表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Re:審判から始めるトロイア戦争~パリス王子のパリ直し~  作者: 左高例
2章『パリスの審判とイーデ山の戦い』
12/33

11話『悪夢』




 ステュムパリデスの鳥退治。

 パリスがアレスから申し付けられた試練なのだが、肝心のステュムパリデスがどこに居るのか調べることから始まった。

 ヒントは精々、ヘラクレスに追い散らされてギリシャから東の方へ飛んで逃げたという情報だけである。パリスたちがいるアシアと呼ばれるアナトリア半島はこの時代、非常に森林が深く生い茂っていた。その豊富な燃料資源を使って青銅、鉄器などが多く生み出されるほどだったのだが、その山奥にステュムパリデスがいればまず見つからないだろう。

 占いとて万能ではないし、基本的に一つの事柄に関しては一つの予言しか与えられない。ステュムパリデスの場所を占ったところ、


『海に近き、女のみが住まう地に向かえ』


 と、オイノーネの占いで出た。パリスに関わることでなければちゃんと占えるようだ。

 ただし情報はそれだけ。もっと詳しく、といった質問をしつこく投げかけると神々も苛ついて呪われることがある。 


「海の近くって言ってもなあ……」

 

 パリスが難しい顔をしてうめいた。

 アナトリア半島は地中海にも黒海にも面していて、海岸線は広大である。


「女達の住まうって……アマゾーン族とかかな?」


 オイノーネがさり気ない動きでパリスへとジリジリ近づきながら言う。パリスは同じ分だけ下がる。徐々に距離感も慣れてきた。鳥肌は立つが同じ部屋にいて会話する程度はどうにか我慢できる。


「となると黒海の方か? 遠いなあ……」


 アマゾーン族は主にコルキスやトラキアに住む女ばかりの戦闘部族である。コルキスは黒海の東岸、トラキアは黒海の西岸あたりだ。傭兵稼業や遊牧民のようなこともしていて、ギリシャからアシア全域に少数のグループに分かれて活動もしている。

 彼女らは男を襲って懐妊し、生まれた子が女なら育てて男なら捨てるか殺すかするため部族は女しか居ないという。殆ど全員が弓や騎馬の使い手であるため、生半可な兵士ではとても敵わないので恐れられている。

 昔は旅もしていて地理にも詳しいヘクトールが助言をした。


「まあ待て。重要なのはステュムパリデスのいる近くには女達が住んでいる、ということはほぼ確実に、その女達はステュムパリデスに迷惑しているということだ」

「それはそうだろうけど」


 ステュムパリデスはただでさえ凶暴なのに、悪臭のする糞尿を撒き散らせば土地は腐り水は臭うようになるという。


「集団が暮らしているということは、まあ少なくとも村か街な可能性は高い。集落なら余程のことがない限り交易で人が出入りをする。そうすると、怪鳥の被害で悩まされているという噂は外に広まるものだ。焦って探しに出ていくより先に、商人や旅人から情報を集めれば場所が特定できる可能性は高いだろう」

「なるほど……ヘク兄の言う通りかも」

「遠いと準備も必要だからな。ステュムパリデスは青銅の体を持っているから、特別な道具も必要だろう。できるならフリュギアから鉄製の武器を輸入するんだが……」

「鉄武器!」


 パリスが驚いて聞き返した。鉄の武器。それは憧れの最強素材である。

 アナトリア半島中央部(トロイアは北西部にある)から生まれた製鉄の技術は世界の驚異とも言われる革命的なものであり、それまでの青銅製の武器や鎧を切り裂くほどの強さを誇った。

 それ故に国家の強みである鉄製品は非常に貴重で、トロイアを含むギリシャ圏やエジプトからすれば垂涎の逸品だ。エジプトなどでは、黄金よりも鉄の方が高価だった時代すらある。

 トロイアでも殆ど配備されておらず、トロイア随一の武将であるヘクトールが持つ武器が鉄製であるぐらいだ。それらは製鉄する際に強力な火が必要なことから『強き火の刃(デュランダル)』と呼ばれていた。火力の弱い炉では鉄製品も脆いものしか作れないのだ。

 ……まあ、武具の強力さで言えば、パリスの持つアイギスやアイネイアスの持つ不壊の盾の方が神のパワーで強いのだが。


「いいな~鉄~……あれ? そういえばオレってヘパイストスから弓矢も貰う予定だったような」

「あー、なんか制作遅れてるらしいよ。先にテティスから依頼があったらしくてさ。鎧だとか子育て全般を行える自動人形を作ってるみたいで」


 オイノーネが神々の噂から説明をした。鍛冶神ヘパイストスはしばしば他の神から依頼を受けて道具を制作するのだが、海の女神テティスは彼の養い親でもあるのでその優先度も高くなろうというものだ。

 ただ彼は頑固な職人の神であると同時に、偏屈な芸術家の神でもある。独自の美意識を持っていて凝り性でもあった。

 ヘパイストスはテティスから依頼されたアキレウスのための自動人形を作っているのであるが美少女タイプにするか美少年タイプにするかで悩んでいるらしい。これには噂を聞いた神々の意見も真っ二つに分かれていた。ヘパイストスの設計能力は、世界一の美女パンドラを作ったほどなので定評がある。


 それはさておき。


「青銅の羽を持つ鳥か~……やっぱり普通の矢じゃ効かないよな」

「ヘラクレスはヒュドラの毒を塗った矢で射落としていたと言うが……オイノーネ嬢は何かいい毒を知らないか?」


 鉄製の武器を用意するにも、鉄の矢だと使い捨てにするには高価すぎる。撃って回収できなかったら大損である。

 ヘクトールに聞かれた薬に詳しいオイノーネはやや考えながら言う。


「うーん、ヒュドラ毒に匹敵するのはメデューサの血ぐらいで……あれはアテナが瓶に入れて持ってたような。でも生け捕りでしょ? メデューサ毒は即死しちゃうからなあ……」


 英雄ペルセウスがメデューサの首を切り落とした際に滴った血は2つの瓶に集められ、1つは猛毒としてアテナが管理し、もう1つは死者蘇生薬の素材としてアスクレピオスに渡されている。


