2話『まずは現状把握から!』
古代アシアにおける城塞都市トロイア。
それは現代で言うトルコ共和国があるアナトリア半島、そのエーゲ海(ギリシャ東側の海)に面している西沿岸にある都市であった。
エーゲ海を挟んでギリシャがすぐに伺える位置にあるので交流も盛んであり、アシアでありながらギリシャの文化圏でもある。トロイアの都市内にもギリシャの神々を祀った神殿が幾つも存在している。
頑強な城塞に囲まれた首都イリオンとそれを取り囲むように街とさらなる城塞に囲まれている巨大な都市であるトロイアは、地中海でも有数の頑強な都市国家として知られていた。
特にそのイリオンを囲む城塞は太陽神アポロンと海神ポセイドンが人間に化けて組み上げた神造のものであり、怪物であろうが大英雄ヘラクレスであろうが城塞を破壊するのは不可能だと評判であった。(ヘラクレスはこの都市を攻める際は砕かずに乗り越えて来たが)
この時代のトロイアの王はプリアモスという老王である。
彼に英雄の如き武名があるわけでもないが、とにかく子沢山だった。王子だけで30人以上はいた。その中の一人が、最近になって王子だと判明したパリスである。
なにせ王子が非常に多いわけだから、生まれたときに捨てることになったパリスが成長していて戻ってきても、感動の再会という雰囲気でもなく「お、おう。生きてたの?」ぐらいの反応で受け入れられた。
これだけ王子が多いとそれぞれ個別に大きな権力や重要な役職が与えられるわけでもなく、せいぜいが都市内に屋敷を与えられるぐらいの待遇であり、行動を縛ることもなかった。(嫡男にしてトロイアの誰もが認める次期王のヘクトールは別だが)
というわけで、予言による未来の追体験から復帰したパリスが妹のカサンドラを抱えてダッシュしているところを見ても、誰も特に気にしていなかった。
「ちょっっとおおお! パリスお兄様!? どこに連れて行くんですのー!? 誘拐ー!?」
「とにかくオイノーネのところだ! 予言についても聞かないと!」
カサンドラの衝撃的な予言が行われたのだが、パリスもまだ混乱しているところがあった。肝心のカサンドラも自分が喋った内容を覚えていないという。
となればパリスにとって一番身近な予言の力を持つ妻、オイノーネに事情を相談してみようというつもりであった。
なにより記憶の中で、最後に自分を抱きしめながら涙を流し、共に焼け死んだオイノーネの姿が頭から離れない。ヘレネーの美貌ぐらい忘れられない。
「だーれーかーたーすーけーてええええ!」
そういう事情はわからず、出会ったばかりの兄に拉致されていくカサンドラは悲鳴を上げるのだが。
二人が走り去っていくのを、城の練兵場で槍の鍛錬をしていた兄弟のヘクトールとデイポポスは胡乱げに眺めて言い合った。
「おんや、またカサンドラが変なこと叫んでるっぽいな。それとパリスか?」
「まあ……別になんでもないだろヘク兄」
首を傾げる二人はカサンドラの悲鳴をまるで気にしていない。カサンドラはアポロンの呪いで預言どころかその口から出される言葉がまったく信用されないので、こうなる。
パリスはイリオンの城塞を飛び出て東の方へと向かった。トロイア城塞群の近くにあり、都市で消費される木材や畜肉を支えるのが巨大な神山イーデ山である。
数々の下級な女神、妖精、牧童、神託者や巫女が山には住まい、豊かな山ではあるものの村などの集落は神々に遠慮して作られていない。牧童や神託者などはアポロンが庇護を与える職業なので住まうことを許されている。
まるで花嫁を攫ってきたときのように(まあその時はヘレネーも協力的だったのだが)少女を小脇に抱えてパリスはイーデ山を駆け上がり、オイノーネとの住処へと駆け込んだ。
「オイノーネ!! 生きてるか!?」
「うわっ!? ど、どうしたのパリス。そんなに汗びっしょりで駆け込んできて……大丈夫? おっぱい揉む?」
家に入るなり叫び声を上げたパリスに、ビクッと体を震わせて不思議そうに銀髪の女神オイノーネは和ませようと冗談を言ってみた。
