12話『再び山へ』
「も、戻ってる!?」
悶え苦しんだパリスはようやく正気に返り、全身を襲う痛みの幻痛を振り払いながらそう叫んだ。
一度目も火葬されるところまで意識はあったが、二度目の予言戻りも冥界の炎で焼き尽くされるエンドであった。罪人を苦しめて焼く緑の炎は骨の髄までねじり切るような痛みを与え、現実に戻ったというのにショック症状が出るほどつらい記憶が残っている。
パリスは怪訝な顔をしている弟ヘレノスと、周囲を見回す。場所はアポロン神殿のようだ。
「どうしたんですか、パリス兄様。僕も予言で意識が飛んでいたからわからないんですが……」
「そ、そうだ。予言だ……」
パリスは慄きながら繰り返す。
新たな予言の未来の体験。それも致命的な内容であった。
ヘスペリアに会いに行かねば二度と会えなくなるという緊急事態にパリスはイーデ山の住居に駆けつけるが、二人で籠城していると追いかけてきたオイノーネとカサンドラによって焼き殺される。
恐らくヘスペリアを悩ますストーカーと、愛に狂った二人は別件だろう。だがどちらにせよその夜、月の無い晩に正気を失った二人は必ずパリスへと襲いかかる。
「ヘレノス! 今はいつだ!? ええと、新月の日はいつ来る!?」
「新月は今晩ですが……」
「時間ねええええええ!」
パリスは頭を抱えた。どうやら当日街をブラブラしていた時間のようだ。
今日中にヘスペリアのところにいかねばストーカーが危ないかもしれないが、夜中には目覚めたオイノーネたちが追いかけてくる。
前のトロイア戦争の予言では時間は遥か未来であり、審判を変更するという運命を変える方法があった。しかし今からではどう問題を解決していけばいいだろうか。
こういう時は、
「相談だ!」
急いでパリスはオイノーネを寝かしている自分の屋敷へと戻ることにした。死に戻りしても躊躇わず他人に相談する男である。
*****
途中でカサンドラも意見参考に連れて行くことにした。カサンドラは普段、母親であるヘカベーのところで暮らしている。プリュギア人である母親にだけは若干会話が通じるからである。
ヘカベーの屋敷に行くと、使用人たちが裏の地下室にいると教えてくれたのでそちらへ向かう。
「地下室?」
と、首を傾げながら向かうと屋敷の裏には崖を利用した階段があり、煙突として開けられている青銅の筒からは刺激臭のする紫色の煙がもうもうと立ち込めていた。
怯みつつもパリスは地下の階段を降りると、ボクシングのリングぐらい狭い部屋の中央に大きな青銅製の鍋が置かれ、壁という壁には様々な植物や乾燥させた蜥蜴、蠍、蛇などが棚に並べられている。鍋を囲んで木べらで掻き回している、闇夜と同じ色のローブを着ている二人は母ヘカベーと妹カサンドラであった。
なんか見てはいけないものを見た感覚になるパリスだった。
どう見ても魔女の親子である。そんな儀式を王妃や姫がやっているとか、魔女メデイアのいるコルキス国かここぐらいだろう。
「ちょっといいかなー……?」
パリスが躊躇いながら声を掛ける。カサンドラのことは矢の効果で苦手になっているが、同様に母のヘカベーもあまり得意ではなかった。
予言の未来──体験したトロイア戦争の記憶では約30年もトロイアの王子として生活していたにも関わらず、あまり会話をしたこともなかったようだ。
そもそもヘカベーからしてみても、一度は捨てた子だというので感動の再会とするには気まずく、その後はすごい勢いでパリスがヘレネーに狂ってしまったためにまともなコミュニケーションを取る機会がなかったのだが。
「お兄様っ!」
嬉しそうにカサンドラが振り向くのに対して、ヘカベーはゆっくりとパリスの方を向いた。