「他に強力な毒だと……アカエイの尾っぽを使うとか」

「アカエイって……あの平べったい魚の? 毒あったっけ?」


 パリスが首を傾げて聞いた。山育ちの彼はあまり魚に詳しくない。 

 アカエイ、正確にはアカエイ科のうちで地中海に生息する種類のものだが、長い尾棘には毒腺と刺さったら抜けない返しが付いており、天然の鏃のような構造になっていて非常に危険な生物だ。

 

「あれって地味にヘパイストスが作った生きてる道具なんだよ。ポセイドンから頼まれた海底を掃除する……なんて言ったっけ? ルンバとか言ってたような。それに自己防衛の武器と毒も付けたやつをポセイドンにあげたらどんどん増えたとかで。まあ、それだから毒の強さは折り紙付きだね」


 ギリシャ神話においてもアカエイの棘を使った武器は登場し、トロイア戦争でも活躍をした遍歴の英雄オデュッセウスは魔女キルケーが用意したその武器で刺し殺される話がある。


「お兄様! 他にもわたしがいい感じの麻酔薬を作ってみますわ」

「カサンドラが?」

「お母様が魔女の薬の調合に詳しいので、聞いてみます。魔女薬は毒とか眠り薬とか強力ですもの」


 と、カサンドラも手を挙げて主張した。トロイアの王妃ヘカベーは魔女の神ヘカテーの巫女でもあり、魔女の術に詳しいのだ。


「そっか、じゃあ頼むわ」

「はい! ついでに惚れ薬も聞かないとウフフフフフフ」

「オレ、カサンドラから渡された薬だけは飲まないようにする」

「そうしなよ」


 カサンドラの言葉は聞こえないもののヘクトールが「それじゃあ」と頷いて、漁師に見つけたら集めておくように指示を出そうと了解した。他にもサソリや蛇の毒も有効で、これらは英雄をも害する。もしトロイアを巻き込む大戦争が起こるのならば、対英雄の道具として備えておくのにいいかもしれないとヘクトールは考えた。

 彼は冷静な思考で大戦争の兆候に対しての対策を練っている。そのうちで、トロイア側の戦力が不足している問題も大いに頭を悩ませたのだ。使えるものは毒でも使わねばならない。

 なおこの時代、対人の戦闘に毒を用いるのは別段卑怯とも言われない。なにせ、ただでさえ剛力無双の大英雄ヘラクレスすら毒矢を使っているのだから。


 武器の準備にせよ、ステュムパリデスの捜索にせよ暫く時間が必要だ。旅に出る用意をして待たねばならない。


「……はっ! ちょっとちょっとキミ! 旅に出るなら必要なことしないと!」

「……なに?」


 目を輝かせて言ってくるオイノーネを、胡散臭そうに見るパリス。


「必要なことを……しよう!」

「いやだからなにを?」

「まず詳細を聞く前にするって誓ってくれない? 掟の神テミスあたりに」

「なんで!? 絶対ヤバいだろ誓わせてくるのは!」

「ううううるさいなあ! 男が旅に出るなら故郷に嫁と子供を残すのは当然だからさあ! 子供作らないと!」

「作りません~! 近寄らないでください~! アイギス~」

「うわっ! アイギスをバリア感覚で向けるのよしなよ!」


 ドタバタと部屋で騒動をする二人を尻目に、ヘクトールは肩をすくめて出ていくのであった。まあ、最終的にはケリュケイオンがあるから大丈夫だろう。





 ******





 それから状況が進展するまで数日、パリスはトロイアで過ごした。ヘクトールたちは忙しそうに準備や情報収集をしていて、オイノーネにカサンドラは薬を作ったりパリスに迫ったりしては眠らされている。

 パリスとて何もしていないわけではない。朝晩には腕が鈍らないように弓の稽古を真面目に行っていた。元々イーデ山に居た頃でも毎日のように弓を練習していたのである。

 彼の兄弟や兵士たちは新たな王子が弓を使っているところをしげしげと見物に来る者も多かった。そして多くは驚嘆する。パリスは200メートルほど離れた的ですら百発百中に矢を当てるのだ。トロイア軍ではヘクトールぐらいしか同じ真似はできない。

 更に盾を三枚重ねた的を狙い撃つと鏃が三枚目を貫通するほどである。彼の持つ硬い弓はデイポボスが試しに引こうとしても引ききれなかったぐらい強靭であった。

 この弓は予言で死に戻ってから作り直したものだが、その出来に彼は満足していない。

 周りから称賛されても浮かない顔であった。


「これで撃ち倒せるのはギリシャでも二流の下ぐらいの英雄なんだよなあ……ちょっと強いやつになると平気で切り払ってくるから」


 アイアスあたりは当然として、メネラオスやアガメムノンでも油断していなければ避けるか切り払うだろう。

 とりあえず周りにもそう説明して、あまり自分の弓の腕を過信しないように伝えておくパリスである。アキレウスの踵も、止まっていれば撃ち抜ける自信はあるのだが馬よりも早く走り鳥よりも高く跳ぶ相手に当てようとしても──仮に命中しても蹴り落とされるのがオチだ。アポロンの加護全開でやっと当たるぐらいだろう。

 そんな謙遜しているパリスであってもトロイアでは彼より弓の腕が上なのは殆ど居ないのだから、他の兵士たちに説いたところで理解できないような顔をされるばかりであった。


 ……とはいえ、現在のパリスは予言の未来であった本来のパリスよりも弓の腕は上である。

 というか本来のトロイア戦争時のパリスが、性根がヘタレていた上に毎日が妻ヘレネーといちゃついて鍛錬もしていなかった生活を何年も過ごしていたので明確に弓の能力が少年時代よりも落ちていたのだ。弓の鍛錬など、一ヶ月やらないだけで相当に腕は落ちるというのに。

 自己評価が低いから慢心はしていないが、このまま真面目に鍛錬を続ければパリスを殺した弓使いピロクテーテスともいい勝負をするだろう。(ただしピロクテーテスの方も、トロイア戦争では数年間島に放置されてから復帰したブランクがあったのだが)


