1話『トロイア戦争末期、パリス王子の死』
──内臓が腐れる臭いが、血反吐と共に口へとこみ上げてきた。
「ゲホッ……かはっ……死ぬって……これ……」
咳き込んで男は咄嗟に片手で口を押さえるが、指の隙間から黒い血がぼたぼたと垂れ、地面に染み込んで煙を上げていた。血の染み込んだ土に生えていたアネモネの花が枯れて朽ちる。血に混じった毒のせいだった。
男の垂れ下がったままの右腕は既に真っ黒に変色しており、指一本動かすことはできない。肘のあたりに爛れた矢傷があり、そこからギリシャでも随一に強毒である水蛇の毒が入り込んだのであった。
大英雄ヘラクレスや賢者ケイローンをすら自ら命を断つほどに強い怪物の毒だ。ただの男が半日なりとも耐えているだけでも奇跡に近いが、それでも毒は内臓を腐らせ、意識を朦朧とさせ、刻一刻と男を死に近づけていた。未だに倒れずに歩き続けているのは、運命の女神モイラが紡いだ糸がまだ残されているからか、死神が痛みと恐怖を取り除いているからだろうか。
死にかけた男の名前はパリス。
トロイアの王子でありかの有名なトロイア戦争が起こった原因の一人でもある。普段の、愛しい妻ヘレネーを前にしたときの締まりがない顔や、戦場での周囲を不安にさせる頼りない雰囲気と今は違い、まさに死人そのものな顔色をしていた。
トロイアにギリシャの大軍が攻め込んできて10年。両軍の兵士と英雄が大勢斃れて散っていった戦いで、ついに戦いを引き起こしたと言われるパリスも戦場で致命傷を受けることになったのだった。
ギリシャ軍随一の弓取り、ピロクテーテスはかのヘラクレスの剛弓を持っていた。先の戦いでパリスと弓の打ち合いになったのだが、相手は英雄集うアルゴス号に乗っていた古参の強者。若造で英雄未満なパリスが勝てるはずもなく、彼の放ったヒュドラ毒の矢を受けてしまったのだ。
ヒュドラの毒を治癒できるのは医神アスクレピオスかその息子たち、或いはアスクレピオスの父であるアポロンぐらいのものだろう。
トロイアの医者は揃って匙を投げた。アスクレピオスの息子を呼ぼうにも彼らはギリシャ軍に参加しており、しかも戦場で兄弟の兄をトロイア軍が討ち取ったのだから協力など頼めるはずもなかった。
だが、
「最後の……希望……オイノーネ……」
パリスはトロイアの城塞都市を単身抜け出して、近くにあるイーデ山へと登っていた。
巨大なイーデ山はアシアにおいて女神たちが多く住まう神山であり、パリスの故郷でもある。かつて赤子の頃にイーデ山へと捨てられたパリスは牧童に拾われ、そこで一人前の牛飼いとして暮らしていた。
山での暮らしには妻もいた。イーデ山に住む下級の女神で幼馴染だったオイノーネである。
下級とはいえ女神である彼女は非常に美しく、老いることもなく、そこらの妖精よりも遥かに力を持っていた。特に占いと薬に関してはアポロンやレテなどから直接教えを受けており、いずれパリスが治せない毒を受けることも予言していて、その際には自分の元へ来れば治してやるという約束をしていた。
だというのにパリスは、世界一美しいと評判の半神である美女ヘレネーを浚いに出ていって以来、一度も元の妻であるオイノーネのところへは顔も出さなかったのだが。
「オイノーネにさえ会えば……きっと治してくれる……ははっ……愛しい愛しい夫なんだからな……オレってば……」
ぶつぶつと意識を保つために呟きながらパリスは森を進んでいく。目は霞んで見えなくなりかけていたが、幼少時より幼馴染の牧童たちや妖精らと走り回り、遊んで歩いたイーデ山は目を瞑っていても進める。
女神であるオイノーネと共に住むことを決めた若かりし頃のパリスは、森の中に流れている小さな川の側に粗末な小屋を立てて一緒に暮らしていた。
