロスの翼が意匠として加えられていた。
それは後から追加した歪さなどは感じず、あたかもアテナが持つ故に彼女の神鳥である梟か、勝利の女神ニケの翼でも装飾されているかのように自然と溶け込んだデザインだった。だがじっくりと観察すれば縮小されていても、メカロスが組み立てた翼であり羽の一枚一枚がステュムパリデスのもので、僅かに機械的な球体関節部なども見られる。
パリスは盾を手にしげしげと眺めて首を傾げた。
「なんか……翼、盾に埋め込まれちまったな」
『ビガガ。神具ニ吸収サレタノダ。恐ラク使エルハズ……パリス! 祝詞ヲ唱エルノダ! 飛ベ!』
「の、祝詞?」
『吾輩モ叫ンダダロ! チェンジメカアイギス・スイッチオン! アイギスウイング! ソウ叫ベ! エコー効カセテ!』
「ええええ……」
パリスはそれは本当に祈りの言葉なのだろうかと怪しんだのだが、何はともあれ試さなくてはならない。
コホン、と咳払いをして彼は盾を掲げて唱える。
「チェーンジメカアイギス・スイッチオーン!! アイギス・ウイーング!!」
だが何も起こらなかった。声は反響せず、暫くパリスはポーズを維持したままだったのだが、ヒソヒソとオイノーネらが話し合う。
「うわっ本当に叫んだ」
「ちょっと照れが見え隠れしてるでち」
『オイ。気ガ済ンダノナラ起動用ボタンガ頭部ニツイテルカラ押セ』
「起動用ボタンあるのかよ!! しかもお前に!!」
残されたメカロスの頭頂部に赤いボタンがついている。パリスはやや顔を紅潮させながらツカツカと近づいて、力強くそのボタンを押した。
そうすると盾の彫刻のようになっていた翼がせり出るように大きくなり、盾の両側から大きな黄金色の翼が広げられた。盾本体よりも巨大に見える翼が収納されていたことが不思議だが、この盾自体がサイズ可変なのでそういうこともあるのだろう。
「おおっ! 翼が動く! ってうおわ!? 飛ぶっ!?」
片手で盾を保持したままだったパリスはそのまま宙吊りになって空に上がっていく。グングンと上昇していく盾に慌てて両手でぶら下がって体勢を整えた。
どうにか動きを落ち着かせようと、盾を掴んだまま止まるよう念じると翼は羽ばたきながらも一旦空中に静止する。既に島の木々よりも遥かに高いところで、風が吹き付けて体を揺らした。
下に見える仲間たちの姿は小さくなっており、いざとなればベレロポンのように着地しようと考えていたのだが、この高度から果たして本当に大丈夫なのかと不安になって掴んでいる手に汗が滲む。
「えーと……下に降りる! っっっうわーっ!」
パリスが口に出して命じると、垂直にゆっくりと下がっていくのではなく、猛禽類が地上の獣を狙うかのような角度と速度で地上へと高速飛行を始めた。急制動にぶら下がっているパリスの体が振り回される。
「ストップストップ!! ぐえーっ!!」
そう叫ぶと今度は制動距離も殆どなく、急加速中にピタリと止まったので危うくパリスは前方にふっとばされるところであった。
「ゆ、ゆっくりと垂直方向に下降!!」
今度は具体的に指示を出してみると、ようやく命令に成功したのかパリスのイメージ通りに、じわじわと地上へ向けて降下していく。
ほっと一息ついてパリスは地上に降り立ち────そのまま翼が作る凄まじい下降のエネルギーで、ズブズブと地面を潜っていく。まるで透明な巨人に押しつぶされていくかのようだ。砂浜だから沈んでいくだけで済んでいるが……
「ぐああああ潰れるぁあああ!!」
『ハデス形態チャレンジカ? マア肉体強度ハ持ツカ分カランガ』
「ストーップ! 移動キャンセル!! 戻れーっ!! ってぎゃあああー!! 飛行能力解除ー!」
パリスが戻れ、と言ったので今度はまた上空まで再び飛び上がってしまった挙げ句に解除が遅かった。上空で翼は再び待機状態に戻り、浮力を失ったパリスが地面に落ちる!