「ちょっと弓が上手いからって調子に乗るなよパリス!」


 デイポボスが鍛錬しているパリスに因縁をつけてきた。彼とてヘクトールの弟として、武芸も弛まぬ努力をして鍛えてきてトロイア軍の中でも実力者であるのだが、弓はパリスに及ばないのでどうも納得がいかない。

 年も変わらず同じ親から生まれたはずで、デイポボスは小さい頃からずっと訓練をしていたのだが山育ちに負けるのはプライドが許さないのだろう。


「なんだよデイポボス。自分が負けたからって」

「次は剣や槍で勝負だ!」

「オレ、そっち方面まるで才能無いからいっそ一騎打ちでも弓使った方がマシな気がする……」


 弓はそこそこの自信なのだが、白兵戦はまるで強くなれる気がしないパリスであった。特にメネラオスと一騎打ちをした際の苦い記憶がトラウマになっている。

 槍で突けば盾で弾かれて槍は曲がり、剣で切りかかれば兜で弾かれて剣が折れたのだ。そして無手になったパリスはメネラオスに地面へと投げ飛ばされて動けなくなり、ギリシャ軍の陣営まで運ばれそうになった。あまりにもヘボかったのを見るに見かねたアフロディーテが透明化させてくれたのでどうにか逃げ帰ることができたのだが。

 

「じゃあ弓抱えてやってみろ!」

「うわお危なっ!?」


 刃を潰した剣で斬りかかってきたのをパリスは避ける。

 彼は元来より、弓で鳥獣を射ったり獲物を見つけたりする山育ちであるため、眼はかなり良い方だ。冷静に相手を見れば剣を振るう軌跡から踏み込んだ距離、剣や槍の長さの間合いまで全て視認して見切ることができる。

 足をどれだけ踏み込んだか。筋肉のどこが動き始めたか。目線がどちらを向いているか。如何なる速さで近づいてくるか。それらに対してどうやって身を躱せば避けられるのかを一瞬で判断する。

 いくらヘタれていた未来とはいえギリシャ軍の中に突撃した経験もあり、実戦で胆力はそれなりに鍛えられているのだ。それに回避能力が高くなければトロイア戦争の乱戦において、パリスなど集中攻撃を受けっぱなしであったのに生きてはいけなかったであろう。メネラオスと一騎打ちでボコボコにされるか、ピロクテーテスにヒュドラ矢で射たれるまでは怪我らしい怪我もしなかったぐらいだ。

 それ故に訓練でデイポボスが斬りかかってきたとはいえ慌てずに攻撃を避けることは容易かった。十年以上もトロイア戦争の最前線で戦わされた経験があるのだ。まだ若いデイポボスでは相手にならない。

 デイポボスの攻撃を避けたり下がったりしながら矢を番えていない弓を引いて、接近戦で相手に矢を打ち込むトレーニングを試みる。その余裕な態度がまたデイポボスを怒らせて苛烈な攻撃を仕掛けてくるのだったが、パリスは捉えられない。


(クソッ! なんだってこんなやつが強いんだ!? アテナの加護か!?)


 何度もデイポボスは鳴弦の音を聞きながらもパリスに一回も当てられない。実際には飛んでこないものだから矢の防御も考えていないのだから、実戦では何度もパリスに矢を打ち込まれることになるだろう。

 やがて疲れ果てて、肩で息をして膝をついたデイポボスにパリスは肩を叩いた。そして哀れんだように声をかける。


「デイポボスくん……チミィもっと頑張りたまえよ?」

「こ、こいつムカつく……!」


 ムカつくのだが、勝てない事実にデイポボスはこの日から鍛錬の量を倍にするようになったという。

 パリスからすれば煽りよりも真剣に、自分すら倒せないようだとギリシャ軍と戦争になった際に頼れないからそう励ましたのだが。予言で見た未来では、今より十数年先のことだったのでその間にもデイポボスは鍛錬と実戦経験を積んで今よりも随分と腕は上だったのである。少なくともヘクトールがアキレウスと戦う際に、デイポボスが援護してくれればと頼るぐらいには。

 彼もこのままもっと頑張ればギリシャ軍と渡り合えるだろう。


「手伝ってやるから一緒に強くなろうな~デイポボスくぅーん~このままだとオレたち雑魚雑魚コンビだからさ~」

「ほんとムカつくな!」


 もちろんパリスからしてもデイポボスは割と嫌いな親族であるので、7割ぐらい煽りが混じっているのだったが。

 いつか必ずわからせてやる。ヘクトールを支えるニューリーダーはこの俺だと。デイポボスはそう誓ってトレーニングを重ねるのであった。




 ***** 



 ここ暫くは日課の鍛錬以外だとパリスはトロイアの街を一人で出歩いて過ごしていた。屋敷に居てはオイノーネやカサンドラに絡まれるからだ。

 未来の記憶を思い出しても、あまり平時にこうして街を出歩くことはなかった。生まれたときから山暮らしだったパリスからすればどうしても街は地元という感じではなかったし、十年以上ヘレネーと暮らしたのだが日がな一日屋敷で彼女とイチャイチャして過ごしていたのだ。

 そもそも、パリスがヘレネーを攫ってきた未来では、明らかに戦争の火種を持ち込んできたのだからどう考えても二人で街ブラしていたら周囲から向けられる目が厳しかった。

 今の所は、神々の暗躍による不穏な空気を知っているのは王族ばかりで、一般大衆からは「最近帰ってきたパリス王子が、アテナから加護を得たらしい」という好意的な話が出回っているので、街のあちこちで挨拶をされたり、ザクロやリンゴなど食べ物を貰ったりした。

 

 街の名所を「あのあたりでヘク兄が死んだんだよなー」などと思いながら巡り、あちこちの神殿で神頼みも忘れない。そうしている中でアポロン神殿に行ったら弟のヘレノスが一心に祈りを捧げていた。

