21話『怪鳥掃討』
「はい、完成したよ。持っていきなさい」
ヘパイストスが作業机に、パリスたちへ渡す道具を並べてそう告げた。彼の仕事場にある机はカサンドラとペンテシレイアは上に乗らねば道具が見えないほどに大きい。
黄金色に輝くチタン青銅で強化されたペンテシレイアの大斧。
鍛え抜かれた鋼と巨人の骨を組み合わせ作られて、弦にケンタウロスの尾毛と腱を使っている2つの弓。
黄銅の太鼓は音をよく出すように芸術的な曲線をしている楽器であり、敗走の神ポボスと恐慌の神デイモスの兄弟神、それに調和を司る女神ハルモニアの姿が装飾されており、音でステュムパリデスの鳥を脅かすための加護が付与されていた。
更に捕獲専用に鎖付きの矢が二本用意されている。
先端が銛のようになっていて抜けない構造のこれは、射れば長大に鎖がどこまでも伸び続けて相手に突き刺さった時に伸長は停止する仕組みだ。鏃には毒を注入するのに便利なアカエイの針が使われ、モルヒネ毒を充填できるようになっている。
ついでにカサンドラが自分にもなにか物欲しそうだったので、呪い返しの魔除けが付いている手鏡をヘパイストスは作ってやった。
「うおおおお! すげえ! ありがとうございます!」
「キラキラでちー!」
「お礼するなら地上にある神殿の掃除でもしておいてくれ。あれでも僕にとっては記念の場所なんだ」
ヘパイストスは大きな肩を竦めながらそうパリスに告げて、入り口の反対側へ指を向ける。
「後は……山頂に登る道があるからそっちから出ていって、空を飛びながら太鼓を鳴らしまくればステュムパリデスの鳥たちは全部逃げていくんじゃないかな。逃げ出した中のどれか一匹を射落として捕まえればいいだろう」
「空を飛びながらって……そんな気軽に」
「おや?」
「ん?」
ヘパイストスもパリスも首を傾げて、ヘパイストスはアイネイアスの方を向いた。
「その盾の機能で飛べるだろう? 僕が作ったやつなんだから」
「あら? そうなの?」
「知らないのか、アイネイアス。なんか7つの機能があるとか言ってただろ」
まじまじと自分の盾を眺めるアイネイアスにパリスは尋ねると、彼はバツが悪そうに言う。
「いやね、機能があるって話はパパから聞いていたんだけど使い方は要領を得なくて……うちのパパ、アル中だし。どうにか浮遊シールド展開だけは発動するキーワードを自分で見つけたんだけど……」
「……自分の作った高性能の道具がまともに使われていないとがっくりするね」
ヘパイストスが悲しそうに首を振った。その盾はアフロディーテから浮気相手の息子に送るものとして注文を受けた品だったが、仮にも妻の依頼なので非常に力を入れて作った逸品なのである。
デザインもアフロディーテに合わせて華をイメージしつつ機能や携行性を損ねず、重さも盾七枚分も使うことを考えて軽く、そして頑丈に。はっきり言ってヘラクレスの盾よりも素晴らしい出来であった。まあ、ヘラクレスはアテナから送られた盾をあまり活用していないようだったが。
これだけ頑張ればアフロディーテも褒めてくれるだろうか、と期待して渡したが「ありがと」の一言も無かったので、ヘパイストスはその夜も離婚届にサインする練習をして溜飲を下げていた。
それはさておき。
「まあとにかく、使い方はこれこれこうして……」
「ふむふむ。へぇーそんな機能があったのね……」
「でも使うと疲れるからね」
「なんで疲れるんだ? 集中してて大変そうだなあとは思ったけど」
パリスが横から疑問を口にする。アイネイアスは見ての通り、その優れた体格を資本とした筋力、持久力はずば抜けている。トレーニングでイーデ山を半日ぐらい走り回っても平気な男だ。
それが飛行する盾を操作して暫くは酷い困憊状態に陥っていた。彼がそこまで疲弊している姿は見たことがなかったのである。
ヘパイストスはちらりとパリスの肩に付けているアイギスを見てから言った。
