27話『雨に打たれながら』
古代から人類は船や建物など大きな建造物を作って生活をしていた。
地中海どころかアフリカ沿岸を旅して回った海洋民族の船や、エジプトのピラミッド、ギリシャ各地にある神殿など正確な測量や計算がなければ作ることなど不可能である。
当然ながら作るのは多数の人間が必要であり、それぞれが工程を把握していなければならない。
だがどうやって皆がそれを共有していたのだろうか? 監督による指示は当然あったであろうが……
『ビビビビビ……お前たちはこの図面通りに木材を加工し、組み合わせていけ。船の木材も図で示している部分は一旦剥がして設計からやり直す』
メカロスが砂浜に棒切れで船の修理改造に関する設計図を描いて見せ、奴隷やアマゾーンたちに指示を出していた。
正確な絵で解説されたそれは殆ど船の修理に関しては素人同然であった皆にとってもわかりやすく、必要なノコギリなどはメカロスが自分の腹部から取り出して渡していく。
設計図。
それはこの時代において画期的な手法であった。
なにせ同時代の建造物に関する設計図は一切後世に残っておらず、図を描いて作り方を示すということは行われていなかったのではないかと考えられているのだ。ギリシャのパルテノン神殿、エジプトのピラミッド、メソポタミアのジッグラトなど明らかに国家規模の大建造物ですら設計図が無いのである。(設計図はあったが、朽ちやすいパピルスなどに記されたから残らなかったという説もある。それにしても一切残っていない)
神話の世界でもイアソンのアルゴー船、トロイアの城壁などなど作り方も寸法も不明だ。
しかし、クレタ島の迷宮図形だけは記録が残っているのである。ダイダロスやメカロスの先進的な発想によってわかりやすい指示を出された皆は手を余すこと無く働くことができたのだ。
「へえ、こんな図で分担して作らせる方法があるんだな」
パリスが感心してそう言った。彼にとって身近な技術者というと、トロイアからリムノス島まで乗った船を作ったペレクロスなのだが彼は殆ど一人で仕事をこなし、船を作っていたのである。
それもまた超人的であるのだが、他にいる普通の船造技師たちも作業員がそれぞれ熟練して手順や工法を把握していて、親方が細かに指示を出して作っている。
『ビガ。父ダイダロスは大規模な建造を求められることが多かったからな。クレタ島の船団を作ったり、短納期で迷宮など作らされるのだから集めた作業員を上手く使わねばならなかった。そこで設計図を思いついて作業能率アップさせたのだ。偉大なり……』
特にミノタウロスを閉じ込めたラビュリントスはまさにミノタウロスが生まれてから設計・着工して閉じ込めに成功したのだからかなり納期が短かった。
巨大迷宮の石組みを正確に並べさせるにはそこらの無知な奴隷たちでは混乱して難しい。急に舞い込んだ迷宮づくりの仕事なので熟練工を集めることもできなかったので、図で示してやる必要があったのだ。
「それにしても船の形もガラッと変わるんだな」
設計図によればそれまで普通のギリシャ沿岸で使われている平船に近い形だったのが、船底にステュムパリデスの檻を置く船室と重りを配置しているために全体的に縦に大きくなっている。
『フェニキア人の交易船を参考にしている。重りを船底に入れておくことで大波を受けて転覆しそうになっても振り子のように位置を復元してくれるのだ』
「ああ……島を出てもまた嵐に襲われるだろうからなあ」
「あいつら陰湿なんだよねー。数も多いからなだめるのも大変で……」
海の神は一度怒らせると執念深い。それこそ牛や女子供、赤子などを生贄にした儀式でもやって怒りを収めなければ延々と祟ることに、パリスとオイノーネはげんなりとした表情になった。
それこそゼウス・ポセイドンあたりが宥めれば収まるのだったが、割と若い神であるアテナでは難しいかもしれない。アテナは各地にある神殿が殆ど丘の上に作られていることからわかる通り、丘や都市の女神であって海とは関係が薄いのだ。
