幕間1『アキレウス、ケイローンに預けられる』
今年は馬年だと聞いたので馬外伝!
ギリシャ神話、英雄の時代。
各地で次々に神の血を引く英雄たちが現れ、冒険や怪物退治、戦争や王位の奪い合い、試練や過ちを犯している。
勝利し綺羅びやかな人生を送る者。戦いに明け暮れる者。破滅へと突き進む者。神々へと挑む者。
それら英雄の活躍は一部の神々にとって大変面白い娯楽であり、自らの子孫や推しの英雄へと支援をすることも珍しくない。
多くの英雄たちが幼少時に尋常ならざる技能を学んだのが、半神半馬の賢者ケイローンであると言われている。
テッサリア地方にあるペリオン半島の付け根にはペリオン山があり、そこにケイローンは住んでいる。
ケイローンは父を大神クロノス、母はニュンペーのピュリラーを持つ──両方とも既に居ないが──由緒正しき神である。母違いではあるが、ゼウスやポセイドンなどとも兄弟の関係になる。
ただ母から愛されずに隠して産まれ、その後もしばらくの間は誰とも関わらずに知恵あるケンタウロスとして生きてきたため神々としての自覚は無かったので、今でも地上で暮らしている。
しかしながらゼウスらが自分らと同じくクロノスの子であり、神ではなくケンタウロスとして生きているケイローンに気づいてからはこれまで放置していた詫びのように彼へ愛情を注いだ。
ゼウスは自分の持つ神山ペリオンをケイローンに譲り、彼の住処として永遠に自然が豊かである加護を与えた。
ポセイドンは海の知識をケイローンに与え、あらゆる航海術も教えた。
ハデスすら冥界からケイローンのもとへとやってきて、冥界の知識や魔術を教えていった。
アポロンは占いや音楽を、アルテミスは狩りや子育てを。多くの神々から得意とする分野を学ばされたケイローンは万能の技術と知識を持つ、パーフェクトケンタウロスとなった。
そんなケイローンの住まうペリオン山には、賢者に技能を学ばせようと人間たちが子供を送り込み、彼らを鍛えるための学び舎──通称『馬の穴』と呼ばれるトレーニング施設があった。
「ギャアアアアアア!!」
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死んだあああああ!!」
「ディスイズスパルタアアアア!!」
悲鳴が今日も響き渡る中で、ニッコリとケンタウロスは微笑む。
「新しく来た子たちは元気そうですね」
ケイローンはトレーニング用に立てた数十メートルの高さの塔から落下していく子供を一瞥して、満足そうに頷いた。
塔の周辺には泥と油を敷き詰めたプールになっているので落ちても命の危険は少ない。プールでは水よりも遥かに泳ぎにくいその中を子供たちが力泳し続けている。
『馬の穴』の象徴とも言える巨大な塔は細い螺旋階段で屋上に昇るまでひたすらウサギ跳びで上がらなくてはならず、バランスを崩せば即落下してやり直しになる。
慣れない者はそれだけでも必死になるのだが、塔の屋上では更に危険なトレーニング設備がある。
重たいバーベルには棘が付いていて落とすと自らの体に突き刺さる。
砂鉄の詰まったサンドバッグには茨が巻きつけており、狙い通りに打たねば体を傷つける。
数メートルの高さからの綱渡りで落ちれば毒蛇の群れに噛まれる。なお毒はケイローン印の薬で治されるので、激痛を味わうだけで死ぬことはない。
レスリングやパンクラチオン、ボクシングを行うリングの床には電流まで流れていて叩きつけられた者を痛めつける。
その他諸々、殺人的な特訓を行う恐るべき超人育成機関。それがケイローンの学び舎『馬の穴』であった。
設備だけではなくともに学ぶ仲間たちとの試合、打ち合いでも死ぬ寸前まで行くことも日常茶飯事であるのだが──幸いなことか、医学でも一流なケイローンの手当によって即死でなければ治癒されるので死亡率は高くない。
近年この地で死んだ者は、ヘラクレスに竪琴を教えていたリノス(オルフェウスの弟)ぐらいだろうか。上達しないヘラクレスを叱ったところ反撃で殴り殺された。即死であった。