 体からアレスを飛び出させて数日はぐったりとしていたのだが、どうやら元気になったようだと思ってパリスは安心する。

 持っているリンゴでも分けてやろうかと近づくと、ヘレノスの体が再びあのときのように輝き出した。


「ヘレノス!?」


 呼びかけると彼はやおらパリスの方を向いてから虚ろな目で予言を口にしだした。



『汝の家で待つ黄昏の女神。悪夢に囚われ、今宵その命を自ら絶つであろう』



 パリスが思わずリンゴを取り落した。そして告げられた言葉を飲み込む。


「家で待つ黄昏の女神……ヘスペリアのことか!? 命を自ら絶つって、なんで!?」


 思わず問いかけるが、ヘレノスは体の光を消して普通の状態に戻ってしまった。


「──あれ。パリス兄様。今、予言出ましたよね……」

「あ、ああ。なんかオレの家で待つヘスっちさんが死ぬとか……」

「その妖精さんが大事なら早く向かった方がいいですよ。これはどうやら、覆せるタイプの予言みたいですから」


 予言にも「事実を告げる予言」と「変えられない運命を告げる予言」など種類があるが、起こり得る危機や問題に対しての解決法を教える予言もある。

 これはまさに、ヘスペリアに危機が迫っていてそれを救わねば失われる、といったタイプの予言であった。


「くっ!」


 パリスは焦った様子で馬を借りてイーデ山へと駆け出していった。

 これはマズイ、と彼は向かいながら冷や汗をかく。

 イーデ山におけるオイノーネとパリスの家を守ってくれているヘスペリア。オイノーネの姉であり、パリスにとっても女友達と呼べる親しい女神だ。彼女が自害するというのは只事ではない。

 明るく軽い性格で人を楽しい気持ちにさせる、とても優しい女なのだ。間違っても自殺なんてする性格ではないが、それ故に恐ろしい。


 下手をすれば愛欲の大神、エロスが再び現れた可能性があった。

 パリスの絶望を深めるために、彼に関わる女性へと心を狂わす矢を打ち込みに来たのかもしれない。

 黄金の矢を打ち込めばたちまち、ヘスペリアはパリスを好きになり、そしてパリスはヘスペリアの顔を見ることも嫌になってしまう。気の良いあの女神のことを嫌いになってしまうのだ。

 会えない、とは以前のままの彼女には戻らないという意味かもしれないし、逆にパリスを嫌いになる矢を打ち込まれたヘスペリアが消えてしまうかもしれない。

 そうはなりたくないと、パリスは急いでイーデ山へと向かった。

 ひょっとしたら自分が向かうことで嫌悪感に耐えきれなくなったヘスペリアが自殺を選ぶ可能性もあったが、射たれれば遅かれ早かれだ。射たれる前にアイギスで守らねばならなかった。

 

 この時代の馬は非常にスタミナがあり、頑健である。これは馬という種族そのものが、ポセイドンなど神々の作り出した神造生物なために神の力が宿っているためだ。長距離を走らせても潰れることなく駆け抜けてくれる。

 イーデ山にたどり着いたパリスは嫌な予感に胸を騒がせながらも自宅へと急いだ。この夜は新月で真っ暗であったので山の中で馬には乗れない。松明を掲げてパリスは徒歩で向かう。

 山はどこか生ぬるく、目眩のするような空気が漂っている気配がした。迷わぬようにパリスは休まずに坂道を走り抜き、どうにかたどり着く。

 彼の自宅は基本的にドアというものがない作りなため開け放たれているのだが、板を何枚か横に貼り付けて塞ごうとした痕跡が見られた。ヘスペリアが塞ごうとしたのか?

 

「おいヘスっちさん! 大丈夫か!?」


 慌てて呼びかけながらパリスが家に近づいた。


「……パリス?」


 警戒した声音で、中からヘスペリアが顔半分だけ出して外を伺う。

 普段の明るい様子とは大きく異なり、不安そうな表情をしていて輝くような雰囲気が随分としょげていた。そして手にはなぜか青銅で作られた玩具の蛇を持っている。


「よかったヘスっちさん、予言があって危機が迫ってるんじゃないかって……」


 呼びかけながらも、目の前のヘスペリアに強烈な不快感を感じないことにパリスはホッとした。エロスの矢は撃ち込まれていないようだ。

 彼女はキョロキョロと入り口から顔を出して周囲を見回してから、パリスを手招きして家へと招く。

 戸口に打ち付けられた板をくぐってパリスが中に入ると、家の中は窓なども塞いでいるようで、真っ暗だった。


「明かりをつけるぞ、いいか?」

「うん……」


 家の中には油壺があって捩った布を浸し、皿で燃やす。簡易的なランプだ。家畜の世話をしていると火を灯して獣を追い払う必要もあるので、パリスの家にも常備されている。

 夜の神ニュクスが支配するような暗闇に明かりが浮かび上がり、怯えた表情のヘスペリアを照らした。家の中もやや散らかっている。薪や食器やなんかやたら巨大な枕などがぼんやりと灯りに浮かんだ。

 あの陽気な妖精がここまで顔色を悪くするとは、余程怖い目にあったに違いない。

 パリスはこんなに曇っているヘスペリアを見るのが始めてであり、ぐっと拳を握りながらなんとしても守らなくてはと考えた。


「それで、何があったんだ? ヘスっちさん。なんかこう危険な雰囲気だぞ」


 落ち着かせるためにあだ名を呼ぶと、やや安心したように彼女は微笑んだ。


「うーんとね、ここ何日か……家の周りを誰かが探ってるのかな。変な気配がするの。あたしが水浴びしてたら衣は持っていかれるし、出かけている間に家は荒らされるし……」

「衣を!? む、むう……!」


 パリスは思わず視線を下に向けると、暗くてよく見えないがヘスペリアは全裸のようであった。扇情的な膨らみに思わず目頭を抑える。

 とはいえオイノーネもヘスペリアも、ニュンペーと呼ばれる女神たちは基本的に裸に近い薄着であることが多い。申し訳程度に普段は隠しているが。

 特別な力が籠もっている布ではなくて、踊る際にひらつかせる飾りに近いものではあるが、それはそうとしても盗まれれば気持ちが悪い。

 しかも家が荒らされるというのはもはや踏み込まれているので恐るべきことであった。いくら鍵を付ける文化が無いとはいえ。更に不気味なのは、壁に立て掛けてある予備の弓が全部壊されていたことであった。まるで抵抗する武器を奪うように。

