16話『リムノス島へ』
アシアのアナトリア半島とギリシャのバルカン半島に挟まれた海、エーゲ海。
そこの北部に浮かぶ火山島リムノス島はここ最近、黒々とした煙を山から吹き出し、地面を響かせる雷槌のような音が轟いている。
島には小さな王国があり、その住民らは「鍛冶神ヘパイストスが仕事をしているのだろう」と畏れを懐きながら不安そうに火山活動を見ていた。
リムノス島はヘパイストスにとって特別な土地であり、最初の鍛冶場でもある。
かつてオリュンポスの女神ヘラから生み出されたヘパイストスは、醜い姿をしていたためにオリュンポス山から投げ捨てられ、このリムノス島に落ちた。そのときに足が曲がり、引きずって歩くようになったとも言われる。
あまりに可哀想な境遇だったのでエーゲ海に住まう海の女神たち、テティスとエウリュノメーによって匿われ、養育された。その間にヘパイストスは鍛冶神としての力に目覚め、このリムノス島でテティスらに幾つも装飾品を作って送ったという。
なので島にあるヘパイストス神殿はその左右を海の女神が守り、揺りかごの中にハンマーが入った青銅のオブジェが祀られている。
そのヘパイストスであるのだが、養母でもあるテティスが結婚して子供を生んだため、その子を世話するオートマトンや戦場に出た際に身につける防具などを制作するように頼まれていた。
だから今まさにリムノス島の鍛冶場に籠もり、火山の熱を利用して大槌を振るっているのだろう。
火山が活発に活動し、トロイア方面からも煙が見えるリムノス島にパリスはやってきていた。
その島に彼がアレスから求められたステュムパリデスの鳥が住み着いているらしいという噂を入手したからである。
彼の乗る船はトロイアが誇る工匠、ペレクロスの作った快速船である。このペレクロスという男はアシアでも名に聞こえた名大工であり、イーデ山の木材を使って一体どうやったのか一昼夜で船を一隻作るほどの腕前だ。
問題は怪物退治の人員だった。「みんなで怪物退治に行こうぜ!」とパリスが呼びかけてもびっくりするぐらい誰も乗ってこなかったのだ。パリスの人望不足で。
頼りになるヘクトールは父王から引き止められて、トロイア周辺を守るために留守番をさせられることになった。ただでさえイーデ山に吸血鬼が現れ、パリスを恨む女神らがいるのにヘクトールを遠征させるというのはプリアモス王にとって不安でしかなかったのだ。
パリスの遠征に乗ったのは船大工でもあり船乗りとしても能力を持つペレクロスと、友人のアイネイアスぐらいだ。ついでにオイノーネとカサンドラも付いてきた。他は尻込みをした。
特に近頃はトロイアでも、オイノーネとカサンドラがパリスに狂愛を向けていることは有名になり、近くにいると常人はげんなりするほど甘ったるいイチャつきと、パリスの嘔吐を見る羽目になる。避けたいと思う者が多かった。
怪物退治には参加しない船の漕手をどうにか集めて、一行はリムノス島にたどり着いたのであった。
「……また寝込みを襲われてるわー」
アイネイアスがげんなりと呟きつつ、同じベッドで眠っている三人を見た。真ん中に眠っているパリスは夢の中で怪物に食われているのかと思わんばかりに魘されている。
船という密閉空間。何日も続く航海。パリスにベタぼれしているオイノーネとカサンドラ。何も起こらないはずはなく……
限界を感じたパリスが二人をケリュケイオンの杖で眠らせ、ついでに自分も到着まで寝かせるようにアイネイアスに頼んだのであった。そうでないとストレスがマッハである。
最初は当然ながら別のベッドに寝かせていたのだが、愛情故に夢遊病めいた徘徊をオイノーネとカサンドラが行って同じベッドに入ってしまったのだ。
それからパリスは夢の中でも容赦なく魘されていたのだが、起こさずに引き剥がすことも難しいために放置していた。
とりあえずアイネイアスが熊よりも逞しい腕で三人寝たままの寝台を肩に担ぎ上げ、港に出そうとした。
水夫たちは慌てて彼に言う。
「アイネイアス様! そのようなことは私どもがやりますから!」
「いいのいいの! それより皆は荷物を外に運び出して頂戴♪」
「はっ!」
アイネイアスの指示で漕手として付いてきた船員らが、上陸用の荷を運び出す。リムノス島に上陸するのはアイネイアスとパリス、それに女二人の四人で後は港で待機であった。
