24話『その夢を諦めないで』
ギリシャ神話世界において、人間という存在は大地より自然発生した生物だと言われている。
一説だとゼウスが金属や鉱物を練って作り出した、とされているが地に繁殖している何十万もの人間をすべて作ったわけでは当然無く、その殆どはいつの間にか存在していた人間たちだ。他にもヘパイストスが作った女パンドラから増えていった人間や動物や虫などから変化した人間もいるので出自は様々であろう。
神々の加護がなければ火も使えず、肉も食えず、自然の恵みすら与えられない彼らは神を崇めた。その土地土地で地元の神を敬う様々な風習があるのだが、それをある程度に体系化して主だった神々の情報を与えたのが、歌にして大勢に伝える詩と音楽の神であるアポロンである。
エーゲ海中南部にあるキクラデス諸島はギリシャ本土よりも神話が発生した歴史が古いのは、物語を伝えるアポロンがギリシャよりもアシア寄りの神で文化圏が近かったからだ。200を越える島々からなるキクラデス諸島の多くにはアポロン神殿の痕跡が残されている。
アポロンの加護を得た詩人によってヘラやゼウスといった神々は認知されるようになったことから、アポロンこそすべてを生み出した大神であるという見方もあったようだ。
ともあれこのキクラデス諸島あたりは様々な神々が今では信仰されているものの、大別すればアポロンの影響力が強い地域である。
パリスたちの乗った船はハルピュイアからの襲撃を受けながらもどうにかキクラデス諸島にある島の一つにたどり着いた。
意地汚いハルピュイアたちもさすがにアポロンの神域を汚せば、遠矢撃つ神によって一瞬で撃ち落とされてしまうことを知っているため島には近寄れない。
島を遠巻きに見ながら暗雲の混じった竜巻を発生させている怪物姉妹を遠目に見ながら、パリスは浜辺に降りて呟く。
「た、助かった……のか?」
「助かってないでち……死ぬでち……」
ペンテシレイアが崩れ落ちるように五体投地しながら涙混じりの声でそう言う。
翌日に反動として激痛がやってくるドーピングを行って丁度一昼夜。アマゾーンの女戦士たちも残らず、全身を投げ出して悶え苦しんでいた。
まるで冥界にて復讐の女神たちが青銅の鞭で肉を叩いて抉り、逃げ出す亡者たちと一緒にケルベロスの牙で齧られているような苦痛が延々と続く。
「なんでこんな副作用があるんだ……」
自分も味わった事がある苦しみなので大いに同情しながらも、製作者であるオイノーネを半眼で見た。
彼女はどこ吹く風とばかりに胸を張って堂々と応える。
「薬って副作用があるもんだよ。一応ボクも色々作って試して、一応使えそうだなと思う完成品だったんだからあの霊薬は。他のだと『頭がデカくなって尻が死ぬほど痒くなる』とか『同性愛の幻覚に悩まされる』とか変な副作用になっちゃう配合で」
「その点、プロメテウスの膏薬は安全なパワーアップ薬ですわねお兄様♥ ヘカテーの魔女薬のほうが役に立ちますわ♥」
「プロメテウスの膏薬はあれ絶対身体に悪い! 材料は冥界の炎出す油と変わらないし、緑色の粘液なんだぞアレ! なあキミ!」
「どっちも使いたくないなあ……」
げんなりしながらもパリスはあまりに哀れなのでアマゾーンたちをケリュケイオンで眠らせてやることにした。麻酔として非常に便利な道具である。
「それにしても、船も結構やられちまったかあ」
「修理……したことある?」
「幼女なので出来ません♥」
一息ついて改めて、浜辺に乗り上げた船を見やるとかなりボロボロになっていた。
無理やり暴風雨の中を突っ切ってきた帆は破け、帆柱は主柱こそ残っているがそれ以外はへし折れている。船底はあちこちで岩礁に当たったようで穴が空いており、船室まで水浸しだ。唯一、船の上に乗せてある檻でステュムパリデスの鳥が元気そうに叫んでいた。
このまま海に浮かべると沈んでしまいそうなぐらい傷んでいる。よくぞ島まで持ったものである。
当然ながら海に強くないアマゾーンたちでは修理ができないので、トラキア人の船乗りしか頼りにならない。だが船乗りだからといって簡単な修理ならともかく本格的に船を直す技能を持っているかは怪しいものだ。
こんなことならパリスがリムノス島まで乗ってきた船にいたペレクロスを連れてくるべきであった。彼ならば適当な木材であっという間に修理できただろう。
「ここってなんの島だ? 人は……居ないかもな」
そう大きな島ではなさそうだ。もし村落があるとすれば漁村であり、こういった浜辺は彼らのテリトリーとなって貝や魚を集める場になる。そんな場所に乗り入れても人の気配が無いというのは、無人島である可能性も高そうだった。
「でもアポロンが指し示したんだから、なにか解決策がある島なんだよ」
そうオイノーネが言うのをカサンドラも頷いた。アポロンは迂遠な予言を告げることはあるが、解決策がある場合は必ずそれを指し示す。