「僕の美学としては……必殺技ってリスク無しで打っていいものじゃないと思っているんだよね」
「へ?」
「アテナなんかはいきなりアイギスの石化ビーム連発しておけばいいとか言うかもしれないけれど、見た目派手な大技、切り札はいざという時に! 相手をそれで必ず倒すぐらいの覚悟で! 失敗すればピンチになる! それぐらいしないと出し得の技はちょっと風情が無いというか……」
突然熱く語りだす3メートルの巨漢に一行はやや引く。あまり理解されない美学をどうやら持っているようだった。
ギリシャ神話世界ではとりあえず最強攻撃をぶっ放す者が多い。ゼウスの雷霆しかり、ヘラクレスのヒュドラ矢しかり。ヘパイストスとしてはもうちょっと溜めて欲しいところであった。その点で言えばヘラクレスは、必殺のヒドラ矢を外した挙げ句に接近して絞め技投げ技に持ち込むことが割と多いので評価はしている。
「ちなみにそっちの斧はピンチの時にアレスに祈れば、鎧と槍にフォームチェンジする機能がついてる」
「凄いでちー! ありがとうでち、偉大なる鍛冶神!」
「あっはっは。まあアレスの槍と鎧も僕が作ったものだからね」
褒められて満更でもないヘパイストスである。そのアレスも自分の嫁の浮気相手ではあるのだが。
彼の作った武具は基本的に他の神が持っていって英雄に与えるので、こうしてユーザーからお礼を言われることは稀なのだ。なんなら以前に装備を渡したアレスに感想を聞いても褒められたこともない。
目をキラキラに輝かせて喜んでいるペンテシレイア。アレスに祈るとアレスと同じような装備になるというのは、アマゾーンにとって最高にカッコいいパワーアップフォームである。
そうするとパリスも気になって、鉄の弓を取り出してヘパイストスに聞いた。
「オレの弓も特別な機能が!?」
「いや……無いけど」
「……」
その残念な報告はパリスにとってショックだった。肩を落としてうつむく。
最強の神弓から放たれる誘導ビーム的なものがあってもいいではないか。パリスはそう思うのだが。
「君、アイギス持ってるから必殺技は別にいいかなって……ケリュケイオンまで持っているじゃないか」
「ま、まあ確かに……」
ギリシャ神話世界でも最高クラスの防御力と攻撃力を併せ持つアイギスの盾を持っているのだから、それ以上は贅沢というところだろうか。
かの大英雄ペルセウスはアイギスの盾、アダマント製の武器ハルペー、ヘルメスの飛翔する靴などと神のアイテムを3つも渡されていたが、パリスはそこまで施されるほど偉い英雄候補でもない。
「気を落とさないでくださいねお兄様。ほら、わたしの貰った鏡も綺麗なぐらいで……って」
カサンドラがピトリとパリスにくっついて鏡を一緒に覗き込もうとした。パリスはカサンドラに触れる嫌悪感から鳥肌と同時に歯茎から出血して口の端から血が垂れた。
「……鏡だとお兄様の胸に矢が刺さっていますわ」
「ぼんどだ」
「ちょっとカサンドラちゃん。パリス苦しそうだから離れて離れて」
吐血しつつ声がかすれているパリスに気を使ってアイネイアスが距離を置かせる。そしてカサンドラの貰った手鏡を見ると、たしかにパリスの胸には矢が突き刺さっていて心臓の付近を鉛色に染めている。
同じくカサンドラの胸にも矢が見えて、黄金色に輝いていた。
「その鏡は呪いを可視化するものだからね。解呪はできないけど呪われる前なら鏡の部分である程度弾ける……アイギスも元々、そういった鏡面仕上げでいぶし銀に防御して戦うものだったんだけど、必殺のゴルゴン首なんか無理やりくっつけちゃって……僕の加工の芸術が……」
「こだわりを語らせるとテンションが下がってくる方ですね、この鍛冶神」
巨体の神がまた一人で頭を抱えながらブツブツと呟いているのを、カサンドラがざっくりと言う。
彼のこだわりに同調して盛り上がってくれる相手でもいればテンションも上がって饒舌に語るのだが、ギリシャ世界ではヘパイストスは少数派であったようだ。