長い黒髪を腰まで垂らしたやや陰気そうな顔の女性だが、見た目は若々しい。夫であるプリアモス王は壮年の後半で老年に入りかけていて、彼と共に過ごして30人以上の子供を産んだ驚異的な母だというのに、その見た目は妙齢の美しい婦人なままだった。パリスの記憶からいえば、トロイア陥落寸前でも精神的な老け込みはあったものの同じような容姿であった。子供たちと並んでも姉にしか見えないだろう。あるいはヘクトールの方が年上に見えるかもしれない。
おまけに格好が酷い。大きな黒い外套と帽子はまあ魔女らしくていいとして、マントの下は胸と腰をぴっちりと小さな布で隠しているだけでほぼ半裸だ。水着にマントを羽織っているような姿に近い。ヘカベーの出身地プリュギアは、当時の世界では上質な布の産出国でファッションの先進国であるというのにこの格好だ。
冷静に見ると痴女にしか見えないのだが、本人は誇るでも恥ずかしがるでもなく眠そうにぼやーっとしている。ただ魔女というのは伝統的に裸でいることが普通だったりするので、案外気を使っているのかもしれない。
ヘカベーは、魔術と出産の女神であるヘカテーの巫女である。
ヘカテーを深く信仰し、その権能である出産の祈りを捧げながら無事に次々と子供を作ったヘカベーは加護が与えられたのだ。ヘカテーを祀る限り巫女である彼女の体は出産に耐えられる若くて美しいままを維持するという。
他にも高位のヘカテー信者で言うと、魔女メデイアや魔女キルケーが長命で美しさを保っていた例が挙げられる。
「お兄様どうしたんですかこんなところにいらして……はっ! 今煮込んでいるのは決して、お兄様をケダモノに変えてしまう薬じゃありませんからね!」
「いきなり怖い弁解しないでくれる?」
ジト目で妹を見る。そのケダモノが、妹すら襲うような狂気をもたらす意味なのか、あるいは本当に犬や猫や豚に変えてしまう意味なのか。魔女はどちらにしてもありえる。
「……どうも。母です」
「いや、挨拶で自己紹介されても。しかもオレ息子だよね?」
全然パリスとしても、母らしくないと思う相手なのではあるけれども。
「……時々、子供たちから母だと忘れられるので。母です」
「子供がめっちゃ多い割に、あんまり世話しねえからじゃないかなあ……」
魔女であるヘカベーがパリスをじっと見ながら平坦な声音で謎の挨拶をしてくる。彼女は見た目こそ色気のある妙齢の美女だが、若干変わり者な性格をしている。
予言の未来でもコミュニケーションがあまり取れなかったのはその性格もあった。引っ込み思案とは違うのだが、自発的に関わってこようとしない。こうして自宅で魔女の儀式をやっていることが多く、公の場にもあまり出てこない。
子供は非常に多いのだが、その多くは乳母に世話を任せっぱなしで、年単位で顔を合わせていない子供もいるだろう。
何を考えているのかわからない、ぼやっとした目つきのままで彼女は鍋に視線を戻す。
「……おっと。薬が完成しました。『プロメテウスの油』です。冥界の消えない炎をつけるための」
「それかよ! なんで作ってるんだ!?」
「母です」
「聞いてないんだけど!?」
トラウマになりそうな緑の炎を生み出す凶悪な燃料を生成しているところだったようだ。
先程見た予言通りになれば、カサンドラがこれを持ち出してイーデ山に追いかけてくる。下手をすれば山一つまるごと燃えてしまう。
「……なんか、カサンドラが作って欲しいなーってピーチクパーチク言ってる気がしまして」
「娘の声をピーチクパーチク!?」
「微妙にお母様には通じるような通じないような微妙な感じなんですよね、わたしの言葉」
母親に飲まされたキュケオーンのせいもあるかもしれない。
「で。なんでカサンドラはそんな危険物を」
「違うんですよ。お兄様が怪鳥退治の冒険に出られるって話じゃないですか。それでわたし心配して、お母様に体に塗るだけでパワーアップする『プロメテウスの膏薬』を作って欲しいなーって頑張って伝えたんですけど……微妙に話が通じなくて、プロメテウスの油を作っちゃったみたいで。材料似てるんですよね」