ちなみにケイローンに竪琴や占い、医術などを学びに来た非戦闘系の子供たちも漏れなく全員ウサギ跳びと殺人トレーニングを行わされる。
「馬先生ー! 弓術指導願いまーす!!」
「はいはい、いいですよ。じゃあ私が矢を撃つから正面から撃ち落としてくださいね。できなかったら貴方に突き刺さるので」
「ギャアアアア!!」
一秒間に十六連射される矢を撃ち落とせずにハリネズミになる弟子。これでも手加減している方である。角度とか。
「馬先生ー! 馬術指導願いまーす!!」
「はいはい、では背中に乗ってください。崖を駆け下りながら他のケンタウロスが襲いかかってきますが振り落とされないように」
「死ぬうううううう!!」
基本的に荒くれ揃いなケンタウロス族もケイローンにはよく従うので、修行を手伝うこともあった。しかし彼らは手加減などしない。生徒を背中に載せたケイローン相手に丸太のような棍棒で殴りかかったり投げつけたりして殺しにかかる。
ケイローンはそれをアクロバティックに避けるのだが、生徒は落とされないようにするので精一杯である。時々落とされては集団暴行されてしまう者もいるのだが、ケイローンがちゃんと助けていた。
「馬先生ー! 剣術指導願いまーす!」
「はいはい、剣術は足さばきが重要ですよ。こうです! こう!」
「全然わかんねええー!」
ケイローンは剣や槍を扱わせても一流なのであるが、こればかりは弟子から不評であった。
なにせ四本脚を駆使したケンタウロスの武芸である。生身の人間には再現不可能なことが多い。以前は在籍していた双子座のカストールが剣術師範をしていたり、時折訪れるヘルメスが教えたりしていた。
体力や戦闘術、教養などを基礎として教えつつ専門教育を施して才能を開花させるケイローンの教えは、内容は過酷であっても英雄たちやその親からは好評であり尊敬を集めるものであった。
******
そんな賢者ケイローンにその日、客人が訪れていた。
「馬先生。相談があるんだが……」
「おやおや? ペーレウスにテティスではありませんか。結婚式以来ですね」
いつもどおりの、見る人によっては胡散臭く感じるほど爽やかな笑みを浮かべながらもケイローンは英雄と女神の来訪に首を傾げた。
壮年の英雄ペーレウスはペリオン山近くに領地を持つ領主であるのだが、若い頃から冒険野郎として知られている男だ。あのヘラクレスやテセウスと共に冒険をすることも多かったのだが、割と野蛮な行為をするギリシャ英雄の中でもそこまで非道でない方で有名である。
もう一人の美しき女神テティスはかつては輝かんばかりの美貌でゼウスやポセイドンから狙われていたのであるが、人間と結婚したことから幾分落ち着いたような印象になっている。ただしゼウスは人妻とか好きなタイプなので注意が必要だ。
二人ともケイローンとは関係が深い。
ペーレウスはケンタウロスに襲われた際にケイローンから助けられた誼で、それ以来彼の山に別荘を立てて住み込むほど親しい付き合いであるし、テティスに変身や予言の術を指導したのはケイローンの『馬の穴』による鍛錬である。もちろん女神もウサギ跳びさせられた。
そんな二人の結婚式だからこそ、ケイローンは張り切って仲人から式の差配まで行ったのであるが……
「ティーッス! 馬先生!」
「テティスも久しぶりですね。今日はどうしました?」
妙な掛け声を出している女神に要件を尋ねる。彼女は胸元に赤子のアキレウスを抱いて連れてきていた。
「うちら、離婚しようと思ってるティース!」
「はいはい……おやおや? おやおやおやおや……!?」
ケイローンがとりあえず頷いてから、理解できないように言葉を繰り返した。ペーレウスは気まずそうにしている。あとそんな語尾だっただろうか? この女神。
「り、離婚……ですか? それは穏やかじゃないですね……!?」
いろんな意味で。
ギリシャ神話世界では一般庶民にとって正式な離婚というものはあまりない。
そもそも婚姻の神であるヘラ、契約の神であるテミスなどはいるのだが契約破りや不義理の神なんてものは居ないのだから、結婚を破棄するというのはそれを担当する神々に対しての裏切りでしかないのだ。