その性格とライフスタイルから趣味の合う友人を探す行動にも出られずにこうして暗く愚痴る癖がついているのだろう。
「──おっと、そろそろ仕事に戻らないと。あっちに山頂に続く道があるからそこから出ていくといい。来る時に使った地下の道はダイダロスの作った人形でいっぱいだっただろう? あれも僕としてはちょっと画一的過ぎて面白みが足りないと思っていたんだがね。僕ならスキュラとかゲリュオンとかの怪物型自動石像を……」
またヘパイストスが一人で考えに入ってしまったので、パリスたちはとりあえず要件も済んだので階段の方へと向かった。
*****
扉を開けると巨大な縦穴とそれを登る螺旋の道がある。道の大きさはヘパイストスや助手の一つ目巨人に合わせているのか非常に広く、馬車が通れそうなほどだった。これがもし階段だったならば、背丈の小さいペンテシレイアとカサンドラは一苦労だっただろう。
小一時間ほど上ってカサンドラがパリスの手を引いて疲れを主張した。手を触れられたパリスはアレルギーのように皮膚が腫れた。
「お兄様♥ 疲れたからおんぶしてください♥」
「ペンちゃんおんぶしてやって」
「でちー」
「あ! なにするんですか幼女! わたしはお兄様に密着してあわよくばしたいだけです!」
甘えてくるカサンドラを適当に押し付けるパリスであった。ペンテシレイアはさすがのアマゾーン族だけあって、同じ程度の体格なカサンドラを背負っても足取りも変わらない。
「それにしても暑いわねえ……」
アイネイアスは上半身を諸肌脱ぎにして露出しながら、ムチムチとした鍛え上げられた筋肉を汗で光らせつつ呟く。カサンドラは横目に見て、あれに背負われるぐらいならペンテシレイアの方がマシかと思い直した。
火口まで続く縦穴から吹き出てくる熱気と同時に、水が滲み出ているのか道が濡れているので蒸し暑くなる。薄暗く、ほのかに縦穴の底から光る赤い光を頼りに上へ上へと進んでいくので気分的にも疲労は溜まる。
「こう、盾に乗って一気に上に飛ぶとかできないのか? なんか飛べるんだろ、その盾」
「でも疲れるらしいのよねえ……」
「こんな道を延々とのぼる方が疲れますよ実際……」
カサンドラの意見にもやや納得するところがあったのか、アイネイアスは盾を取り出して床に置いた。
全員が距離を取ると、アイネイアスは拳を握りしめて盾に血を注ぐ。
『我が不壊の愛に血を捧げ、願い奉る。祖が美の祝福を与えるならば、地母に繋ぎ止める手を緩めたまえ────』
アイネイアスは目を見開き、力ある祈りの言葉を唱えた。
『そして我が愛は飛翔する──!!』
力ある言葉を愛の女神アフロディーテの子が呟くと、彼のために鍛冶神より作られた盾は呼応して変形を始めた。
中央にある一枚の盾に放射状にややズラして重なっていた六枚の盾が、巨大な一枚の盾になる。七枚分の面積を広げた盾はまるで薄い小舟のようである。まさにこれこそ、トロイア戦争の後にアイネイアスを主役とした物語『アエネーアース』にて巫女シュビラと共に彼が冥界へと挑んだ、神に祝福された小舟の正体であった。
さすがに大勢が乗ることは考慮されていない大きさだが、アイネイアスの他にパリス、残りの少女二人は小さいからなんとか乗り込めそうだった。
やや窮屈ながら一同は盾の中央に集まって乗り込む。パリスはカサンドラが近くにいる影響で悪寒がして鳥肌が立ってしまった。
「な、なんか変な感じだな……この薄っぺらいのが空を飛ぶのか?」
「ヘルメスの靴もヘパイストスが作ったって言われてますから、彼が飛ぶといったら飛ぶのでしょうけれど……」
「コルキスあたりには空飛ぶ竜に馬車をくっつけた魔女がいるらしいでちけど、あっちの方が飛ぶのは理解できるでち」
まず、普通は空を飛ぶということがどういう状態なのか想像するしかないため、三人は中央に立つアイネイアスの足にしがみついた。
