14話『眠り姫は口づけで目覚める』
パリスとヘクトールの兄弟は吸血鬼モルモが変身した濃霧の中で背中合わせに警戒していた。
周囲の気配は探れない。霧に紛れて襲いかかってくる敵はモルモが化けた蝙蝠の群れと、怪力のエンプーサが二体。絶望的な状況だ。
逃げ出すにしても吸血鬼相手に走って逃げ切れるか怪しいところがあるし、蝙蝠の群れに襲われれば足を止めざるを得ない。それにヘスペリアが眠っている家も近くにあって逃げられない。
この中で一番強力な武器はパリスの持つアイギスだが、それの石化光線は霧によって阻まれているので最低でもこの霧をどうにかしなくてはならないだろう。
どうしたものか、と僅かな時間二人は悩むと、両者は背中に異なる重さを感じた。
「うーん、背中合わせで敵を迎え撃つ英雄二人……意外とギリシャでも無いシチュエーションだよね?」
ぎょっとしてパリスは振り向く。先程までそこに誰も居なかったのに、背中合わせに密着していたパリスとヘクトールの真横から寄っかかるようにして男が体重を預けつつ立っている。
慌てたパリスとは反対にヘクトールは剣を手にしながら警戒をしつつ、僅かに肩越しに視線を送るばかりだった。
「英雄って大抵ソロで戦いたがるし、怪物も徒党を組むことは少ないからさ。個人的にはヘラクレスとテセウスあたりが組んだら迫力満点だと思うんだけど。あの二人身長同じぐらいのダブル大男だから」
「……誰だ?」
「えっ!? あの二人知らないの? 有名なんだけどなあ。でも二人共、足のサイズでかいのに僕の靴を履こうとしたもんだから靴がグニョグニョに伸び切っちゃって……ヘパイストスに新作頼んだら勝利の女神NIKEのロゴまで入れてくれたんだよ。エアクッション入りで。時々センスいいんだよなあヘパっち」
「いやその二人の話じゃなくて」
軽口を言いながら二人の近くに突如現れた男は真夜中なのに帽子を被り、伝令使が身につけるマント状の上着を羽織っていた。そして足は羽っぽい✔みたいなマークの付いているスニーカーを履いている。帽子から覗く顔立ちはいかにもギリシャ風の彫りが深い二枚目な青年で、悪戯っぽく薄笑いを浮かべている。
パリスは既に二度彼に会ったことがある。驚きながら呼びかけた。
「ヘルメス! 助けに来てくれたのか!?」
「チッチッチ! 僕は助けに来たんじゃなくて、アテナに頼まれてアドバイスに来ただけさ。僕も怪物退治はしたことあるけど、正直弱点のある楽勝な怪物以外とは戦いたくないし。冥界の皆さんは顔見知りだしねえ」
ヘルメスは懐からアンブロシア饅頭を取り出して霧の中に差し出すと、蝙蝠がそれを持っていった。モルモに対するお土産である。
ハデスが支配する冥界は基本的に地上の神々が関わらない領域であるが、旅の神であるヘルメスは死への旅路もその職務として担当し、エリュシオンや渡し守カロンの元まで死者を連れていくため冥界でも活動している。
「叡智の神ヘルメス。アドバイスとはどういうものだろうか」
ヘクトールがやや緊張しながら尋ねる。この状況を打開しなくてはならない。神々の力が借りられるなら頼るのに躊躇いはなかった。
するとヘルメスは数歩前に歩き、二人に振り向いてから指を立てていつも通りの明るい顔で説明をする。
「神のパワーでなんでも解決ってのは僕、あんまり好きじゃないからヒントを出すので自分たちで対処してみようか」
「ヒント?」
「そうそう。それさえ気づけばどうにかできるよ。ヒントその一。この場所にはアテナは来ることができません。でも僕は来れます」
確かに、とパリスは思った。アテナが直接口を出してくるわけではなく、ヘルメスに伝言のようにアドバイスを頼んでいる。
アテナはでしゃばりな神とも呼ばれることがあるぐらい、お気に入りの人間に指針を示したり助力したりする。だというのに何故、今ここで現れないのか。
指の二本目を立ててヘルメスは続ける。
「ヒントその二。エンプーサちゃんとモルモちゃんは、分身なんてできないし大部分を石化されたりしても無事なわけじゃありません」
「……だが実際に」
「ヒントその三。ケリュケイオン、置いてきちゃったんだ。あれがあればなー……おっと! さすがにネタバラシしすぎかな? それじゃ、バハハーイ!」