 

「なんかね、ずっとちらちらと人影が見えるんだ……今は真っ暗だから見えないけど。荒い呼吸とか聞こえてくるし……眠ってると睡眠時猥褻(エンデュミオン)されそうで何日も寝てないし……パリスっちー! 怖いよー!」

「ちなみにその蛇の模型は?」

「ヘスペリデス村の名物で自衛用の蛇。毒とか出るやつ。イザとなったらこれで戦おうかと」

「ヘスペリデス村!?」


 ヘスペリデス村は西の果てにあると言われている、ヘスペリアの同族ニュンペーたちが住まう地らしい。特産品は黄金のリンゴだ。  

 その地はヘラの神域でもあるので、ヘラといえば毒蛇を含む怪物の下僕である。その仲間だろうか。


「ところで、その怪しい相手は人間なのか? こう……ニュンペーに惚れてストーキング行為に走ったアポロンとかだと、防ぐの難しいんだけど」

「アポロンが夜に活動するわけないから違うハズ。エロスだったらもぞもぞしてないで矢を打ち込んでくるだろうし……夜に活動する妖精好きってまさかハデスは冥界から来ないだろうし、婚活中のヒュプノスは上級女神狙いだっていうし……神々じゃないと思うんだけど」


 そんな大神クラスの連中が来て欲しくないものだと思うパリスであった。

 

「じゃあ人間のストーカーか? なんだろ。心当たりとかある?」


 パリスの言葉にヘスペリアは「えぇ?」と嫌そうに考える。


「そもそも、あたしとか好みじゃない男は全然顔も名前も覚えないからなあ……正直パリっちぐらいしか名前と顔が一致しないっていうかあ……」

「オレの弟で、この山で働いてるアンティポスとか覚えてないのか? もしくはイーデ山で育っためっちゃキャラの濃いアイネイアスとか」

「うーん、アイネイアスはなんとなく聞き覚えがあるんだけど……基本あたしニュンペー達とばっかりつるんでるからさ」


 本気で興味がないようだ。同じ山に住んでいる牧童Aぐらいの認識だろう。そういったニュンペーも珍しくはないのだが。

 殆どの人間から見ても、川や森で戯れているニュンペーたちを見て美しい姿だとは認識できるが、どれが誰という名前はそうそう覚えられない。住む世界も種族も違うのだから仕方がないことだ。

 しかしながら、そうして特に他人と関わったつもりもないヘスペリアだが、本人が意識していないだけでなにか付け狙われることがあったのかもしれない。


「……とりあえず、相手を探すにせよ逃げるにせよ、今晩はどうにか襲われないようにしないとな……」

「パリっち~……ヘルプミィー」

「大丈夫だって! ヘスっちさんをこのアイギスの盾で守る! オレに任せろ!」


 パリスは肩に付けている盾を軽く叩いてヘスペリアを励ました。

 襲撃者がなんであれ、アイギスがあれば大抵の相手はどうにかなるはずだ。呪いや狙撃も弾き返せるし、危険な怪物が襲ってきても盾の石化能力を開放すれば倒せる。

 なによりただでさえ身近なオイノーネやカサンドラが被害にあっているのに、これ以上身内から犠牲者を出すのは防ぎたい。

 トロイア戦争が起これば全員を守ることなど不可能な状況になるにしても、せめて手の届く範囲ぐらいは。


「……とりあえず朝になったら、誰かに相談するか。えーと、ヘスっちさんの親は……河の神ケブレーンだっけ?」

「諸説あるんだよねぇ~……ケブレーンおじさんの娘だった気がするし……夜の女神(ニュクス)の娘だったような……巨人(アトラス)の娘だったような……」

「なんでそんな曖昧なの!?」

「ま、まあとにかく。明日になれば他のニュンペーを家に集めておくこともできるから……今晩は闇の夜だから、他のニュンペーたちもニュクスの祭儀に出かけてて居ないんだよね」

「ヘスっちさんは行かなかったのか? ニュクスの祭儀」

「半グレの集会みたいなノリでヘスペリア様はちょっと引いちゃうのだ。口の悪さが最低な非難の神(モーモス)とか不和(エリス)が最近はしゃいでるんだよ? チョー空気悪い」

「夜の神チームの宴会か……あんまり行きたくないのは確かだなあ」


 大いなる夜を司る原初の神ニュクスは幅広い信仰と、大勢の従属神との繋がりがあるのだが、根源的な恐怖である夜の神であるために、配下は恐ろしい神々が多い。

 死を司るタナトス。眠りを司るヒュプノス。三途の川の渡守カロン。復讐の女神ネメシスなども彼女の子供たちであった。

 人々が祭儀を行うのと違ってニュンペーが参加するのはガチで神々が呼ばれる宴なのである。

 ヘスペリアもニュクスとは関係のあるニュンペーなのだが、ヘスペリアは他にも河の神派閥や巨人派閥、天空神派閥にも所属しているので強制参加ではない。


「特に月のない夜は月女神(セレネー)が見てないからって乱痴気騒ぎをするから、人間も気をつけた方がいいよ?」

「そうだな……っ!」


 パリスはびくりと体を震わせて冷や汗を浮かべた顔を外に向けた。


「? どしたの。誰か居た? パリっち! 弓構えジューンビ!」

「い、いや……」


 ヘスペリアがパリスの腰に抱きつきながら言うのを、彼は唾を飲み込んで額に浮いた汗を拭いながら動揺したように咳払いをする。


「ごほん! ごほんごほん!」

「なに? ビョーキ? お熱測りマッシュ」


 ぴと。ヘスペリアが手のひらをパリスの額に当てた。必然的に上向きになる彼女の体勢。


「ウワーッ!」

「ど、どうしたのパリっちくん。割と熱ある感じだけど……」

「いや待って。ちょっと待ってヘスペリア姉さま。なにかさ! 着るものって家に無かったっけ!? 気になってたんだけどヘスっちさん裸じゃん!」

「えー?」


 ヘスペリアが自分の体を薄明かりの中で見下ろす。

 今更言われても、といった感じでもある。ニュンペーは割と裸の者も多いし、ヘスペリアもオイノーネも普段から露出の多い布切れみたいなもので隠しているだけであったのだが。