この時代のギリシャでは空を飛ぶ人間などほとんど居ない。せいぜいいるとしたら、ペガサスに乗るベレロポーンか、ヘルメスの靴を付けたペルセウスか、ヘリオスの空飛ぶ船に乗ったヘラクレスか、蝋の羽をこしらえたダイダロスとイカロスの親子か……数えてみると結構いる。なんなら最初から翼が生えていて空を飛べるアルゴナウタイのカライスとゼテスもいた。
それはそうだが、とにかく空を飛ぶなど一行にとっては初体験なのである。
「それじゃ、行っくわよ~!」
アイネイアスが腕を組んで集中する。自らの盾を自在に空を飛び回るように念じて動かす。これは盾の分離浮遊機構で練習していなければアイネイアスもイメージが難しかっただろう。だがまずはこの大きな縦穴から出るため、垂直に上がらなくてはならない。
一行の乗った盾は僅かに浮遊する。足元のおぼつかない感じに「うおお!?」とか「でち!」とか叫び声が上がった。カサンドラはどさくさでパリスに抱きつく。パリスはストレスで爪が割れた。
「ぬおおおお……」
「お、おい大丈夫か!? 縦穴の上に移動してるけど……」
皆を乗せた盾は螺旋状の通路から移動して、中央の吹き抜けになっている縦穴へと浮遊して動いた。
遥か底ではマグマが見える。ここから落ちれば焼け死ぬか、冥界に注ぐ燃え盛る川プレゲトーンに飲み込まれるかするだろう。
「話しかけないでっ! 今集中してるのっ! ……そぉい!」
アイネイアスの掛け声と同時に盾はエレベーターのように垂直へと急上昇を始める。全員が落ちないように、アイネイアスの足を掴んで耐えた。
「いいいいい!? だ、大丈夫かみんなああああ!?」
「もし落ちて死んだら、ペンテシレイアは勇敢に戦って死んだと伝えて欲しいでちいいいい!!」
「お兄様、怖いから手を握ってください♥」
各々がこらえながらも、螺旋通路を歩いて登るよりも遥かに早く、上部に見えていた地上へと続く穴が大きくなっていく。
光に飲み込まれるように、盾に乗った一行は小さな火口から外の世界へと飛び出した。呼吸も苦しくなるほどの暑さだった火山の中から山の上に出たので、風が冷たくて気持ちいい。乗っている盾の下は転落したら危険な高度であるのだが、あまりの爽快感に皆は感嘆の声を上げた。
「うおおお! 飛んでる! 飛んでるぞアイネイアス! あんなに遠くまで見える!」
天高く上空に初めて達したパリスは歓声を上げて周囲を見回した。島を囲む海。遥か彼方にはバルカン半島やアナトリア半島まで見える。ヘファイスティオンの町並みも手のひらに収まりそうなぐらい小さい。
「アララララーイでちー!」
「お兄様、落ちないように縄で繋がりませんか♥」
はしゃぐ三人だがアイネイアスは自分が操作ミスをしたら全員危険なので集中しながら、空飛ぶ盾の制御を行う。
「とりあえず適当に森の方へ向かうわよ! みんな、準備よ!」
「ほ、本当に大丈夫かー!?」
「急がないとアタシの集中力と体力が尽きるのよ!!」
アイネイアスからしても空を飛ぶなど初めてなので冷や汗を浮かべながら、勢いに任せて進むことにした。
慌てて皆は落ちないように、太鼓や弓を用意する。どこからともなくカサンドラが取り出したロープが全員を結ぶのに役立った。
*****
ステュムパリデスの鳥はかつて、アルカディア北部の深い渓谷をねぐらにしていた。
森深くに住み着いていただけならばいいのだが、竜のような体格の鳥が数百羽も存在していれば当然ながら餌の量も半端ではなく、人里の家畜や人間そのものを襲うこともしばしばあった。大量の餌から生み出される糞尿は土地を汚染し、湖の水を河の水源としていた下流の村々をも困らせた。
怪鳥たちは最強の存在だと、少ない知能の中で自負していた。ギリシャには数多くの怪物・魔獣が存在するが、その多くは一つの縄張りに一匹から数匹。一方で並の戦士では歯が立たないステュムパリデスの鳥たちは数百羽もが共存していたのだ。軍勢が駆除に来たところで空高く舞い上がり牛をも突き殺す彼らを相手にするのは困難であっただろう。
