23話『嵐の中で輝いて』
「アイネイアス……お前を置いて出港したこと……こんなに早く後悔するなんてな……居なくなって初めて分かる友達の大事さ……」
「浸ってないで矢を打ちなよ!」
「つら……」
オイノーネから叱責が飛ぶのをパリスは聞き流しながら嘆いた。
縛り付けたステュムパリデスの鳥を乗せた船は現在、嵐に襲われている。
帆は畳んでいるのだが帆柱が折れそうなぐらいに振り回され、船は転覆するのではないかと言わんばかりに大揺れしていた。
もはや舵は利かずに船を操るアマゾーン族の女戦士たちはアレスに祈りを捧げているぐらいだ。沈むか冥界まで流されるかは時間の問題に思えた。
しかもこの嵐はただの嵐ではない。竜巻のような渦巻く風が吹く空から、女の耳障りな笑い声が複数聞こえている。
「あのハルピュイアを落とさないと全滅しちゃうよ!?」
人面鳥身。邪悪に歪んだ女の顔と乳房をした、巨大な鷲の翼と鉤爪を持つその怪物が嵐と共に襲ってくる。
パリスたちが乗っている船を襲っているのは竜巻の化身、海神の娘、空飛ぶ魔物であるハルピュイアであった。
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アイネイアスを置いてパリスたちはアマゾーン族の船を借り、その船上に牛よりも巨大な鳥を乗せて出港した。土地の浄化用の薬などは作り方を女王に教えておいたので大丈夫だろう。
アマゾーンの船を操るのは少数の女戦士とトラキアの奴隷たちだった。乗馬や遊牧が得意なアマゾーンだが、海での活動はそこまで盛んではないのでトラキア人の力を使っているのだという。
元々ミュケナイを目指していた船はスパルタを目指して更に南下する予定で進んでいた。
「近くで見ると意外と可愛いよなステュムパリデス」
「クエーッ!」
「よしよし、オイノーネとカサンドラよりは確実に可愛いぞ」
「最悪! 最悪な比較をしているよあの男!」
「あの鳥を焼けば自動的にお兄様の好感度ランキングが一つ繰り上がる……?」
疲れたような表情でステュムパリデスに餌をやるパリス。相変わらず、狭い船内では近くに呪われし二人がいるのはストレスが強いので、こんな怪物相手でも癒やしを求めてしまうのだ。
ついでにいえば船に乗っているのも船乗りの奴隷を除けばアマゾーンの女戦士たちで、女王ペンテシレイアの客ということでもてなされているのだが近寄る度に二人の圧が掛かる。
トロイアからリムノス島まで航海したときは二人を眠らせていたのだが、今回はそうはいかない事情があった。
「お兄様、モルヒネの調合を手伝ってくださいますか?」
「ちょっと。消石灰を作る方が力仕事が必要なんだからキミはこっち!」
「オレ、便所掃除とかしてていいかな……」
ステュムパリデスの鳥が暴れ出さないように常に投薬が必要であり、モルヒネは大量に精製することが難しいためにカサンドラはそれを毎日作らなくてはならない。
またオイノーネも、ステュムパリデスが排泄する悪臭放つ糞尿を浄化するための石灰を作るために働いていた。二人をずっと眠らせる暇はなかったのだ。
薬作りはこの時代、神に仕える者でなくてはそうそう手を出すことができない部類の仕事であり、奴隷などにやらせるわけにはいかない。下手にアポロンやヘカテーなどの信者以外が行うと最悪の場合は疫病や毒の発生といった天罰が下ることがある。
他に人員というとアマゾーン族の女戦士たちだが、
「おえーっ!」
台に乗ったペンテシレイアを先頭に横一列に並び、船の外へと嘔吐していた。
出港してからずっとそんな感じである。よく鍛えられて日焼けしたアマゾーンの女戦士たちは魅力的な女性揃いなのだが、揃いも揃って青い顔をしながら戻しているのだ。
「……よくそんな調子で海に出たな、お前ら」
パリスが呆れた様子でペンテシレイアに言うと、彼女は涙目を見せながら言う。
「ア、アマゾーンは馬になら逆立ちしながら後ろ向いて揺られても平気なんでちが……海は勝手が違うでち……うぷっ! これも女王の帯を取り戻すためでち……」
騎馬民族にありがちなことなのだが、彼女らは全員船酔いに弱かったのだ。ペンテシレイアは再び海に顔を向けて吐いた。
よくリムノス島にたどり着いたなと思うぐらいのレベルで全員弱っている。食事もまともに取れずに、海に吐くならまだしも船内に吐いたり、ぐったりと倒れたまま排泄物まで漏らしたりする者もいる。
こうなってくると粥を用意したり酔い止めや眠り薬、ケリュケイオンによる強制睡眠などで介護が必要なのでなおさらパリスたちは起きていなくてはならない。
ある意味地獄のような船旅であった。
*****
航海から数日。問題が起きた。途中でパリスがリムノス島で飲んだ薬の副作用で死にそうなぐらい痛がっていたことよりも重大な問題が。
ステュムパリデスの鳥は生きているまま連れてきているので、餌はある程度我慢させられるのだが排泄までは防げない。
