15話『イーデ山ストーカー騒動顛末』
「誰こいつ。知らんし。迷惑」
偽装した枕に入っていた男に掛けたヘスペリアの言葉はその3つだった。
男はパリスに頭を殴られた後、目覚め次第叫びだしたので口に猿轡を噛ませて簀巻きにして転がしていた。パリスに向けて罵詈雑言を怒鳴りまくるので、落ち着くまで話し合いもできないためそうなった。
ヘスペリアから忌憚のない評価を受けた男はショックを受けたように顔を青ざめさせる。
(そんな酷い! ストーカー行為をして強制的に眠らせて添い寝しつつ夢を操って助けに来た連中を殺そうとしていただけなのに!)
ふがふが。猿轡でもがくが二人は「ろくでもないこと言ってそう」と半眼で見た。
そうこうしていると、ヘクトールが外から帰ってきた。丸めたミントの葉に火を付けてスパーっと吸って煙を吐いていた。眠気覚ましだ。
「ヘク兄、無事でよかった!」
「ま、なんとかな。そんでそいつが夢の原因でストーカー……ってあれ? こいつ、アイサコス兄上じゃないか」
ヘクトールが、多少ぶん殴られて鼻血も出ているし猿轡も噛まされているが見知った顔なのに反応した。
パリスが首を傾げてぼんやりと繰り返す。
「あいさこす? えーと見覚えはあるような」
「俺達の兄貴だよ! 地味に長男の! 夢占いが得意な! 生まれたばっかりのお前を山に捨てさせたやつ!」
「……そういえば、なんか王族集めた場所に居たような、文句付けてきたような……」
パリスからしても印象が薄かった男の名はアイサコス王子。トロイア王プリアモスの長男なのだが、パリスやヘクトールとは母親が違うからか全く容姿は似ていない。
彼はトロイア西部にある国ミュシア出身のアリスペという予言者一族の母親を持ち、彼も夢による予言を身に着けていた。
本来は長男であるはずなのだが、プリアモスはやたら好色な上に子沢山であり、その後に迎えたヘカベーを寵愛して次々に子を産ませた挙げ句にアイサコスの母とは離婚までしたので、彼の立場は王子から王宮付けの占い師にまで転落してしまった。
とはいえ、他に数十人いる息子らも羊飼いになったり神殿務めになったりと、王子らしからぬ役職が多いのだが。
「なんでそんな兄貴がヘスっちさんのストーカーやった挙げ句に吸血鬼召喚して襲わせてんの? なんかそういうチャレンジ的な流行り?」
「わからん……ヘスペリア嬢は知ってるか?」
「いや? 見たことないしー……名前も知んない」
まったく覚えがない上に興味もなさそうな態度のヘスペリア。
とりあえず話を聞いてみようと、ヘクトールが猿轡を外してやった。すると、即座に大声で叫びだす。
「パリスウウウ!! この呪われた王子め! よくも私をこんな目に合わせてくれたな! 疫病神! 捨て子! クマに食われて死ね!」
「ヘスっちさんハーブティー飲むー?」
「飲ーむー」
「無視するなあああ!!」
パリスを憎々しげに睨みつけて恨み言を吐き散らしたアイサコスであったが、正面から罵詈雑言を言われてもパリスは華麗にスルーして干しているハーブを煮出した茶を鍋に入れて用意しだした。
なにせパリス、体験した予言の未来では他所の人妻を攫ってきたがためにトロイア陥落の危機になり、兄弟は死にまくり領土は荒らされまくりの状況に追いやられたというのに、周囲の白い目をスルーしてヘレネーとイチャついていた男だ。むしろそんなパリスを庇っていたヘクトールの方が胃が痛そうにしていたという。
正面から怒鳴られたところでどこ吹く風で受け流せる。針のむしろでごろ寝できるのがパリスの図々しさであった。
ヘクトールがアイサコスを抑えて落ち着かせる。
「まあまあ兄上。パリスのことはともかく──先程から夢の世界を作り、怪物を呼び出していたのは兄上で間違い無いですか?」
「うっ……」
「いやこれ確認ですからね。兄上以外に下手人がいるなら探して見つけないと危ないですから。で、どうなんです?」