キビキビとした動作で動く船員らはアイネイアスに敬意を持っていることがありありとわかる。ベッドを担いで運ぶ逞しい彼の筋肉にため息を漏らす者もいた。正直なところ、王子のパリスよりもよほど人気があるのがアイネイアスである。マッチョは賛美されるのが当時の風潮だ。
愛の呪いを緩和するにはできるだけ日光か月光の当たる屋外が望ましい。船から三人を降ろして、アイネイアスは預かっていたケリュケイオンで突っついて強制起床させた。
神の道具であるケリュケイオンの効果は素晴らしく、深い眠りについていた三人の目が一斉に開く。
「はっ」
「お兄しゃま~!! 寝起きの!! 近親不純行為ウウウ!!」
「ええい、ちびっこはどきたまえ! ここは愛妻の目覚めのキィィーッス!」
「ぐえあああああ!!」
間髪入れずに抱きつかれたパリスは、棍棒で殴り潰された猛犬のような悲鳴を上げて、二人を振り払ってベッドから飛び降りた。
そして港近くの水溜りに溜まっていた茶色く濁った泥水にべしゃりと腹からダイブし、
「あっ! か、体を泥水で洗っている!」
「水なら海辺だから沢山あるのにあえて泥水で!」
「ぐぬぬ……」
毛嫌いしてしまう二人に抱きつかれたショックか、汚れをもっと汚い泥ですすぎ流すような所業に女二人は歯噛みする。
メソメソと泣きながら泥を浴びるパリスに王子や英雄としての風格など無い。水夫たちも見てみぬフリをしつつ、雑貨を積んだ馬車などを船から港に降ろしていく。
だがそのパリスがはたと気づいた。
「……臭。クッサ!? なんだこの泥!? 控えめに言ってウンコみたいな臭いがする!?」
「うわ、本当だ」
「ここまで臭ってきますね……」
「エンガチョ」
馬糞でも水溜りに落ちていたのだろうか? いや、それにしても異臭がきつい。泥に触れた肌がビリビリするほどの毒性をパリスは感じた。
これには耐えきれずにそのまま海に飛び込んだ。そして海水でガシガシと体を拭い直すのだが、
「うわー! か、体がかゆい! なんだこれ!?」
「ボクたちを拒むから天罰が落ちたんだよ」
「ほらお兄様、お薬塗ってあげますわ」
しょぼくれた様子で上がってきたパリスは上半身だけ服を肌蹴て、げんなりと座りこんだ。白い肌がところどころ、赤くかぶれてしまっている。泥に毒性があったのだろうか?
なんということだろうか。パリスの肌がシュウシュウと焼ける音がして、煙まで上がり始めた。
「な、治らな……ぐああああああ!! 肌がッッッッ! 溶けるッッ!!」
「パリスちゃん!?」
激痛が全身を襲った。肌に染み込んだ毒の泥は肉深くまで浸透し、それを溶かして骨まで蝕み始めたのだ。
パリスは地上に出てしまった冥界の亡者の如く、太陽の光を浴びて全身を焼き尽くされていく。腕の肉が溶け消え、骨が見えた。その骨すら風化して塵になっていく……
「キミ!!」
「お兄様!!」
パリス死亡──死因:毒の泥
******
「────という夢を見たから、お前らは絶ッッ対に抱きついてこないように」
パリスはケリュケイオンをサスマタのように向けながら、起き抜けの呪われし女二人を警戒した。
予言の死から再び戻ったのだ。今回は夢の中で死んでしまった。アポロンの予言は様々な伝え方があるのだ。
今はリムノス島の港に降りてアイネイアスから起こされたばかりの時間だ。パリスは即座にベッドから脱出して血走った目で抱きつかれないようにしたのである。
こんなくだらないことで死んでいては命が幾つあっても足りない。アポロンも呆れる。或いは腹が立つかもしれない。
「……キミが抱きつかれても我慢すればいいと思う!」
「そーですそーです!」
「じゃあお前ら我慢してウンコ食えって言われたら食うんだな!?」
「お兄様のなら……!」
「言うな妹! それ以上! 頼むから!」
「はいはい子供レベルの言い合いしないの!」
アイネイアスに叱られるが、命が掛かっていることなのでパリスはガルルと鼻息も荒い。まさか上陸して即座にそんな死亡トラップがあるとは。しかも自分から引っかかったのだから始末が悪い。
それにしても、と誰となく口元を覆って眉根を寄せた。