土地や水を使用不能にまで汚染する強烈な猛毒の糞尿である。船の上ではとても我慢し難い。オイノーネがどうにか臭いを軽減するために石灰などで固めていたのだが、耐えきれなくなったトラキア人の船員が糞尿を海に投げ捨ててしまったのがいけなかった。
海を過剰に汚染することで海神たちを怒らせたのだ。
「うわあああタブレット確認すると海神たちマジギレだよ!!」
ギリシャの海で海神を怒らせるのは嵐に遭うことと同意である。まあ、アテナを怒らせてもヘラを怒らせても頼まれたゼウスが嵐を起こしたりするのではあるが……
船を大波と風が揺らし続けてトラキア人たちも舵を放り出し、アマゾーンは「いっそ殺して」と懇願するほど船酔いしたのでケリュケイオンで眠らせて船室に転がした。
そして船を襲ってきたのは海神オケアノスの孫娘である恐るべき怪物ハルピュイアである。
人を襲うことを好む悪辣な性格をした三姉妹の怪物どもは猛禽と等しい飛行能力に加えて、竜巻やつむじ風を操る事もできる。パリスが弓を射掛けるや否や、この怪物たちは上空に居座って竜巻を起こしつつ、非常に不潔な糞まで降らしてくるようになってしまった。
「ケンタウロスの尻!(クソッタレを意味するギリシャスラング) なんでオレたち、こんなにウンコを相手にしないといけないんだ!?」
ステュムパリデスもウンコで汚染するのが問題であり、海神を怒らせたのもウンコのせいだ。まさに味噌がついた状況と言えよう。
上空からゲギャギャギャギャという不快な笑い声と共に糞尿の雨が降ってくる。
「水バリアー!」
「そんなの使えたのオイノーネ!?」
「なんかやってみたらできた!」
降り注ぐ汚水をオイノーネが真水でドーム状の膜を作って防ぐ。河の女神である彼女はある程度水を操れて、その水には浄化の力と薬品を加えているので汚水を防ぐことができた。
そうしなければ船に積んでいる飲み水、食料がすべて汚染されてしまうところであった。
「こいつらしつこいんだ! 早くどうにかしないと、何日も何ヶ月もハルピュイアは襲い続けるよ!」
「カサンドラ! 予言を頼む!」
「今やってるところです……おえーっ!」
突破口を見つけるために予言の精度が高いカサンドラに頼むが、大揺れする船と不潔な臭いにカサンドラは船の外に向けて吐瀉をする。顔色は真っ青だ。
並の航海程度の揺れならば耐えられるのだが、嵐になると予言で見た未来にギリシャ軍から連れ帰られるときに嵐で揺られた記憶がトラウマのように襲ってくるのであった。
オイノーネの予言は準備に時間が掛かる上にこんな船上で出来るものではないため、カサンドラにやってもらう他はないのだが。
「えーい、うっぷ! 気持ち悪いし鬱陶しいでちー!」
船酔いであまりの気持ち悪さにとうとうキレたペンテシレイアがそう叫んで、船に持ち込んでいたヘパイストスの大太鼓を取り出してそれを叩こうと手を振り上げた。
「ちょっ待っ!」
オイノーネが制止しようとしたのだが、彼女はアレスの娘らしい常人離れした腕力で太鼓を鳴らした。船上の者たちが一斉に耳を塞ぐ。
火山が噴火したような激しい音が鳴り響き、船をビリビリと揺らして積荷のステュムパリデスが狂ったように叫んだ。巨大な怪鳥を恐れさせるほどの道具である太鼓の威力は、さすがのハルピュイアでも一時的に危険を察知して遠く離れるほどだ。
「ヨシでち!」
「いやマズイ……うわあ!?」
不安そうな顔をしたオイノーネに同調したかのように、波が山のように高くなって船が巨人に投げ出されるかの如く跳ね上がった。
「今度はなんだァー!?」
「あんな爆音を海の上で出したら、ネレイデスたちが怒り狂うに決まってるじゃないかー!」
海のニュンペーであるネレイデス。普段は海辺や瀬で優雅に過ごしている姿を船乗りが見かけて、その美しさに見惚れるぐらいの下級女神である。
一体一体の力は海神の中でも下のほうだから単体で嵐を起こすことなどはできないのだが、数が多いために彼女らを敵に回せばこうもなる。水の底まで響く爆音に怒ったのだ。東西の神話でも海に住む神々は音楽を好むが、騒音を嫌う性質がある。
有名な話でギリシャでは柄杓を持ったネレイデスが船の周りに集まってきて船に水を入れ続けて沈没させたり、海から一つ目巨人に化けたネレイデスが顔を出して船乗りを驚かせる怪談が現代でも残っていることはご存知だろう。それ以外にも最もポピュラーなネレイデスの怒りが津波だ。
「大波が来るぞー! なにかに掴まれー!」
船の主柱をも遥かに越える波が、覆いかぶさる形で降り注いでくる。
ハルピュイアの汚水混じりな雨などお遊びだと言わんばかりの質量の塊だ。流されないようにパリスは全員に注意を促した。
彼自身もメインマストにしがみついて耐えようとしたのだが──
「流されて離れ離れにならないように合理的な判断だよ!」