とはいえ、例えばゼウスはテミスと離婚しているしヘパイストスはアフロディーテと離婚したりしなかったりするので、概念が存在しないわけではない。
それに夫が浮気をして元の妻を捨てて新しい女と生きる、などもよく聞く話ではある。だがそれも正式な離婚ではないだろう。
「馬先生が仲介して、ヘラとかに怒られんようにして欲しいティース!」
「……仲人をしてくれた馬先生には申し訳ないことになったんだが……」
ペーレウスは本当に済まなそうにそう言う。彼としても本当は離婚したいわけではないし、あれだけ盛大な結婚式をしてくれたケイローンの顔を潰すような真似はしたくないのだ。
オリュンポス十二神まで呼びつけて行った結婚がすぐさま破綻してしまうというのは神々の間でも眉をひそめることなのは間違いない。ただし一部の嫉妬深い女神たちでは、人間に嫁いだ挙げ句に数年でバツイチになったテティスを小馬鹿にする噂で盛り上がるかもしれないだろうが。
「いったい何があったのですか? 聞かせてください」
「ティース!」
「……その前にテティス、その妙な口調のわけも」
ケイローンが尋ねるとテティスは遠くオリンポス山の方を指差しながら言った。
「ヘラが『品がない男神にモテないために、けったいな口調とかええんちゃう?』ってうちに魔法掛けたらなんか語尾がこうなったティース!」
「呪われてますよそれ。……まさかペーレウス、この変な語尾が嫌になったとか……」
「そうじゃないんだ、馬先生」
ケイローンの記憶によれば、そもそもペーレウスは結婚以前に船旅の途中、ちらっと見かけたことのあるテティスを覚えているほど見た目が好みで岡惚れしていたはずだ。
だというのに子供もできて早々に離婚するとは尋常ではない。
「それは……息子のアキレウスの教育方針の違いというか……」
「おやおや、アキレウスがどうしたんですか?」
二人の視線が、テティスの抱いている赤子に向かう。まだまだ小さくあどけないが、片足には包帯を巻いていた。
テティスは軽く頬を膨らませて説明した。
「うちがアキレウスを、ステュクス川で洗って、肌にアンブロシアをまぶして、火でじっくりと炙っていたら旦那が止めてきたティース!」
「新しい料理法ですか?」
ロースト・アキレウスの完成である。
「違うティース! アキレウスが死なないように不死にさせるためティース!」
ステュクス川は生者と死者の境を流れる川で、これに身を浸すと不死になると言われている。(もちろん普通は人間が近づけるものではないが)
またアンブロシアも神々の食べ物であるのだが人間に与えると寿命が伸びたり不死になる。ただし、ポンポンと人間を不死にして神に近づけるのはゼウスも禁止している。
そしてそれらを使ってアキレウスの体を神々に近づけ、残った人間の部分を火で炙って蒸発させれば純正な不死身の神人間が出来上がるという計画だったようだ。
どれか一つでもいけそうだがフルコースでやってしまったらしい。
ペーレウスはふと気になってテティスの行為を覗き見したところ、赤ん坊の息子を冥界の川に足掴んで沈めるわ、怪しげな膏薬を全身に塗りたくって火であぶり出すわで慌ててそれを止める羽目になったのであった。しかも火力が強すぎて足の踵が大火傷してしまったのである。
常識的に考えてそんなもの見たら止める。
「おやおや……」
特にアキレウスの踵の怪我が酷い。これはケイローン式手術が必要かもしれないと彼は思った。
この後アキレウスに対して行われる巨人の骨を移植する手術は、神話でも最古の骨移植手術として知られるようになる。
「旦那はアキレウスを殺す気ティーッス!」
焼き殺しかけた母親がそうヒステリックに叫んだ。
「違うんだ! というかそんな、不老不死にしたらもう人間じゃないだろ!? 俺はアキレウスには人間として生きて欲しい!」
「寝ぼけたこと言うなティース! アキレウスは若くして死ぬ予言が出てるから、生存優先ティース!」
「死ぬまでの予言をしてしまったのですか? テティス」
咎めるような口調でケイローンは尋ねた。