ヘルメスはわざとらしく口を塞いで、そっぽを向きながら口笛を吹いた後に走り去った。綺麗なフォームでナイキのシューズをキュッキュ鳴らして一陣の風と共にあっという間に姿が見えなくなる。
残されたヘクトールが彼から受けたヒントを頭の中で組み合わせようと考える。
アテナが関われない領域。
吸血鬼たちは普通ではない強さ。
ケリュケイオンが関係していること。
一方でパリスはさっぱりヒントも理解できないで情けない声を上げた。周囲ではまた蝙蝠がキイキイと鳴き声を上げ始めている。今にも襲いかかって来そうだ。
「うひぇ~ケリュケイオン? あれを使ってどうしろって……寝てるヘスペリアを起こすぐらいしか」
「……眠っているヘスペリア? ……それだ!」
「へ?」
ヘクトールが叫びを上げた。
「恐らくこの一帯は『誰かの夢の世界』が現実を侵食している」
「ゆ、夢?」
「夢は冥界とも繋がっているとされる異界で、干渉できるのは眠りの神ヒュプノスか夢の神オネイロス……あの吸血鬼たちは夢の存在として生み出されたか召喚されたか。とにかく、そういう夢を実体化させる儀式があると以前に夢占い士に聞いたことがある」
ヒュプノスもオネイロスも夜の女神ニュクスが生み出した冥界の神々である。
ただしこの二柱は冥神の中でも眠りという癒やし、夢見という指針を与えてくれる神ということで地上でも信仰を持っている。同じく兄弟である死神タナトスなどは恐ろしい存在だと忌み嫌われているのだが。
夢の神の力を顕現させるには、遥か西の彼方で眠りに付いているオネイロスに祈りを捧げて眠りにつけば、象牙の門より現れて夢に現実の形を与えるという。
「じゃ、じゃあヘスペリアがこの夢を!?」
「わからんが、眠らされているってことは関係してるはずだ。もしかしたら悪夢を見せられてそれを具現化されているのかもしれない。或いは眠っていた牛や馬が原因か? とにかく、起こせば何かしら状況が変わるはずだ」
だが、起こしに向かうにしても霧に囲まれている状況である。周囲の状況がわからないし、無闇に走っても背後から襲われるだろう。蝙蝠だけではなくエンプーサも近くにいるはずだ。
どうにかモルモが変身した肉体である霧を晴らさなくてはならない。パリスは腰に下げた油壺を意識した。これならば。
「……ヘク兄、今から冥界の炎を着けるから、絶対に火に触れないように気をつけてくれよな。触ると死ぬやつだから」
「わかった。やれ!」
パリスは腰に下げた小さな陶器製の壺を近くにあった一抱えほどの石に投げつける。パリンと音が鳴って、ベッタリと石にはプロメテウスの油が付着した。
そこへ向けてパリスは力強く引き絞った矢を放つ。鏃に使われている青銅は石と強くこすり合わせると火花の出やすい金属であり、プロメテウスの油は真夏のガソリン並に発火しやすい燃料であった。
ぽう、と緑色をした冥界の炎が岩を包むと、それに焼かれた霧から「キャアアアア!!」と悲鳴があげられる。
いかに冥界出身の吸血鬼とはいえ、不死身の巨人すら焼き尽くす炎に焼かれて無事ではいられない。ましてや体が微細な水分に変化している状態なのだ。一瞬で水分が焼き尽くされてしまう。
業火の苦痛に耐えきれなかったのか霧が薄くなる。イーデ山に慣れ親しんだパリスは周囲の地形を把握して、家との位置関係を理解した。
「ヘク兄!」
「おうさ。ここは兄ちゃんに任せとけ」
パリスが走り出すと同時に、霧からエンプーサが二体飛び出してきて二人に襲いかかる。
「永遠に眠らせてやるよ!」
「死にな!」
「夢なら早く醒めてくれればいいんだがねえ。美女相手ならもっと穏便な夢を見たい」
ぼやきながらもヘクトールは槍の穂先を火が付いたプロメテウスの油に突っ込んだ。鉄製の槍にコールタールのような油が付着してバリバリと火花と音を上げながらも発火する。
刃を冥界の炎で燃やした槍を振り回して吸血鬼を威嚇し、パリスが逃げるのを援護する。
緑色の炎がバチバチと音を立てながら燃える槍を吸血鬼に叩きつける。爪を剣のように伸ばしたエンプーサは受け止めようとしたが、一撃で爪を叩き割ってその胸に槍を差し込んだ。
「なに!?」
これまでよりも苛烈な一撃でエンプーサは致命傷を負った。さっきまでは白兵戦で互角とはいわないが、まだ打ち合えたのに。
ヘクトールはミントの茎を咥えて悪夢の欠片として生み出された存在に告げる。
