22話『狂気の島からの脱出』
リムノス島に棲息していたステュムパリデスの鳥たちは捕らえた一匹を除いて散り散りに逃げ去っていった。敗走の恐怖を喚起させられた鳥たちは二度とこの島には戻ってこないだろう。
捕獲した鳥と共に墜落したパリスは、森の木々がクッションになってどうにか無事であった。薬の効果がまだ発揮されていて体が妙に頑丈になっているのもあるかもしれない。
「どうなってんだオレの体……」
大きな怪我を負っていない自分の体を見下ろしてパリスは呟いた。徐々に体を包む光は弱まってきているのだが、ヤバいものを使った感はありありと感じられた。
墜落地点に駆けつけてきた仲間の、カサンドラがムッとしながら言う。
「お兄様を強化するぐらい、わたしにもできるんですからね! 今度やってあげます! プロメテイオンを練り込んだ軟膏を塗ったりして……」
「それ失敗したら冥界の火が点く薬だろ! 絶対変なの塗るなよ!?」
「とにかく、元気なうちにステュムパリデスの鳥を縛り上げるわよ」
アイネイアスがそう提案して、一同は──といっても力仕事なのでカサンドラ以外だが──鎖を使って気絶しているステュムパリデスを暴れることができないように拘束した。
あまりの巨体なので動かすには大きな荷車が必要だが、とりあえずこれで逃げられないだろう。念の為にモルヒネを追加で飲ませておいた。
「……ふう。よし! とりあえずこれで問題は解決だな」
パリスが何故か白銀色に輝いている汗を拭いながら、全てから目をそらすようにそう言った。
「残らずステュムパリデスを退治したことでリムノス島は救われたし、後は捕まえたのをアレスのところに持っていくだけだ」
「でち? 父アレスに献上するでちか?」
「あ、ああ……それにしてもどうやって渡せばいいんだ? ペンテシレイア、なんかいい方法知らないか?」
「それなら知ってるでち。常にアレスが宿る神像が置かれている、スパルタの都市に行けばいいでち!」
スパルタ。ギリシャのペロポネソス半島に存在する歴史ある都市国家である。なお余談だが、『スパルタ教育』や『テルモピュライの戦い』などで有名なスパルタのことではない。この時代、神話の都市スパルタが滅んだ後に作られた後継国家がそちらだ。
トロイアにも劣らぬ城壁を構えた軍事国家のスパルタでは狂的なまでに神々の信仰が深い。その特徴とも言えるのが都市内に置かれた神像である。
戦神アレスの像はアレスが他の国へとつかぬように鎖で縛り付け、勝利の女神ニケは勝利が飛んで逃げないようにその翼を折った形で作られている。
神々に不敬にすら見られかねない作りだが、それをしてあまりあるほどにスパルタ人は神々に従順であり、供物や儀式を欠かさなかった。しかもアレス像は都市内にあるものこそ鎖で縛っているが、戦争になると戦地に新たにアレス像を立てるぐらい慕っていた。
そのことから戦争前にスパルタへと巡礼や司祭の誘致へ赴く国も多いぐらいに、スパルタといえばアレスの国である。
なのだが。
「うわ……パリスちゃんが凄い顔してるわ……」
「スパルタ……行きたくないな……」
スパルタ! それはパリスにとって因縁の土地である。何故ならば現在のスパルタ王はメネラオス、そしてその妃はギリシャ一の美女ヘレネーなのだ。
予言で見た未来ではパリスが乗り込んでいって嫁を強奪し、そしてスパルタ王がギリシャ中に呼びかけてトロイアへと攻め込んできたのである。
今の段階ではパリスはなにもしていないとはいえ、鬼門にも程がある。
「スパルタ行くなら船に乗せていってもいいでち。そもそもわらわ達はミュケナイに行く予定だったでちから」
ペンテシレイアが善意でそう提案する。ミュケナイの都市はアルゴスの港に船を向かわせるため、スパルタとは若干離れているのだが遠回りしてもいいと提案した。
「ふ~ん、丁度いいわねえ。相乗りさせてもらいなさいよ、パリスちゃん」