「……スパルタでアレスに呪い解いて貰ったら、なるたけ陸路で帰るか……」
「飛行する道具作ってるならいっそ船を飛ぶようにしてよ。ヘリオスの黄金船みたいなの」
『作れるわけないだろそんな神具! 理論的に考えろ! 人間の船が空飛ぶわけがない! 神の力で無理やり飛ばしてるんだあんなの!』
「ダイダロスの羽もどう考えても理論的に飛ばないだろ……」
『これだから素人は! 待っておけ、ちゃんと父の理論に基づいた完璧な飛行翼を作ってやる!』
大まかな船の部品や修理などはメカロスが指示を出して船員たちにやらせつつ、彼は繊細な作業が必要となる飛行翼を手ずから作っていくのであった。
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船の修理から生活物資の補充まで、パリス一行に暇な時間は無い。だが彼らの協力がメカロスの発明力に加わることで、より効率的に活動できるようになっていった。
特に役立ったのがカサンドラが調合した『プロメテウスの油』である。これを燃やして発生する冥界の炎は火力が高い上に燃焼効率が非常によくて少量の油でも燃え続ける。
これを使うことで薪やアーモンドオイルなど燃料を抑えつつ、強力な炉が作れた。これによって数少ない金属材を溶かし、釘や鎹を作って船の木材を組み合わせる。
『金属が足らん! 砂浜にある砂鉄をこのマグネットで集めるのだ』
「なんだこの石?」
『鉄鉱石にゼウスの祝福が与えられた石で、金属とくっつく性質を持つ』
つまりは磁石である。天然磁石が発見、命名されたのは古代ギリシャであり、マグネシアと言うギリシャ北部の地方で磁鉄鉱が大量に取れた。地名マグネシアがマグネットの語源である。
ゼウスの祝福というのはその磁鉄鉱に雷が落ちることで磁気を帯び、磁石としての性質を持つようになるのである。
それを使って浜辺で砂鉄を集め、強い火力で鉄を生み出すことができた。
また煮炊きにも便利で魚の素材で膠を作って接着剤として船の隙間を埋めることができた。膠と蝋を組み合わせることで耐水性を上げていく。
それに海水を蒸発させて真水を生成するのにも役立った。
「へぇー、海水から真水ってこうやって作るんだ。知らんかった」
「ボクも知らなかったなあ」
『これだから無知蒙昧な愚民どもは……原理を考えれば当然わかるだろう! 海の水が蒸発して雲を作り、雨を生み出す。それを極小規模で再現しているのだ』
こうした海水を精製する機構は18世紀から19世紀頃に発明されたと一般では言われているが、古代でも蒸気が水に還元されることは判明していた。
最古に発明したのはメソポタミア文明の祭儀であるという。
メソポタミアの神話では塩水の神と淡水の神が争ったことも描かれ、そこから塩水から淡水を分離させることを祭礼の儀式として行われていたという説がある。
ただし古代の土器による密閉度の低い蒸留であったことと、メソポタミアの土地では燃料も豊富でなかったことから作られた蒸留水は一般に飲まれるほどの量ではなかったようだが。
科学とは自然の営みを理解するための学問と言われるが、独自に同じ方法へ行き着いたメカロスはその着眼点を確かに持っていたのだろう。
鳥がなぜ空を飛ぶのか。油がどうやって固まって蝋になるのか。火が燃えると空気が動くのはなぜか。空を飛ぶにはどうすればいいのか。疑問に感じたことに関して理解を深める行為が科学であり、信仰でもある。
「ただしこの炉、料理には使わない方がいいですよー。冥界の炎で料理すると、下手すれば冥界の食べ物になって現世に帰れなくなりますから」
「ペルセポネの二の舞だ。っていうか攫われたのに呑気にハデスから出されたザクロ食べるって凄いよねあの子」
冥界の女王ペルセポネは冥界に生ったザクロの果実を四粒食べたことで冥界に住まうことになってしまった。冥界の食べ物を食べた者は冥界の者になるという決まりがあったのだ。