「冥界の消えない炎を出す油と似た成分の膏薬を塗らないといけないの!? オレ!?」
魔女の秘薬としてよく使われるのがプロメテウスの神血から生えた霊草、プロメテイオンである。これを使えば消えない炎を生む油、剛力と守護の膏薬、人を動物に変える薬など様々なものが作れる。他にもプロメテウスの神血そのものも素材として貴重であり、機械人形の動力源にもなる。
生きたまま山に縛り付けられて血を撒き散らしているプロメテウスは大変ありがたい存在なのだ。彼が予言などで功績を上げても開放されないのはそういった利用者からの嘆願もあると言われている。
「ええい、そんなことよりカサンドラ! 話がある!」
「パーッパッパッパリ。オレと子作りしようでリス!」
怪しげな口調でパリスの声真似らしきものをしながら続けて言うカサンドラ。
「オレのセリフを捏造しようとするな! オレそんな笑い方と語尾だっけ!? 今晩、新月でアルテミスの加護が消えてお前とオイノーネの理性がヤバイことになるんだよ!」
そしてパリスは先程予言で見た破滅の未来をカサンドラとヘカベーの前で簡単に説明した。
「どうやらヘスペリアがストーカー被害で今晩にも危険に晒されるから助けにいかないといけないんだ。だけどそっちに向かうと、正気を失ったカサンドラとオイノーネが山に火を付けながら襲いかかってくる……」
「どんだけ酷いことする予定なんですかわたしとオイノーネさん!?」
イーデ山は神山であり大勢の神々が住まう聖地だ。流れる川の一つ一つに神が宿り、山頂にはオリュンポスの神も訪れる。
そんなところに火をつけるのはもう討伐される怪物的、信じがたい冒涜行為であった。しかし狂気に飲み込まれた二人はやってしまうのである。
しかしながら予言の恐ろしさはカサンドラもよく理解している。無意味にパリスがそんな話を持ってくるわけもない。事態は深刻であった。
「と、とりあえず……自分に迫った問題としては、今晩正気を失うのが危険ですよね……」
「ああ。なんか冥界の炎とか持ち出して振り回してくるからな」
「グッドタイミングでプロメテウスの油が……どうしましょう」
ギリシャ世界での狂気は危険だ。下手に縛り付けでもして行動を防ごうとしたら発狂死したり、獣化して逃げ出し目的の相手を噛み殺したりしかねない。
また、ケリュケイオンは自然な眠りではないために一発で眠らせることは可能なのだが、その眠りが持続する時間がまちまちであるため過信できないのだ。
「母です」
すると、感情の浮かばぬ目のままヘカベーが軽く手を挙げてアピールした。
「一晩だけ正気を失うというのなら、強力な睡眠薬で眠らせておけばどうでしょう」
「強力な睡眠薬!? そんなのあるのか!?」
「母です」
「知ってますけど!」
言うと彼女は棚を漁り、奥から小瓶を一つ取り出した。
「これが以前に作った睡眠薬です。一瓶でドラゴンでも永眠します」
「毒だろ! それ絶対人間に飲ませたらヤバイやつー!」
「お母様ってモロ魔女ですよね……」
「母です」
しかしながら「薄めれば大丈夫です。たぶん」という母の言葉に、カサンドラとパリスは微妙そうな表情を見合わせた。
「……とりあえず実験してみるか」
「そうですね」
実験とは即ち人体実験なのだが。薬をひとまず十分の一に薄めてワインに混ぜ、適当な被検体を探す。
見つけた。練兵場で弓の稽古をしていた王子デイポボスだ。気難しそうな顔をしながら弓を引いては的に向けて放っていた。弓もパリスに追いつこうと鍛錬しているようであった。
「よし、デイポボスに睡眠薬を飲ませてみよう」
「差し入れに行ってきます!」