「もういっそペンテシレイアが持っていて渡して欲しい。おうち帰りたい」
「神への供物を雑にしちゃ駄目ですよお兄様」
それにしても行きたくないパリスである。
勿論彼は今この段階で、スパルタや寝取られ男メネラオスになんの損得好悪の関係は存在していないし、これから関係を悪化させるつもりも無い。
思い出の中のヘレネーはとんでもない美人で、正直愛に飢えている今だと眩しく見えるかもしれないが……それはそうと、トロイア戦争を起こすつもりなんて無いので攫おうという気もまったくない。
だがそれでも、なにか非常に嫌な予感がするのだ。というか、ほんの僅かにでもヘレネーに関わらないようにするのが重要なのではないだろうか。
なのだが……
「ううっ……でも、オレたちの呪いは早く解きたいし……」
「そうですよね……お兄様と相思相愛にならないといけませんから……♥」
「えぼっ」
「うわ汚いでち! パリスがゲロ吐いたでち!」
頭がエロースにやられているカサンドラの言葉にパリスは吐瀉した。
眉根を寄せてペンテシレイアがアイネイアスに聞く。
「呪いってなんでち?」
「それがねぇ。パリスちゃんとカサンドラちゃんとオイノーネちゃん、アフロディーテを怒らせた罰でエロースに射たれちゃったのよ。それで、女二人はベタぼれで男の方はこんな感じ」
「面倒な話でちねえ。なんならわらわがパリスだけ連れて行ってあげるでちよ? そして子供作るでち」
ペンテシレイアの迂闊な一言に、カサンドラがどこからかナイフを取り出して構えた。
瞳孔がぐるぐると激しく感情に従い動き回るような正気でない目で同じ幼女を見て、怨嗟の声を呟く。
「敵……アマゾーンは敵……!」
「うわー! 落ち着けカサンドラごぼぉ! そのナイフ、なんか緑色の毒みたいなの塗ってるしげぼぉ! ……せい!」
「はうっ」
パリスが吐きながらカサンドラを止める。しかしながら呪いによる妬みや怒りは単純に我慢できるものでもないので、最終的にはケリュケイオンの杖で叩いて眠らせた。
その様子にペンテシレイアもドン引きである。
「ペンちゃんも呪いで頭ヤバくなってる子の前で変なこと言わないの!」
「こわ~でち」
「……とにかく、早く呪いは解きたい……優しい妹に戻ってくれ……」
妹と嫁による精神的疲弊がなければどれだけ快適に過ごせるだろうか。それを考えると、最短であるスパルタにも行かねばならないという気分にもなってくるパリスであった。
*****
一行はひとまずステュムパリデスの鳥退治を島の女たちに告げるため、再びアイネイアスの盾に乗って廃墟となったヘファイスティオンへと向かった。慣らし運転は大事である。何度も飛ばされて疲れたアイネイアスは絶対に温泉に入ろうと決めた。
そこでは地上の騒ぎを聞いて、地下に避難していた女達が既に外に出てきているところだった。ステュムパリデスたちがどこかへ飛び去っていくのを見たのだろう。皆が明るい笑顔で、太陽の下喜び合っている。
「おーい、どうにかしてきたぞー」
パリスが呼びかけるとワッと女たちが歓声を上げて英雄らを迎え入れる。帰ってきた女王の姿に、残っていたアマゾーンの戦士たちも安心した様子である。
地面に降り立つと美しい女性たちがキラキラした眼差しで、特にパリスとアイネイアスを見てくるので悪い気はしない。彼女らにとっては怪物退治の英雄である。
ふと、パリスが鼻をひくつかせる。彼女らから感じていた、排泄物と硫黄と魚油を混ぜた泥のような悪臭が……かなりマシになっている気がしたのだ。
「あれ? オイノーネは?」
パリスが真っ先に駆け寄ってくるであろう嫁を警戒して杖を構えていたのだが、やってこないのでそう周りに聞くとアマゾーンの女戦士が背負っていたオイノーネをそっと地面に横たえた。
「なんかミイラみたいになっとるー!?」
オイノーネは肌がカサカサ、肉もどことなく削げ落ちて骨と皮だけのような姿になり、苦しげにうめいている。