普通、人間の王や英雄は多くの予言を受けるのだが──自分が死ぬときの予言を受けてはならないとされている。
何故ならばこの世界の運命は、人間よりも神のほうが遥かに力が強い。その運命力の強い神から与えられた予言というのは、人間の運命を容易く捻じ曲げてしまう。
そこで死の予言を受けたらそのとおりになってしまうことが多いのだ。破滅の予言ならば回避や事後対策も考えられるが、死ねば終わりである。
だが女神テティスは初めての子供の未来が気になって占ってしまったのである。
「ふむ」とケイローンは赤子のアキレウスの手を取って、簡単に占いをしてみる。
「……!? これは……」
「どうしたんだ、馬先生!」
「アキレウスの恐ろしい未来が見えたティスか!?」
「……いえ、この子の運命の糸が大きく乱れている。先の未来が読めない状態ですね」
ケイローンの意識の中に様々な写真が並ぶように、アキレウスの人生が見えた。
その中には彼が死んだ場面も所々にあったのだが、それこそまだ幼児のまま死んだ未来や、今のペーレウスほどの年齢になって戦場で果てる未来。栄光を手にして息子や家族に看取られる未来。ヘクトールに殺される。アポロンに射たれる。アイギスを持ったパリスに石化させられる。何故か魔女メデイアに刺し殺される未来……無数の可能性があった。
人の運命などは予言による行動で簡単に変わってしまう、小さな運命の流れにある。だがアキレウスはまるで、誰かが彼の運命を覆す行動を続けているかのように大きく未来が乱れているのだ。
恐らくはアキレウスの人生に今後関わる誰かが予言で行動を変えていることで、その影響で様々な人物の予言が変わりつつあるのだろうが。
「なるほど……これはテティスが不安になっても仕方ないかもしれませんね」
「だが……人生なんてものは冒険と同じだ。先がわからず、危機が訪れることは当たり前ではないか」
ペーレウスが自分の息子を心配していないわけではない。彼に若くして死んで欲しいとも思っていない。
だが自分もギリシャ中を生きるや死ぬやの冒険をして生きてきたのだ。
「たとえ地図の無い旅でも、神々に標が与えられずとも、それでも前に進めるような男にアキレウスはなって欲しい」
「危険ティース! それを無謀というのティース!」
テティスが夫を批難するが、ケイローンにはどちらの意見も正しいものだと思えた。正しく子供のことを思い、その生を望んでいる。
どうしたものかと考えていると、大きな声が三人に向かって掛けられた。
「人生は冒険! いいことを言うじゃないかペーレウス殿!」
皆が振り向くと、近くにあった大きな木の上から男が飛び降りた。
細身で長身の、王族らしい丹精な顔立ちをした若者だ。背中には交差するように二本の短槍を背負っている。
様々な武器を得意とするギリシャ英雄の中でも二槍の使い手となれば彼ぐらいだろうか。ケイローンが呼びかける。
「おやおや、イアソンではありませんか。今日の鍛錬はどうしました?」
「ウサギ跳び往復五回、棘ダンベル200回、茨サンドバッグ叩き1000回、電撃レスリング百人組手、泥油プールに飛び込んで2キロ力泳、生徒たちへの槍術の指導まで全部終わったぜ馬先生! 俺様ぐらいのベテランになると午前中だけで終わらせられる!」
「おお、アイソーン殿の息子のイアソン殿か」
元イオルコス王アイソーンの息子イアソン。『馬の穴』でも古株なケイローンの弟子であった。
『馬の穴』の教育期間は基本的に一神年周期で卒業する者が多い。一神年は人間の暦で約八年の期間だ。ヘラクレスも八年ほどで卒業していった。
しかし中にはほとんど赤ん坊の頃から預けられる者も居て、そういった者は教育期間が倍の十六年に値する。イアソンも既に十六年、このケイローンの元で修行を積んでいるのである。
イアソンは胸を張って自らの師に告げる。
「そろそろ俺様もここを卒業するのにいい時期だと思ってな。アスクレピオスも出ていったし。俺様も冒険がしたいぜ! 俺様のような未来の大英雄にとって、ここ程度の修行じゃ物足りないのさ!」