「そんなヤバい火を気軽に振り回さないで欲しいぞ……竈の火として使っても駄目なのか」
「黄泉竈ってやつだね。ヘスティアの竈とは完全に性質違うから。っていうか地上の神々なら誰でも、冥界の物食べたらアウトだって知ってるはずなんだけどねペルセポネも。そもそも神ってデメテルでも怒らせない限り基本的に空腹にならないわけで、ペルセポネが食いしん坊なわけじゃないはずだから……案外アレでハデスのアプローチ上手く行った結果なのかな」
「お金持ちで土地持ちですからねハデス」
「全部冥界だけどね……」
冥界であることを気にしなければ、宝石に囲まれて(地下資源である宝石はすべてハデスのものである)果樹園の世話やペット(ケルベロス)と戯れつつ女王として生活できる環境なのだが。
一応水を熱する分には大丈夫らしい。冥界だって川は流れているのだから。飲むと記憶が消える川とかであっても。
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皆が工作する間、パリスは縄を付けた弓矢で魚を捕る仕事を主にやっていた。ペンテシレイアがヘパイストスの太鼓を海に付けて魚を気絶させる禁止漁をやろうとしていたので慌てて止めたのだ。またネレイデスたちを怒らせる。
海面に向かってヘパイストス製の弓を引いて矢を放つと、海の水は抵抗など無いように矢が数メートルの底まで突き進んで狙った通りに魚を射抜く。
並の竿ではへし折られるぐらいの大魚を引っ張り上げながらパリスは感心した。
「うーん、たしかに強力な弓だよなこれ。でもハルピュイアぐらい離れていて、必然レベルで避けられる相手だと当たらないからなあ……アキレウスとか」
下手するとアキレウスは撃った弓と並走するぐらい足が早い。人間じゃないと思う。しかも踵以外に攻撃しても多少傷ついても死なない上に、鎧はヘパイストス製であった。早い、硬い、強いの三拍子揃った悪夢である。
パリスとて狙った場所には間違いなく当てられる腕前で、鳥や魚など野生動物相手なら動いていても遠距離から射抜けるのだが知恵を持つ相手だと話が違う。同じくトロイア側の弓使いであったパンダロスも無理だと断言した。
具体的にはパリスが矢を放ったのを見て、弾道を読み取り、それから動いて避けられるぐらいの距離や速度を持つ相手だと正面から勝つのは難しい。
もちろん即座に相手が避けた方向へと連射するなど小細工もできるのだが、武芸者ならば矢を切り払ったり、盾で防いだりも容易い。それ故、トロイアではデイポボス相手に近接戦闘からの弓術を鍛錬したりもしていた。
「それでもいざって時の必殺技的なの欲しいよなー、アイネイアスとかペンテシレイアみたいなの」
「でもさ、弓矢の必殺技ってレパートリーが少ない気がしない?」
パリスの独り言に突然返事が返ってきて、驚いて振り向くと帽子を被った若い男が岩に腰掛けながら焼き魚を勝手に作って頬張っていた。
羽つきのスニーカーを履いた足をブラブラと揺らしながら彼は魚をぱくつく。
「僕って伝令係としてあちこちの神話にお邪魔することあるけどさ、世界中で弓は使われていても弓の必殺技ってなんかありきたりなんだよね。『凄く強い一撃を放つ』『半端ない連射をする』『誘導して必ず当たる』……後は『当たると毒や呪いになる』あたりかな?」
「ヘルメス! ……助けに来たって感じじゃないよな」
「もちろん! 通りすがりだよ。誰かになにか伝言があるなら聞いておくけど」
神出鬼没、どこにでも現れる伝令の神ヘルメスは気安い声でそう言った。
ギリシャの神々は人間臭い個性が多いとされているが、それでもオリュンポス十二神クラスになると威光というか圧倒的な神気を持つものだ。気弱なヘパイストスですら、全身から溶岩の如き熱気を放って人間とは隔絶した存在であることが理解できる。
しかしこのヘルメスは本当にそこらで旅をしている青年や吟遊詩人のような、お気楽で愛想のいい人間としか思えない雰囲気で現れては消えていく。