やがて恐るべき大英雄によって残らず住処から追い出された怪鳥たちは決してギリシャ本土には近寄らないようになったが、この小さな島に数十羽が住み着いてから再び増長していた。
この島においては彼らに敵う者はおらず、好きなように誰でも襲うことができた。その時までは。
最初、怪鳥たちは雷鳴が響いたのかと思った。ドォン、ドォンと遠くで空が震えるような音がしたのだ。
羽を休めていた鳥たちが一斉に顔を上げた。彼らの、体格に見合わぬ胡桃ほどの大きさしかない脳だったが、嫌な記憶を強制的に喚起させる音だった。
音が近づいてくる。既にこの鳥たちの記憶にも残っていないであろう過去に聞いた音。
だが本能に訴えかけるものがある。恐怖と、敗北と、一方的な殺戮。金属で出来た羽が耳障りな擦過音を出しながら逆立つ。カチカチと槍のような嘴を打ち合わせて、警戒と同時に悲鳴を上げ始めた。
ドォン……ドォン……!
彼方より響く音は強くなりつつある。
それは戦の神アレスが、自分の兄弟や子供である戦場の混乱と破壊、壊滅と蹂躙を引き連れてやってくるときに鳴らす戦太鼓の音だ。
リムノス島にある森のわずか上空を滑るように飛行しながら、アレスの娘が敗走と恐慌の音を激しく響かせる。
その太鼓の撥として渡された棒は楽器を叩くものではなくキュクロプスが持つ棍棒のような無骨な代物で、ヘパイストス製の耳栓を付けたカサンドラが太鼓を必死で押さえて、ペンテシレイアが打ち付ける。
一撃ごとに赤黒い血に似た色の火花が舞い散り、空間がぶれて見えるほど振動を全方位に伝えていた。
ステュムパリデスのみならず、森に住まう動物や鳥たちは発狂して逃げ回り、川に棲む魚は腹を浮かべて気絶した。
海辺にいた妖精ネレイデスたちは深海へと逃げ回り、空を飛んでいたヘルメスはノイズキャンセル機能のついたイヤホンを耳に付けた。
人間が地下に避難済みだったのは幸いだろう。この恐るべき太鼓を一般人が聞いたら精神を破壊されかねない。
「──ってそれカサンドラ平気なのか!? 耳栓付けてるとはいえダイレクトに受けて!?」
パリスが慌てて尋ねるが、カサンドラは目に♥を浮かべながらパリスの方を向いて、
「心配してくれるなんて……お兄様、好き♥」
「ああ……最初から狂ってるから大丈夫なのか」
目を背けるパリスであった。彼の方も、カサンドラへの嫌悪感や予言で死んだことによる精神力で影響はそう強くない。飛行に集中しているアイネイアスもそうだ。
一方でもろにアレス案件な神具を振るっているペンテシレイアは、
「アアアアラララララアラアアアアラッラララララララアアアアイイイイ!!」
「テンション爆上がりかよ」
完全に狂気に飲まれて太鼓を連打していた。
赤い稲妻のような火花を伴いながらも突っ込んでくる飛行物体に、ステュムパリデスの鳥たちはついに怯えて飛び立ち始めた。
それは敗北の記憶。自分たちを物ともしない、恐るべき英雄によって蹴散らされ、仲間の多くを殺害された種族の危機としての生存本能。
大英雄ヘラクレスはかつて単身でステュムパリデスの鳥を退治に向かい、なかなか姿を現さない鳥たちに対処するためアテナから借りたその戦太鼓を鳴り響かせた。
驚いて飛び回るステュムパリデスを次々に射落とし、あるいはヘラクレスに襲いかかってきた相手は素手で首をへし折ってしまった。
馬よりも大きな、鉄の武器を身に着けた怪鳥がまるで相手にならなかった。
これは勝てないとステュムパリデスの鳥たちが逃げ出すまでにヘラクレスが一人で駆除したその数は500とも600とも言われている。
仲間の死体を置いて逃げ出す鳥たちの本能に、忘れても消えない恐怖が植え付けられた瞬間であった。
──あの時と同じ音が鳴り響いている!