兄に薬を盛るというのに躊躇いのないカサンドラ。基本的に彼女はパリス最優先なのでデイポボスが薬の副作用でどうなろうとも困らない。盛るのがヒュドラの毒でも気にしないだろう。
鍛錬で汗を掻いているデイポボスに、ワインの入った小さな壺を持ってカサンドラが近づく。
「おいデイ兄。これ飲みなさい」
「すっごい口調がざっくばらん!」
物陰で見守っているパリスがカサンドラの声に驚いたように囁いた。
なにせカサンドラ、基本的に彼女の言葉が誰にも通じないので口調もパリス以外にはいい加減になってきているのである。
適当に喋ったところで、デイポボスからしてみれば妹がなにか喋ってるけど内容がわからないのである。
「なんだ? カサンドラ……ああ、飲み物持ってきてくれたのか? ありがとうな」
「げっへっへ。それ毒ですよデイ兄。ちゃんとわたし忠告はしましたから自己責任ですよね」
責任逃れのように通じない言葉を言うカサンドラ。僅かに彼女の性根の黒い部分が見え隠れするようで、パリスは若干引いた。
しかしながら、汗を掻いているところに妹が飲み物を持ってきて疑う兄もいないだろう。デイポボスは喜んでワインを一気に煽った。
ごくごく。
ばたん。
デイポボスは死んだ。
「……」
「……」
物陰から出てきたパリスが、そっと仰向けで白目を剥いているデイポボスの顔の前で手を振って確認する。
「……呼吸してないぞこれー!」
「ちょっとまだ濃かったですかね」
「うわー! デイポボス! 死ぬなー! 仲悪いけど毒殺するほどじゃないんだぞー!」
揺り起こそうとしたのだがさっぱり目覚める気配が無く、そのまま彼の魂は冥界に運ばれる寸前だったのだが、パリスはケリュケイオンを持っていることを思い出してそれの杖頭でデイポボスを突いた。
眠った者を強制的に目覚めさせる杖の効果で、デイポボスは「うーん」と言いながら朦朧とした意識を覚醒させようとしていた。
パリスとカサンドラは怒られたら嫌なので走って逃げることにした。
******
その後もヘレノス、アイネイアスなどに毒ワインを飲ませてみて分量を調整し、深い眠りに入るものの眠ったまま生命維持は可能な程度に薄めることができた。
呼吸が止まるほどの眠りでなければ、後からパリスに起こして貰えればいいのだ。薄めすぎて今晩途中で目覚めることの方が危険である。
「わたしとオイノーネさんはこれでいいとして……後はお兄様がヘスペリアさんを助けに行くだけですけど」
「ああ!」
「そもそもどういう危機が迫ってるんですか?」
「……よくわからん。なんかストーカー被害みたいなのにあってるようだけど、具体的に犯人が出てくるより先にお前らが燃やしに来たから……」
しかしヘスペリアが相当に怖がっていたのは確かであるし、助けに行かねば二度と会えなくなるという予言もある。
ニュンペーという妖精のような女神は儚い存在である。心を病むあまりに植物や鳥などに変化して二度と元の姿に戻れなくなったりすることも珍しくない。アポロンから好かれたのだが拒絶感から月桂樹になったものや、太陽神ヘリオスを思うあまりに花になったものもいる。
「なんかお兄様一人だけだと心配ですね……」
「うっ……た、頼りにならないことは自覚してるんだが」
「本来ならわたしが付いていって手助けして育まれる愛……♥ するんですが、そういうわけにもいかないみたいです」
「カサンドラ連れて行って危険なストーカー相手にどうするんだ?」
「冥界の炎で焼くとか」
「その危険思想がニュートラルにあるのやめてくれる!?」
ひょっとしなくてもこの妹はヤバイのではないだろうかとパリスも疑う。
エロスの矢で正気を失っているのではあるが、なんか発想がやたらと物騒だったり淫猥だったりするのは元々の性根が悪いからではないだろうか。
それを追求しても真実は現状ではわからない。