彼は神々の伝令役であるものの人間に化けて市井に紛れていることも少なくないのだ。気まぐれに善行や悪事もして日々を面白おかしく生きている。
「ところで弓の必殺技って……ヘルメス詳しいのか?」
「まあね。僕結構顔が広いんだよ? スカンディナヴィアやエジプト、メソポタミアにインドまで行くことあるから」
「い、いんど……遙か彼方すぎて想像付かないなあ……?」
「ギリシャの神々でもディオニュソスと僕ぐらいしか行かないんじゃない? たぶん」
様々な神としての能力を持ち、知恵を持ちフットワークが軽いヘルメスは広い範囲で人気を誇っていた神であった。
現地の神と習合も数多く行われていて、例えば北欧では主神にして魔法の神オーディン、エジプトでは知恵の神トートや死の神アヌビス、インドでは財宝神毘沙門天などと同一視されたこともある。
それだけあってヘルメスはあちこちの神々と伝手があったのだ。
「さっきも言ったけど弓の必殺技ってそう代わり映えしないんだよね。インドは若干バリエーション豊かな感じするけど」
「どんなのがあるんだ?」
「僕のオススメだと矢を射ってあっという間に馬小屋を作るやつとか。しかも地面を矢で射ったら馬用の綺麗な泉も湧いてくるんだ!」
「……? ???」
矢を射つと馬小屋を作るの行動がまるで脳内でリンクせずにパリスは首を傾げた。
「いやだから、射った矢一本ごとを細い木材にして、爪楊枝を重ねて壁を作るみたいに小屋一つ作っちゃうんだよね。戦場の真ん中で」
「戦場の真ん中で!? 弓矢で小屋の建築なんて曲芸を!?」
「インド凄くない?」
「凄いのベクトルが若干違う気がする!」
もちろん誰にでも出来る芸当ではなくインドの大英雄が行った、敵味方とも唖然とさせた神業の一つなのだが。
トロイア戦争でそんなことをやっても、アキレウスに戦車で馬小屋ごとぶち壊される図を想像してパリスは微妙そうな表情になった。
「それはともかく肝心なのは、弓の必殺技なんて全力射撃も超連射も鍛えれば似たようなことできるだろうって話さ。完全ホーミングはアポロンの金矢を持ってこないと難しいけど」
「やっぱり練習か~……道具はいいんだから、贅沢は言えないよな」
今でもヘパイストスの弓を使えば、並の盾ぐらいなら数枚は貫通できる威力の矢を放てる。これがアイアスの盾でも撃ち抜けるぐらい強力になれば相当に活躍できるだろう。尤も、アイアスの盾は矢よりも遥かに質量の大きいヘクトールの投槍をも防ぐ強度だったが。
あるいは連射だって可能性はある。アキレウスとて、トロイア要塞に接近した際に驟雨のように降り注ぐアポロンの矢にはとても敵わずに近寄れなかった。俊足の足でも逃げ場がないほど打ち込める状況ならばチャンスはある。
ヘルメスは食べ終えた魚を放り捨てながら指を立てる。
「そこでパリスくんにインド式弓術トレーニングを教えてあげよう! 件の矢で馬小屋作る大英雄が考案した画期的な練習法だ! 凄いぞ!」
「え、なになに!? 特別な方法があるのか!?」
「ふっふっふ……」
勿体ぶりながらヘルメスはその、インドで発明された他に誰もやっていない練習の秘技を彼に明かす。
「その方法とは……なんと、夜に練習するんだ!」
「……」
「……」
「え? それだけ?」
「うん。それだけ」
「……」
「いやだって、誰も夜に弓の稽古してるやつなんて居ないだろ?」
「そりゃあまあ……やらないけど」
なにせ時代は神話の古い世界。夕日が沈めば夜闇の世界になる。人々は僅かばかりの明かりに寄り添い、食事をするか眠るかで活動などすることはない。
戦争だってほぼほぼ夜戦は起こらなかった。日が沈めば両軍とも引くのが常識である。古代の戦争において、夜間に奇襲を行って戦う記録は極端に少ない。稀に夜襲をして勝利する話が伝わるが、行われるのが稀だからこそ特記されるのだ。