「ぬあああベレロポン着地ィー!!」
ペガサスから落ちた英雄ベレロポンが編み出した着地法。足首、膝、腰、肩と関節を曲げながら順番に衝撃を受け身することにより落下のエネルギーを分散させる技術だ。これを土壇場でパリスは成功させた。
砂煙の中から勢いよく立ち上がるパリスは「死ぬかと思った!」と叫び、改めて飛行能力が生まれたアイギスを掴んで疑問を叫ぶ。
「盾でこれって、ヘルメスの空飛ぶ靴って実は凄いバランス難しくないか!?」
『使イ方ガナッテナイダケダロウ。吾輩ガ初メテ飛ンダトキハモット優雅ダッタゾ』
「手で持つからバランス悪いんじゃない? 背負ってみれば?」
「だよな……そもそも手で持ってたら剣も弓も使えないし」
アイネイアスだってせめて盾に乗っていたのだ。どう考えても、しがみついて飛び回るのは間違っている。
盾ならばいつも背中や肩に回すようの革紐があるのでズレないように背中に固定する。
「大丈夫? 背中の皮をズルっと引き剥がして盾だけ飛んでいったりしない?」
「怖い想像は止めろよ! ……ゆっくり上昇!」
やや不安になったパリスだったが、そう声に出してイメージしたところ再びアイギスから翼が伸びて現れ、パリスをふわりとした緩やかな速度で空に浮かべた。
先程の飛行とは違って不安定さはなく、パリスとしても「誰かに背中から持ち上げられて空に浮かんでいる」というよりは「体から重さが消えて自然と浮かんでいる」といった感覚がある。
まるで自分が空を飛んで当然のように。鳥のように羽ばたくことをイメージするでもなく、自分が風の一部になったようだった。
「うわ……なんか雰囲気が風神っぽくなってるよ、キミ」
オイノーネが感心したようにそう告げる。アネモイは主要な神格以外はそこら中にいる風そのものの精霊に近いのだが、まるでパリスが精霊に転化してしまったようでもあった。
「アンブロシアを与えすぎて体がちょっと神化しやすくなったかな……」
「ちょっとオイノーネさん!? 怪しげな副作用を隠してませんかね!?」
『模造呪術ニヨリ擬似的ナ神性ヲ得テイルノダロウ。今ナラ風ニ乗ッテ自在ニ飛ベルハズダ』
「……まあともあれ、試運転がてら行ってみる。なんか今、すげーオレ飛べそうな感じなんだ」
パリスはそう皆に言うと、島の上へと飛び上がって何度か上昇に下降、旋回して体を空に慣らす。
背中に張り付いたようになっているアイギスはズレることも振り回すこともなく、また鳥よりも早く空を飛んでも風が彼の体へと強く吹き付けることもなかった。
オイノーネの言ったとおりに擬似的に風神に近しい存在になっているために風が邪魔することもないのだ。ヘルメスの靴を履いたペルセウスが風圧でやられないのと同じく、神々の力に守護されていれば飛行に支障は無い。
上昇しても太陽の熱で溶けることはなく、海面すれすれを飛んでも湿気で羽が崩れることもない。完成度でいえばダイダロスの作ったものよりも上である。
弓を取り出して構えたり、宙返りしても背負った盾と翼が動きを阻害することはない。敢えて言うならばアイギスを背にしているため、飛行中はこの盾での防御や石化光線は使えないぐらいだろうか。
自由自在に空を飛び回るパリスを見上げてオイノーネは感嘆の声を上げた。
「ほえー、本当に飛び回ってるよ。できるもんなんだねえ、人間の発明品の後付けで」
ギリシャ世界で人が空を飛ぶにはそれこそ神々の道具を使うか、特別な血筋が必要である。一からの発明で空を飛んだのがダイダロスであり、今それを完成形にしたメカロスは人間でありながら神の領域に近づいたのである。
「いずれキミも発明の神に遇されるかもね」
『……ソウカ。吾輩ノ……翼ハ……空ヲ……飛ンデイルカ……ビビ』
自分が作った道具が見事な姿を見せているというのに、メカロスから無機質なノイズの掛かった声が発せられた。
神々に認められてその持ち物に取り入れられる道具など、おおよそギリシャ中の発明家、職人、芸術家が命を削って、家族や身分を捨てて、一生を費やしてでも叶わないような栄誉であるというのに。
「うん? ほらあそこに……」
オイノーネがメカロスの頭部を掲げてよく見えるようにしてやるが、メカロスの目に灯っていた光は弱々しく点滅を始めた。
メデューサに心臓部まで食い破られたメカロスにはもはや一滴も彼の血は残っておらず──僅かに活動していた頭部も静かにその動力を失いつつある。
その目では遠くを飛ぶパリスの姿も見えなかった。
だがメカロスは暗くなった視界の中で幻視する。自分が、父が、パリスが空を翼で自由に飛ぶ姿を。
出来ることならば父に使って欲しかった。
自分も空を飛びたかった。
彼と共に、誰に憚ることなく。
だがもはやそれは叶わないことだ。ダイダロスは既に死に、彼も逝きつつある。
だから……せめて、パリスが代わりに。
鉄の勇気を受け継いでくれればと、最後にそう願った。そう祈った。声にならない言葉を叫び、見えない目で見送った。
『……勇気一ツ……友ニシテ……飛ビ……タテ……』
「メカロス?」
オイノーネの呼びかけにも、もはや金属の一部は応えることはなかった。
そうして。
肉体的にはとうの昔に死んでいて、執念と技術によって生き延びていた機械仕掛けの発明家は。
その魂は静かに抜け出て、冥界へと送られていった……
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空を自在に飛べることを確認していたパリスは、そのままハルピュイアたちにも挑めそうだと意気込んでいた。
恐れはなにもなかった。メカロスの発明による翼はイメージ通りに空中を飛び回ることができる。今ならばペガサスとだってレースができそうな気分だった。
「──っと、いかんいかん。傲慢は破滅フラグだぞ、オレ」
あまりの開放感からつい増長しそうな自分をパリスは戒めた。そもそも愛の女神から加護を受けたという野心でトロイアごと破滅することになった記憶を持っているのだから、そこらの英雄などよりも自制心は高かった。
ギリシャ世界でも重要視され、そして物語上は多くの者が軽視した結果不幸が訪れるのがヒュブリスという概念である。
神は傲慢な者、自分が神に匹敵すると思い上がった者、無礼や侮辱を重ねる者などを罰するとされる。
小さい動物よりも大きい動物の方が雷に打たれるのも、貧者のボロ屋ではなく立派な屋敷に雷が落ちやすいのもそういった戒めである。
翼を得て、神に模造した状態になったからといって驕り高ぶってはならないのだ。
「アポロンとボレアスよ、どうかオレに力を与えたまえ! ……後で祈りの方法とか聞いとかないとな」