「確かに酷い臭いだね。火山性の毒泉でも湧いてるのかな?」
「体を泥で洗うバカはともかく気をつけないといけないわよね」
転んだり撥ねたりして体や目などに毒の泥が付着すれば大変なことになるのは間違いないだろう。
港から見回しても、あちこちに異臭を放つ泥の水たまりみたいになっている箇所があちこちに見えた。
「いざというときの為に薬を用意しておかないといけませんね」
「ボクも持ってるよ!」
「わたしのヘカテー印の薬の方が効きますよお兄様♥」
「ボクのアポロン印の薬の方が効くよ! キミも知ってるだろ!?」
カサンドラが腰に帯びているポーチから小さな壺を取り出して軟膏を取り出した。同時に、オイノーネも懐から葉っぱで挟んで持ってきた粉薬を出して言い合った。
カサンドラはすっかり近頃、自分に予言の力を与えたものの呪ってくれたアポロンではなく、母ヘカベーが押している魔女の神ヘカテーを信仰しているようだった。
アポロンとは従兄妹とも言われるヘカテーも、医療の神であるアポロンのどちらも病気や怪我の治療には加護がある。
にらみ合う二人から目を逸らして、パリスは聞いた。
「そういえばアイネイアスも持ってたよな? やたら効く傷薬」
「もちろんよ~! アフロディーテ印の『愛♥ 溢るる蜂蜜』ゥゥゥ!!」
アイネイアスが盾の内側に入れていた小瓶を出しておもむろに筋肉粒々な腕に試しに塗りつけて見せた。
古代オリエント世界では蜂蜜は万能に近い薬として使われていた。飲めば眼病、腹痛、駆虫の薬として。塗れば炎症、吹き出物、火傷によく効く。また、毒蛇などの生物毒にも消毒作用からか効果があるとして珍重されていたのである。
それを更に、アイネイアスの持つ愛の女神アフロディーテに祝福された蜂蜜は効果が素晴らしい上に味も神々に捧げられるほどだ。
「……マッチョが体に蜂蜜塗ってる絵面って、なんか酷いですよね」
「ギリシャならここからスケベ展開になるところだよ」
それにしても治療役の多いメンバーである。
パリスは手ぬぐいで体を吹きつつ、甘い香りを漂わせて改めて立ち上がり、火山が雄々しく煙を吹き出し、溶岩が土壌になったような褐色の岩と砂だらけなリムノス島を見回し、鼻を鳴らす。
「ふう……それはそうと、やっぱり島全体から変な臭いがするな。火山の臭いか?」
海からの風が汚臭を吹流しているとはいえ、港には無視できない程度に妙な臭いの空気が漂っていた。
火山島特有の硫黄や硫化水素、メタンなどの腐敗した卵に例えられるような臭いに混じり、鼻をつく刺激臭に野生動物の死骸が腐れた臭いだ。
「人も居ないわねぇ」
リムノス島は小さな島国であり、港による貿易や漁を主に行っているのだが、その港には誰の姿もないというのは異常であった。
船自体も港に殆ど無くて、パリスたちが乗ってきたもの以外だと小型の船が何艘か停まっているばかりだ。
オイノーネが耳を澄ませると、遠くに聳える火山から上がる黒煙に合わせて、地響きに金属を叩きつける音が混ざっているものを感知した。
「あの火山の感じ、ヘパイストスがこの島にいる気がするんだけど……」
鍛冶の神ヘパイストスや彼を手伝う一つ目の巨人たちは火山を鍛冶場としていて、彼らがふいごを吹かせれば山から黒煙が上がり、槌を金床に叩きつければ地響きが起こるとされている。
当然ながら火山は噴火すると危険なことは誰もが知っているので、或いは火山活動が活発になったリムノス島から住民は避難しているのかもしれないが。
「とりあえず先に進もうか。はいみんなーマスクを付けて」
オイノーネが渡した、薬草のエキスを染み込ませたマスクで鼻口を覆って一同は馬車に乗った。
『顔覆い』と呼ばれたマスクが登場したのは実のところ歴史が古くギリシャのこの頃からであり、医療神アポロンから始まったともされている。
医療現場というものは酷いところだと血膿が溢れ、内臓が破れ、疫病により肉が腐り果てることも少なくなかった。それ故に医者は口元を薬液に染み込ませた布で覆って呼吸をしていたという。
また、青銅器文明の盛んなギリシャ世界では鉱山開発も多く行われており、鉱山内部の粉塵などを避けるために作業用マスクというものも使われていた。
それ以外にもデュオニソス信仰者はマスクと呼ばれる仮面を付けて怪しげな儀式を行うことも知られている。