「夢ってネタバラシされたら急に怖くなくなるもんさ」
「ギイイイイ!!」
と、悲鳴を上げて全身を燃やされ一体のエンプーサが消える。ヘクトールは僅かに冷や汗を掻きながら余裕ぶった笑みを浮かべた。
「強き火の刃とはよく言ったもんだが、大丈夫かねこの槍。終わったら鍛冶屋で打ち直さないとなあ」
強力な炎を宿している槍だが、その火の粉が自分に降りかかれば危険極まりない武器でもある。ついでに柄が燃えて侵食してこないか心配でもあった。
「貴様ァ!!」
「おおっと」
もう一体のエンプーサが襲ってくる。槍を振るうが、相手は燃えない青銅の足で槍を蹴り飛ばしながら間合いを詰める。
エンプーサの爪とヘクトールのツルハシが打ち合い、鍔迫り合いになる。あまりに接近されると火の粉が危険なので槍は使えない。すぐに両者は剣と爪を引いては打ち、間合いを空けずに何合も剣と爪が至近距離で弾かれ合う。
「キャハハハハ!!」
背後からモルモの嬌声が風切り音と共に聞こえる。巨大な蝙蝠の姿で弾丸のようにヘクトールへと飛来してくる。
そちらを見もせずに、ヘクトールは燃えている槍を放り投げる。山火事にならないように祈りながら。
神がかった投擲能力で投げつけられた槍は大蝙蝠の額に突き刺さってもろとも地面に落ち、モルモを焼き尽くす。
「キャアアアア!!」
「この野郎!」
その隙にエンプーサが剣を力ずくで跳ね除け、青銅の足でソバットをヘクトールの頭に向けて放つ。
ヘクトールは体勢を低くしながらレスリングで鍛えた低空タックルでエンプーサのもう一本の足を掴み、ひねり倒す。一瞬で転ばされたエンプーサは両手の爪を振り回すが、転びながら振った腕の可動範囲を見きったヘクトールは避けて背中を踏みつけ、動きを止めつつ剣で首を刎ねた。
吸血鬼を倒したものの油断せずに周囲を見回すと、
「……ありゃー。パリス、早くしてくれねえかなあ」
周囲の霧から、更に三体のエンプーサとモルモが化けた無数の狼がヘクトールを囲んでいた。
*****
パリスは霧の中を疾走して家に向かっていた。
(よくよく考えればヘスペリアがあんなに怯えてたのに呑気に寝てたり、起こそうとしても全然起きなかったりして雰囲気は妙だったな……)
ストーカー相手に眠らされていた可能性が高い。ギリシャでは人を眠らせる薬や毒が割と多いのだ。
母ヘカベーが作ってカサンドラとオイノーネを眠らせたものもそうだ。ヘカベーが信仰している魔女の女神ヘカテーは冥界の女神でもあるため、眠りの神とも親和性が高い。
ヘスペリアはもしかしたら今頃、睡眠中強制行為されているかもしれない。そう考えるとパリスの気も急いて、一息に家までの距離を駆け抜ける。
途中でミントの葉を掴み取る。オイノーネが栽培していたものだが、ミントは冥界に住むニュンペーのメンテーから生まれた植物であり、その香りは冥界の瘴気を払うとされている。
家に飛び込むと、ヘスペリアが苦しそうな顔をしながら巨大な枕に抱きついて魘されていた。
「起きろ起きろヘスっちさん!! 寝てたら死ぬぞ! 主にオレとヘク兄が!」
「ううう~……すぴー……枕がデカすぎィ……」
「枕はこの際どうでもいいから!」
ヘスペリアの肩を掴んで起こし、揺さぶったり軽めにペチペチと頬を叩いてやるがまったく起きない。やはり異常な眠りにつかされているのだろう。
「むにゅ……リンゴ農家の仕事継ぐの嫌ぁ……」
「なんの夢見てるんだ! 本当にケリュケイオンを持ってくるんだったよ! ミント食えミント!」
眠っているヘスペリアの口にミントの葉を突っ込むのだが、なにせ意識が無いせいで咀嚼もしてくれないために効果が薄い。
家の中にはオイノーネが使っていた薬をすり潰すための道具があるが、それを使っている時間も惜しい。
「ええい! 睡眠時接吻するしかねえー! 許せよヘスっちさん! あとオイノーネも!」
口移しで飲ませるしかないと判断した。眠っているヘスペリアとオイノーネに謝るが、オイノーネには内緒にしておこうと心に誓う。嫉妬で殺害されるかもしれない。ただの医療行為だというのに。
パリスは自分の口にミントをもしゃもしゃと含んでから、ヘスペリアに飲ませた。予言の未来で二十年近くヘレネー相手に鍛えたキステクでヘスペリアを目覚めさせる!