「……おやおや? イアソン。鍛錬を終わらせたというのに髪や爪に泥が詰まってませんね?」
「ギクッ」
「……修行をサボった挙げ句にもうやりたくないから出ていきたいというのでは無いでしょうね?」
「ま、まさか~……」
そっぽ向きながら笑みを浮かべるイアソン。
実のところ彼は、まあやればできる子ではあるのだがこの地獄の養成所に飽き飽きしているのだ。逃げたいといっても過言ではない。
ついこの前までは自分と同じく、赤子の頃から十六年コースで修行をしていたアスクレピオスが居たからまだ我慢もできたのだが、次々に同級生や後輩が卒業していくのを目の当たりにして、自分だけが残るのが馬鹿らしくなってきたのである。
普段の修行態度からそんな調子で身が入っていないのも、ケイローンが卒業に太鼓判を押さない理由でもあるのだが……
「う、馬先生がどう言おうと俺様はもう卒業の時期だ! あんまり待たせてて親父もぽっくり死ぬかもしれないし! 故郷に錦を飾らないとな!」
「ほう」
ジト目でケイローンが見てくるのでひたすら目をそらすイアソン。
イアソンの父アイソーンは、異母兄弟であるペリアスに王位を奪われた後に身の危険を感じて隠遁している。その際に、息子のイアソンの保護と教育をケイローンに任せたのであった。
もちろん噂を探ればケイローンの元にイアソンが居ることはペリアスにもわかっていたのだが、ギリシャ一の賢者と名高く数々の王族や英雄を預かるケイローンの元へ暗殺の刺客を向かわせても無意味である。むしろ、時折やってくる誰が目的か不明な襲撃者たちは訓練代わりに生徒たちから返り討ちに合う運命だ。
それはともかく、どこかで隠居生活をしているアイソーンを迎えるためにもイアソンは伯父であるペリアスから王位を奪い返さなくてはならないのだ。簡単に済む話ではないとイアソンもわかっているが。
同時にケイローンは、このイアソンもアキレウスと同様に近頃未来が不明瞭になってきていることを思い出した。以前は破滅の未来が見えていたのでそれとなく旅を止めていたのであったが……
「そうだ! ペーレウス殿。そのアキレウスを馬先生に預けたらどうだ? そうすれば自分の身は守れるぐらい鍛えられるし、少なくとも馬先生のところに居るうちは安全が保証されるだろ!」
思いついたようにイアソンが言う。彼としては、ケイローンに新たな生徒を差し出すことにして自分から気を逸らしたいのだ。
この突然変異の馬はどういうわけか親心がやたらと強く、子供を何十人も面倒を見ていることでもわかるのだが特に赤子の世話も得意としているのだ。イアソンやアスクレピオスも散々世話になった。
ケイローンを教育した神のうち、アルテミスが子育てに関して厳しく仕込んだせいかもしれない。彼女は子供を害する親には罰を与える神でもある。例えば難産で親子の命が危険だった場合、母親を抹殺して子供を取り上げる役目を持つとされている。アルテミスが生まれて最初の仕事は母レトが弟アポロンを出産するのを手伝うことだったが、レトも危ういところであった。
「確かにうちに居る間は守りますが……」
「ティース! 馬先生のところなら安全ティース!」
「確かに……頼めますか、馬先生!」
「……わかりました。他ならぬペーレウスとテティスの頼みですからね。ただし、この子が十分に育った後に、自らの意思で名を上げたいと外の世界に向かうのは私は止めません。イアソン、貴方のことも止めませんよ。確かに、男の人生はいつだって生きるか死ぬかの冒険であるものです」
「馬先生……!」
「ありがティース! 馬先生!」
「俺様、ビッグになるぜ馬先生! あ、そうだ。『馬の穴』規則で冒険先で得た財宝の半分は養育費として上納しろってんだろ? わかってるって!」
なんかやたらブラックな規則が見えたが、ともかくそうして話が纏まることになった。ケイローンは赤子のアキレウスを受け取る。
とりあえずだが、テティスとペーレウスも今すぐ離婚というわけではなく、別居という形で今後のアキレウスを見守ることにしたようだ。
しかし。