狩猟も夜に行うことなど無い。現代でも夜間の狩猟は行われないのだから、松明しか無い時代に狼や毒蛇が跋扈する森に入ることは誰も行わないだろう。
そのような事情もあって、夜間の弓訓練もやらなかった。手元と的を照らす松明を用意してまで、睡眠時間や体力を削って夜の訓練を行うぐらいなら昼間にしっかり鍛錬して夜はバッチリ休憩した方が効率は遥かにいい。
つまり、夜闇の中で昼間と変わらずに練習を行うという練習法はある意味画期的というか、いろんな理由もあって誰もやっていない類ではあった。コロンブスの卵というか。それにしたって、そういう練習法を広めたところで流行りそうにない理由も大いにあるのだが。
「おっと、明かりとかは必要無いぞ。パリスだったら目を瞑っていてもある程度弓を射って当たるんじゃない?」
「まあ……それぐらいはできる……あれ? つい勢いで頷いたけど出来るかな!? 難易度高くない!?」
「目隠ししても弓が使えるなら、夜闇の中でも訓練できるとインドの英雄は気づいたわけだね。そうすれば練習時間は他人の倍! 漫然と練習しないで集中力鍛えながらやるのがコツらしいよ」
「集中力ねえ」
「その英雄は集中しすぎて時間を止めるレベルだけど」
「目標高すぎない!?」
どうもその練習法を提案した英雄はマトモじゃないぞとパリスも思うのであったが。
「うーん、まあ確かに最近寝付きも悪いからやってみるかな。夜に訓練」
それにこの無人島で過ごす間は、昼間だと食材集めから道具作りまで忙しくて弓を鍛えている暇があまり無い。
弓を引くには普段日常生活で使わない筋肉を使うので練習を怠れば力が衰えやすく、的に当てる感覚が鈍る。トロイア戦争がいつ起こるかはともあれ、ちょくちょく神々の試練が訪れる状況では鍛えておかねば命に関わる。
大体、眠っていても呪いのせいで心が休まらないのだ。近くにオイノーネとカサンドラがいるというだけで。運動していた方がマシである。
「助言ありがとうヘルメス!」
「どういたしまして。情報代はこの魚でいいよ。ディオニュソスとの飲み会に持っていくから」
サッとヘルメスは手品のように、止める間もなくパリスの捕った大魚を袋に詰めた。
そのまま風のように消え去ろうとしているヘルメスにパリスは慌てて声を掛けた。
「あ、ヘルメス! トロイアの……ヘク兄あたりに、リムノス島でアイネイアスが困ってるから元気な男を百人ぐらい送ってくれって伝えてくれるか?」
「はいはい、通りがかりに伝えとく。チャオ」
そう軽く告げて、ヘルメスは現れたときのように痕跡も残さず──魚を持ち去っていった。
そして消えてから暫くして、パリスは渋い顔で考え直したことを呟いた。
「……アレスに鳥を捕まえたから来てくれって伝言を頼んだ方が良かった気がする」
******
その日から夜ごとにパリスは弓の鍛錬を行っていた。
最初はオイノーネやカサンドラがスケベな眼差しで見守ってきたので、問答無用で眠らせて練習に集中する。
月明かりのみの夜闇では矢を番う指すら当初は見えない。放った矢の軌跡もわからず、何に当たったかも確認できなかった。
果たして練習になるのか。この練習法を思いついたインドの英雄はそもそも、完全な暗闇だろうとも昼間と変わらずに弓を扱える、という前提で始めたのである。
彼の師ですら夜に鍛錬を勧めることはなかったというのも、そもそもそれぐらい出来る者でなければ真っ暗な中で矢を射っていても練習効率が悪いからであるから、思いつきもしなかったのだ。
「集中、集中だ。よし、気合入れるぞ」
パリスは自分に言い聞かせながら目を凝らして矢を何度も放つ。
もともと山育ちの彼だ。夜に狩猟や放牧をすることは殆ど無かったとはいえ、家畜を襲いに来る狼や狐を夜中に追い払うことは珍しくなかった。
徐々に暗闇に目が慣れ、月の淡い光が増幅されたかのように夜の世界が開けてくる。
一呼吸ごとにパリスの精神は研ぎ澄まされていく。幾度も経験した臨死の間際に至る覚悟が神経を張り詰めさせた。