もっとわかりやすく示せとか、直接助けろという感情もあるにはあるが。アポロンは元々が死神であるが故か、直接的に人を支援することは少ない。トロイア戦争で矢を降らせたりアキレウスを撃ち抜いたりするのが珍しいだけで。
とりあえずパリスは船乗りのトラキア人たちに、船室の食料や水などを下ろしておくように頼む。奴隷扱いの水夫だが、生き残るためには反乱している場合ではないためアマゾーンが寝ていようが働くことには同意した。
「とりあえず島を探索してみよう。水場とかあるといいんだけどな」
「ふへー。ボクも淡水が欲しいよう。水バリアー使いすぎて疲れた……」
「このまま無人島にお兄様と置き去りにされて……繁殖! 夢のある展開ですよね」
「そのまま夢の世界に旅立って欲しい。できれば数年ぐらい」
無駄に頭の中がハッピーになって他人の存在が見えなくなっているカサンドラにパリスは半ば本気でそう言った。
しかしながらアマゾーンも倒れて手が足りないのは確かだ。仕方なくパリスは二人を連れて島の内地へと探索へ向かうことにした。
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エーゲ海は航海が盛んであったこの時代、人が住めるような島には次々に集落が作られていった。
200を越える島が点在する中には独立国家を名乗るところもあり、一昔前は航海技術を持つ島国の方が大陸よりも力を持っていて支配していたこともある。アテネを属国にしていたクレタ島などは有名だろう。
それ故に前人未到の島というものはほぼ存在していない。魔獣エキドナが住んでいて後世まで毒蛇だらけな島にすら人は上陸しているのだから。
「誰かが住もうとしたのなら、水場ぐらい作ってると思うんだが」
パリスが島のなるべく高い丘を目指しながらそう呟いた。
川などがあるほど期待はしていないのだが、地中海付近にある集落では珍しくないことで雨水を貯める瓶や貯水池が無いか探すことにしたのだ。なお現代でもギリシャ、イタリアなどの離島では雨水を利用しているところは少なくない。
誰かが島を発見したならば島に居住しないにせよ、船乗りが立ち寄れるように水場を作っておくはずである。
「アーモンドの木がやたら生えてるから、人が住めそうなもんだけどな」
「一応、これで食料には困りませんねお兄様」
「うえ。ボク、アーモンドって生理的に無理なんだよね……まあニュンペーだからそんなに食べなくても死なないけどさ」
「逆に食べ過ぎたら死ぬアーモンドもありますから注意しませんと」
鬱蒼とまではいかないがあちこちに数メートルの落葉樹が生えており、丁度季節で熟したアーモンドの果実が色づいていた。よくよく見ると木によって微妙にアーモンドの種類が異なるようだ。アーモンドには苦い種類の物があり、薬の原料になるが食べすぎると青酸ガスを発生させる猛毒になる。
しかしながら食用のアーモンドは栄養価も高くて保存も効く、航海に役立つナッツであるためこの島で採取できると助かるのだ。パリスは地面に落ちている実を一つ拾って口にした。苦くない、大丈夫なもののようだ。
「……っていうかなんだろ。地面に変な道具が散らばってるんだけど、この島」
「ちっちゃい車輪でしょうか?」
カサンドラが島に落ちている、妙な人工物を拾い上げて首を傾げた。
それは手のひらに乗るぐらいの大きさをした円形の部品で、車を牽く車輪によく似ている。材料は石を削ったものだろうか。白くて滑らかな手触りをしていた。
「でも小さいよな。そんな大きさで使う道具ってあるか?」
「小さめなアレスやヘリオス神像の戦車模型を作ったとかかな」
「変なビヨンビヨンした渦巻もありますけど……」
他にも小さな円柱状に細く硬い糸が巻かれた反発力のあるものや、螺旋の溝が掘られている釘に似た棒などもあちこちに散らばっていた。中には壊れている物もある。
見たことがない小さな道具に、三人は首を傾げる。あるいは未来人ならばその、歯車とバネとネジに類似した部品のことを知っていたかもしれないが。
ともあれ誰かしら人間がここにはいたという痕跡ではある。水場も期待できるだろう。
「高い木があったぞ。ちょっと登って周りを見てみる」
パリスは手早く木に足を掛け、するすると登っていく。イーデ山育ちの彼は木登りなどお手の物である。
細い木の先端近くに捕まって、弓使いらしい自慢の目で周囲を見回す。あまり広くもない島の殆どを見通せるが、同時に島の沖では執念深いハルピュイアたちが暗雲と竜巻を維持したまま待ち構えているのも確認できる。どうにか退治しなければ出発もできないだろう。
「どーこーかーにー水場が……おっ! あったあった!」