アポロンは親しみ深いのだが北風の神であるボレアスへの祭儀などはパリスは知らなかった。ともあれ太陽神であるアポロンの加護が強いパリスなので、太陽で焼け死ぬことは恐らく無いだろう。
なおアポロンはボレアスとも関係が強い。アポロン信仰が強い北方の地はヒュペルボレイオスと言う名で、ボレアスの彼方という意味だ。ここではボレアスの息子がアポロン神殿の神官を務め、ボレアスの住居もあるとされる。
どういうわけかアポロンのお気に入りがパリスなので、ボレアスもアポロンとの交友関係からして真似をして空を飛んでもそこまで怒らないだろう。
「さて……空を飛ぶ目的は自尊心を満たすんじゃなくて、ハルピュイア退治なんだ。いっちょやるか!」
パリスは島の沖、黒々とした霧のような雲が立ち込めて幾つもの竜巻が水柱を上げられている海域を睨んだ。
まるでそこだけ夜のようだ。ハルピュイアの中でも暗黒を司るケライノーがいるのだろう。日の光の差さない嵐の海ではどのような船であろうとも航海など出来はしない。
敵へと向かって全力で飛翔することを決める。彼の飛行能力は自身の想像力で制御している部分が多い。
例えばアイネイアスなどが盾で空を飛ぶ際の速度は、空飛ぶ鳥を意識してそれに近しい速度で飛行していただろう。
パリスは己が知る最大の速度を意識した。
それはギリシャ随一の走者、馬よりも矢よりも早い男アキレウスが全力で走行した速度に等しいものだった。
地上から空を見ていた仲間たちは、遥か上空にいるパリスの姿があっという間に真上から水平線へと向かっていくのを目で追った。
彼の姿は光る矢のように輪郭が見えず、急激な加速によって飛んだ跡には大気が圧縮され結露した蒸気の筋が棚引いている。
実際に飛んでいるパリスからしても、想定以上の速度だ。周囲の景色──といっても空と海しか見えないが、それが一瞬で流れていく。進路上の僅かな角度しか目に入らない。
(はっや……これで地上走るとかアキレウス正気かよ!? コケたら死ぬぞ! そういえばあいつ不死身だったわ!)
アキレウスの全力疾走。パリスも僅かな回数しか見たことがなかったが、実際に体験すると恐ろしい速度だ。鳥でいうとハヤブサの最高速度以上出ているだろうか。アキレウスは新幹線より早い。
救いといえば加護によって風圧は殆ど感じないようになっているため、風速80メートル以上の暴風を顔に浴びなくて済むところだが。
とはいえ戦場では基本的に、アキレウスの足より遅い戦車(それでも通常の倍は早い)に乗っていたし、全速力で走ることなど殆ど無かったのだが、ヘクトールとの一騎打ちで追いかけ回すときは幾度もこの速度を出していた。
当然ながらヘクトールよりも遥かに早いのだが、今パリスが体感しているようにこの速度域だと小回りに難があるので、ヘクトールは路地や建物、堀や罠を利用して上手く逃げ回っていたのをパリスたちは城壁の上から見ていた。
何度か壁に激突して人型の穴を空けているアキレウスを指さして笑ったりもしたのだが、確かに生身で制御可能な速度ではない。障害物の無い空中ですらそう感じた。不死身でないパリスは絶対に低高度で速度は出さないようにしようと思った。
そしてグングンと迫る視界の先に、黒い羽根を持ったハルピュイア・ケライノーを認めた。
「! 見え──ってだから速ええよ!!」
弓を構えるとか回り込むとか考える間もなく、冗談のような速度で接近してしまう。ケライノーも急に近づいてきたパリスに反応しきれない。
咄嗟に帯びていた短剣を抜いて、すれ違いざまに切るというかぶつけることに成功した。剣がもぎ取られるような衝撃が来るかと思って身構えたのだが、思ったよりも腕には負担が掛からなかった。
その代わり、剣の触れたケライノーの足が太ももから切断されて空を舞った。恐ろしい切れ味である。達人が剣を振るう際に剣先の速度は秒速40mほどだが、パリスの飛行速度による突撃はその倍以上の速度ですれ違いざまに斬りつけることになる。
『ギエエエエエ!!』
一拍遅れてケライノーの悲鳴。更に思い出したかのように、斬られた太ももの切断面から血が噴出した。
その間にもパリスは既にすれ違って呆れるほど彼方まで離れている。パリスはなんとか顔を後ろに向けて舌打ちする。
「仕留め損なった……戻れ!」
気合を入れるためにもそう叫ぶと、最高速度のままほぼ直角に進路変更。急激な視界の変化に目を回しそうになるが、何度か曲がることを繰り返しながら再びケライノーへと向かう。
メカロスの翼の機動性は小回りが利くという次元ですらなく、慣性が無視されているように急激な方向転換を行える。光の帯に見える残光を引いて再び戻ってくるパリスを、ケライノーも残った片足で迎え撃とうとしている。その足の鉤爪は歪な形状のナイフのようで、爪に糞毒が塗れているので危険な凶器である。
だがパリスの速度は近づくに連れて増すように感じた。眼の前を通過する時速300km越えの物体は目で追えるような代物ではない。しかもそれが前後左右に急角度で曲がりながらケライノーの周囲を、狙いを定めるように飛び回った。
何度目かの調整をしてパリスは完全にケライノーが自分を見失った位置──ハルピュイアの真上から急転直下の攻撃を仕掛けた。
『ギャッ!?』
悲鳴は短かった。頭頂部から股下までケライノーは唐竹割りになった。左右に分かれた死体が海に落下していく。
仲間がやられたことでもう二体のハルピュイア──アエローとオーキュペテーがけたたましい喚きを上げる。
『ギュエエエエアア!!』
『ギィイイイイ!!』
二体はパリスを前後から挟み込むように動き、それぞれの位置に竜巻を出現させた。
周囲数十メートルを渦巻く竜巻が二つ合わさり無軌道に蠢く乱気流が生まれ、大気の摩擦で雷すら生まれた。
さすがに超高速で飛行できるパリスであっても──いや、だからこそそんな速度で竜巻に突っ込めばどこに飛んでいくかわからない。下手をすれば海面に叩きつけられて粉々になってしまうだろう。
更に竜巻にはハルピュイアの毒性のある糞尿が混じり、目も開けていられない雨粒が吹き付ける。竜巻は毎秒100メートルにも達する猛烈な風が発声し、当然ながら巻き込まれている水滴などもその速度であたってくる。
風に関しては加護によって防げているため風圧で手足が千切れるようなことはないが、付属する雨は別であった。
「くっ! 翼よ、防げ……るよな!!」
パリスは背中の翼を前面に回して自分の体を包み、防御体勢を取った。羽ばたかずとも、これ程の強烈な風の只中ならば浮遊し続けられる。
だが彼の動きが止まったときにアエローが攻撃に動いた! しわがれた老婆のようなかすれ声の不快な叫びを上げる!