「うおおおー! これは浮気じゃないぞおおお! 何故ならギリシャ文化では恋人相手にキスする風習なんてたぶんなかったからだああああ!!」
やけくそ気味に叫ぶパリス。
ヘラに見られたら罰を与えられないようにか、ギリシャ神話の創作でキスシーンを書くと歴史警察から「口付けはローマ文化!」と怒られるからか。ギリシャ神話では元来男女のキスシーンはほぼ無いようだ。
ちなみに彼が予言の嫁ヘレネーに仕込まれたのは這いつくばって彼女の足を舐めるテクである。誰かに言い訳しつつ微妙に物哀しいパリスであった。
******
夢の中に囚われていたヘスペリアは、超巨大な枕に押しつぶされるような悍ましい奇妙な感覚で意識が閉ざされていた。
海に沈んでいくのに似ている、一度受け入れてしまえば二度と目が醒めないと思える孤独感。
叫んでも手を振り回そうとしても何にも触れず、身体から熱が奪われていく。
そんなさなかに、唇に熱を感じて、そこから全身に広がって微睡みから僅かな目覚めの兆しを感じた。
ヘスペリアは一瞬の覚醒を引き伸ばしながらどうにか目覚めようと、体に力と熱を取り戻そうと、もがく。
(眠れ)
(眠れ)
(共に眠れ)
(夢を見よう。幸せな夢を。望むままに。私と一緒に)
頭の奥底から響く声がある。それを聞くと意識が遠のきそうだった。ヘスペリアは重たくなる瞼を必死に開こうとした。
(うるさいなあ……眠りたくなんかないのに……夢の中とリンゴ農家なんかに幸せなんてない……あたしが一緒にいたい人は────)
抗い、ヘスペリアは手を伸ばそうとした。その手が誰かに掴まれる感触。
温かい手が握り返している。ヘスペリアはそれに引き上げられるように意識を目覚めさせた。
彼女のまつ毛の長い瞳が開かれる。すぐ目の前に──接触しているほど目の前に、パリスの顔。
無意識に伸ばした手はパリスと握り合っていて、ヘスペリアは更にパリスに抱きつくような格好でもう片方の手も彼の背中に回していた。
そして唇が触れている。急速にヘスペリアの心が正気に戻った。
「~~~~!? ーーーっっ!! ほわー! ホワッホワッホワワー!!」
「うわあ寝起きに凄い騒ぐ!?」
「パパパッパリッちさんどういうことでせうか!? 浮気!? 浮気ならいいけど本気になったらダメでせう! ヒッヒッフーヒッヒッフー!」
「落ち着け!?」
彼女は凄まじい勢いで後ずさりしてパリスから離れつつ顔を真っ赤にしてキョロキョロと落ち着かない様子で周囲を見回す。
見たこと無いぐらいヘスペリアが焦っているのでパリスも驚きながら事情を説明する。
「ヘスっちさんが異様に寝ていて起きないから緊急事態なもんで、ミントを口移しで飲ませただけだって!」
「エンデュミオンしたんか!?」
「エンデュミオンしたけど!」
今頃ラトモス山の頂きで眠っているエンデュミオン本人も、新月なのでセレネーにエンデュミオンされているだろう。
あまりにヘスペリアが慌てている様子を見ると、パリスも悪いことをしたなと罪悪感が生まれるのだが、とにかく。
「ヘスっちさんがストーカー被害で危ないって予言があったから帰ってきたらこの家周辺に夢の世界が広がって、冥界から来た吸血鬼が襲ってきて危ないんだ。誰かの夢の呪いか、悪夢をけしかけて来た夢神信仰者がいるんじゃないかと思ってヘスっちさんを起こしたんだけど……」
早口で説明する。
「お、おー……そうなんだ」
ヘスペリアは口元をサスサスと撫でながら心を落ち着かせる。どうやらパリスは自分を助けにわざわざやってきてくれたらしいことは理解できた。
それにしても。ヘスペリアは自分の顔が熱くなっているのを冷やそうと手で扇ぐ。そう。医療行為で助けられたのだ。気にしすぎたらいけない。だが自分がこんな調子なのにパリスは平然としているのがヘスペリア的に不満だった。