さすがに呪いで嫌悪感があるパリスも心配そうに周りに聞く。
「どうしたんだこれ!? なんかの病気!?」
するとリムノス島の女王ヒュプシピュレが応える。
「いえ……パリス様たちが去ってからオイノーネさんは、薬を作りながらもずっと『旦那まだかなー』とか『早く会いたい』とか『抱きつかないと死にそう……』とか延々と愚痴っていたのですが、徐々に本気で弱ってきまして……消臭、解毒の薬はある程度作った段階で倒れてしまって……」
「この子、エロースの恋慕で呪われてるから……」
アイネイアスがため息混じりに告げる。まさか一日ぐらい会わなかった程度でこうなるとは。
ギリシャ神話世界における恋や嫌悪の呪いは身体的に影響が強い。特にオイノーネのようなニュンペーは特にその傾向があって、精神的なショックで花や動物に変わって戻らないこともある。
干からびかけているオイノーネの姿に、さすがに置いていくように説得したパリスも罪悪感が沸く。同時に呪いによるもどかしさもあった。
自分のことを好きでいてくれて──呪いではなく、元々から好きであってくれていた妻がこんなにもなっているのだ。早く呪いは解くべきだし、どうにか彼女を助けなければならない。
「おおおおおうううう……」
「うわ! なんかパリスが石を取り出してボリボリとかじり始めたでち!?」
「あれはアテナの渡した『強い意思』というアイテムよ!」
肥溜めに入らねば人質は殺す。そう言われたような悲壮感で、パリスは精神的ショックで死なないように強い意思を噛み砕きながら、倒れているオイノーネを抱き上げた。
(ごめんなオイノーネ……おえっ……お前と一緒に生きるために予言を覆そうと……うえっ……きつっ……死……)
ここまで嫁を抱くのに悲壮な覚悟が必要になるのが呪いの辛さであった。
気分からすれば潰れた巨大ゴキブリを抱いているような気持ちの悪さ。強い意思を持って脳内で無心になろうとしても、強烈に不愉快な波動が全身を貫き、寿命をガリガリと削っていく感覚がある。
ひび割れそうなぐらいに乾いた肌のオイノーネとパリスが触れ合うと、触れ合った瞬間に彼女の肌は瑞々しさを取り戻し、パリスの肌は赤くかぶれた。パリスは苦しげな声をこらえ、オイノーネは徐々に顔色も良くなり蘇生し始めた。
「生命力を吸い取ってるみたいでち」
「子供って素直で残酷」
やがて十分に活力を取り戻したオイノーネが目をパチクリ開くと、すぐ近くで復讐の女神エリニュエスから拷問を受けているような顔をしているパリスを確認した。
「キミ! 助けに来てくれたんだね! 好きっ!」
「ゲハァー!」
「キャー!?」
耐えきれずにパリスが思いっきりオイノーネの顔面に吐血した。
慌ててアイネイアスが引き剥がす。パリスは虫の息で、目元に深い隈を作りながら友人に告げる。
「オレが死んだら……故郷の妻に……愛していたって伝えてくれ……」
「故郷じゃないんだけど!? キミの妻はここにいるんだけど!?」
「はいはい、いいから治療! 愛♥溢るる蜂蜜……は、品切れだったわ」
「ボクが治す! ボクが! はいオイノーネ印のお水!」
「手からダイレクトじゃなくてボトルとかに入れて欲しい……」
オイノーネが手で皿を作ってそれで掬った水をパリスに差し出すと、彼は嫌そうに拒否をした。
むくれながらも彼女はその水を瓶に移してパリスに渡す。ごくごくと口から喉に溜まった血を洗い流すように飲み干すと、ストレスで傷つき出血をした食道や胃の粘膜が回復をする。
川に棲まうニュンペーが手にした水は癒やしの効果を持つことが有名であり、多少の傷ならばそれですぐに治せる。オイノーネはその水を材料にして更に薬を調合することで、ヒュドラ毒をも解毒するほどのものが作れるのである。
「ぷへー……うう、オイノーネさんお元気ですか。オレは死にそうです」