──あいつが、ヘラクレスがまた襲ってきた!
恐怖は次々に伝播していき、狂乱してステュムパリデスが逃げ出す。
中には狂って仲間を攻撃し始める個体も居た。音を聞いただけで 全身を襲う鬼胎のごとき苦痛に耐えきれないのだ。
ギャアギャアとけたたましい鳴き声を上げながら四方八方に数十羽が飛び散っていく。その中の一羽にパリスは弓を向けた。
「逃がすか!」
鍛冶神が打った鋼鉄に、仲間の骨と自らの毛で弓を作り上げるというケンタウロスの素材を組み合わせた新たな彼の弓。
トロイア戦争の英雄オデュッセウスが持つ常人では引くことも適わない鋼の弓と同等か、それ以上の強さを持つであろう強弓はパリスの手に馴染むように、グッと矢を引き絞った。
番えた矢は鎖の繋がった銛のような形をした特注品である。だがステュムパリデスは羽と嘴が金属で出来ているため、下手なところに当てても弾かれてしまうだろう。
矢に入れた毒の効果を早めるためにも狙うのは、首か胸だ。パリスは息を吐きながら狙いを定める。
彼が弓を得意になったのはいつ頃か、幼馴染のオイノーネやアイネイアスにもわからない。
だが牛飼いと弓というアポロンの持つ職能はどういうわけか、自然とイーデ山の誰よりも上達していた。
真剣に弓を引く彼の横顔をカサンドラは眺めて頬を熱くすると同時に、どこか以前に見たことのあるアポロンに似た雰囲気を感じた。
「遠矢射るアポロンよ! 頼むぜ! ぶち抜けえええ!」
アポロンに祈りを捧げてパリスは矢を放った!
槍めいた大きさの一矢は加速しながら一匹のステュムパリデスへと迫る。同時にパリスの腰に巻きつけた鎖がジャラジャラと音を立てながら伸びていく。
狙いは正確に、一匹のステュムパリデスの首へと突き刺さった。大きな返しのついた矢は一度刺されば肉ごとえぐり取らねば決して抜けない。
だが怪鳥の大きさは象のようなものだ。いくら矢が巨大であっても、一本が突き刺さったぐらいでは即死することはない。
──ギャアアアアアギイイ!!