朗らかな笑みを浮かべたオイノーネはパリスにとってはるか昔の記憶にあるままの姿で、ヘレネーを娶るために捨てた後の恨みがましそうな、悲しそうな、そういった顔ではない、幼馴染の慣れ親しんだ、心休まる顔だった。
そして冗談を言った後でパリスが手元に少女を抱えているのを見てオイノーネは「げっ」とうめき声を上げる。
「ちょっと。お客さんがいるなら先に言ってよ、もう恥ずかしいな……」
おっぱいがどうとか勢いで言ってしまったことを軽く後悔していると、パリスが目を回しているカサンドラを床に落としてオイノーネに迫った。
「オイノーネ! うおおおおオイノーネ! うわあああゴメンなあ……おーいおいおいオイノーネー!」
「な、なに!? いきなり泣きながら抱きついて来て!? 恥ずかしいし意味わからないしなんか韻踏んでるしー!」
「お前を捨ててゴメンなオイノーネー!」
「ボク捨てられたの!? いつの間に!? まさかその女に!?」
予言の記憶で謝りだすパリスにオイノーネは混乱して、二人は暫く騒ぎ合うのであった。
*****
パリスの様子がおかしく、神由来の狂気を感じ取ったオイノーネは落ち着かせてから腰を据えて話を聞くことにした。
オイノーネはとにかくパリスが軽薄で口が軽いことを知っているので、念には念を入れて忠告しておく。
「それじゃあ予言の話を聞くけど、まず注意して欲しいのは他の神についてあんまり外で口に出さないようにすることだよ。キミって軽い気持ちで神々の悪口とか言いそうだし、聞かれてたら呪われまくるからね」
「まくるのか」
「まくるよ」
「ううっ……言った覚えがあるような無いような……」
ギリシャ世界において神々を侮るような発言をするのは破滅フラグである。良くて軽い凶事、悪ければ怪物に呪いで変えられてしまう。
「一応神々に聞かれないようにする方法もあるから教えておくね。神殿・海の近く・空が見えるところ・近くに野生の小動物がいるところを避ければまあ滅多に聞かれないらしいよ。まあつまり家の中だね。竈の神ヘスティアは優しいから告げ口なんてしないし」
「お、おう注意しとく」
「ヘルマ(ヘルメスを模した石柱)のある辻なんてサイアク。噂話と悪口を交易品かなにかだと思ってるヘルメスに知られたら一瞬でつぶやきされて拡散炎上されるからね」
「つぶやき拡散炎上ってのがよくわからんけど、気をつける」
パリスは神妙に頷いた。
彼の持つ予言の知識でも神々を侮辱したり、供物を怠ったりしたが故に酷い目にあった者が何人もいた。
そもそもトロイアからして、アポロンとポセイドンに城壁を作らせたというのに当時の王(パリスにとっては祖父)が報酬を支払わなかったため両神を怒らせて疫病と怪物のダブルパンチを喰らった歴史がある。
トロイア戦争でも散々神の介入があったのだから、神の機嫌を損なうことは危険であった。それがまだ起こっていない予言の内容であっても。
小屋の中でオイノーネ、カサンドラと向き合うようにしてパリスは座り、カサンドラが語ってパリスが追体験をした具体的な予言の内容を二人に説明をした。
それはパリス自身が戦争中に見聞きしたことよりも詳しい、神の視点で語られる言葉であった。
******
トロイア戦争の発端は海の女神テティスと人間の英雄ペーレウスの結婚式から始まる。
ゼウスやポセイドンから愛された女神テティスと、賢者ケイローンの友であるペーレウスの結婚式はとにかく参列客が多くて神々や妖精どころか巨人族すらやってくるほどだった。
そんな中で呼ばれなかったのが不和の女神エリスである。結婚式にエリスを呼ぶ者などいないだろうが、それにしても彼女は怒った。
エリスは結婚式の宴会を台無しにしようと、『最も美しい女神へ』と書かれた不和のリンゴを式場に転がした。
最も美しい女神。女神なんてものは大抵が美女揃いであるので誰がそのリンゴに相応しいか紛糾したのだが、最終的に三女神が名乗りを上げた。
美の女神アフロディーテ。誰もが認める美と恋の女神だ。
戦の女神アテナ。彼女はとにかくプライドが高いし、自分の容姿に自信を持っているため美の争いに参戦した。
神々の女王ヘラ。女神の中ではとにかく一番だと自負しているし、年に一度若返ればアフロディーテに勝る美しさを持っていた。