人間と女神が共に暮らすのは価値観の違いから難しい。英雄アキレウスの母親、海神テティスはアキレウスを産んで数日で「もぅマヂ無理」と海に帰っていったことが有名だ。
山に住まう女神のオイノーネも人の集落で暮らすことは難しい。なのでパリスが歩み寄る形で、山の中で共に暮らすことに決めたのだった。
パリスがかつて家を出ていってからどれだけの時間が経過しただろうか。
ふらつきながら懐かしい自宅に近づいていくパリスは、小屋の周りに作られた薬草畑が青々と茂っており、家畜小屋には子牛や羊が飼われているのをぼやけた視界で感じ取った。イーデ山はアポロンの加護で一年中草木が枯れることはなく、薬草は幾らでも育てられるし家畜も飢えることがない。
自分が出ていったときのまま、小屋が整備されていることにパリスは懐かしさと、まるで時間が巻き戻ったかのような奇妙さを感じた。
意を決して小屋に入ると、強い薬草の匂いが充満していることに気づく。ごりごりと薬研で薬草を潰す音。暗い室内で、銀色に光る髪の毛が月光に反射してパリスの目に映った。
「オ、オイノーネ……」
やあ、キミ。久しぶりだね。どうしたんだい? その怪我は。うわあ大変だ。すぐに治してあげるよ旦那様。あとおっぱい揉んでいいよ。
そういう歓迎の言葉を期待していたパリスに向けて放たれたのは、
「おやおや? キミはもう何年も前に出ていった……ええとパリスとかいう愚か者じゃないか。なにか用事でもあるのかい? キミの私物は全部トロイアに送りつけたはずだがね」
感情の籠もっていない冷たい言葉だった。
当たり前である。ある日突然、見たこともない女に狂って出ていってまったく妻を居なかったものとして扱っていたバカ王子だ。オイノーネが冷たくなるのも当然である。
細めた目をパリスに向けるオイノーネの姿が、入り口から差し込んできた月の光で露わになる。星の光を束ねたような長い白銀の髪をした、どこか幼く中性的な顔立ちの女神で、体には胸元と腰を隠すように布を巻きつけているだけの姿だ。手には薬草の汁が染みた白い布手袋を付けており、パリスが訪問してきても休まずに薬を作り続けている。
「オイノーネ……さん? あの……」
パリスが気まずそうに呼びかける。
「随分と具合が悪そうじゃないか。聞いた話だとキミは戦場でボコボコにされてもヘレネーに慰められたら元気百倍らしいね。さっさと自分の寝室に戻って愛しいヘレネーちゃんに癒して貰ったらどうだい?」
「そ、そんな意地悪は言わないでくれ、オイノーネ。み、見ての通りオレはヒュドラの毒で今にも死にそうなんだ。これを助けられるのは神の薬を作れるものしかゴフォオオオ」
「うわっ! ヒュドラ毒を吐かないでよ! ったないなぁもう……」
喋ってる最中に吐血したパリス。血が混ざって調合中の薬が台無しになった。
「神しか助けられないならキミを大層愛護してくれているアフロディーテに頼めばいいさ。キミから一番美しい女神だなんて認められてご機嫌なんだろ? ボクなんて下等な神と違う、とてもとてもお偉い神様なんだから助ける力ぐらい持ってるよ。あ、でも大事なアドニスくんは死なせちゃったんだっけ。アフロディーテ」
「う、ううう……た、頼むよ、オイノーネ……死にそうなんだ……助けてくれ……」
玄関の壁に寄り掛かりながらパリスは懇願した。地面に座れば二度と立ち上がれない気がした。鼻血が溢れてきて、呼吸も苦しくなってきた。
だが彼の元妻は大きくため息をついてから素気なく告げる。
「キミを今助けたところで次に出た戦場で殺されるだけだろ。そもそも強くもないんだから、キミ」
「はぁ……はぁ……」
パリスは一応、トロイア軍の将ではあるものの目立った活躍はできなかった。味方の中では能力が低いわけではないのだが、英雄豪傑揃いなギリシャ軍の将に比べると頭を抜き出るものではない。実際、これまで何度も死にかけてきた。