矢を番う指と弦が見えた。放った白い矢羽が夜空を切り裂くのが見える。数十メートル離れたところに置いたのでさすがに見えないが、狙った通りに的へと当たる音が聞こえる。
決して見えぬ景色すら見通さんと目を凝らし、波音も風音も耳に入れても頭に届かないほどに集中をしていた。
弓を引く腕から背中の筋肉は常よりも盛り上がる。パリスほどの弓使いになれば余計な力を込めずに一瞬で弓を引き射つことも日常であったのだが、一つ一つの動作を確実に精確に行う。
次第にパリスの体からは熱気も立ち昇るほどの気合を入れていた。一人で、闇に向かって心を専念させて修行を行うことで日中よりも真剣さと誠実さ、自らが鍛えてきた弓という武器に対する祈りに似た心さえ生まれた。
闇夜には燃えるトロイアの城下町が幻視された。戦車で蹂躙するアキレウス。神殿で妹を穢すアイアス。神の加護を得てアイネイアスを叩きのめすディオメデス。城塞に忍び込んで女神像を盗み出すオデュッセウス。悪夢のようなヒュドラ毒が塗られた矢を射つ弓兵ピロクテーテス。いずれも恐るべき腕前の猛者であり、彼らを倒さねばトロイア戦争は負ける。
英雄を倒せる一撃が欲しかった。パリスはずっと悔やんでいた。申し訳程度に弓が得意だった彼だが、もっと強ければ。せめてメネラオスとの一騎打ちに勝てるぐらいに。そうすればヘレネーと幸せに──
「……っと、集中が乱れた。はぁー……よし、頑張ろう」
いつの間にかびっしょりと汗を浮かべていることに気づいたが、まだ月は空高く、オリオン座の近くに浮かんでいる。今晩はもう少し鍛錬を行ってから休もうと考えた。
そんなパリスの姿を、夜空から月と星座になったオリオンが見ていた。
弓の技持つ女神といえばアルテミスであり、彼女の時間である夜に弓の稽古をしている男が居たからだ。
「ねえオリオン。夜中に弓を使うなんて、人間では貴方以来じゃない?」
「そうだなあ。普通の狩人は夜に狩りなんてしない。まあ俺はヤりすぎて苦情が来ていたんだが……」
「おい。エッチな話はするなって言ったよな」
「待ってアルテミス!? 別にエロ話じゃなかったよね!? 弓向けないで!?」
死して星になったオリオンは隣で輝く女神の質問に答えながら自嘲の笑みを浮かべた。
ポセイドンの息子にしてギリシャ随一の狩人オリオン。彼の狩猟の腕前はまさに神業に近く、朝でも夜でも獲物を求めて山に入るもので森から動物を狩り尽くすこともあったという。
星空にうっすらと半透明に浮かぶ筋骨隆々(ライオンを殴り殺した逸話もある)のオリオンにアルテミスは寄りかかるようにして言う。
「それにあの子……あたしが昔育てた、アポロンお気に入りの子よ!」
パリスは赤子の頃イーデ山に捨てられた際、アルテミスの神獣である雌熊に助けられて乳を与えられ生き延びた。
それにちゃんと祭儀も行って敬っているし、弟アポロンが気にかけている。アテナのことはあまり好きでないが、少なくともパリスに関しては味方寄りのアルテミスである。
そんな彼が、この夜という時間に弓の稽古をしている。
「僅かだけれど、ご褒美をあげましょう。オリオン、慈雨を降らせてあげて!」
「はいよ、愛しい女神様……オリオン・シャワー!」
──オリオン座はギリシャの雨季に見られる星座であることから、オリオンは死後雨の使いとして信仰を集めた。
パリスたちのいる島に涼しい雨が降り注ぎ、森や地面を潤す。汗で地面が濡れるほどであったパリスの体も清め、冷やして癒やす優しい雨であった。
夜中に降り出した雨はすぐさま島で野宿をしているアマゾーンたちも気づいて、好きなだけ飲める水に大喜びで器に水を集めだした。蒸留水は作れるのだが生産量が少ないため、人数も多いことからあまり余分は無かったのだ。
パリスも一旦修行を止めて皆のところに戻ると、木や葉っぱで皆は即席の器を作って雨水を貯めていた。
「うまいでちー!! 恵みの雨でちー!!」