「……なら助太刀に、アイネイアスとかヘク兄がいればどうにかなるだろ」
「ええ、ぜひ連れて行ってください!」
「そこまで不安か……」
がっくりと肩を落とすパリス。カサンドラは内心こう考えていた。
(下手にストーカー退治なんてものにお兄様が関わって、ヘスペリアさんとやらから懐かれても邪魔ですもの。筋肉ダルマかヘク兄が隣にいればきっとそっちに惚れるでしょう)
贔屓目でパリスを見て恋心マックスなカサンドラだが、客観的に見ればどこか頼りないパリスよりはその二人の方が女子ウケすることは間違いない。
正直なところヘスペリアがストーカー被害でどうなろうとも知ったことではないのだったが、パリスはどうしても助けたいだろうしそれを止めて嫌われるのも嫌なのであった。
「ついでに出来ちゃったプロメテウスの油も持っていきませんかと提案する母です」
「……ついでレベルでその大量破壊兵器を持っていくのもなあ……しかも山に」
「なにがあるかわかりませんので。母です」
小さな壺に入れられた怪しい緑色の油を押し付けられて、パリスはひとまず腰に紐で括り付けておくのであった。
その後、カサンドラを連れて一旦パリスの屋敷に行き、既に寝ているオイノーネの喉に薬を突っ込んで更に深い眠りに付かせて、カサンドラも眠らせることにした。
口移しだのあーんだの、ねだってきた妹を容赦なくケリュケイオンで殴り倒してから気絶したカサンドラの口に薬を突っ込むので平等な扱いである。
念の為ヘレノスにケリュケイオンを渡して、二人が起きそうだったら突っついてまた眠らせるように頼む。そうでなくては山火事が不安であった。
それから急ぎイーデ山へ向かうための助太刀を探したのだが、アイネイアスは怪しげな実験を受けていた不信感から姿を消していたので見つからず、仕方なくヘクトールに事情を説明して付いてきて貰うように頼み込み、二人でイーデ山へと向かう。
「それにしても、お前って本当に厄介事が舞い込むよな」
馬を降りて山を徒歩で登りながらヘクトールは告げる。既にニュクスが支配する夜闇の中であるが、二人が手に持つ松明とヘクトールが持ってきた光り輝く兜があたかもヘッドライトのように道を照らしていた。
「生まれたときも予言とやらで捨てられるし、オイノーネ嬢と結婚したと思ったらトロイアに連れ戻されるし、アテナから加護を受けて二女神から恨まれるし……これからも大変だろうなあ頑張れよ弟」
「いやそんなことよりオレはヘク兄の兜が洞窟探検家(ハデス信者に多かった職業)みたいになってるのが不思議なんだけど……なんなのその兜」
「母上が作ったやつだから詳しくは知らんなあ。冥界の宝石を使ってるから暗いところでも光るらしいが」
「母上ってなんなんだ一体……」
「……実は俺もよくわからん」
眠り薬やプロメテウスの油、それにヘクトールの光る兜まで作るやたらクラフト能力の高い魔女である。
予言の未来においてはトロイア陥落後、オデュッセウスに捕まったのだが犬に変身して逃げていったという最後であった。見た目もずっと若いし、様々な能力を持っているようだ。
松明と兜の明かりで道を進む二人はしっかりと武装をしていた。ヘクトールはデュランダルと呼ばれる槍と剣を持ち、パリスもアイギスの盾を肩に付けて弓矢と短剣を持ってきていた。
(まあ少なくとも、ストーカーどころか並の魔物が出てきても倒せるだろ……ヘク兄がいれば)
パリスは少しばかり安心しながらも、ヘスペリアのいる自宅へと向けて進む。
自宅は予言で知った通り、怯えたヘスペリアが戸板を打ち付けて窓などを塞いでいる様子だった。
「俺が外を警戒しとくからお前は中で事情を聞いてきな。なんならそのヘスペリアさんとやらもトロイアに連れていくことも考えておけよ。家の場所知られてそこを狙われてるなら四六時中見張るわけにもいかん」