青い顔をしながらなんとかパリスも復活を遂げた。
「ボクも死にそうだったよ~! でも頑張ってお薬作ってたんだ! 抱きついていい!?」
「シャーッ!」
「パリスちゃんが近づかれないように石とケリュケイオンを持って威嚇してるわ……」
「本当に夫婦の姿でちかアレ」
愛が拒まれる呪いのなんと非道なことか。周りの島民も微妙に哀れんだ目で二人を見ていた。リムノス島の女たちもアフロディーテに呪われた結果、ステュムパリデスを差し向けられて体から異臭を放つようになってしまったのだ。
無理やり抱きつこうとして頬にグリグリと強い石を押し付けられながらもオイノーネは言う。
「まあでも、愛情伝わらない呪いにしてもお互い憎み合うエリスの呪いよりはマシだったかもね! ボクはちゃんと好きで居られるわけだし!」
「エリスの呪いってなんだ? 離れて説明してくれるかオイノーネ先生」
そう要求すると解説好きなオイノーネが仕方なさそうに離れて話をした。
「昔々、とある仲の良い夫婦が『私達ゼウスとヘラよりもラブラブ夫婦だよね』とか迂闊なことを言っていたんだ。当然それを聞いたヘラはキレた。不和の女神エリスを送り込んで夫婦仲を悪くしたところ、喧嘩をした腹いせに夫は妻の妹を陵辱し、それを知った妻は息子を殺した肉を夫に食わせて、ついでに父親に頼んで夫の体に蜂蜜を塗って虫や獣に食わせようとしたって話だね。エリスが絡んでくると殺し合いの世界だよ。いやーそこまでいかないでよかった」
「……気をつけるからな!」
「あれ!? ひょっとしてキミ、密かにボクらに殺意が湧いてた!?」
呪いなので仕方ないのだ。ついカサンドラの頭を石で強打したこともあるパリスは自制の気持ちを新たに、早く呪いを解こうと決めた。
「……ところでオレが飲んだあの薬、なんかパワーアップしたんだけど副作用とか……」
「あっ飲んだんだ。大丈夫大丈夫。アンブロシアを加工したものだけど……アンブロシア分を解毒するために何日か後に『あの時死んどけば良かった』と思うような激痛が出るだけだから」
「いやああああああ!!」
パリスは泣いた。
******
パリスたちも落ち着いたので島の女たちに、トロイアから連れてきた水夫たちも協力して仕事を開始した。
男たちが居なくなり、ステュムパリデスによって荒らされた島ではやるべきことが多い。
ひとまずは危機が去ったことを祝う宴の準備に食料などを探し、森の方に放置しているステュムパリデスを移送するために荷車と力仕事の男集を使う。
更に簡単にヘパイストス神殿の片付けをする。本格的な修復にはまだ時間や職人の手が必要だろう。
また、街の周辺や飲み水として使っている川、畑などに消毒剤を撒く作業もあった。消毒剤はオイノーネが作らせた貝殻を主原料とした石灰のようなもので、ステュムパリデスの糞によって汚染された雑菌・毒素を殺菌消毒し、酸性になった土壌を改善する効果的なものであった。
本来、女しか居なくなった島では力仕事に困るのであったが、パリスら三人の神の加護を持つ戦士が人一倍働いた。なんだかんだでパリスもアテナの加護のおかげか、以前よりも筋力が上がっているようだと今頃になって自覚した。アイネイアスにペンテシレイアは言わずもがな怪力を発揮しているので目立たなかったのだが。
残された物資で宴をした後に、パリスらはヘファイスティオンの近くに湧いているという温泉にやってきて一日の疲れを癒やすことにした。
「夫婦だから温泉に一緒に入ることになんの問題があるんだい!? サルマキス直伝の水浴びテクで……!」
「お兄様♥ 予言の知識で手に入れた、ミュケナイ仕込みの泡踊りを……うっトラウマが」
「二人して危険な知識を得るんじゃない! せっ!」
「ぐかー!」
「すやぁ」
当然ながら愛に狂っている二人が一緒に入ろうとしてくるのでケリュケイオンで眠らせた。