馬も不快そうに鼻を鳴らすが馬車を引っ張って港から街へと進んでいく。
リムノス島は一周の海岸線が100km前後あるそれなりに大きな島だ。作物はオリーブとマスカットという、ギリシャ世界では珍しくないものを作っているが一番の収益は港である。
複雑な形をしているリムノス島だが、北部と南部に湾があり古代では海が荒れても避難できるそれらの港が発展していた。
中でも北部にあるのが最大都市のヘファエスティアである。名前の通り、ヘパイストスに捧げられた街であった。一行は港からその街の中心地へと向かって行った。
「それにしても、本当に人居ないな~」
「臭いも最低だわ! 逃げちゃったんじゃないかしら」
「畑も枯れ果てて放置されてます~」
石造りの町並みに入ってもあいも変わらず人影は見えず、遠くの山の裾野まで続いている畑も茶色く枯れた色をしていた。そして臭い。
石畳はところどころ砕け、壊れた荷車が放置されており、あちこちには異臭を放つ黒い物体が付着している。朽ちて腐った果実が散らばり、その甘ったるい臭いも相まってマスクでもしていないと息苦しいだろう。
ゴーストタウンと化した街であったが、
「うわ……なんか血の痕とか残ってるんだけど……こわ」
「……ステュムパリデスの鳥に襲われた跡かしら」
時折、破壊された小屋や人か家畜か不明だが地面にこびりついた血なども見当たり、非常に不気味な雰囲気が漂っている。
戦争でも起こったかのような状態であった。リムノス島に寄った船乗りが、ここでステュムパリデスの鳥が暴れているという噂を聞いてから一月ほど経過しただろうか。その間にすっかり荒廃を極めている。
「うーん……」
スマッスマッとオイノーネは馬車の中で『ヘルメス魔法タブレット』をフリック操作している。
恐る恐るパリスが聞いてみた。
「何やってるんだ?」
「リムノス島についての神々の噂話を探してるんだよ。神々のつぶやきが石版に保存されているからそこから検索をかけて……」
「便利ですね……何故かお母様も持っていましたけど。そのスマホ」
「謎だな母上」
神々か高位の司祭でもなければ持つことは許されないし、噂話を料金として奉納しないといけないものだが便利は便利だ。
やがてオイノーネはリムノス島についてヘパイストスやテテュス、アリアドネにデュオニソスなど様々な神々のつぶやきから目的のものを発見した。
「えーとなになに? この島の女たちは美と愛の女神であるわたしアフロディーテをまったく崇めないのが許せない、女として最低の罰を与える……とかって呟いてるね。アフロディーテが」
「ヤダ。うちのママンに呪われちゃってるの? この島」
美の女神の息子たるアイネイアスがぎょっとして周囲を見回した。
「臭いのはそのせいかしら……ひょっとしたらパリスも呪われて臭くなってたかもしれないわけ?」
「うわー地味に嫌すぎる。いやまあ、現状でもオレの呪い派手に嫌なんだけど……」
「それにしてもアレですよね。正直アレ。自分を信仰していない女だからってだけでアレ。具体的に言うと危ないんですけど」
言葉を濁しながらカサンドラが言う。確かに、「女なら誰でも、美と愛の女神を讃えるべき」といわんばかりの態度でアフロディーテは罰を与えているのだから正直酷いものではある。
もちろんギリシャ世界の女性だって、貞節と賢母の神であるヘラを崇めたり、出産と子育ての神であるアルテミスを拝んだりする女性は幾らでもいるので、自分を信仰していないというだけで罰を与えるにはあまりに神々の数が多すぎる。
つまりはまあ……神のその時の気分によって、不信心な特定の誰かや集団が罰せられるのである。運が悪かったとも言える。
「しかもねえ。このリムノス島はヘパイストスと海の女神の島だから、その後で妻になった上に夫婦仲悪いアフロディーテを崇めるのもアウェイな話だよ」
下級とはいえ同じ女神であるオイノーネは割とフランクにその程度は発言しても大丈夫だが、人間が不信心な内容を口にすると大変な事になりかねないのだ。
言いながらも一行は街の中心地である神殿にたどり着いた。神殿の隣にある屋敷がリムノス島の王の屋敷だろうか。