 しかし。

 しかし、である。

 それが妖精たちの常識であっても、妖精たちと割と関わるパリスら牧童やだって見慣れてもいる。そもそもこの時代、気温の高い地中海沿岸文明では人間でもほぼ裸な者も珍しくない。

 だが、いいお年頃だというのに恋人に対して絶望的に拒絶感を覚えるようになったパリスからすれば、妙な感情が浮かんでくるのであった。なにせ夜中に裸でくっついているのだから仕方がない。

 ヘスペリアはおどけた様子で言う。


「オオット! いやいや、さすがにオイノーネたんの彼ピを誘惑したら怒られるっしょ。してるつもり無いんだけどさ。パリっち我慢我慢!」

「わかってるよ! 気の迷いだって! っていうか浮気したらヘラの罰が待ってましたとばかりに絶対来る!」


 パリスは目を瞑って大きく深呼吸をする。頭がくらっとするようないい匂いがした。クソッ。自分に叱咤して言い聞かせる。

 イメージするのは最高の幸せだ。現状を塗り替えるほどの甘い記憶。残念ながらオイノーネを思い浮かべたら嫌悪感しか出てこないのだが。

 なので彼の知る最も美女──即ちヘレネーとの夫婦生活を思い出して落ち着こうとする。今更未練たらたらである。

 

(思い出せオレ……! ヘレネーとの甘い日々……ヘレネーに土下座させられて頭をグリグリ踏みつけられたりしていたときの喜びを……! あれ? なんか酷い扱いだったなオレ!)


 走馬灯のように予言の未来が浮かんでくる。

 頭を踏まれるパリス。

 椅子代わりにされるパリス。

 馬代わりにされるパリス。

 ヘレネーが食べ残したものしか食べちゃいけないパリス。

 特に理由もなく日頃から足蹴にされるパリス。

 そんなことをしながらヘレネーはとても幸せそうに笑っていた。彼女の笑顔を見ればパリスも幸せだった。


「……」

「今度はなにを落ち込みだしたのパリっちくん?」

「愛ってなんだろうねヘスペリアさん……」

「うわなんか一周回って変なことに」


 自分の愛と人生について悩むように考え出すパリス。

 あり得たかもしれない未来──予言の先では、アフロディーテに仕向けられてヘレネーを略奪愛し、ひたすら彼女に尽くして生きていった。

 そして今回こそはまともに生きよう、オイノーネと幸せになろうとした矢先に自分も彼女もまたしても神々によって狂わされた。ついでにカサンドラも。


「……うう」

「……」


 どことなく気まずい空気になって身じろぎをするが、夜の間ヘスペリアを守らなくてはならないという条件は変わっていない。

 それ故にヘスペリアもパリスの隣にくっついたままであった。

 今度はヘスペリアが「ごほん!」と咳払いをして、ややあって告げる。


「あー……ほら、パリっちはあーしの頼みを聞いてくれてるわけじゃん?」

「一応な」

「じゃあご褒美というか報酬というか慰めというか……おっぱい揉む?」

「そういうとこだぞ!? 誘惑止めて!?」


 いきなりの提案にパリスは慌てて叱るように言った。


「いや勘違いしなさんなって! こう……浮気とかそういうのじゃなくてスキンシップ的な? パリっちもおっぱい揉んだら少しはお悩み解決するかなー?って」

「そんな安売りするなよな……」

「ニュンペーなんて基本エロエロだから気にしなくていいって! 普段安売りしてないし。あ、でも本気になっちゃダメだぞぉー、オイノーネに悪いから。かるーい気持ちでお試し期間!」

「なんなのそのお誘いは! 都合のいい女みたいになっちゃいけません!」

「じゃ、止めとく?」

「……………………めっちゃ揉みたい」

「泣くほど!?」


 パリスは目を手で覆いながら涙をこぼしていた。

 なんかもう、ここ最近は精神的に疲れていたのだ。愛する女性が愛せなくなってしまったショック。しかも性格が変わって迫ってくる。危うく不能になりそうな気持ちの悪さ。

 癒やしが欲しかった。もうなんかヘクトールでいいから抱きしめようかな、とさえ思っていた。ヘク兄は癒やしである。

 そこでこの状況である。目撃者は月すら居ない。ヘスペリアも軽い気持ちでどうぞと言っている。オイノーネは遠くイリオンで寝ているはずだ。


「揉む!」

「お、おう。元気になったネ……?」


 色々吹っ切ったパリスがそう宣言した。根本的にこの男、欲望に強い抵抗ができるわけではない。特に彼は欲に負けてトロイア戦争の原因になった男だ。

 決めたパリスはヘスペリアと向き合う。どことなくヘスペリアも、パリスの勢いに驚いたのか若干照れているような表情をしていた。その顔も、艷やかな肌も、女神として遜色のない美しさをしている。特に美人揃いなニュンペーの中でも、オイノーネやヘスペリアはランクの高い美女である。

 直視を続ければ理性が振り切れそうだとパリスは思いながら、ぎこちない動きで手を伸ばす。いやもう、理性が本当に揉むだけで持つのか不明であった。



 揉む! そう決意に震える腕がヘスペリアの差し出された胸に触れ───




 意識を失いかけるほど強烈な悪寒がパリスを襲った。



 全身が冥界にある嘆きの川(コキュートス)に漬けこまれたような恐るべき震え。手指の動きが凍え、脳髄が氷の釘で刺し貫かれたかに感じた。

 浮ついた性欲など一瞬で消え失せる激しい痛み。腸を暴鷲(エトン)に食い散らかされているプロメテウスの如き苦痛が、精神から肉体へと反映される。

 死を覚悟するほどの怖気に、パリスは歯を震わせながら振り向いて、板を貼り付けている入り口を見た。

 板の隙間から。

 遠くから家に向かって、ゆっくりと近づいてくる明かりがある。

 それは自然界には存在しない緑色の炎がゆらゆらと揺れている──二つも。まるで夢幻のような現実味のない世界だ。

 鬼火が近づくにつれて、パリスの体を襲う恐怖と苦痛が増していく。


「な、なに!? あれなんなのパリっち!?」

怪物(モンスター)