温泉で裸で抱きつかれては疲れが癒えるどころか湯けむり殺人事件に発展するだろう。死ぬのはパリスか女二人か。止める以外に手立てはない。
特にカサンドラなどは、トロイアが陥落してミュケナイに奴隷妻として連れて行かれた知識を思い出してはつらそうにしているので、眠らせた方がマシだ。ちなみにオイノーネの言うサルマキスは、イケメンを水の中に引きずり込んで物理的合体をした恐るべきニュンペーである。
ギリシャ文化圏は温泉の盛んな地域である。
火山が多いこともあってエーゲ海に面する地域で温泉が湧いている土地は700箇所を越え、クレタ島には紀元前2000年前の遺跡から浴槽が見つかったことから、入浴文化があったとされている。
西欧文化の温泉というとローマの公衆浴場『テルマエ』が有名だが、そもそもその語源がギリシャ語の温泉を意味する『テルメ』であったことはご存知の通り。
リムノス島でも街の近くに簡易的な宿のような施設で囲んだ温泉があった。海辺で、若干海水が混ざっているものだが、火山の神ヘパイストスと海の女神テティスの力が合わさったようなものとして地元ではありがたがられている。
その露天風呂で、パリスとアイネイアスとペンテシレイアがどっぷりと温泉に使っていた。
「ふぃー……」
「癒やされるわぁ~……」
「後でうちの戦士たちも連れてくるでち~……」
特にこの湯は男湯女湯が別れているわけでもないのでペンテシレイアも一緒に入っているのだが、なにせ幼女であるのでまったく体つきに女らしい部分が未発達であるため、特に男二人も気にしなかった。
全身の筋肉を弛緩させてゆったりと手足を伸ばし、首元まで湯で温めればじわ~っと温熱が体をほぐしていく感覚が巡る。神の湯という噂は伊達ではないぐらい回復していきそうだった。
筋力だけではなく精神力も消耗したアイネイアスなど眠ってしまいそうなぐらいに目を細めている。
「はぁ~……呪いとか解いたらいっそほとぼりが冷めるまで、温泉のある田舎でのんびり暮らしたい……」
「……エロースの呪いは解いても、多分アフロディーテお母様とヘラ様に恨まれている限り安寧な暮らしは無理だと思うわよパリスちゃん」
「温泉に見ただけで死ぬ怪獣とか投げ込まれるのがオチでち」
「つらい!」
なにせ相手は神々の中でも怒らせたら怖いランキングトップ常連のヘラだ。どんな仕返しをしてくるかわからない。なおそのランキングは20位まである。
「今の所は、ヘラから恐るべき罰が与えられていないんだが……」
「それは多分、こんな状況になってもパリスちゃんが妻であるオイノーネちゃんと別れたりしていないからね。結婚の神ですもの」
さすがに神々の女王といえども、ゼウスが公正に選ばせた審判の結果が気に入らなかったからといってダイレクトに呪いを掛けて来たりはしないようだ。ヘラにもプライドというものがある。そんなことをしてはまるで負け惜しみのようではないか。
なおアフロディーテに関しては、彼女が愛の女神であるので選ばれなかったこと自体が神に対する不敬という扱いでエロースを遣わせてきたのだ。
(そういえば、予言の未来で見たときもヘレネーを攫った瞬間から滅茶苦茶ヘラの災難が降り注いだような……)
以前に見た歴史では、人妻であるヘレネーを拐かした、オイノーネを捨てた、そして妻側であるヘレネーも子供を捨てて寝取り男と逃げ出したという略奪・不倫・不貞の三点セットが発生して凄まじい怒りに襲われた。
スパルタからトロイアに帰るまでに船が嵐でもみくちゃにされて半年近く掛かってしまうほどだった。その逃避行で平気だったのは愛に狂っていたパリスとヘレネーぐらいで、一緒に付いてきていたアイネイアスですらダウンするほどキツイ船旅になったのである。
ともあれ、ヘラとしてはパリスのことを気に入らないのだがパリスが自分の領分である夫婦の貞節を守り浮気しない限りはそうそう直接的な攻撃をしてこないようだ。
(……気をつけよう! マジで!)