『竜巻疾風脚ゥゥゥゥアアア!!!』
竜巻の風に乗るように高速回転しながら、凶悪なる蹴爪を振り回して接近してくるハルピュイアはまさに触れただけでズタズタに生物を切り裂く刃物の嵐。
パリスが速度を活かして突撃したように、竜巻の速度を加えたアエローの一撃は骨をも容易く切断する威力を持つだろう。動けないパリスへと向かって殺戮の風が突っ込む!
だが。
翼ごと切り裂こうとしたアエローの蹴り足は敢え無く砕け散った。爪が残らず根本からへし折れ、足首から先が衝撃で千切れるほどだった。
並の盾や鎧ならば恐るべき魔獣の攻撃に耐えられなかっただろうが、その翼はもはやギリシャ世界最硬であるアイギスの一部なのだ。到底破壊可能なものではない。
盾にした翼の前で防がれたアエローが動きを止めたこと察したパリスは即座に叫んだ。
「防御解除!」
単にパリスは守っている翼を広げてから攻撃しようと思ったのだが、その動作には副次効果が発生した。
メカロスの翼、その並んでいる羽根は一つ一つが金属質に研ぎ澄まされたステュムパリデスの羽根である。その羽根が頑丈な翼本体に組み込まれて表面に張り付いた結果、翼は叩きつけるだけでも斧のような刃物として使えるのだ。
翼を広げると同時に、正面にいるアエローに叩きつけた結果──アエローの首がいとも容易く切断された。悲鳴すら上げることはできなかった。
「こ……これが飛行型に付けようとか言ってた斧か……?」
単純に空を飛ぶ道具かと思ったらかなりの威力を持った武器にもなる。アイギスの盾に物理攻撃の能力を追加したようなものだ。
思わぬ武装に驚いているパリスと、姉妹が次々にやられてアエローが維持していた竜巻も掻き消えたことで、残ったハルピュイアのオーキュペテーは即座にパリスへ背中を向けて逃げることを選択した。
「逃がすか!」
ここで仕留めておかなくては航海中に狙われては厄介だ。今は姿を現しているが、ハルピュイアは竜巻の化身。本体が隠れたまま延々と船に向けて竜巻を向けられては対処できない。
逃げるハルピュイアを最大速度で追いかける。数十メートル先に捉えたが、暫く飛んでも距離がつまらない。
彼女の名は早く飛ぶ者。名が力を表すギリシャ世界において、高速飛行の概念を持つ魔獣故の速度だ。
パリスも風神の加護を得て風のように空を駆けるが、それは相手も同じこと。
鳥と鳥の速度勝負ならまだしも風自体が風に追いつけることはない。アルゴノーツの英雄、風神ボレアスの子である有翼の英雄カライスとゼーテスがハルピュイアを追い詰めながらも相手が疲労困憊して墜落するまで捕まえることができなかったのは、風同士は追いつくことができないという法則に基づくものだ。
曲芸飛行のような軌道で振り切ろうとするハルピュイアと追いかけるパリスの勝負は長引くかに思われた。
だが、パリスとカライス達では違いがあった。
『ギイイイイ!?』
オーキュペテーが飛びながら首だけ振り向いて悲鳴をあげる。
距離は縮んでいないのだが、まっすぐ彼女へと向かって飛んでいるパリスは……既に弓を構えて狙っているのだ。
カライス達のように剣しか持っていないと追いかけることしかできないのだが、パリスは遠距離攻撃の手段を持っている。
『ギュアアアア!!』
オーキュペテーが威嚇するように叫びながら、左右に揺れて飛び始めた。飛んでくる矢を避けようという算段である。
更には後方から追いかけてくるパリスへ向けて、羽根をむしって散弾のようにばら撒いた。
ステュムパリデスほどではないが魔獣の強靭な羽根は高速飛行によって鋭さを増し、更には糞毒が染み付いている。かすり傷でも危険な攻撃であった。
「ほんとバッチイなこいつ!」
パリスは構えていた矢を次々に射つ。力を蓄え、黄金の輝きを見せたレーザービームのような射撃が幾筋も放たれ、飛行経路上にあった羽根を掠っただけでも摩擦で炎上させ吹き飛ばした。
必死の抵抗で何度もオーキュペテーは追いすがるパリスへと毒の羽根を飛ばしてくるが、その度に回り込んだり撃ち落としたりしてパリスは躱し続ける。
そしてオーキュペテーのその行動は、パリスに致命的な隙を見せることになる。
羽根をばらまくことに必死になってパリスの方を見る余裕が無くなっていた。
彼女としてはしっかりと弓を引く彼の方を意識し、発射の瞬間を見てから避けるようにすれば必然として回避されたであろう。
だがオーキュペテーは、飛行してきた相手への驚嘆と仲間が既に殺された恐怖により、動転しながら逃げ回っているのだ。落ち着いて相手の攻撃を見切ることなど不可能であった。
左右に動くオーキュペテーの動きをじっと観察して、パリスは集中した。
相手は幾分羽根を失ったせいか動きが鈍くなっている。
夜闇の中でも当てる集中力を研ぎ澄ませ、同じく高速飛行している目標へと狙い定めた。
(速度でいえば、オレもお前もアキレウス並の速さで戦っているけどよ……あいつよりは当てやすいだろ!)