「ですよお兄様♥」
「おげーっ!」
そんなパリスに両側からオイノーネとカサンドラが、ここぞとばかりに抱きついてきた。呪いの効果によってパリスは全身を貫くコズミックレベルな嫌悪感に力が緩む。
その瞬間、波濤が襲いかかってきた。パリスは二人ごと海に投げ出されてしまう。
海面に上がらねばならない。そう思うのだが、呪われた二人のせいで全身に力が入らない。どんどん沈んでいく。
(このままじゃ死ぬ……この二人も……ヤバい……)
そう考えるパリスの視界に、上の方から潜ってくる姿を捉えた。ペンテシレイアだ。
いつの間にかまた斧の能力を使ったのだろう、大人の身体になっている彼女は長い手足を使ってスイスイと潜って来ている。その表情は真剣そのものであった。
あっという間に沈むパリスたちに追いつくと、彼女は頬を膨らませたままパリスに口づけをして空気を送り込んだ。脳に酸素が周り、パリスが僅かに動けるようになる。
ペンテシレイアは状況を判断した。三人を引き上げるのは無理だ。しかも女二人は正気を失っているようで、恍惚とした顔のまま溺れていた。アマゾーンの女戦士は仲間を切り捨てることに躊躇いが少ない。
彼女はオイノーネとカサンドラを引き剥がして、パリスを救うことを決めた。だが実行しようとしたとき、パリスが手のひらを向けて止めてきた。
(……置いていくわけには……いかないだろ……)
口がそう動いた。
そもそもが、この二人と自分の呪いを解くために旅をして嵐にあったのだから。
二人を死なせて生き延びては意味がない。
オイノーネを悲しませないために、カサンドラの悲惨な運命を救うために、三人で生き延びて幸せになるためにパリスは人生をやり直している。
だから二人を諦めるわけにはいかない。
パリスはペンテシレイアへ向けた手に力を込めて、彼女を上に押して自分たちは沈んでいった。
遠く離れていくペンテシレイアが叫ぶように口を動かして、見開いた目が悲しそうにパリスを見ていた。
(ごめんなペンテシレイア……)
冷たい海に押しつぶされるような苦しさに紛れて、呪われた二人に抱きつかれている不快感は徐々に感じなくなっていった。
(もう駄目か……せめて……最後ぐらい……)
パリスは薄れる意識の中で、二人を抱き返した。
彼らから浮き上がっていた泡は溶けるように消えていった……
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「また死んだああああああ!!」
「なんでちー!?」
「叩くな! その太鼓をおおおお!!!」
ハルピュイアの嵐に揺られる船上で、パリスは突然叫びながらペンテシレイアを掴んでガクガクと振り回した。
またしても予言の死に戻りが発動した。パリスはついさっきまで溺れて死んでいく意識の中から急遽復帰したのである。
何回の死を体験すれば慣れるのだろうか。全身から熱が奪われ、頭が割れるように痛み、肺が海水で満たされ溺れ続ける感覚。信じがたいほどの苦痛だった。死ぬ度に精神が削れていく気がした。
「くそおおお! お仕置きだあああ!!」
「ギャー!?」
思わず、太鼓を叩こうとしているペンテシレイアを止めて尻を叩き八つ当たりするほどだ。
「尻を叩くなでち! アホ!」
顔を赤くしてパリスの理不尽に怒るペンテシレイアだが、肩で息をする彼の悲壮な表情に思わず引いた。その太鼓を叩くと死亡確定なので本気なのだ。
しかし太鼓は止めてもハルピュイアに襲われ続けている状況は改善しない。
「そんなことより予言──っていうか進路が出たよ!」
オイノーネの声がした。憑依状態のカサンドラが指を指し示す先に太陽の光が一直線に伸びて、遥か遠くにある一つの島で柱のように立ち上っていた。
進路は南の方だ。エーゲ海の南には数多くの島があり、中にはアポロンやアルテミスの神域となっているところも存在していた。そこならばハルピュイアも暴れることはできない。
その島に向かえということだろう。そこに何かしら、ハルピュイアをどうにかする方法があるのかもしれない。
しかし、パリスは叫んだ。
「この嵐の中で目標に向かって進めるのか!?」
「わかんないよ! とにかく進んで! ほらアマゾーンのみんなも、一時的に元気溌剌になるけど翌日に『あの時死んどけばよかった』と思うような激痛が襲ってくる薬を使って働くんだ!」
「うわあああ変な薬をぶっかけてきたでちー!!」
オイノーネの強制的な気付け薬によって復活したアマゾーンの戦士たちやペンテシレイアも力を合わせて、嵐の中で帆と櫂を必死に操作して船は進んでいくのであった……
『海神の中でもポセイドンは特に気難しい。あまりに海を荒らすので私が叱ったら、代わりにギリシャ中の川を逆流させたり地震を起こして嫌がらせをしてくる』────関係者Z
『正直なところ、ギリシャで英雄が海に出るのは試練フラグだな』────解説者P