パリスは心の中で自制の念を改めた。彼は真実の愛に飢えている。とにかく自分に縋ってくる、あまりにも愛せないオイノーネとカサンドラがつらい為に、優しくて胸の大きな女性が居たらつい転んでしまいかねない。特にヘスペリアのような。
嫁と不仲にする呪いに加えて、嫁と別れた瞬間に追加の罰が発動とは恐るべきコンボだ。正直、パリスの精神耐性とアテナ・ヘルメス・アポロンとアルテミスらの加護がなければ、パリスが死ぬか相手を死なすかの悲劇が起きていた可能性は高い。
「というわけで浮気厳禁だからペンテシレイアちゃんはパリスちゃんを狙っちゃダメよぉ~?」
「別に狙ってないでち。子供作るだけでち」
「それがヤバいんだって……っていうか年齢的に無理だろ! まったくオレの好みじゃないし!」
「失礼でち! ケンタウロスの尻!(大変失礼な表現)」
「誘惑するならあと10年は待つんだな」
予言で見たトロイア戦争の最中に出会った成人のペンテシレイアを思えば、こんなチンチクリンの幼女があそこまでスタイル抜群の美女によく育つものだとパリスも感心するほどではあるが。
そんなことを話しながら温泉に浸かっていると、近づいてくる気配に三人は顔を上げた。
露天風呂の周りには篝火が焚かれて獣などを避けているのだが──
まず見えたのは、無数の光る目であった。
「ひっ!?」
焚き火の灯りを反射して幾つもの目。一瞬、ヘルメスがかつて退治した百目の魔人アルゴスかと思ったが、暗闇に目の焦点を合わせると違うことがわかった。
女だ。
真正面にリムノス島の女王ヒュプシピュレ。そして大勢の──年齢にして十代から四十代ぐらいまでのリムノス島の女性たちが温泉を取り囲んでいた。
全員が全員、裸か布一枚で恥ずかしそうに身を隠しているかである。そして様々な感情の籠もった目線を、パリスとアイネイアスに向けている。
むしろ怪物じゃないその正体を見ても恐怖を感じた。いつだって本当に怖いのは人間だ。
「な、なんか用でしょうか……あ! 風呂ならもう上がりますんで! なあアイネイアス!」
「そ、そうね。いい湯だったわ。夜更しはお肌の天敵だし帰って寝ましょう?」
異様な空気で囲まれている状況で、裸の女性らを見ても興奮はせずにむしろ逃げ出したい気持ちになった二人は言い合った。
なにか怖い。
マズイ気配を感じる。
代表してヒュプシピュレが彼らに声を掛けた。
「ああ、パリス殿、アイネイアス殿。この度はリムノス島をお救いくださってありがとうございました」
「いえいえ」
「とんでもない」
「しかしながらリムノス島はまだ未曾有の危機に見舞われています……それは、島に男が居ないことです」
アフロディーテの呪いによって気が変になっていたのかもしれないが、ともかく悪臭を放つようになったリムノス島の女たちは自分たちを拒絶した男を皆殺しにしてしまった。
リムノス島にはアマゾーンの血が入っていると言われているのだがそれにしても苛烈である。
しかしながら、男が誰もいない状況では島の未来は非常に暗い。男手のいる仕事は気合を入れれば女でもこなせるとはいえ、子供ができなければ島は滅びてしまうだろう。
そんな島に若い男がいる!
しかも島に住み着いた怪物を退治した英雄で、神の血を引いていて、トロイア王族!