「ええ!?」


 ひゅっ。

 と、風を切る音がした次の瞬間には入り口を塞いでいた板に青銅の斧が突き刺さり、それを粉砕した。


「ヒイイイ!?」


 ヘスペリアが叫ぶ。パリスはもはや恐怖のあまりに声すら出なかった。ただ、口や鼻などの粘膜にある毛細血管があまりのストレスに千切れ、血を流し始めた。

 緑の炎が近づいてくる。その幽冥な灯火に照らされて、目を爛々と光らせてやってきたのは──二人の女だ。


「やあやあ────いい夜だねぇ、キミ」

「お兄様、素敵な夜ですわ♥」


「お、オイノーネたんと……パリスの妹っち!? いや待って!? 別にこれ浮気とかそういうのじゃなくて──」

「あはァ♥」


 慌てて抗弁しだしたヘスペリアに、オイノーネは緑の松明を突きつける。口を閉ざし、両手を上げるヘスペリア。

 そしてパリスに向けるのはカサンドラだった。


「お兄様♥ アイギスの盾やケリュケイオンを使おうとしても無駄ですよぉー♥」

「ごふっ……はあ、はあ……」


 吐血して息を切らせながらもパリスはあまりの苦痛に、妻と妹に向けて石化の魔眼がついているアイギスを開放する寸前であった。

 ぶんぶん、と緑の松明を振るいながらカサンドラは天真爛漫な表情で──目をアネモネ色に輝かせながら、告げる。


「この松明はぁ、わたしがお母様から聞いて作った、『プロメテウスの消えない炎』なんですよぉ。水を掛けても消えない、衝撃を与えると飛び散って周囲を燃やし尽くす冥界の炎。お兄様がぁ♥ 石化させたり眠らせたりしてきたらこのイーデ山ごと燃やし尽くしちゃいます♥」


 にっこりと狂気の笑みを浮かべながら、まるでペンライトのように炎を振り回すカサンドラ。パリスは立っているのも限界に近づいていた。

 プロメテウスの消えない炎。それはプロメテウスの血から生まれた霊草を用いて作ることができる特別な油を発火させたものだと言われている。作り方は魔術の神であるヘカテーが知っており、ヘカテーを祀る巫女や魔女に伝えられていた。カサンドラの母ヘカベーはその巫女でもある。

 パリスに迫ってもケリュケイオンで眠らせられる──その対策としてカサンドラが制作したようだった。ヘカベーはトロイアの民だが、生まれはプリュギアなためにカサンドラの「トロイア人に言葉が理解されない」呪いがある程度軽減されて、多少は会話できるのであった。

 ちなみにこの特殊な炎は実在し、『ギリシャ火薬』として中世ヨーロッパまで兵器として用いられたこともある。水の中でも燃え続け消せない炎の秘薬は、作り方に諸説あるもののロストテクノロジーとしてその正しい制作方法は謎に包まれている古代ナパーム弾だ。

 カサンドラの説明を聞いてヘスペリアが怯えた様子でパリスに呼びかける。


「やややヤバイよパリスぅ! そんな、神々や巨人すら燃やせる炎とか──」

「──ねえ。ボクの旦那をそう軽々しく呼ばないでくれるかい?」

「きゃひんっ!」


 オイノーネから松明を突きつけられて涙目で黙るヘスペリア。

 パリスが息も絶え絶えになりながら、二人を睨みつける。恐るべきはエロスの矢の効果だ。嫌悪感だけで呼吸不全になり、心臓も止まりそうであった。

 忌避の効果が異常に高まっている。それは同時に、二人の好意も溢れたダムのように止められない領域まで来ていた。もはや愛のためだったら自分たちの住居を、故郷で大勢が住むイーデ山を燃やし尽くしてもいいぐらいに。


(なんでだ……? っそうか、今日は月が無いんだ(・・・・・・)!)


 アポロンとアルテミスが与えた加護は、太陽と月が浮かんでいるときには呪いを軽減するというものであった。

 つまり今、太陽も月も浮かんでいない新月の夜は狂気を抑えることができない。

 

「さあキミ♥ 大人しくしてくれよ♥ なあにすぐにいい感じになるさ♥♥♥」

「お兄様♥ 精力増強にキュケオーンも作ってきましたから食べて元気を出してくださいね♥」

「うああああああ!! セレネー! セレネー早く月を出してくれー! エンデュミオンを見てる場合かァー!!」


 パリスが叫んで懇願した。

 月の運行はアルテミスではなく同じ月神でより古い、セレネーが行うことが多い。

 そのセレネーが仕事をサボる日が新月であり、新月の夜に彼女はラトモス山で永遠の眠りについている恋人エンデュミオンの寝顔を見に行っているのである。

 なおエンデュミオンという色男はセレネーから一目惚れされた挙げ句、彼女がゼウスに「あの人間の寝顔最高に美しいから不老不死で眠らせて」と頼んで同意なく永遠の眠りにつかされたザ・被害者なのだが。


「ヘスペリアァ~そこのロープでうちの旦那を縛ってくれるかい? 逃げないようにさあ」

「ヘ、ヘヘっ! 仰せのままに! 奥様!」

「ヘスっちさぁあああん!」


 ヘスペリアが小物根性丸出しで頭をヘコヘコと下げて、パリスに向けてロープを持って近づく。

 オイノーネとカサンドラも手に松明を持ったままではパリスと愛せない。なのでまずは動きを封じようとしたのだが──


「──と、見せかけて蛇アタァァホオオ!」

「!?」


 ヘスペリアは手元から青銅の蛇を二人にそれぞれ投げつけた。

 この時代の人間・英雄・神々のどれも蛇に対して大なり小なりの恐怖を持っている。故に蛇退治をするヘラクレスやアポロンは尊敬されるし、神々最大の敵であるテュポンは蛇の化け物なのだ。