遥か遠くからエーゲ海の空を見たならば、光と鉄色の筋が空中でジグザグに動き回り、踊っているかのようにも思えた光景。
オリュンポスの神々も興味深げに眺めている。
アフロディーテとヘラはハンカチを噛んで今にもハルピュイアが負けそうなことに立腹していた。
アポロンはポセイドンを宥めるためにセイレーンたちを連れて彼の海の神殿へと向かっていた。パリスに倒されたケライノーはポセイドンの愛人であり、義理を通しておかないと非常に面倒だ。
アテナは得意げに自分が支持する英雄の戦いと、そして進化したアイギスを愛おしそうに見ていた。
アレスは自分の娘が手伝ったということは自分の手柄だと胸を張って自慢し、アルテミスは自分が加護を与えているのだと主張した。
ヘパイストスは直されつつあるリムノス島の神殿に腰掛けて、魔改造され続ける自作の盾にため息をついていた。
イーデ山の山頂にも土地の神々が集まり、ニュンペーのヘスペリアは周りを憚らずにパリスへとエールを送っていた。
神々だけではなく、ペーリオン山の山頂ではケイローンがアキレウスを肩車し、他の生徒たちも呼んで見物していた。彼の視力ならばより詳細に解説できて、多くの生徒たちはそういった英雄と怪物の戦いに憧れた。
イオルコスではアルゴー号の完成を待ちつつ集まっている英雄らが、あれは何だと言い合っていた。イアソンは「空を飛べればパッと行って金羊毛を取ってくるんだが」と物欲しげに見ていた。
天変地異にも近い海上での何者かの戦闘は各都市の王族などにも興味を持たれ、彼らの多くは高台に城や屋敷を持っていたのでそこから遠く海上で飛び回るそれを見て、占い師などに詳細を尋ねていた。スパルタの王宮では危険だという侍女の制止を無視して王妃ヘレネーが塔の天辺に腰掛け「ふーん。面白いのう」と笑みを浮かべた。
中々に英雄と魔獣が決闘を行っているところなど目にすることはできないのだから、エーゲ海に面したところならば残光を見ることができるその戦いは誰にとっても見ものであったのだ。
それは闇を追いかける光から、更に一際大きい光線が放たれることで終わりを迎えた。
矢よりも速い高速飛行中に、更に前方へと剛弓によって放たれた強力な一矢は射線にあった大気中の水分を次々に蒸発させて泡のような筋を残しながら進んだ。
全力の飛行と羽根を失って疲弊していたオーキュペテーの胸を貫通し、流れ星のように空中で燃え尽きて消える。
胸に大きな風穴を空けたオーキュペテーは海に墜落し──彼女の落ちたところにはよく渦を作る岩礁が生まれたという。
「っしゃあ! 勝利ー! ……なんかこー、スパッと勝つって久しぶりな気がして気分いいな! ……久しぶりっていうか初めてか? いやでもヘレネー強奪作戦はスパッと上手くいった気がするし……」
イーデ山で吸血鬼に襲われたときは勝てないのでヘクトールに時間稼ぎを任せて夢世界を解除したり。
ステュムパリデスの鳥は大音響で追い散らしてるところを一匹だけ捕まえたり。
こうして正面から挑んで怪物に勝つというのはパリスとしても自信が生まれそうな偉業であった。
「まあいいか。よし、とりあえず島に戻ろう。メカロスも喜ぶだろうな。今度は自分を飛ばせろって言うかもしれないけど」
そうして、パリスは皆がいる島へと飛行していく。空が飛べても一人だけではステュムパリデスの鳥も運べない。
ハルピュイアも退治したのだから、今度こそスパルタ目指して旅の再開である。陽気に鼻歌を歌いながら、パリスは幾分緩やかな速度で空を飛ぶのであった。
──こうして、孤島にて翼を作り続けていた男とパリスたちの話は終わる。
島に戻ったパリスは、突然の別れを悲しみながらも物言わぬようになったメカロスの墓を作ってやり、仲間たちと旅を続ける。
次はいかなる試練が待ち受けているのか、今はまだ誰も知らない。
******
メカロスの肉体から抜け出た魂は、地面の下へと沈んでいった。真っ暗な地下の空間を、青白い炎のようになった魂は彷徨っている。
「おっと!」
声が響いた。メカロスは見回そうとしたが、魂だけになってはどこに目が付いているのかわからず、誰何する声も上げられなかった。
カシャンと小さな音が鳴った。するとメカロスの魂は小さな鳥かごのようなものに入れられていた。
それを覗き込むのは、漆黒の闇が広がる地下世界でも黄金に輝いている青年──ヘルメスである。
「さてさて、僕がカロンのところへ連れて行ってあげるよ。なに、お代は冥界の噂話でいいから」
死出の旅を司る神、ヘルメス。地上で死んだ魂はヘルメス或いはタナトスによって冥界へと送られるとされる。
彼はメカロスの魂を連れて地下世界を飛んで進みながらペラペラと話をしていた。魂だけになったメカロスからは返事もなかったのだが、それでも気にしない様子で。
「僕とタナトス、仕事は同じなんだけどどうも世間体はタナトスの方がイメージ悪いんだよね。なんか死神!って感じで。確かにタナトスは死神だけど、死んだ人を連れて行く神なだけなのにね。どっちかって言うと人を突然死させる神ってアポロンとかアルテミスだよなあ。
仕事内容が悪いのかと思って僕が手伝うようになったら、なんか余計に『死ぬならタナトスじゃなくてヘルメスに送って貰いたい』とか『凡人の魂はタナトスが運んで英雄の魂はヘルメスが運ぶ』とか言われるようになって、悪いことしたかなって。どっちもカロンのところに送るのは一緒なんだけどね。
カロンは愛想悪いけど安心してくれ。彼ってすっっっごく賄賂に弱いんだ。アテナから貰ったオリーブオイルと釣ってきたお魚持ってきたから、それ渡すと快適なクルーズをしてくれるよ。なんであんなに賄賂に弱いんだろうね?