彼女らが得られる男としては、現状考えられる最上位の相手であった。
つまり。
「全員と子作りをしてくださいパリス殿アイネイアス殿ぉぉぉぉ~♥」
「ギャアアアアアア!!」
「イヤアアアアアアン!!」
なだれ込むように包囲の輪を狭めてきた女達に、パリスもアイネイアスも悲鳴を上げた。
アイネイアスは最初から、モテすぎないように言動などに気を付けているぐらいには女遊びは得意でない。奔放に愛を振りまけるほど無責任な男にはなりたくなかったのだ。それに、トロイア王女のクレウーサと婚約中である。
更に危険なのはパリスだ。下手にリムノス島の女と交わると浮気と見なされてヘラの罰が与えられる可能性大!
二人は曲がりなりにも英雄であり、常人よりも遥かに力が強いのだが問題は数と相手だ。
両手両足を抑え込めるほどの人数に取り囲まれている上に、相手は無防備な裸の女。下手に怪我などはさせ難い意識が働く。彼女らとて悪意はなく、自分たちの国を守るためであり、できれば美形で力強い英雄に抱かれたいという願いでもあるのだ。
温泉に飛び込んできた裸の女が二人の両手を取る。柔らかい感触。女たちは蕩けたような顔で、英雄らの子を求めて引っ張る。
(ヤられる……!?)
その時にパリスの、弓兵として鍛えた視力は遥か彼方にある小さな光を見つけた。
夜闇に包まれた中に灯る、緑色の灯火を。
「うわああああああ!? より危険が近づいているううう!?」
間違いない。ケリュケイオンから目覚めたオイノーネとカサンドラが、異常事態を察して冥界の炎を片手にこちらへ向かってきている。
こうなれば浮気をして罰どころの話ではない。温泉に冥界の炎を投げ込まれて、ここにいる女もアイネイアスもペンテシレイアも纏めて焼き殺されることは間違いない。
死。
死が鼻先に近づいてくる中で、パリスは助けを求めた。敢えて、アイネイアス以外に!
「うおおおペンテシレイアー!! 助けてくれー!!」
「仕方ないでちねー! わらわに感謝するでちー! ──父アレスよ! 力を!」
女達が囲んだ時点で温泉の外に置いていた自らの大斧のところで様子見をしていたペンテシレイアがそう叫んだ。
すると黄金の斧が光り輝き、左右に分かれるように分離した。斧の本体が短槍になり、幅広だった刃の部分が細かな金属のパーツに分かれた。
それらのパーツはペンテシレイアの胸と腰を包み、金属が広がって手甲と足甲と変化する。更に彼女の体自身も発光したかと思うと、銀色の髪の毛は腰まで長く伸び、その背丈も頭一つ分以上に大きくなった。
光が収まり、ペンテシレイアの姿が現れると彼女は十代後半ほどの成熟したアマゾーン戦士の肉体になっており、体を黄金の局部鎧で包んだ神々しい戦士の姿であった。
「せ、成長した!?」
助けを求めたパリスも思わず驚く。ペンテシレイアも自分の手を見て瞬きをした後で、とりあえず行動を起こした。
斧と一緒に持ってきていたヘパイストス製の太鼓を、温泉の湯に付けながら槍で大いに打ち鳴らした!
「アララララァァァァァァイ!!」
凄まじい音響と衝撃波が発生すると、爆圧を受けとめた湯が巨大な水柱となって吹き飛んだ! まるでオケアノスを渡る高潮のように湯がすべてを押し流し、温泉に入りこんでいた女たちも弾き飛ばされる。
そして取り囲んでいた女らにも、心の奥底から恐怖の念が湧き出た。戦神アレスの持つ狂乱の気配。思わずその場にいる女たちが怯んで、パリスから手が離れた。たくましいアイネイアスはむしろ頼られるように抱きつかれていたが。
「行くですよ! パリス!」
「え!? あ、ハイ!」
凛々しいペンテシレイアの声に戸惑いながらも手を牽かれてパリスは温泉から脱出する!
だがリムノス島の女たちもアマゾーンの血を引く恐るべき女戦士の素質を持つ民である。音響による怯みから瞬時に復帰し、髪を炎のように逆立てて、爪と牙をむき出しにして逃げる二人へと飛びかかってくる。
「男ェアアアア!!」
「種ェェェェ!!」
「怖!?」
彼女らの手には捕縛するための青銅鎖やサスマタが持たれていた。パリスは温泉でも手放さないアイギスを持っているのだが、さすがに島民に向かって使うのは躊躇われる。
「女王を舐めるなです」
パリスの手を引くペンテシレイアが立ち止まったかと思うと、槍を大きく振り回して全方位から襲いかかってきた女たちを殴り飛ばした!