念を押すようにヘクトールが確認をする。アイサコスはヘクトールよりも年上の兄であるのだが、正論で聞かれれば怒鳴るわけにもいかない。
笑顔を見せているもののヘクトールの顔はそこはかとなく恐ろしい。
汗ばんでぬっぺりとした印象のアイサコスは大きく深呼吸をして、難しそうな顔をしながら告げる。
「──そうだ。だけどこれはやむにやまれぬ事情があったんだ」
「……聞かせて貰えますね?」
「ああ……これは悲恋の物語なんだ」
アイサコスは語りだす。パリスとヘスペリアは、事情聴取をヘクトールに任せてハーブティーに蜂蜜を混ぜたものを飲みながら他人事のように聞いていた。
「そこにいるニュンペー、ヘスペリアと私はかつて恋仲……いや、夫婦といっても過言ではない関係だった。お互いに仲睦まじく、イーデ山で暮らしていた……」
「……そうだったのか?」
話の途中でパリスはヘスペリアに小声で聞くと、彼女はブルブルと首を振った。知らない過去だ。
アイサコスは話を続ける。
「だがある日、悲劇は訪れた! イーデ山に一匹だけいる水蛇の幼体に彼女は噛まれて死んでしまった……」
「ヒュドラいるの?」
「いないけど」
いないらしい。ヘラが持ち込もうとはしたが。事実とは異なる話はまだ続く。
「私は悲しみに暮れて何年も嘆いていたが、ある時、妻である彼女が再びニュンペーとして蘇っていることを知ったんだ。そこで私は彼女と再び会おうとしたが、ヘスペリアは以前の記憶を失っていた」
「ヘスっちさん一昨年のイーデ山春祭り覚えてる?」
「あー、デメテルおばさんがキュケオーンをがっついて食べてるの見てパリっちさんが指差して笑ってたらブチ切れて氷漬けにさせられたやつ。めっちゃ笑ったわ」
「ただのおばさんかと思ったら女神デメテルだもんな……」
記憶はあるようだ。齟齬が重なることでヘクトールのアイサコスへ向ける視線もやたら猜疑深くなっていった。
「だが再び出会えたのは女神の采配である、迷うこと無くヘスペリアを愛せよ。ヘスペリアに近づく間男は殺してもいい……私の夢の中に女神ヘラ様が現れて、そう告げてきたのだからこれは間違いないことなんだ! 私とヘスペリアは運命的に相思相愛! 邪魔するパリスは死ね!」
「ちょ、ちょっと待ってくれますかアイサコス兄上……」
ヘクトールが頭痛をこらえるようにコメカミを揉みながら、念の為に尋ねる。
「……どこからが夢の話なんでしたっけ?」
「どこってまあ最初からだが……う熱っちゃ!?」
パリスとヘスペリアは同時に、転がされていたアイサコスに熱々のハーブティーを掛けた。もう完全に妄想だけ語ってた男に対して完全にシケ顔の二人だ。
ここまで語っておいて情報ソースが夢である。しかもパリスに恨みを持っているヘラのそそのかし。どう考えても仕組まれた嫌がらせである。
単なるそこらの嫉妬深い戦士ではなく、夢から怪物を召喚して襲わせるストーカーという面倒な相手を選ぶあたりが災難ではあるが。別段、アイサコスとヘスペリアの仲を気に入ったわけではなく──パリスに対する間接攻撃として彼が選ばれたのだろう。下手をすればイーデ山が百鬼夜行の状態になり、トロイアへ夢の怪物が襲いかかりかねなかった。
神の思惑に翻弄されている当事者であるアイサコスはそれでも怒鳴って主張をした。
「私は夢占い師なのだから、夢で見ることには必ず真実がある! 神が直接現れて予言を告げたというのなら正しいことだ! ヘスペリアちゃん!! 思い出してくれあのラブラブチュッチュした夫婦生活を!」
彼がヘスペリアに一目惚れしたのはヘラのそそのかし以前のことなので、すっかりその気であるようだ。
神々の予言めいた言葉を受ければ人を洗脳のように思い込ませるのは簡単なことだ。パリスとて、アフロディーテに言われてすっかりヘレネー相手にこんな感じになっていたので同族嫌悪する。
