キンモクセイ
小さく赤い運動靴がコロンと地面に転がった。
やわらな秋の日差しの中、ぽとりと落ちたその靴を誰も拾うことはなく、ただ時間だけが過ぎてゆく。
靴の落とし主は依然下を向いたまま、パタパタと短い足を泳がせる。
『はぁ〜〜』
盛大なため息。
もう三度目になる。
男は視線を泳がせながら緊張した面持ちで、何もしない。
顔も似ていないふたりがこのベンチに腰をかけ、なにも起こらないまま既に30分は経っているが、気まずい雰囲気を物ともせず、今落ち合ったかのような新鮮さを保っている。
催眠術にかかったかのようにふわふわする春の陽気も不思議だが、秋もまたなかなかに謎の多い季節だ。
と、そんなことはさておいて、
親子ほど歳の離れたこの2人がガードレール下に咲くたんぽぽのようにひっそりと佇むこのベンチでなぜ、共に時間を過ごしているのか。
何か深い事情でもあるのだろうか。
どちらにせよ、なにかしらのワケがあるのだろう。
ずっと視線を泳がせていた男がついに、ポツリと何かを呟いた。
「無理をしてるってわかってるの?」
「うん。」
彼女は即答した。
僕は焦燥感に駆られながらも平静を装い、言葉を続ける。
「わかっているのに、なぜ休まないの?」
「休めないの。」
また即答だ。
これじゃあどっちが大人かわからない。
彼女のスピードに辟易しながらも僕は質問を続ける。
「なぜ休めないの?」
「世界がわたしをおいてけぼりにするから」
わかるようでわからないその言葉たちに、気がつくと質問を返していた。
「世界が君を置いていく?」
「うん。」
掴めそうで掴めないホログラムのようなその会話に、僕は苛立ちを隠しきれず、感情に任せた言葉をぶつけそうになった。
が、相手はまだ小学生にもならない子どもだ。
そんな少女に向かって感情をぶつけるなんて大人気ない。
先月ハタチを迎えたばかりの僕の矜持が頭の中で盛大にストップをかける。
深い呼吸を一つして、大人の対応ってやつを見せつけながら、今成しえる精一杯の落ち着きでそっと彼女に声をかけた。
「世界はいつもここにあって、どこかに消えたりしないだろう?」
「わたしがかめさんだからいけないの」
消えてしまいそうなその声にハッと振り向く。
すると、下を向いたままの彼女は目にいっぱいの悲しみを抱え、寂しそうにそっと瞳を伏せた。
その僅かな瞬間がなぜか心にグッときて、僕は我にかえり冷静になった頭でもう一度、今の行動を思い出す。
幼い彼女にとっては日常の何気ない仕草でも、大人の僕にはそれが命の否定に見えて胸がギュッと苦しくなった。
彼女はよく、打ち消す。
苦しみや悲しみや受け止めきれない理不尽を。
ちっさな身体を震わせて、
抱えきれない苦しみで覆われたその命もろとも打ち消してしまう。
まるで最初からなかったかのように。
自分で自分の命〝だけ〟を否定し、
誰にも気づかれないようにそっとこの世界から消そうとする。
そんな幼い少女に僕は気の利いた一言も、安心という贈り物もできないまま、悔しさにまみれギリギリと歯噛みした。
悔しくて悔しくて、そんな自分が情けなくて、どうしようもなくて、ボンクラな脳みそをこれでもかと殴りつけたが、そんなものは到底なんの役にも立ちやしない。
冷たい風がヒュルリと吹き抜け、先ほどまでの陽気はどこへ行ったのか、辺りを探したくなるほど気まずく、凍てついた空気がふたりを取り囲む。
しかし、男はお構いなしにピクリとも表情を変えず、ぼぅっと一点だけを見つめ固まっている。
20年も〝言葉〟と向き合ってきたのに。
誰よりも〝いのち〟と向き合い、
誰よりも努力を重ね、誰よりも多くを経験してきたと思っていたのに。
もう学ぶことはないと豪語できるほどに精進し続け生きてきたはずなのに…。
それなのに…。
僕の知っている言葉なんてなんの役にも立ってくれない。
年端のいかない少女ひとりすら元気づけることができないのだから。
元気づけるどころか、悲しみの海に沈めてしまっているのだから。
僕には無垢な少女が紡ぐ美しい言葉たちの中に混ざることすら許されないのかもしれない。
〝 彼女が生きるセカイを観たい 〟
男はここでようやく息を吹き返し、彼女にしっかと向き直った。
「かめさんってさ、確かに足は遅いけど君はかめさん嫌いなの?」
「かめさんは好きだよ。でも足が遅いのは嫌い。
足がもっと速ければ、ひとりぼっちになんてならないもん。」
「そっか…。でもね、知ってる?
かめさんってね、この世界にひとりぼっちじゃないんだよ。」
「そうなの?」
「うん。君にはひとりぼっちに見えるかもしれないけど、世界中に仲間がたくさんいるんだよ。」
「それにね…」
男は言葉を続けた。
「実はかめさんには色んな種類があって、陸を歩くのは遅くてもいつも水の中にいてすっごく上手に泳ぐかめさんもいるんだよ。」
「ほんとに…?」
ずっと下を向いたままだった彼女が恐る恐るゆっくりと顔をあげた。
「うん。だからね、歩くのが遅くっても置いていかれてるわけじゃないんだよ。」
「…そうなの?」
「うん!そうだよ!みんな水の中ですっごく楽しそうに泳ぐんだ!」
初めてみる彼女の笑顔に僕の心までキラキラして、気づいたら地面に転がりっぱなしのちっさな靴を膝に乗せていた。
「よし!一緒に観にいこう!」
ゆっくりと立ち上がった男の横に、少女がポンっと立ち上がる。
かぼちゃ畑の畦道をかぼちゃ色に染まった2人が共に手をとり歩いてゆく。
風にゆれるキンモクセイがふわりと鼻を掠めていった。
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