「どーせもうトロイアは落ちる。城に籠もっていてもキミも兄弟も全部殺される。ヘレネーは取り戻される。生き延びる意味なんて無いんだよ」
「ぐっ……そ、それでも……」
勝ち目が無いのはトロイアの誰もがわかっていた。パリスの兄であるトロイア一の勇士ヘクトールはアキレウスに破れ、鳴り物入りで援軍に来てくれた各地の英雄たちも次々にギリシャ軍に負けてしまった。
10年という長期間を攻め続けていたギリシャも相当に焦れている。まず間違いなく降伏は認めないだろうし、城内になだれ込んだら男は皆殺しにされるだろう。パリスなど間違いなく八つ裂きだ。
オイノーネはパリスの方を見ずに、台無しになった薬の片付けをしながら世間話のように呟く。
「ま、キミがどこで死のうが別にボクは構わないんだけど。トロイアの人らも気にしないんじゃない? むしろ早く死ねとか思ってそうだし。キミ嫌われてるから」
「……」
「イーデ山に来て野垂れ死んだってキミの弓と服でも送り返しておこうか? どうせ死ぬならここに居ても同じ──」
「それでも……生きながらえれば……」
パリスは朦朧としながら呟く。もはや視界は閉ざされ、瞼に浮かぶのは輝くように美しい妻の姿であった。
「生きながらえれば……死ぬまでの間……ヘレネーと過ごせる……」
「──っ!」
陶器製の薬瓶がパリスに投げつけられ、彼の頭にあたって砕け散った。新たな傷からにじみ出てくる血の色すらどす黒かった。
怒りに顔を染めたオイノーネが怒鳴りつける。
「知るかバカ! ヘレネーのところで勝手に死ね! どっか行け! バーーーカ!!」
あくまで自分勝手な言葉を吐いたパリスは元妻からの拒絶に、覚束ない足取りを引き摺るようにして小屋から去っていった。
体の感覚が毒によって一つずつ閉じていく。とうとう最後の希望が潰えたパリスに、死神タナトスが歩み寄ってきた。破滅の女神アーテーと不和の女神エリスが手を叩いて笑っているようだった。
鼻血に混ざる毒で鼻が焼けて、オイノーネの作っていた薬の匂いを最後に感じなくなった。
こみ上げる喀血で喉は爛れ、もはやうめき声も出ない。
ぼやけていた視界は闇に閉ざされ光の一点も見えなかった。
足が動かなくなったことを、体に感じた衝撃で把握した。どうやら倒れたようだ。オイノーネの家からどれぐらい離れただろうか。
(ヘレネーのところへ行かないと)
残った意識はそれだけで、手足の感覚もないのに這って前へと進んだ。
(だってもう、ヘレネーしかオレには残っていないのだから)
ヘレネーを得て、妻にしておくために多くのものを失った。何千の兵士が大地に血を染み込ませ、兄弟たちも次々に戦死していった。トロイアの近郊にあるアシアの都市はギリシャ軍に蹂躙され、無関係なのに被害を被った。オイノーネすら失ってしまった。
(ヘレネーさえ居ればいい。ヘレネーが微笑んでくれれば。ヘレネーが目尻を下げるだけで幸せだ。彼女の歌を聞けば天に昇るようだ。美しい髪を撫でさせてくれ。それだけでオレは……)
ソレ
ダケ
デ
オレハ?
(それだけで……ヘク兄を惨殺させられてもいいのか? その死体をアキレウスの野郎が引き回しても? 大勢の将兵を死なせ、父親と母親がいて無関係の民が住むトロイアの住民を皆殺しにしてでも、ヘレネーが居れば幸せ……? 仲の良かったオイノーネに罵られ、泣かれても? ……あれ!?)
パリスはもはや体が動くこともなくその命が風前の灯火であり、心は臨死の狂気に陥っていた。だがそれでも思考だけはひたすら加速していく。
(なんかおかしいぞ!? 確かにオレはヘレネーのためなら死んでもいい! だが……こんなことになってもいいはずがないぞ!?)