「夢でしょそれ……思い出すも何も、あたしずっと生まれてから記憶あるから。ケブレーンパパかアトラスパパに聞いてもいいし。絶対なんかヤバイ妄想で、変な関係を押し付けようとしてるだけだよこの人」
「まずお前のパパどっちだよヘスっちさん……」
ヘスペリアはトロイア近くに流れる河の神ケブレーンの娘で、オイノーネと姉妹であるのだが、名前からして明らかにヘスペリデスの園という西の果てにあるリンゴ果樹園に住まうアトラスの娘たちでもある。
「まったく遅れてるなあパリっちさんは。世の中パパ活したらパパは増えるんだよ? ゼウスがやたらあちこちの家系図に出てくるのもパパ活してるから」
「ゼウスのパパ活はまた意味が違うだろ!」
とにかくヘスペリアの実父がどちらか曖昧な感じではあるのだが、少なくともアイサコスの妻である意識はまったく存在しないようだった。
それでもアイサコスは食い下がる。夢占い師に時折いるのだが、夢と現実の違いが本人にもわからなくなっているのかもしれない。
「だってヘラ様だぞ!? 『縁結びの』ヘラ様が認めた恋仲なら誰もが祝福して然るべきだろ! ヘスペリアちゃんも喜んで私を好きになるべき!」
「ごめんなさい生理的に無理」
「そんな! じゃあ友達から! 生理的に無理な友達からスタートで発展して夫婦に至るルートでもいいから!」
「じゃあってなんだよ!?」
「そのルート厳しすぎないか!?」
パリスとヘクトールが同時に突っ込みを入れた。この腹違いの兄に向ける視線も、両者徐々に面倒くさくなってきている。
アイサコスは悶えながら喚き散らす。
「ヤダー! ヘスペリアちゃんと仲良くなりたいんだー! 大体なんだパリスお前、可愛いニュンペーにモテてるどころか嫁にしたのに更にヘスペリアちゃんまで手を出しやがって!」
「出してねえよ!?」
「エンデュミオンされたけどー」
若干照れながらヘスペリアが訂正する。手は出していないが、キスはしたし前の予言ではおっぱい揉もうともした。セーフ判定に入るだろうか。オイノーネとカサンドラには黙っておこう。
「クソァー! 寝取られかー! 僕が最初に好きだったのに! 許せねえパリス!! 悪魔の子! 追放してやる!!」
「寝言は寝てから言えよバカ兄貴! あんたトロイア戦争で活躍してた覚えねえぞ!?」
「寝ましたー! 枕に入って添い寝しましたー! ざんねーん!」
「うぜえ……」
どうするこいつ、という視線を交わすパリスとヘクトール。
緊急の問題は解決しても、その術者をどうにかしなければ意味はない。そしてまだ恨み骨髄であり、ヘスペリアから直接気色悪がられているというのに諦めているフシがない。
「まだだー! 毎晩毎晩夢枕に立てばヘスペリアちゃんも私を認めてくれるはずだー! それが愛! そして邪魔するパリス貴様は許さん! 貴様の嫁に浮気していたとか吹き込んで家庭をめちゃくちゃにしてやる!!」
「こんなクソみたいなこと叫んでてあたしが好きになるとでも!?」
「夢は必ず叶うさ! 夢神信仰してるからわかる!」
「凄まじく無理な厄介さ~……」
げんなりとヘスペリアも呻いてパリスを見る。放置して問題解決というわけにはいかない。むしろどうにかしなければより面倒事を招くだろう。
「できればこのまま、海にでも沈めたい……」
「言うな。パリス。気持ちはわからんでもないが、こんなのでも兄だぞ」
切実な呟きであったが、ヘクトールから窘められる。
しかし彼からしても、ニュンペーに恋して執着するのは百歩譲って個人の問題だと看過できるものではあるが、邪魔だとばかりに吸血鬼まで召喚して襲わせてくる相手ははっきり言って迷惑である。
だからといって海に沈めるなど、母違いの兄を殺害するわけにもいかない。
ギリシャ世界では家族殺しは大きな罪である。家族を殺害した者が全ての地位を失い放浪の旅に出たり、もっと悪いと復讐の女神エリニュエスたちに一生付きまとわれて狂死した挙げ句に冥界で罰を与えられる話もある。
「だからってこのままにもできないだろ」