ひときわ耳を痛めつける大きな声で叫びを上げた怪鳥は暴れて空を飛び回る。
「うお!?」
「お兄様!!」
そのステュムパリデスと鎖で繋がっているパリスは引っ張られて飛行する盾から落ち、空中を縦横無尽に狂乱して飛び回る怪鳥に牽かれる形で空を飛び回った。
「ウオオオオオ!! 死ぬ! 死ぬううう!!」
大声で叫ぶパリス。どうにか鎖を両手で掴んで、それを伝って相手に近寄ろうとするのだが上に下にと振り回されて、体が耐えきれそうになかった。
「パリスちゃんが危ないわ!」
「ヤバいでち! 盾で追いかけるでち!」
「無理よ! あんなに無茶苦茶な動きにはついていけないわ!」
まっすぐ動かすにも集中力が必要なのに、太鼓によって発狂している上に首から注入される毒で大暴れしているステュムパリデスなど近寄れるものではない。天馬ペガサスに乗ったベレロポンでも居なければ無理だろう。
「アイネイアスさん! なにか攻撃方法無いんですか!?」
「え!? なんですって!?」
「こんなときでもトロイア人に言葉通じない~!」
「アイネイアスの盾で使えそうな機能は無いでちか!?」
「そんな事言われてもここから届くのなんて、盾ビームぐらいよ! 誤射しちゃうわ!」
「ビーム!?」
三人はステュムパリデスも居なくなったので地面に降り立ち、パリスを見上げながら言い合った。
とりあえずアイネイアスは自分も持つ鋼の弓を構えるが、当てる自信が無い。パリスほどの腕前は持っていないのだ。願うのは暴れている鳥に早く麻酔が効き始めてくれることなのだが。
一方で引っ張り回されているパリスは内臓全てがミックスされたかのような気持ちの悪さと、全身の骨が軋んで悲鳴を上げている苦痛に耐えながら鎖を掴んでいる。
どちらが先に力尽きるか。あまり彼に余裕はなかった。
「クソッ!」
悪態をつくと、また振り回された拍子に胸元から小袋が飛び出た。咄嗟に噛み付いて落ちるのを防ぐ。
それは昨日オイノーネから渡された緊急用の丸薬が入ったものだ。服用するとパワーアップすると言っていたが、怪しげに言葉を濁していた……
「ええい、ままよ!」
今のこの状況が既に副作用よりピンチなのは間違いがない。パリスは数粒入った丸薬を噛み砕いて飲み干した。
すると、胃の腑から焼けるような熱が口にまでこみ上げてきて、咳き込んだ吐息に光の粒子が混ざっている。髪の毛や手足の先端、関節などが僅かに輝き、目の前が眩しくなる。おそらく眼球も発光しているのだ。
「なんの薬だコレエエエ!!」
思わぬ変化に恐怖を感じて叫ぶのだが、信じられないほど力が湧いてくる。ステュムパリデスと繋がる鎖をグイグイと引っ張って、前後左右上下に揺さぶられていることなど気にしないかのように楽々と怪鳥との距離を詰めることができる。
「うおおおお後が怖い後が怖い!」
追い詰めているのに追い詰められている悲壮な表情で接近していくパリス。
とうとうステュムパリデスの喉元までにじり寄った彼にようやく気づいたとばかりに、怪鳥は鋭い嘴を突き立てようと鎌首をもたげた。
鎖から片手を外してアイギスの盾を構えてパリスは怪鳥の一撃を受け流す──と同時に、もう一方の手も鎖から離して瞬時に帯びていたケリュケイオンの杖を腰から引き抜いて、相手の頭を殴った。
あまり鳥類には効果のないケリュケイオンだったが、一瞬一秒だけでも意識を飛ばしさえしてしまえば、全身に回り始めた麻酔がその効果を発揮して一気にステュムパリデスは脱力をし──森へと墜落していった。
「死ぬううううう!! ぎゃああああ!! この前いつ予言したっけえええ!?」
パリスごと。死んだら予言だったオチを期待しながら、何度も英雄らしからぬ悲鳴をあげていた。
『おい! あの薬はアンブロシアじゃないのか!? 人間に簡単に与えるな! 不死になるぞ!』────関係者Z
『薄めたものならば大丈夫だろう。お前こそ前にエーオースに頼まれてアンブロシアを人間に与えなかったか。あれはどうなった?』────解説者P
『ああ、ティトノスのことか。ちゃんと私も考えて不死は与えても不老は与えなかったぞ。まあ、年老いてガリガリに痩せこけても死ぬことができずに、哀れんだエーオースが彼を蝉に変えてやったが……』────関係者Z