彼の狂気のような愛情に捕らわれていた心が、狂いに狂って一周し正気に戻っていた。
この時代、神から狂気を与えられる者は少なくない。ギリシャ軍のアイアスもアテナから狂気を受けた後に自害したほどだ。パリスがアフロディーテから与えられていた、世界一の美女への恋慕の呪いが今際の際に解けたのである。
(あああああ! しまった! ヘレネーは美しい! それは認める! 最高! でも明らかに正気じゃなくなっていたんだ、オレも、多分皆も! ……神のせいで!)
実際、一度はヘレネーの元夫であるギリシャ軍のメネラオスとパリスが一騎打ちをして戦争を手打ちにしよう、という話もあったのだ。
そのときにパリスは負けて、ヘレネーも返そうかという空気になった。
だがそれは覆された。さらなる激戦を望む神々が、返還を拒むようにトロイア軍を囃し立てたのだ。
それ以降はもはや国が滅ぼされそうなのにヘレネーを手放そうという提案を誰も行わなくなってしまった。明らかに全員、理性を失っている。狂気が伝播したかのように。
(間違えた! オレが! オレが間違えていたんだ! 悪かったんだ! なんでこんなことに……! 悪いのはオレなのに、オレが死んだぐらいじゃ戦争も終わらない……!)
パリスは今更すぎる自責の念に囚われ、呼吸が途絶え始めるのを静かに感じていた。それでも意識だけは保ったままだった。
ついでに聴覚もまだパリスの心に呼びかけるものがあった。
がさりがさりと周囲の草が音を立てている。獣だろうか。イーデ山は家畜も多いが、野犬や狼も多く住み着いている。
(こんなところで獣の餌になる末路か……いや、まあ、うん。仕方ないよな。オレ。酷い人生だった……オレ食ったら獣も毒で死ぬんじゃないかな。うわ死んでも役に立たないなオレ……)
パリスが諦念しながら周囲を取り囲む気配に身を任せていると、次に声が掛かった。
「ん? 行き倒れかと思ったら……」
「あー、なんだアレクサンドロスじゃん、こいつ」
「久しぶりに見たと思ったら」
「こんなところで死んでる。葬式してやるか」
「牧童を弔うのは牧童だけだからなー」
男の声。少女の声。パリスは疑問に思いながら、死んだ体に残った意識だけでふと思い出した。
(あ。こいつら、幼馴染の連中だ)
イーデ山で育ったパリスと共に遊び、働き、闘牛や乗馬で競った牧童や妖精たちだった。パリスにはもう見えないが、年相応に老けた男と、まだ少女姿のまま変わらない妖精たち。アレクサンドロスはパリスの幼少時代の渾名で、家畜らを狼などから守ることが得意だったパリスは『守る者』という意味のアレクサンドロスと呼ばれていた。
その後にパリスは王子だと判明し、ヘレネーを奪いに行ってからは会っていないのだが、昔と変わらない目つきで彼らはパリスを見ていた。
もはやトロイアではパリスは疫病神のような目で妻以外の誰からも見られているというのに、まだパリスが牧童仲間かのように純朴な目を向け、行き倒れた仲間を弔うという当然の風習で荼毘の用意をし始めた。
パリスの死体の上に薪を重ね、妖精らが集めてきた花や薬草で飾り付け、集まったもの達が切った髪を一緒に燃やす。
パリスは実のところまだ意識はあったのだが、まともに葬式をしてくれている昔なじみらに涙の一つでもこぼしてやりたい気分だった。実際、パリスを囲んで火を灯す皆は神妙な顔をしたり、泣いている妖精もいた。
久しぶりに人間扱いをされた気がした。
(あの頃は)
パチパチと火の焼ける音が聞こえて、パリスは思う。
(あの頃はよかったなあ……イーデ山で牛を育てて、オレの育てた牛は闘牛で最強だった! あ、いや一回負けたこともあったっけ……羊を操って狼から逃し、木を切って馬に牽かせて麓に売りに行って……帰ってきたらオイノーネが怪しげな薬草の入ったお粥を用意していて……なんだかなあ……王子になっても良いことなんてあんまりなかった……親父は『ヘクトール以外全員兄弟カス』とか言い切るし……確かにオレはカスみたいなことしたけど……)