賄賂といえば前にハデスへ賄賂を贈ろうとした人間いるんだけどさ、黄金や宝石を貢いでもハデスはお金持ちだから要らないっていうし、果物を貢いでもハデスは果樹園も持ってるから要らないっていうし、そしてなんと小さい女の子を生贄にして、冥府の裁判を有利にしようと思った男もいたんだ。
いやあその時のハデスのブチ切れ、ガチ説教はリアルで見たかったよね。ポセイドンとかアルテミスとか時々人間の生贄を要求するけど、ハデスには止めておいた方がいいみたい。
そういえば冥界の裁判官に君と仲が悪そうなミノス王がいるのを知っているかい? お世辞にもミノス王は優秀とも敬虔とも言えない男だけれど今は冥界三巨頭だから、争ったりしないようにね。
ここだけの話、なんでミノス王がそんなにいい立場かって言うと……ダイダロスに冥界の仕事をやらせる際に、口うるさい上司として配置したんだよね。ヘパイストスもそうだけれど芸術家肌の職人っていうのは、やかましく催促するクライアントが居ないと仕事が遅いからさ。あと血筋だけはやたらいいから彼。
冥界でのオススメスイーツはレテ川のかき氷ザクロ味! これはマジで凄い。食べる度に美味しい!って感動して食べ終わったらレテ川の水の効果で、食べた記憶が無くなってるから何度でも初体験の感動を楽しめる。ポイントカードもあるのに忘れてるせいでいつの間にか溜まっててお得な気分になれる……」
(いや話長いな!)
カロンの渡し船につくまで延々と一方的なお喋りを続けていたヘルメスにメカロスは呆れながらも、彼に連れられていった。
どうも話の一部から読み取れることでは、アテナあたりが特別にメカロスの魂を運ぶように命じていたようである。
彼女お気に入りの英雄パリスに手を貸したからか、お気に入りの盾アイギスを改造したからか。
どちらにせよ、冥界の渡し守に供える物すら与えられる厚遇を受けたのは意外であった。
ギリシャでは古来より、死者に金銀などを持たせて埋葬する文化がある。これは死後に渡し守であるカロンへの供物であった。基本的に、ギリシャ世界の死者数とカロンの仕事量は釣り合わないので、彼に渡し賃を払わない死者はそのまま冥界の川に叩き込まれて溺れながら冥府に流されることもある。
なお有名な話として死者の口にドラクマ硬貨を入れて渡し賃にする、という方法もあるがこのトロイア戦争の時代では硬貨が作られていないので、支払い方法が変化した後世の手法だろう。そのうちキャッシュレス決済にも対応するかもしれない。
「カロンくーん! 運送頼むよ!」
「……うむ」
「はいこれおすそ分け」
「……ああ!」
船着き場にいたカロンは隠者のような襤褸を身に纏った、痩せていて顔に深い皺の刻まれたいかにも気難しそうな老人であった。だがヘルメスからオリーブオイル壺とマグロを渡されたら目を光らせて嬉しそうに船に積んだ。
そしてメカロスの魂もカロンの、獣皮で作られている特殊な小舟に乗せられて川を下っていく。ヘルメスは軽く手を振って、メカロスと別れた。
ゆっくりと動き出した船は川の中央近くに移動するに連れて急流になり、早く移動する。川幅は場所によっては両岸が見えないほど広く、また手が届きそうなぐらい狭くもなった。
岸に見える景色は枯れた名も知らない木々や、野ざらしになっている骨と肉。確か昼夜はあったはずだがとメカロスは思うものの、大気を舞う埃や塵で光が霞んでいる。
地面に打ち捨てられたようにある骨、肉、血などの生々しいものは埋葬された肉体の一部がそのまま冥界に来たものだ。そこに、青白い亡者の魂が蝿のように群がっていた。
寂しい土地だ。死んだ英雄が行けるエリュシオンという楽園もあるにはあるが、そんなところに行けるのは極一部。殆どの死者は、この物悲しく虚しい地下世界に死後は向かう。ギリシャ世界に単なる善人や、敬虔な信者がいける天国は存在しないのだ。
(ここが冥界か……陰気であるな。何も楽しみの無い世界とは聞いているが……)
そう思っていると、船上のカロンはおもむろに包丁を取り出して、まな板の上でマグロを捌き始めた。器用にサクの切り身を作り、今度はそれを刺し身よりも細切りに。最後にオリーブオイルと塩を掛けた。
冥界料理、マグロの奈落ステーキである。生肉を使った料理で、魚は海辺の漁師が、馬肉で作る場合はケンタウロス族などが食べる。あいつら半馬なのに馬を食べる。
船上なのに料理して食べるんだ、とかそういえばカロンって家とかあるんだろうか、とか思いながらメカロスが見ていると、彼は視線に気づいたようにメカロスへと赤く輝く目を向けて、ムスッとした声で言ってくる。
「船頭だけに……鮮度が大事」
(は?)