「それはそうだが……」
「ヘラが後ろについてるってことは、下手したらエロースを呼ばれてヘスっちさんと愛の矢を射たれちゃうぞ」
「それも可哀想だな……母上に頼んで兄上の記憶を消すキュケオーンでも作ってもらうか?」
「完全に母上が便利な魔女だよな……」
二人がヒソヒソと愚兄の処理を話し合っていると、家の中が突如光り輝き、銀の鈴を鳴らしたような澄み透った声が響いた。
『どうやら試練を生き延びたようだな、若き英雄たちよ』
「その声は……アテナ!?」
「うわお。お偉いさん登場~」
ヘスペリアが口笛を吹いた。
『私が介入できない事案で不安に思ったが、ヘルメスはちゃんと伝言してくれたようだ。うむ、うむ。いいぞ。それでこそ私を選んだ英雄だ。冥界の吸血鬼を無事撃退! 二人とも、アポロンに物語を作らせてやるからな』
「いやまあ、怪物の相手は殆どヘク兄がしてくれたんだけど」
「しーっ! パリス、反論とかしなくていいって!」
『その調子で精進していくのだぞ』
「あ、そうだ。知恵の女神アテナよ! このストーカー男、穏便な方法でどうにかならないですか?」
『ふむ。事情は知っている。まったくヘラめ。陰湿なことだけは得意なのだからな……任せておけ』
困ったときの神頼み。アテナはお気に入りの人間から頼まれることにホイホイ手を貸すタイプの神である。
するとアイサコスの体が金箔を撒いたかのように光ったかと思うと、煙のようにかき消えてしまった。
その場に残されたのは……鳥であった。頭は黒く腹は白いツートンカラーで、尾と翼は短く、尾付近にある足で直立している。
ペンギンに似ていると言えばイメージがわかりやすいだろうか。ヘクトールが驚いた様子で目を見開いた。
「これは……ウミガラス?」
ウミガラスというのは大西洋や地中海に棲む海鳥の一種でペンギンによく似た姿をしているが目分類からまったく異なる鳥類なので、単に似ているのは収斂進化である。
アイサコスだったウミガラスは「キェー!」と鳴き声を上げた。そして戸惑うようにキョロキョロとして、再び「キュケー!」と叫んだ。
どうやら人語は喋れないらしい。
ギリシャの神々はイラッときたら人間を動物や怪物に変えてしまうことで有名だが、中でもアテナはその罰を得意としているタイプの神である。
『これでいい。下手に始末すればヘラが怒るだろうし、生かしておけばエロースが来るかもしれない。だが鳥なら悪さはできないだろうし。雌鳥に変えてやったから発情しても卵を生むぐらいだ』
「男ですら無くなったのか……」
「まあ……仕方ない、か?」
身内が鳥に変えられてしまったのだが、まあ強引な手段を使ってニュンペーに迫ったのはアイサコスであるし、それを女神アテナが裁いたとなればやむを得ないものだ。
プリアモス王なども、そういった事情ならば納得してくれるだろう。少なくとも誰かが手を汚しているわけではない。
抗議するようにウミガラスが「キュキュキュー!」と吠えるが、哀れんだ目で見るしかヘクトールもできない。アイサコスが憎いわけでもないが(吸血鬼をけしかけられても)、兄弟に向けて害意を向けている上に反省もしなそうなのでこうするしかない。死ぬよりはマシである。
バタバタと短い羽を暴れさせるウミガラスを、後ろからヘスペリアが抱き上げた。
「何この子……メッチャ可愛い~!」
「ヘスっちさん?」
「超可愛いじゃん! ヤバ! くりくりしたお目々に抱きやすいサイズ! すべすべした肌触り! よ~しよしよし!」
溢れんばかりの笑顔でヘスペリアはウミガラスと化したアイサコスを撫で回し、頬ずりまでする。
確かにマスコットめいた姿をした鳥だが、つい先程までぬったりとした小太りの成人男性であった存在である。男二人は複雑そうな顔をした。
突然、汚物扱いされていたヘスペリアに抱きつかれたウミガラスは戸惑って震えだした。体に感じる枕越しではない柔らかな感触。天国状態──!