あの頃は毎日が輝いていたように、今になっては思える。
英雄たちと肩を並べるには明らかに実力不足であるパリスだが、牧童としては不相応なぐらい有能であった。パリスが育てた牛が無理やり兵士に持っていかれて、トロイアで行われる競技大会の賞品にされてしまったので取り返すため飛び入り参加して全種目を優勝したところがパリスの黄金期であった。それが原因で王子だと判明して牧童生活が終了したのだが。
まあしかし王子になったとはいえ、トロイアはとにかく王子の数が多い。パリスも別段、王宮からイーデ山に通うようになったぐらいでいきなり性根が腐ったわけではなかった。
一番の原因は、
(あのとき、ゼウスの使いヘルメスがやってきて、『一番美しい女神に』と書かれた黄金のリンゴをアフロディーテ・アテナ・ヘラの三女神、誰かを選んで渡せと言われ……オレはアフロディーテが出した条件、この世で一番美しい女と結婚させるというのでアフロディーテを選んだ……そうするとトロイアまで噂の広まっていたヘレネーが好きで好きでたまらなくなって……あっ、ここじゃん呪われたの!)
走馬灯のように思い出しながらパリスは女神のお節介を嘆いた。美しい女と結婚させるという条件なのに、パリスが自力で迎えに行かないといけなかったのは釈然としなかった。なんなら合法的にヘレネーを未婚の状態にしてから届けてほしかった。
体が焚き火の中で焼けていく。
パリスは既に感覚もないのだが、焼けてしまえば意識も消えるだろうと思った。後悔しても、もう遅いことだ。残された者の幸福を祈ることさえ無駄である。トロイアは滅ぶ。ヘレネーは殺されるか、メネラオスに取り戻されるだろう。誰も残されることはない。
(ああ、でもせめて……)
パリスに未練が残っているとすれば、
(オイノーネに謝っておきたかった……呪いが解けた今だから思うんだけど……)
女神であるオイノーネは残されるわけだから、
(バカなオレのことなんてすぐに忘れて……幸せになって欲しいなあ……)
「……バーカ、幸せになってなんかやるもんか」
声が聞こえた。
次にパリスは火の熱さではない、温かさを感じた。頭を誰かに抱きかかえられているような。
火の周りを囲む妖精らの泣き声が大きくなった。光明の神アポロンが、闇に閉ざされたパリスの視界をいっときだけ明るくした。
死体を焼き清める炎の中で、パリスの亡骸を抱いて共に焼かれているオイノーネがいた。
彼女の涙がパリスの顔に落ちた。見たことのない泣き顔と、いつか告白したときに見た笑顔が混ざった不思議な顔をしていた。
「キミを治してあげなくてごめん」
いつか、パリスが癒えない傷を負って自分のところに来ることは神託でオイノーネも予知していた。
その傷を癒やせばトロイアに戻り、殺される運命を占った。
だからオイノーネは運命に逆らって、パリスを治療しなかった。そうすれば死ぬとわかっていた。パリスを自分で殺すことになると理解していた。
そうしたことで、大好きな夫が自分の側で死んでくれることになるから。
「キミと一緒にボクも死ぬ。ヘレネーなんてお嬢様はキミのためになんて死んでくれないけど、ボクはキミとなら死ねるんだ。死んだら楽園まで連れて行ってあげるよ、キミはすぐ亡者に捕らわれそうだからね」
パリスは大声で泣きたくなった。目の前でオイノーネが焼けていく。彼女の白い肌も、銀の髪も、青い目から溢れる涙まで蒸発してパリスと共に灰になっていく。幼い頃から一緒だった、姉のような存在。そんな彼女が死んでしまうのだ。
最後に見るのが愛おしい人のこんな姿だとはパリスも思っていなかった。自分のような、酷い男に付き合わなくていい。感謝より申し訳無さでパリスの心は埋め尽くされた。
そんな彼の心に触れたのか、安心させるようにオイノーネは子供の頃からずっと変わらない微笑みを向けて最後の言葉を呟いた。