それはギャグで言っているのだろうか。寡黙な冥界の案内人はそれだけボソリと告げて、メカロスの方にもタルタロステーキを木皿に乗せて寄せた。
どうやら食べたいと思われたのだろうか……そもそも亡霊の状態で食べられるのだろうか。そうメカロスも思ったのだが、そこはかとなく近づいたら味わうことができた。美味しかった。
冥界では基本的に──冥府に務めない限りは──食べ物は無い。ただ世界中の冥界に似たシステムがあるのだが、お供物を地上の人間がした場合にだけ該当する亡霊に食料が得られる。
ただしこれは見方によっては残酷なシステムで、いかなる善人、英雄であろうとも次第に死後忘れられていき供物も手に入らなくなる。最初は得られていただけに、徐々に少なくなっていく供物に亡霊ながら絶望することもあるという。
それはともあれ食事を摂りながら川を下り、やがて巨大な館近くにある船着き場にたどり着いた。
冥府、ハデスの館だ。それはメカロスが今まで見た──当時のギリシャでも随一であるクレタ島、クノッソス宮殿(これもダイダロスが作った)よりも遥かに大きく、偉大であった。
惜しみなく壁には金銀宝石があしらわれており、それでいて内装はおどろおどろしい骨色の(或いは本当に骨が材料かもしれない)装飾品で飾り付けられている。扉の無い巨大な門には形のない亡者が列をなして並び、それを赤黒い毛並みをした巨大な三つ首の魔犬ケルベロスが睥睨している。
時折、冥界に落ちたことを信じられないで暴れたり逃げたりする亡者。或いは冥界のこの豪華な館から盗みを働こうとやってきた生者などが現れた際には入り口のケルベロスが排除するのだ。
メカロスも亡者の列に並びじわじわと館の中へと進んでいくことになった。
館の内部で列は幾箇所かに分散させられる。冥界の王ハデス、及び他の裁判官と手分けして裁かれることになるのだ。
メカロスはまっすぐに進む。館の内部も血色の絨毯、冥界の凍るような色で輝く宝石の燭台などで豪奢に飾られ、時折亡者ではない骸骨や、魔物とかしか言いようのない吸血鬼、蛇女などが忙しそうに行き来している。冥府の職員である。
「キャハハハハ! キャハハ! オヤァ? なんか嗅いだことあるような匂いがするよエンプーサ!」
「お前が襲った相手でも死んで来たのか? それよりおい、次はハルピュイアどもが死んでやってくるらしい。下働きにしてコキ使ってやるぞモルモ」
話ながら吸血鬼たちが書簡を抱えながら歩いて行く。人間たちの罪状や罰を記したものは厳重に保管されているのである。
メカロスが黙って進んでいくと、やがてそれこそ神殿そのもののような巨大な机に座る、巨人のような男の前に通された。
全身から漂う死と闇の気配。威厳のある漆黒の髭面に、凍てつくように厳しい目つき。彼の座る背後にはまるで大樹をそのまま削ったかのように巨大な槍が壁に掛けられていた。
誰だって彼と出逢えばその名を間違えないであろう、冥王ハデス。人々が死後、平等に罰せられることを祈られそして叶える大神である。
『ふう……次の者……ふむ、ダイダロスの息子イカロスか……』
地の底から湧き上がる溶岩が蠢くような、或いは夫婦関係で悩み事が尽きないような低く響く声でそう呟いてからハデスが運ばれてきた書類をちらりと見る。
『傲慢の罪はあれども生前に墜落という形で罰は与えられている……それ以外はさほど、善悪には関わっておらぬようだ……』
冥界の裁きは概ね、どれだけの罪があって何年冥界で過ごすかが決められる。判決された年数を冥界で過ごし、そして魂はレテ川で記憶を失った後に地上へと転生する。
ただし余程の罪がある場合は罰も受けることがある。例を挙げれば死神タナトスを騙し、冥界の女王ペルセポネすら騙した稀代の詐欺師シシュポスは重罪で、巨岩をひたすら坂の上に押し上げ続けてはスタート地点に転げ戻るという罰を延々と受けている。
とはいえ基本的に冥界で過ごす、というだけで殆どの者にとっては悲しく、つらい罰に等しい環境だ。神話でもアキレウスはその死後、冥界で死者たちの管理者として君臨していたが、オデュッセウスが訪ねてきた際には「冥界の王になるより地上で貧しい農夫でもやってた方がマシだ」と泣いていたほどだ。
メカロスはその点ではそこまで特記することのない人生であった。ダイダロスの息子として生を受け、父の手伝いをして幽閉されその後墜落。あとはひたすら飛行ユニットの研究と、最後に完成させただけだ。
『まあ……冥府に30年といったところか。では次の者……』
ハデスは無難な判決をした。大きな罪のない者は、地上で過ごしたのと同じ程度の期間を冥界で過ごして開放されることが多い。
そうしてメカロスを下がらせようとしたところ、ハデスの背後から大きな帽子を被った女が書簡を持ってやってきた。鍔の広い帽子と長い外衣のみを身に着け、その下は裸体を晒している妙齢の美女である。
「ヘカテーです。イカロスの魂について問いがあります」
『む……ヘカテーか……珍しいな……良いだろう』
ハデスが軽く驚いたように、片目を見開いた。
ヘカテーは冥界の幹部とも言える女神であり、魂の運行を司る。転生や魂の浄化などは彼女の仕事であるのだが、裁判には関わることはない。
立場的にはハデスの下であっても神々としてのキャリアはヘカテーの方が長いため、ハデスも無碍にはできない地位にあった。
ヘカテーは眠そうな顔をメカロスに向けながら、感情の籠もらない声で告げる。
「ヘカテーです。イカロス、貴方には選択肢があります」
(選択肢?)