問題は誰も譲らないということだ。誰が一番か他の神が選んでも角が立つ。なのでゼウスは提案した。
「なら人間に選ばせよう。おっ、トロイアのパリスくんは正直者らしいね。こいつで」
そうしてパリスが目を付けられて選ぶことになった。
パリスの元へ伝令の神ヘルメスの先触れが訪れ、イーデ山にて三女神が降臨して目の前で選べというのだから可哀想なパリスである。
それぞれ女神は自信があるものの、更に選んだ場合の特典も用意していた。
アフロディーテを選べばこの世で一番美しい人間の女を妻にできる。
アテナを選べば戦いの勝利を与えると約束した。
ヘラを選べばパリスをアシアの王にしてやると言った。
パリスは考えた。
戦いの勝利と言われても別段パリスは戦争に行く予定もなかった。近頃トロイアは平和だし、戦争となれば兄のヘクトールに任せればいい。
アシアの王、つまりはトロイアの王になりたいという願望も元牛飼いだったパリスは然程持っていなかった。そもそも兄弟が大量にいるのにどうして後から王子になった自分が王になるというのか。万能人間な兄のヘクトールに任せればいい。
となると美女。世界一の美女。これは大いに興味があった。いくら妻がいるとはいえパリスも若い男。もうこれしかないと思った。アフロディーテ一択である。
問題は当時、ギリシャ世界で一番の美女と名高いヘレネーは既にスパルタ王の妻になっていたことだったが。
更にそのヘレネーにも大きな問題があった。
幼少時からあまりの美しさに誘拐事件も起こされていたほどのヘレネー(誘拐したのはミノタウロス退治で有名な勇者テセウスである)だったが、旦那を取るとなるとギリシャ中の英雄豪傑が名乗りをあげた。
これではどの英雄を選んでも取り合いの戦争になるというので提案されたのは、『誰がヘレネーを嫁にしても、その後ヘレネーを奪ったり旦那を殺したりした者は、名乗りをあげたヘレネーの旦那候補の英雄全員を敵にする』という約束を全員としたのだ。
こうしてヘレネーがスパルタ王メネラオスと結婚することが決まっても、異議を唱えると袋だたきに合うものだから皆が渋々認めることになった。
だがアフロディーテに愛を約束されたパリスはそんな約束など関係なくスパルタにやってきてヘレネーを拐かした。
当のヘレネーも女神によってパリスに対する愛を植え付けられていたのだからお互い手に手を取って合意の逃避行である。
当人らは満足していても、寝取られた旦那はそうもいかない。
更にヘレネーが攫われたら取り返すのに協力すると言っていた英雄たちも立ち上がった。
そうしてギリシャ連合軍が、パリスの逃げ帰ったトロイアに押し寄せてきたのであった。
その後、まあ両軍メチャクチャに人死にが出る戦いを繰り広げる。
中でもギリシャ軍のアキレウスの活躍は凄まじく、止められる者はいなかった。
トロイアも負けておらず、アキレウスが戦場をボイコットした際には逆にギリシャ軍をあと一歩まで追い詰めたりもした。
延々と十年あまりも一進一退を続けて英雄も大勢死んでいった中で、とうとう原因となったパリスまで毒の弓矢で致命傷を負ってしまう。
そこで元妻の医術を頼ってイーデ山に来たのだが、治療を断られて死んでしまい、火葬中にオイノーネも火に飛び込んで死亡した……
*****
「──って感じの予言がカサンドラにあったみたいで。はい」
パリスは腫らした頬を押さえながら涙目で言った。話の途中、オイノーネを捨ててヘレネーに走るあたりで引っ叩かれたのだ。
自分で予言しておいて記憶のないカサンドラは目を瞬かせて、壮大な物語を飲み込めないように考え込んでいた。
「本当にわたしがそんな予言を……? 全然覚えてませんわ」
「うーん、じゃあ多分アポロン憑依型予言なんだろうね。予言にも幾つかタイプがあるんだけど、憑依型は本人の意識が無いことも多いから」
オイノーネが推察する。予言の知識に関しては女神なので人間よりも遥かに詳しく持っている。
アポロンに能力を貰ったばかりの素人予言者であるカサンドラに説明をしてやった。