「まったく、キミは昔から、ボクがいないと、本当にダメなんだから……仕方ない男だなあ、キミは」
──二人は混ざり合い、一つの灰になってトロイアに届けられたという。
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「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアヌアアアアアガアアアアアアア!!」
「きゃあああああ!?」
「ぐえーっ!」
突然パリスが顔中から脂汗と涙、鼻水とヨダレ、あとなんか耳汁を吹き出しながら叫び声を上げてぶっ倒れたので、カサンドラはもうとんでもなくびっくりした。
床に仰向けに倒れ、泡を噴いてビクンビクンと痙攣しているパリスを見下ろす赤毛の少女。
彼女こそトロイアの王女カサンドラ。パリスの妹でもある。まだ年齢は10に満たないほどの幼女だが国の誰もが認める美少女で将来性豊かなお姫様であった。
「え、えーと……どうしたのかしらパリスお兄様……それにわたしも?」
カサンドラは首を傾げる。彼女の意識的には、突然パリスがぶっ倒れたように思えたのだが、同時に自分の記憶も前後していた。
この日はパリスがトロイアで行われた競技大会で優勝し、「あいつ昔捨てた王子じゃないか?」となって王子であると認められてからすぐのことだ。
今まで顔も知らなかった兄弟姉妹にパリスはあいさつ回りをしていたのである。ちなみに多くの兄弟は、競技大会でパリスに負けていたので「この野郎」と顔を引きつらせつつも共通の競技対決をした仲なので顔合わせは簡単だった。
この頃のパリスは基本的にやや軽薄なところはあるが性格も悪くない好青年。兄弟たちにもすぐに馴染むだろうと思われつつ、皆から一番心配されたのがカサンドラであった。
カサンドラは家族から頭がおかしいと思われている。
というのも彼女は少女ながら、アポロンに見初められて「予言の力を渡すから! 先っちょだけだから!」と迫られたのだが、前取引で貰った予言の力でアポロンからもっと酷い目に合わされることを予知。全力で拒んだらキレたアポロンから「予言の力を持っていてもトロイアの人間に言葉が信用されない」という呪いを掛けられてしまったのだ。
そうすると可哀想なことに、カサンドラの発言は皆から「あいつなに言ってるんだ?」と理解されないようになり、結果として頭のおかしい子扱いをされていた。
しかしながらそういう事情を知らないパリス。おまけに彼の妻オイノーネも予言の力を持っている。
『妙な偏見は気にしないぜ! ひとつ、予言をやってみてくれ』
と、カサンドラの部屋を訪ねてそう提案してきたのだ。
そこまで言われればカサンドラも悪い気はしない。予言の力を使おうとしたところで──カサンドラも意識が消失した。
首を傾げてカサンドラは、ぶっ倒れたままの兄を突いて起こす。
「アバババババ……カカカカッカサンドラ!? オ、オイノーネは!? ヘレネーは!? ヒュドラの毒は!? ギリシャ軍はどうした!?」
「ど、どうしたのですかパリスお兄様。わたし、予言の間は気を失っていたみたいでよくわからないのですけど」
部屋の中にあった青銅の鏡には、パリスがまだ十代だった頃──成長が遅いのか、年齢よりも幼く見える姿が映っている。つい先程までの、トロイア戦争末期になった大人の姿ではない。
愕然としてパリスは叫んだ。
「よ……予言!? あの、トッ、トロイア戦争の記憶が、全部予言だったのか!? 今まさに体験してきたみたいにリアルだったけど!?」
トロイアの王子、災厄の種パリス。今はまだ問題行動を起こしていない時期に、死ぬまでの予言を具体的に知らされ──彼は新たなトロイア戦争を迎えることになる。
Re:審判から始めるトロイア戦争~パリス王子のパリ直し~
『ハプニングは歓迎だ。結婚式にエリスを呼ぶようにな』────関係者Z
※活動報告に設定補足とか書けたらいいなって思います