パリス的には非常に危険な吸血鬼に襲われている真っ最中なので照れている場合でもないからであるのだが。
「そういえばあたし、なんで寝てたんだっけ……なんか突然眠くなって……」
「ストーカーの術かもしれないが……うう、まだ夢の世界は消えていないみたいだな」
家の入り口から外を覗くが、霧は薄れているものの遠くではまだヘクトールが怪物相手に剣の打ち合う音や木が倒れる音、狼の鳴き声などが聞こえる。
「肝心のストーカーはあたしを眠らせてどうしようとしたんだろ……ってうわ! なにその枕! デカすぎ!」
ヘスペリアが考えていると、彼女がさっきまで寝ていたところに置かれている枕を指差して驚いた。
「だから枕はどうでも……ってあれ? この枕ってヘスっちさんが持ってきたものじゃないのか?」
「ううん? あたしのじゃないよ?」
もちろんパリスやオイノーネのものでもない。
この時代、枕というものは特別な道具であり庶民が使うようなものではなかった。
枕は単に眠るだけではなく夢を見るために使われる道具とされ、愛用するのは夢に特別な予言や予兆を見る王族や夢見の占い師などで……
「……」
枕をよくよく調べると、寝袋のように筒状になっている。布をぐいっと引き下げてみると、枕の中から人間が出てきた。
小太りで髪の毛がぺったりと湿っている感じの成人男性で、目を瞑りながら「こふー……こふー……」と寝息をあげている。
パリスの腹違いの兄、夢占い師アイサコスであった。
それを見たヘスペリアが「おえっ」と呻いて吐き気をこらえた。そんな物体がくるまれた枕と添い寝をしていたのか。
ミントを使って起こそうとはパリスもしなかった。おもむろに家の中に置かれていた薪を手にする。
「こいつかァー!!」
「ぐっへえええええ!!」
顔面をぶん殴って強制的に目覚めさせることにした。なにせ吸血鬼に殺されかけたのだ。それをけしかけた相手に遠慮はしない。
パリスがストーカー男をぶん殴ると同時に、森を包んでいた夢の世界が急速に消えつつあった。
そこで倒しても倒してもキリのない吸血鬼相手に、傷を増やしながら戦っていたヘクトールはホッと息をついた。彼の目の前で、忌々しそうにしながらエンプーサと人化したモルモが薄れていく。
「小癪な男め。いいか、夢なんて世界では全力が出せないのはこっちも同じだからな。次を楽しみにしていろ」
「キャハハハハ楽しかった? ねえ楽しかった!? またやろうよ!」
はあ、とヘクトールはため息混じりに手を振って別れを告げる。
「遠慮したいねえ。次は酒宴にでも誘ってくれるとありがたい」
「は! なら冥界のザクロでもツマミに食わせてやる」
「アハハハ! ハデス果樹園のザクロ美味しいよねえ!」
そう言い残して二人の吸血鬼は完全に消えた。
そして周辺に散らばる、十体近くのエンプーサの死体やモルモが化けていた狼、蝙蝠の死体も消えてなくなる。
冥界の炎も油部分を燃焼しきったのか、パリスが着火したところやヘクトールの槍を燃やしていたものも小さくなりつつあった。槍の柄は完全に燃え尽きていたが。
「良かった良かった。いやホント。アイネイアスも連れてきたら楽できたんだけどなあ」
そうぼやきながらも一人で吸血鬼の猛攻をしのぎきった英雄は、剣を軽く担いでパリスの家へと向かった。
『接吻はたしかにあんまりせんな……アポロンあたりは得意だった気がするが。男相手にな』────関係者Z
『そもそもギリシャ神話自体が後付描写が多いのだから、ローマ時代に付け加えられたキス描写を追加する程度で今更歴史警察も来ないだろう』────未来予知解説者P