「普通の神託者が受ける予言はだいたい二つのパターンがある。予言の内容や詩などが頭に浮かんでくるタイプと、予言に関わる兆候を見て判断するタイプだ」
「なんだそりゃ」
「あー、例えば前者はわかりやすいだろ。『パリスは国に災いをもたらす』って言葉が浮かんでくる感じ。後者はパリスの関係者が夢の中で『パリスの体が燃えてその火がトロイアを焼き尽くした』って出たらこれはパリスが国に災いをもたらす兆候ですって解説してくれるやつ」
「そういえばそんな事情でオレって捨てられたんだったか」
「神話とか英雄の話とかだと『その子供は危険だから殺せ』って予言、なんか大抵子供生き延びて危険を招きますよねお兄様」
「オレを見ながら言わないでくれる?」
「そんで珍しいパターンが神が憑依して直接神託を下す系。信憑性だけは確かだよね」
なにせ占いの神であるアポロンが直接語ったのだから、そこらの神託者が占うよりも具体的な内容になるだろう。
「オレはまるで体験してきたみたいにその流れを感じ取ったんだ……ひょっとして過去に戻ったんじゃないかって思ったりして」
「いや、それは無いだろうけど。時間と機会の神カイロスには前髪しかなく、後ろ髪を引っ張られることはないんだから」
オイノーネがそう言った。
いかなるギリシャの神ですら、過去に戻って干渉することはできない。多少、後世の吟遊詩人の誤解によって物語の時代が前後したりすることはあるが。
「時間はゼウスにすら操れない。運命の女神モイラが決めたことはゼウスすら逆らわずに従う。ただそういう条件の中で、ただ一つ……時間を越えて、運命の女神が紡ぐ糸に干渉する方法があるんだ。それが占いの神アポロンの使う未来を知る『予言』の力。プロメテウスも得意なんだっけ」
「予言……」
カサンドラが自分に与えられた予言の能力を意識するように、胸に手を当てて呟いた。
「さっきカサンドラが挙げたみたいに、回避しようと足掻いたら回り回って予言が成就するって話もあるけど、予言を聞いて回避するのもちゃんとできることだよ。ゼウスが有名かな」
ゼウスはかつての妻であったメーティスとの間に生まれた子供によって神々の王の地位を奪われるだろう、と予言を受けた。
それを回避すべく妊娠した妻を丸呑みにしてしまったのだ。血は争えないというか、ゼウスの父親であるクロノスとまったく同じことをやらかしている。
しかしながらその行為によってゼウスは予言を回避した。二人の間の子としてアテナが産まれたのだが、メーティスではなくゼウスが頭から産んだからセーフ理論だ。ゼウスの頭を斧でかち割って出産するというアグレッシブな手法だったが。なお斧でかち割るのを実行したヘパイストスは「スカッとした」とコメント。
予言は未来の情報だけではなく、いかにすれば現状の問題を解決するかも示すための重要な指針となるのだ。
アポロンが本人の残念かつ残忍な性格を考慮しても、疫病を司る死神としての側面があってもなお神々の中でも上位の人気を誇り、すべての国で神託者が大事にされているのはそれが理由でもある。
「というわけでキミ! ボクを捨てるだの、女に狂って味方が全滅だの、そういう未来はまだ変えられるんだぞ!」
「お、おう!」
「頑張りましょうねパリスお兄様!」
カサンドラが切実に呟いた。トロイアが滅ぼされたら王女であるカサンドラの未来も暗いものになるだろう。
ちなみにパリスに与えられた予言は途中で途切れたのだが、カサンドラはトロイア戦争でひたすら散々な目に合う。
まず予言者だというのに誰もカサンドラの情報を信用してくれないためかなり正確な予言をしても狂人扱いであり、トロイア陥落時には戦火の中で捕まって婦女暴行。
その後ギリシャ軍の総大将アガメムノンに戦利品として連れ帰られた先で、アガメムノンの妻から嫉妬で刺し殺されて死亡。
アポロンからの強姦未遂に始まり何一つ良いことのない人生である。
今はまだその未来を予言していないが、パリスよりもある意味不幸な少女であった。
『私だって予言ぐらいできる。ただ他の者が予言を覆そうとしてくるのがムカつくからあまりやらないだけだ』────関係者Z