目の良いパリスにすら見えない、兄ヘクトールに匹敵する速度と勢いを持って振られたアレスの槍は竜巻のような風圧を巻き起こす。
女たちが怯んだのを見て再びペンテシレイアはパリスと共に逃亡を再開した。疾風のように包囲を駆け抜けていく。
逃げる最中でちらりと温泉に取り残されている友人を見る。
「すまんアイネイアス! オレ行くから後はよろしく! 神殿とか直しといてくれ!」
「う、裏切り者ォーッ!!」
悪いと思っているが、その場にアイネイアスは残した。自分と違って死んだり呪われたりするわけじゃない。彼はきっと大丈夫だ。パリスはアイネイアスを置いてリムノス島から脱出することを考えた。アイネイアスは犠牲になったのだ。モテモテの犠牲に。
アイネイアスは彼を主役にした物語『アエネーイス』にもあるが、とにかく流された先で酷い目にあいつつ女にモテてしまうのだ!
そもそも、ヘパイストスに頼まれた神殿の掃除もまだ終わっていない。誰かが残ってやり遂げなくては、神々との約束を破ることになる。そしてパリスが残ると高確率で女たちにやられてしまい、結果として呪われて死ぬのだ。
それにこの調子で誘惑されていては愛に狂った妻と妹がいつ住民を皆殺しにするかわからない。パリスが島を出ていくのは必要なことなのである。
「助かったペンテシレイア! っていうかデカくなったな急に!?」
色んな意味で。パリスの記憶にある、トロイアの援軍となったアマゾーンの女王ペンテシレイアは今の状態よりも更に年を経て色気たっぷりであったが、このペンテシレイアも若々しい魅力にあふれている。
美形を競い合うオリュンポスの女神たちだが、男神の中でも美形といったら恐らくアレスが最上位に挙げられるだろう。その娘であるペンテシレイアはギリシャ一の美女と名高いヘレネーと比べても遜色がない。
「わらわも驚きです。でもどうやら時間制限があるらしいですね。このまま船に向かうですか?」
舌っ足らずだったアマゾーン訛りも流暢な喋り方になっている。
「あの生意気な口調が丁寧になると違和感あるな……ちょっと待て。途中でオイノーネとカサンドラを拾っていこう。置いていくと死ぬから彼女ら」
二人はひとまず愛に狂って燃やしに来ている女たちの方へと向かうのであった。
そこでもやはりひと悶着あったのだが──とりあえずアイネイアスを置いて島を出ることには同意され、その夜のうちにアマゾーンの船にステュムパリデスの鳥を積み込んで出港していった。
次に目指すはスパルタ。暗雲立ち込める夜の海を、船は進んでいく。
ただ道中、港などに停泊したらリムノス島に移住可能な男たちを向かわせてやろうと思いながら。残されたアイネイアスとトロイアの船乗りたちのためにも。
『ヘラを恐れて女を抱かないとは嘆かわしい! 私なら問答無用で全員抱いているところだ!』────関係者Z
『ヘラの被害が女の方に行くから止めろ。あとお前の姿を直接見たら人間だと即死する設定があるだろう』────解説者P
『なんだったら威光を隠すためにこうやって布を被って目と足だけ出してだな……エジプトあたりでよくやったナンパスタイルなんだが』────関係者Z
『メジェドの正体こいつだったのか……』────解説者P
『───斯くして目的の怪鳥を生け捕りにし、リムノス島を脱出したパリス一行。次なる冒険は如何に……今回の話はここまで。続きを私の耳元にミューズが囁くまで一時の閉幕だ。評価ポイントください』────詩人ホメロス
リムノス島編終了!
来週は色々書いたり仕事の調整とかでお休みします! ごめんね!