「ヘカテーです。このまま30年冥界で罪を贖ったならば、その後にオリュンポスの神々が工芸神の一人として迎え入れるようです」
メカロスは驚きの声をあげた……気がした。実際には口の人魂で、何も音は出なかった。
彼の技術によって(他者の協力があったにせよ)生み出されたアイギスの翼。それに、自らの体を機械化して生き延びるというサイボーグ技術が認められ、死後に神へと昇華するという誘いだ。
ギリシャ世界の人間にとっては最上の名誉と言ってもいい。神の血を濃く引く英雄であっても、人間から神になることは稀である。
だが、ヘカテーの声は続く。
「ヘカテーです。もう一つの選択肢は──このまま冥界にて体を取り戻し、ダイダロスの手伝いをするということです」
(……!)
「そうなれば、いかに神に格上げされようとも栄光あるオリュンポスの神とは呼ばれません。冥府の者として、魂が擦り切れて消えるまで仕事が与えられます──どうしますか?」
メカロスの答えは────もう決まっていた。
*****
冥界は限りなく広く、そして荒涼としている。
建築物は数少なく、冥界の各地を行き来する道や水路を作る事業すらまだ完全には終わっていない。
冥界の技術者であるダイダロスは、他に役立ちそうな魂を上司に頼んで集めてもらいながら数多くの工事を手掛けていた。
そんな彼のもとに、新たに技術者が増えるという話を上司から聞いていて迎え入れる準備をしていた。
というわけでダイダロスは新人歓迎会の準備に余念がなかった。彼ら労働者というのは付き合いを大事にするため、最初の宴会で絆を深めるのだ。
宴会ではステュクス川の水で乾杯するのが恒例だ。ステュクス水は神々の間でも誓いの水と呼ばれる特別な力を持つもので、これを飲んで「労働組合は作らない」とか「働かせていただいているという感謝の気持ちを持つ」「できないは禁句」「全員が個人事業主」などとブラックな内容の誓いをしておけば、最近の若い者も逆らわなくなる。
死んだ目をしている(死んでいるためだろう。おそらく)部下の労働亡霊たちを集めて、アットホームな職場感のある宴会場をセットしてから彼は新入りを待っていた。ダイダロスは社畜であり鬱気味であり、そして部下もそうなるようなシフトを組んでしまう男だった。
そして──彼がやってきた。ダイダロスは、大きく目を見開いて驚いて迎えた。
『親父殿……会いたかったビガー!!』
「メカだこれー!!」
急に抱きついてきたドラム缶型のメカに、ダイダロスは思わず絶叫するのであった……(彼の住んでいたクレタ島のメカ、タロスに抱きつかれたら焼かれ死ぬため)
イーカロス
出典: ギリシャ百科事典『メティスペディア(Metispedia)』
イーカロス(古希: Ἴκαρος, ラテン文字化:Īkaros, ラテン語: Icarus)は、ギリシア神話に登場する人物の1人である。
蜜蝋で固めた翼によって自由自在に飛翔する能力を得るが、太陽に接近し過ぎたことで蝋が溶けて翼がなくなり、墜落した。
イーカロスの物語は人間の傲慢さやテクノロジーを批判する神話として有名である。
長母音を省略したイカロスや、ラテン語読みのイカルスとも表記される。 また俗称だが、機械仕掛けの・イカロスを略してメカロスとも呼ばれる。
神話
伝説的な大工・職人ダイダロスとナウクラテーの息子。母ナウクラテーはクレータ島の王ミーノースの女奴隷である
ラビュリントスの攻略法をアリアドネーに教えたことでダイダロスとイーカロスの親子は王の不興を買い、迷宮に幽閉されてしまう。
彼らは蜜蝋で鳥の羽根を固めて翼をつくり、空を飛んで脱出した。
父ダイダロスはイーカロスに「蝋が湿気でバラバラにならないように海面に近付きすぎてはいけない。それに加え、蝋が熱で溶けてしまうので太陽にも近付いてはいけない」と忠告した。
しかし、自由自在に空を飛べるイーカロスは自らを過信し、太陽にも到達できるという傲慢さから太陽神ヘーリオスに向かって飛んでいった。その結果、太陽の熱で蝋を溶かされ墜落死した。
ただし異説[1]によれば、墜落したイーカロスは生存しており、島(現在のメーカリア島)に漂着。自らの体を青銅の機械仕掛けに改造し、翼を再び作ろうとしていた。そこにトロイアの王子パリスの乗った船がやってきて、彼らの協力によりアイギスの翼と呼ばれるものを完成させ、パリスはそれを用いてハルピュイアを討伐したとされる。
このことからイーカロスは「失敗に諦めない」神話としても知られている。自分を機械化したという逸話から、義肢の神として崇められることになった。
死後イーカロスはヘルメスによって冥界へと連れられ、ダイダロスと再会した。その後ダイダロスにより機械の体を改造され、ギガントマキアではヘカテーの下で巨人と戦ったとされている。
メーカリア島
イーカロスが墜落して流れ着いたとされる島。島には神話の通りアーモンドが大量に自生している。
近年の発掘調査で歯車やネジ、滑車のような形状の金属や石器が見つかっている。年代測定によると紀元前14世紀から17世紀頃だと見られ、もしそうなら世界最古の遺物だということで調査が進められている。
脚注
[1]デルポイのアポロドロス著『がんばれパリス王子 きらきら道中 僕が英雄になった理由』
『……はい、はい。ええ、ちょっと、すぐに書けますんで、ええもうバッチリです。ムーサからバリバリ受信してます。だからちょっとだけ待っててください』────デルポイのアポロドロス
『そうやって休載するつもりなんでしょう! 予言でわかるんですよ!』────デルポイの編集巫女
四章終了!
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