少し離れたところに浅い洞窟があり、その中には人の手で掘ったと思しき大きな窪みに削った岩を貼り付けて岩風呂のような池にしているものが見えた。なにやら道具も池の周りに置かれている。
木から降りて三人でそちらに向かうことにした。
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「水~水をおくれ~」
「オイノーネさんが露骨に弱って来ていますねお兄様」
「川の女神だからなあ……オレたちも無いと困るけど」
なにせ船では嵐に混じってハルピュイアの糞尿が投げつけられたので、多くの食料や水が台無しになってしまった。どこか港のある島によって補給が必要だが、そこに向かうにもハルピュイアが邪魔であるのだ。
「もうちょっとで池だから」
宥めるようにパリスが言う。オイノーネも弱っていると飛びついてきたりしないため、彼の感じる嫌悪感も小さくて済む。
例えるなら猛獣や毒虫を相手にするとき、それらが元気ならば悲鳴を上げて逃げたくなるが、死にかけだったら軽く突いてやろうかと思うような感情だ。
「ざぶんと飛び込んでいいかい?」
「全員の飲み水になるから止めなさい」
「ボクは女神だぞ! 女神の浸かった水なんだからむしろご利益があるってもんだよ」
実際、ニュンペーの住み着いた川の水は万病に効く薬になるというので探しに来る人間も少なくないぐらいなのだが。
この場合はパリスが飲みたくなくなるのでそれを止めた。昔は普通に飲んでいたというのに。
やや薄暗い、洞窟の入り口近くに作られている池。蝙蝠でも洞窟に住んでいないだろうかと見回すが、池の上面はつるりと削られた岩になっていて蝙蝠が止まれないようになっていた。どちらかといえば雨が当たらない庇代わりにここに作られているように見える。
水を貯めるための池なのに雨が当たらないように?とパリスが不審に思ったが、オイノーネとカサンドラは疑問に思わずに池に近づき、そこに置かれていた小さな陶器製の容器に掬って口元に水を運んだ。
ごくり。
ブフォアー。二人は同時に噴き出した。
「おえーっ! み、水じゃないぞこれ!」
「げほっげほっ……油でしゅ……うっぷ、油一気飲みしちゃった……」
油のぬめっとした感触が口から喉の粘膜を覆い、拭いきれない不快感が継続する。えずいても吐き出せず、口を洗う水が無いので無限に苦しみが続いた。毒でないことだけが救いか。悶える二人を見るとパリスは心が晴れ晴れしてしまう。
パリスが改めて池の周囲に置かれている道具類を見ると、圧搾機があってアーモンドの絞りカスも落ちている。
「アーモンド油か? 誰がこんなところに溜めているんだ」
古い油では無さそうだとパリスは洞窟から出て周囲を見回した瞬間である。
『油泥棒発見! 油泥棒発見!! ピピピ……死ネエエエ!!』
物騒な叫びが聞こえて咄嗟にパリスはアイギスの盾を構えると、彼は上空からこちらに落ちてくる何者かを視界に捉えた。炎と煙を上げて落ちてくる火山弾のような何かがパリスに向かって飛来してくる!
「なんだ!? っっアイギスガード!」
驚きながらもアイギスの頑丈さを頼りに覚悟を決めて受け止めようとする。一瞬の間があって、『ギャアアア!』という悲鳴にゴシャアアアと凄まじい衝突音がしてパリスは衝撃でたたらを踏んだ。
そっとアイギスを降ろして、ぶつかったものを見てみると……そこには奇妙な物体があった。
一番近いのはリムノス島の迷宮で見た自動人形だろうか。あれはまだ人形をしていたが、それを最大限まで簡略化したような形に近い。全体的に金属製に見えるが樽のような円柱状の胴体。棒切れを組み合わせたみたいな手足で、手の先など鍛冶のヤットコに近かった。子供が粘土で作った人形のような造形だ。頭など簡略化されて寸胴の胴体の上部に顔みたいな部分があるだけだ。
その背中らしいところには、直線型の翼が伸びていたが衝突したダメージでへし折れて煙まで上げている。
『オ、オノレ……泥棒メ……ビーガガガ』
「いや本当なんなんだこれ……生き物なのか?」
言葉を喋る変な人形としか言いようがないのだが、顔らしいパーツをこちらに向けると目のような部品がチカチカと威嚇するように明滅していた。
怪しげなロボはよろよろと腕をパリスに向けて叫ぶ。
『私ノ発明ヲ奪イニ来タノダロウ! コノ稀代ノ発明家ダイダロスノ息子、メーカネス・イカロスノ発明ヲ!』
イカロスと名乗る機械仕掛けの人形は、壊れた飛行パーツをボロボロと散らしながらそう言った。
『人が空を飛ぶのはあまり好きではないな。あいつらはすぐに思い上がってしまう』────関係者Z
『予言をするが後の時代に、気球で人を飛ばそうとした際には神罰が降らないか不安になったので最初はヤギや羊を載せて飛ばしたようだ』────解説者P
『それぐらいビクビクしているなら見逃してやってもいいのだが』────関係者Z