「わ、わかった! そうだよな、今晩でストーカーが解決すればいいんだけど……おーいヘスっちさーん! オレだよーパリスだよー!」
「ぐかー……むにゃむにゃ。枕がでかすぎるぅ……」
「寝てんの!?」
前のときは怯えていたのに随分余裕だなと、家の中から聞こえるイビキに呆れつつもパリスは中に入っていった。
家の近くには焚き火跡が残っている。手に持っていた松明をそこに焚べて明かりとした。逃げるにせよストーカーを待ち構えるにせよ、明かりは必要だ。
よく手入れされたパリスの庭を見回す。多くの薬草が生えていて、ミントの爽やかな匂いがここまで漂っている。家畜小屋があるがそれを覗くと、牛馬は死んだように眠っている。
バサバサと羽音が聞こえた。月のない夜に鳥が飛ぶものだろうか。ヘクトールが空を見上げるが、薄明かりしかないので僅かな影が森の木々の間を飛び回るのが見えた程度だった。
「……蝙蝠か?」
蝙蝠は太陽を嫌う鳥だと知られていて、普段は冥界に住まうという話だ。酒の神デュオニソスを祀らわぬ者は蝙蝠に変えられてしまうという逸話もある。故に、蝙蝠は夜と酔、そして狂気の象徴でもあった。まともな人間からは縁起の悪い動物だと思われている。
ふと、ヘクトールは酒に似た甘い匂いが僅かに漂っていることに気づいた。その匂いを纏う空気は霧のように薄く、光を反射してぼんやりと周囲が白く光って見える。
「……なにか、拙い雰囲気漂ってきてるなコレは」
指先に微かな痺れと、意識が逸らされるような感覚があった。神山にありえない毒気が周囲に満ちている。
ヘクトールは迷わず庭に生えているミントの葉を千切り、口に含んだ。苦く、鼻に抜けるような爽やかさが意識をしっかりとさせる。
「パリス! 外に出てこい! ……敵が来るぞ!」
屋内にいる弟を呼びながら油断なく槍を構えるヘクトール。
その彼が向ける鋭い視線の先から、二人分の人影が近づいてきていた。
かつん、かつんと硬い足音を一人は立て、もうひとりはそれに合わせるように陽気に手を叩いている。
姿が徐々に見え始める。それは二人の女だった。
一人は金属製の足と獣の足を持つ異形の美女だ。長身の身体を覆うゆったりとしたキトンを着ている姿は女神のようだが、頭には雄牛の角、犬の耳が付いていて、まともな人間にも女神にも見えない。
もうひとりは色とりどりの布をツギハギにしたプリュギアの道化師に似た格好をしている少女で、目を瞑って眠そうにフラフラ歩いている。奇抜な大道芸人の服装でありながら、頭から血かワインを被ったように真っ赤な長い髪の毛を張り付かせている。
牛角を持つ長身の女がヘクトールを見て鼻で笑いながら言う。
「おい起きろモルモ。喚ばれて来てみれば、今日の餌は随分と活きが良さそうだぞ。寝ているなら私一人で食ってしまうが?」
道化師の少女が目をパチリと開くと同時に、腹を抱えて笑いつつ甲高い声で応えた。
「ンンン? キャハハハハ! キャハッハハハ!! オハヨウ! オハヨウ! エンプーサ、アタシも食べる!! こんなご馳走、夢みたいだね!」
その二人の共通点は──両者とも、冥界に流れる炎の川の如く闇夜に輝く赤い瞳をしており──口からは牙を剥き出しにしていた。
モルモと呼ばれる道化師の少女と、エンプーサと呼ばれる異形の女。
博識なヘクトールはやってきた相手のことを識った。
「気をつけろ! 吸血鬼だ!」
『なに? 獣足+金属義足+牛角+犬耳の長身エロ美女吸血鬼だと? 誰だそんな属性がごっちゃになった子を作ったのは。私じゃないぞ』────関係者Z
『女神です。エンプーサは気が強いフリしてるけど人から罵られるとすぐ涙目になってしまうから、ブクマや感想・評価ポイントを入れてあげてください。女神です』────魔女神H