「あのー、ヘスっちさん。その生き物、さっきまでキモがってたおっさんなんだけど」
「そうなの? もう姿も思い出せないしどうでもいいかな。やっぱり見た目って大事だよね」
「現金な女神だな!」
どうやらアイサコスのことはさっぱり記憶から消えたようだった。不快なストーカーも不可逆に可愛い動物に変わってしまえばもはや気にならない。
一途すぎて不気味な愛をヘスペリアに向けていたアイサコスも、自分の姿は変われど彼女から愛されるペットになり抱きしめられたことに感激し、しめやかに産卵した。ちなみにウミガラスの卵は美味しいらしい。
「……当人も喜んでるからこれでいいか」
「そうだな……」
──ひとまずこれで、ヘスペリアのストーカー問題は解決したということになった。
まだ夜明け前だが、トロイアに残してきた狂気の爆弾が不安なのでパリスとヘクトールは早々と帰ることにした。もうすぐで東の空から暁の女神エーオースが世界を照らし、エンデュミオンに構っていた月の女神セレネーも天に戻る。
エーオースに続き太陽神ヘリオンが馬車を使って太陽を空に運べば、愛に狂った身内もある程度は正気を取り戻す。
「じゃあなヘスっちさん。時々様子を見に来るわ」
「愛人の家に通う男みたいだね~」
「オレの家なんですけど!? オレとオイノーネおえっのマイスイートホーム!」
「名前を出しただけで吐き気が出るレベルなんだ……」
一応理性ではそう思っているのだが、嫁を思うだけで拒絶反応が出るパリスである。今晩は彼にも嫌悪感を和らげる加護は切れている。
「浮気はいかんぞパリス。まあ内緒にしておいてやるが……」
「ヘク兄。浮気の噂とかガチで命に関わるからオイノーネおえっとカサンドラおえっには、匂わしもしないように頼むよ……!」
「お、おう。すまん」
必死な形相で口から血混じりの涎を垂らしつつ言うパリスの姿に、ヘクトールも謝る。
まあただ、浮気だとかとは違うのだが、ここならば近くにいるだけで気分が悪くなる二人がいないので、避難して息抜きするにはいいかもしれないとパリスも思う。
本当につらいのだ。エロスの呪いで好きになれない彼女らを相手にするのは。
(……本当に、浮気にならない程度にしよう!)
パリスは言いながら心に誓う。あの二人とヘスペリアを比較してしまうと、呪いによって悪い方へ悪い方へと考えてしまいかねない。迂闊におっぱいなんて揉んだら好きになってしまうかもしれないから、自重するべきだ。
どう考えても彼がヘスペリアを好きになるのは破滅へのショートカットだ。今晩は二人とも我慢して眠っていたものの、いつ焼き殺されるかわからないのだ。早く呪いを解かないといけない。
「あ、そうだパーリースくぅーん」
「ん? なんだヘスっちさん」
帰り際にヘスペリアから呼びかけられてパリスが振り向くと、彼の頬にヘスペリアが軽く口づけした。
冗談のような軽い接吻だというのに、驚くほど柔らかな唇の感触があまりに優しい。パリスが緊急事態でミントを口移ししたのとは違う、親愛の情を感じる爽やかなキスだった。
「えへへ。ヘスペリアお姉さんのお礼ですぜ! ありがとね! えーと、またね!」
「お、おお、おおおう……」
戸惑っているパリスも、はにかんでいるヘスペリアも、遠く東から差してきた朝日でも誤魔化せないぐらい顔が赤かった。
夜明けを祝うように、或いは接吻を呪うようにウミガラスが大きく鳴いた。
ぎこちない動きでパリスは手を振って帰路に付くと、深刻そうな顔で隣を歩くヘクトールに言った。
「ぐっ……か、かなりやばかった……ヘスっちさんのこと今すげえ好きになる寸前だった……!」
「同情はするが……お前すでに現状でかなり浮気クソ野郎だから注意しろよ?」
「とてもつらい」
愛する人を愛せずに。
愛してはいけない相手の優しさに恋しそうになる。
そして恋してしまっては即座に浮気の罰が与えられる。
愛と結婚の女神を怒らせた呪いは、思ったよりもつらいのである。
『ヘラは謎の多い女神だ。結婚や主婦の女神だというのにあれだけ怪物を従えているのも謎だし、どうやって私の浮気を察知しているのか、とんとわからん』────関係者Z
『嫁さん言うのは旦那はんの知らん魑魅魍魎を従えとるもんやし、旦那はんがわからんやろ思うてる秘密は大抵知ってるもんどすえ?』────嫁女神H
『テュポーンを産んだのは?』────Z
『……気にせんとおくれやす』────H
『さて──物語は序章を終えた。次回からパリスのトロイアを離れての冒険を綴るだろう。そのために作者にひと時の休息と、評価ポイントをくれてやろう』────???
12月になって正月の餅代を稼ごうといれた仕事が忙しくて申し訳ありませんが来週休みます……!
次から新章スタート!(或いは他のところで起きている事件の幕間)