 それは恋に狂っていても同じようで、二人の体がぎょっと引きつった。その隙にヘスペリアはパリスの手を掴んで家から逃げ出す。

 足もよろけているパリスだったが、どうにかヘスペリアについていって住居から離れる。背後から発狂女(マイナス)のような叫びが聞こえてくるが、道なき道を滑るように降りて逃げた。


「ヘスペリア! どうして!?」

「さーね! なんか嫌だったからとしか……あっつ……まずった」


 不敵な笑みを浮かべて走っていたヘスペリアが突如立ち止まった。


「どうしたんだ!? 早く逃げないと……!」

「くう……冥界の炎が髪の毛に燃え移ってる……! パリスっち、逃げて!」


 逃げる際に松明の火が掠ったのか、ヘスペリアの髪が暗闇の中でうっすらと緑に光っているかと思ったら、あちこちに飛び火しだした。

 パリスは咄嗟の判断で髪の毛を持っていたナイフで切り離そうとしたが、散らばった髪に付着している火は消えることなく拡散してしまい、ヘスペリアの肌にも燃え移る。


「あうっ! い、いいから逃げなってば!」

「クソッ消えろ消えてくれ!」

  

 パリスは諦めずにヘスペリアを抱きかかえて近くの小川に飛び込み、水に二人で潜った。しかし暗い水の底でも爪先のように僅かな火種すら消えない。

 冥界の遥か最下層、コキュートスで氷漬けになったまま燃えていることもあるのが冥界の炎である。消えないどころか炎の勢いは増していく。

 びしゃりと水音を出して川から顔を出した二人だったが、既に二人共体に炎があちこちと燃え移り、川の周辺すらも燃え始めていた。

 逃げることはもはや不可能だ。パリスがヘスペリアを諦めて突き飛ばし一人で逃げていれば、彼だけでも助かったのだが。


「……バカ」


 呆れたようにヘスペリアは、抱き合っている彼に言う。


「ごめんヘスっちさん! オレ、助けようとしたのに巻き込んで! ごめん! オレのせいで……!」

「バカ」


 それでも自分を追いかけてきたオイノーネたちがやった凶行で死にゆくヘスペリアを見捨てるなど、パリスにはできなかった。彼女を見捨てることを許容するのはトロイアの家族を見捨てることと変わらない。

 山にも火が回っていく。恐らくオイノーネとカサンドラも山火事に巻き込まれて命を落とすだろう。自らが持ち出した炎によって焼かれて死ぬ。

 もう手の施しようが無いとしても、彼女一人を寂しく死なせるぐらいなら自分が死んだ方がマシだった。だから正面から抱きついて、囁く。


「ヘスペリアだけ死なせない……一緒に死ぬから、ごめん」


 ヘスペリアからしても、ストーカーが居て不安だったという理由でパリスが駆けつけた結果がこの惨状なので、あるいは自分が引き起こしてしまったことだと悔やんでいたのに。彼がヘスペリアを助けようとしなければ、ストーカーに自分は殺されたかもしれないけどパリスもあの狂気に囚われた二人も死ぬことはなかった。

 この男はそんな考えにはならずに自分を責めて、ヘスペリアと共に焼かれ死ぬことを選んでしまった。


「バカバカバーカ。ああもう、本当に……パリスってバカだよね……」

「ヘスっちさんのおっぱいも揉んでなかったし……」

「……好きなだけ揉んでいいから。君だけ、特別。他には誰にもいないんだからネ」


 抱き合う二人を包む緑の炎が徐々に大きくなっていく。二人を燃やした炎はあちこちに広がり、世界ごと焼き尽くすようだった。


 ヘスペリアは最期に願った。



 ああ、神々はどうかこのバカを救ってあげてくれないだろうか。


 バカでスケベで頼りないけど、わたしの大事で特別な人なんです。神様────




 いつかパリスが未来でイーデ山でオイノーネと焼かれたときに、葬儀で一番泣いていた女神のことを、パリスは覚えていない。













 ******








《──そして太陽は昇り、再び人の子は目覚めるだろう》

                             ────デルポイの予言より。








 ******





「────あっつうううううううううう!!」


「──はっ!? パリス兄様が突如悶え苦しんでる!?」

「ギャアアアああああ!!! なんんだこれえええええええ!? またかああああああ!!」


 イリオンのアポロン神殿にて。


 ヘレノスは予言を行っていたら突如自分の意識が途切れ、気がついたらパリスがのたうち回る姿を見てしまった。




 パリスはこれから起こる予言の未来を、再び垣間見て体験したのである。イーデ山にてヘスペリアと焼かれて死んだ近い未来を。




『巨人族を倒すには神々でも知恵が必要だ。弱点をついたり、罠を張ったり。そんな中でヘカテーは正面から火炎放射で焼き殺すのが得意だ』────関係者Z


『夢オチって自分の仕事の範疇だったりします? 物知りヘカテー様に今度聞いてみよう。あ、評価ポイント是非ください。いい夢あげますから』────夢オチ冥界神H


ポイントください(挨拶)


※10/31活動報告に「時系列的にヘラクレスの試練終わってたらケイローン死んでるんじゃないの問題」が書かれていますので矛盾が気になる方は一応確認を。ケイローン生きてます

他にも疑問がございましたら説明できる範囲で説明したりします。無理な場合は気にせず進行します。作者にだってわからないことぐらい…ある…!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] >コルキスは黒海の西岸、トラキアは黒海の東岸あたりだ。 逆です。コルキスが東岸でトラキアが西岸。
[一言] まさかの2回目。 このアポロン、もしや納得のいく未来を引き当てるまでパリスの予言リセマラを繰り返すつもりだな?
[良い点] 夢オチでよかった(安心) [気になる点] 魅力的な女友達だと思っていたヘスっちさんが魅力的なヒロインだったこと いかん、オイノーネたん推しだったのに揺らいでしまう……! [一言] ヘカテー…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