神殿は大きく、主だって信仰されている石像は細やかに彫刻された海の女神に囲まれた揺りかご、その揺りかごには無骨なハンマーが置かれている。赤子のヘパイストスが島で育てられたことを表すものだ。
ヘパイストスが大きくなるまでこの島で女神たちに鍛冶仕事をしてやり、そのニュンペーの一人とは子供も作ったとも言われているので確かにこの地でヘパイストスにとって悪妻であったアフロディーテの信仰が無くても不思議ではない。
「ふと気になったんですけど、お兄様」
「うん? なんだ?」
カサンドラが崩れた建物や荒らされた露天などの痕跡を指差して尋ねる。
「もしステュムパーリデスの鳥がこの街を荒らしたから住民が逃げ出したとして」
「ああ」
「のこのこと鳥の縄張りを進んでいるわたし達も襲われるんじゃあ……」
「それだったら手間が省けていいんじゃないか? オレたち、別に観光に来たわけじゃなくて鳥退治に来たわけだし」
「えー! 折角来たんだから温泉入りたいわーアタシ! お肌トゥルトゥルになるわよ~!」
「泥を塗って危うくお肌ズルズルになりかけたから怪しい温泉も遠慮してえ……」
とりあえずパリスはいつ襲われてもいいように道具を準備する。それに習ってアイネイアスも装備を整えた。
戦闘要員はこの二人でオイノーネとカサンドラは救護、サポートに当たる。
パリスはアイギスの盾を肩に付けて、弓を強く張った。鏃には青銅の物、アカエイの針を使った毒矢、最終兵器としてプロメテウスの油を使った火矢も用意していた。
アイネイアスもパリスの盾よりも巨大な『不壊の盾』を片手に持つ。これはヘパイストスが鍛えた皮の盾を七枚、花弁のような配置で組み合わせた大盾である。それに剣と、相手が鳥ということもあって投石紐を彼は準備していた。
古代ギリシャ世界では投石というのは緊急時の武器といった用途が多く、投石専門の兵種は数少なかったことから重視されていなかったのであるが、アイネイアスは珍しく投石の名手であるのだ。
他にも捕まえる投網、ロープなどを準備しておく。
「捕獲用の麻酔薬も作っておきましたからねお兄様!」
「お、おう。大丈夫かなそれ……なんか飲まされてたデイポボスが痙攣してたけど……」
若干パリスは引きながら言った。嫌いな兄弟とはいえ、カサンドラが躊躇いなく人体実験しているのには少々罪悪感がある。
カサンドラが取り出したのは母と魔女の調合で作った麻酔薬である。夢の神モルペウスへの儀式も行って作られた魔法の薬は、服用した相手を鎮静化して行動不能に陥らせる。材料は夢神の聖花であるケシの果実であり、モルペウスの名前から取って『モルヒネ』と名付けられている。
鳥を眠らせるのにケリュケイオンの杖を使えばいいのではないか、と当初考えていたのだが実験でそこらの鳥を眠らせて判明したことなのだが、鳥は眠っていても半分脳が覚醒している状態ですぐさま目覚めてしまうのである。深い眠りに付かせても、やはり僅かな時間で起きる。そういう生態をしているため、体を痺れさせる麻酔薬が必要だった。
「準備は万端。後は鳥を探すだけなんだが……さすがにこの惨状だと、住民も心配だよな」
「どこに行ったのかしら」
──その時、馬車の外から女性の大きな悲鳴が聞こえてきた。耳に痛いほどつんざくような怪物の嘶きもだ。
「神殿の方だ!」
オイノーネが叫び、パリスとアイネイアスは武器を手に勢いよく飛び出していった。その際に、異臭はするものの動くと息苦しくなるのでマスクは外して懐に入れておく。
「よし! 鳥退治と行こうぜアイネイアス!」
「任せて頂戴!」
そして二人はヘパイストスの神殿に突入し──
自分らが乗っていた馬車よりも巨大な怪鳥に襲われている女性の一団を見つけて、足を止めながら冷静に呟いた。
「……デカくない?」
「すごく……大きいわね」
羽根を広げるとちょっとした小屋ぐらいありそうな巨鳥が、けたたましい鳴き声を上げた。
『神々でもペットを飼っている者は多い。ポセイドンのイルカとか、ハデスのケルベロスとかな。プロメテウスもしょっちゅう大鷲に餌をやっている』────関係者Z
『俺はアレス様のペットの大蛇を殺した罪で一生呪われた上に最後は蛇に変えられたから、他の人もその点は気をつけて欲しいですね』────元英雄K(エリュシオン在住)