我慢していたペンテシレイアたちはゴクゴクと喉を鳴らして雨を飲む。メカロスだけは錆びないように隠れていた。
パリスも火照った体に雨が心地よく、ほっと一息付きながら安堵の声を出す。
「なんか知らないけど、水不足も解決しそうだな……ん? オイノーネ?」
パリスはふと、こういった真水の供給にもっとも喜びそうな女神の名を呼ぶと、彼女はどこかアンニョイそうな顔で雨の当たらない船の影に隠れていた。
「どうしたんだ? 水が手に入ったのに」
「あー、うん。まあね。ちょっと。あんまり言うと皆に悪いし」
「なにがだ? 遠慮せずに言ってくれ」
歯切れの悪いオイノーネを促すと、彼女はオリオン座が輝いて見える、天気雨降る空を忌々しそうに見上げて告げる。やけによく通る、皆に聞こえる声だった。
「このオリオン座が見える時期に降る雨ってさ────天に昇ったオリオンのオシッコなんだよね」
ピタリ。
雨の中踊りながら喜んでいた全員の動きが止まった。
「…………」
「…………」
「うそ……ですよね?」
「いや本当本当。そもそも『オリオン』って名前が『放尿男』って意味だし」
「ブフェアー!!」
ペンテシレイアが盛大に飲んでいた雨水を吹いた。いや、オリオンのオシッコか。
「な・ん・で!! いちいちこの駄女神はもの食べてたり飲んでたりしてるときに水を差すでちいいいいい!?」
「うるさいよ! だからあんまり言うと悪いかなーって控えてたじゃないか!」
「うう……なんかシャワー浴びてた気分だったのに途端に気分が悪くなってきた……」
オリオン座はオシッコマン座。たとえそれでもギリシャの人々は承知の上で、慈雨を齎す英雄だと崇めていたのだから気にするほどではないのかもしれない……
だが、やはり飲んでいる目の前で言うのだから誰も得することは無かったのであった。
孤島にいる者たちの騒ぎを、夜空だけが見ていた。
『今日はゼウスがインドラと一緒に人妻ナンパオフ会に行っちゃったから、インドラの息子の大英雄さんに弓の必殺技についてインタビューしてみよう!』────伝令神H
『私が解説するのですか? ええまあ、たしかにインドでは様々な弓の技があります。
基本的な技では【返し矢】。これは当てたあと跳弾して手元に戻ってくる矢です。遠くに落とした道具を引っ掛けて手元に戻したり、武器を奪ったりできます。【犬の口止め矢】は犬が口を開けた瞬間、その口が埋まるように十数本の矢を射って口を塞げなくします。毒などを吐いてくる相手に有効ですね。
連射系となると【暗闇矢】。大量の矢を空に射って太陽を隠し周囲一帯を暗闇にします。一方でカルナの使う奥義【ブリグアストラ】は光る数十億の矢が降り注ぐので派手ですよね。
力強いものだと神武器を利用する方法で、中でも【ブラフマーストラ】が有名ですね。人によって様々な使い方があるのですが、私は弓に纏わせて隕石みたいな炎の塊にして敵陣に打ち込み爆発させます。
【ヴィシュヴィカルマンストラ】も強力です。発動させると相手の全方位から同時に矢が打ち込まれます。【アグニストラ】は使い手も多いですね。矢に炎を纏わせて滝のような炎の雨を降らせて軍勢を焼き払います。色んな相手がジャブ感覚で使ってきますのでその際には【ヴァルナストラ】を付与した矢で洪水を起こして鎮火させたり、【ブラフマーストラ】で吹き飛ばしたりします。
個人的には私だけの必殺技というと、カルナやドゥルヨーダナのような無敵鎧を身に着けている相手に有効なのが【鎧から出ている指と爪の間に全弾打ち込む矢】ですね。痛い上に手が使用不能になりますからよく効きますよ。
あ! 必殺というと私が息子から殺された【ナーガアストラ】は強力ですよ! 息子に弓の練習をさせていてさあ私にどんどん打ち込んでこい!ってやってたらエスカレートして必殺の毒蛇矢を心臓に受けてしまってそのままポックリです。ハハハハ』────インド英雄A
『This is India! (これがインドさ!)』────伝令神H