馬先生はさっきから、いや以前からずっと釈然としない思いが──連呼されたことで不安になって三人に聞くことにした。
「ところで……」
「どうしたんだ? 馬先生」
「今度ヘパイストスに頼んだアキレウス用の道具持ってくるティース馬先生!」
「なんだよ馬先生。俺様はもう行くぜ?」
「三人とも……まさか、いや本当にあり得ないと思うのですが……」
ケイローンは真剣な眼差しを向けて、恐る恐るといった口調で聞いた。
「……私の名前、覚えていますよね?」
沈黙。
三人は訝しむように眉根を寄せて、やや瞑目し、お互いに顔を向けあった。
そして爆笑した。
「は! はははは!! それは面白いケンタウロスジョークだな馬先生! ケンタウロスのくしゃみ!(びっくりを意味する古代ギリシャスラング)」
「ティーッティッティッティス! 今年一番笑ったティース!」
「ハハハ、まさかケンタウロスの大賢者ともあろう、このペリオン山の主がそんな心配を!? 笑っちまうぜ馬先生!」
手を叩きながら、或いはテティスなど笑いすぎて海水を口から吹き出しつつ三人ともあまりに非常識な質問に、一通り笑うのであった。
だが馬先生は「そうですよね」と一言呟き、追求する。
「ではイアソン。私の名前を言ってみてください」
「い、いいぜ!」
彼は勢いよく頷き、大きく深呼吸をした。
「……最初の一文字が……『ケ』ェ~~~~……?」
「なんですかその、こっちの反応を伺いながら考えてるみたいな答え方!? イアソン!? 覚えていないのですか!?」
「覚えてる! 当たり前だろ馬先生! ……次の一文字が……『ン』」
「ン!? ケンタウロスって言おうとしてませんか!? 見た目だけの特徴で!」
「ンンッごほんごほん! 今のナシ!」
イアソンは大きく手を振って振り払うようにしながら叫ぶ。
「偉大なる先生の名前を覚えていないわけないだろ! そんな馬鹿な質問に答えている暇はないんだ! イオルコスが俺様を待っている! ついでに一緒に行こうぜペーレウス殿!」
「そうだなイアソン殿! 冒険なら俺もついていくぞ! じゃあな馬先生!」
「うちは海に帰るティース! アキレウスのこと宜しくティース!」
三人とも振り返って足早にケイローンの前から立ち去っていく。
「待ってください! 三人とも! まさか本当に!? 本当に覚えていないのですか!? 私と長い付き合いですよね三人とも!」
ペーレウスは命を助けた縁から長年の友人であるし、山には別荘もある。テティスはまだ彼女が若い頃に魔術の手ほどきをした。イアソンなど生まれてから十六年も一緒で親代わりの役目だったのだ。
覚えていないはずがない。きっとふざけているだけなんだ。そう思いながらケイローンはアキレウスを抱きかかえながら追いかけようとしたが、背後から声が掛かった。
「どうしました馬先生ー」
「馬先生! レスリングの指導願いまーす!」
「馬先生ご飯まだー?」
「カリクロー(ケイロンの妻)様が呼んでましたよ馬先生ー!」
「馬先生!」
「馬先生!」
「UMA!」
呼びかける大勢の生徒の声に、ケイローンは固まって──天空に向かって嘆いた。
「誰か私の名を、呼んでください──!」
──賢者の個人的な悩みはともかく、こうしてアキレウスという名の赤子はケイローンに預けられることになったのであった。
『ちょっと待っていてくれ。今、射手座の権利を譲るようメソポタミア神のエンリルと交渉中だ。モデルが謎のサソリ人間よりケイローンのほうが射手座に相応しいだろう?』────関係者Z
※射手座はもともと半人半馬半サソリのパビルサグ
『馬の穴──私もそこの特訓を体験したことがあるが、これが非常にキツイ! 日が昇ってから沈むまで地獄のような殺人トレーニングを繰り返されるのだ! まさに悪の殺人レスラー養成所と言えよう! もっとも、馬先生の前では口が裂けても言えないことではあるが……』───アスクレピオス・猪木 談 文責:梶原一騎
あけましておめでティース!(挨拶)
今年も宜しくティース!(挨拶)
お年玉でポイント欲しいティース!(挨拶)




