レファーツ (アーチャー) ①
「それはなりません!それはなりませんぞ、王子殿!」
レファーツ・カートレーはユングヴィ城の城主がこのような大声を出せるとは夢にも思っていなかった。ユングヴィ城の城主、キルク・ユングヴィを初めて見た時、レファーツは(まるで屍鬼じゃないか…)と思ったものだった。頭に月桂冠を乗せているのはユングヴィの太古からの習わしという訳ではない。鉄の冠を長時間、頭に乗せておくだけの体力が無いのだ。骨と皮だけの身体に、シルクのローブという姿で、赤や金色で派手の装飾された勇壮な玉座に座る姿は、正直に言って滑稽そのものであった。侍者に抱えられなければ階段も登る事が出来ないキルク・ユングヴィが、それでも人と会う時、玉座に座る事に固執するのは、彼に残されたモノは僅かな寿命と、その玉座を背景にした権力くらいしか無かったからだ。そのような有様のキルク王が怒声とも言えるような声を発したのは、玉座の間に居並ぶ40人程の人間達にとってある種の事件ではあった。しかし、レファーツの主であるエクスリヴァ・アシーナは、何事も起きなかったかのように、瞬きもせず、壇上にいるキルクの顔をジっと見上げていた。そしてエスクリヴァの端正な顔に宿る無表情には、一種の凄みが宿っていた。
「時間をかければかけるほど、我々は不利になります。我々がバルサゴスに送り込んでいるスパイの情報によれば、【子供】は次々に作られているという話しです。こうしている間にも敵は【子供】を次々に作り出し、前線に送り込んでくる。今までの戦争のように『時期を待って有利な状況になるのを待つ』なんて悠長な事をしている時間は無いんです。【子供】がこれ以上ドルーア砦に増えれば、もはや我々に勝ち目は無くなります。リキアも落とされるかもしれない。そうなれば順番を考えれば、次はこのユングヴィです。敵の進軍を押し返すチャンスは、刻一刻と無くなっていっているのです」
【最終戦争】がバルサゴスの完全敗北をもって終結し、世界は再び復興を始めたと思われた矢先に、バルサゴスは【子供】を使って、再び大陸全土に向けて戦争を始めた。この事に大陸中の国々は驚愕し、絶望し、激怒した。【バルサゴス断じて許すまじ】が全ての国の創意かと思いきや、【アグスティ】だけはそうでは無かった。ユングヴィの宗主国アグスティは、この戦争の最中、バルサゴスに対し、突如『中立』を宣言し大陸全土を驚かせた。
怒り心頭のエクスリヴァは自ら軍を率いて南下を始め、ユングヴィに宣戦布告した。本来ならばアグスティ本国に対して宣戦布告をし、アグスティを陥落させるのが筋というものである。そうすればアグスティ傘下のユングヴィも自ずとアシーナの軍門に降る可能性は高い。しかしそのような『通常の手順』を踏んでいる時間は無かった。立地的に次の戦場となるであろうユングヴィを真っ先に落とし、そこを拠点に、バルサゴスの北進を食い止める必要があるとエクスリヴァは判断したのだ。そしてその判断は正しかったと言える。
およそ『とばっちり』と言ってもいい状況に追いやられたユングヴィ国は、宗主国アグスティに『どうすればいいのか?』と手紙を出したが、アグスティからの返事は帰って来なかった。アグスティはユングヴィの使者に会おうともしなかったらしい。ユングヴィに駐留していたアグスティ軍は籠城戦をユングヴィに対して要求し、襲来してきたアシーナ軍と数時間小競り合いをしたが、結局はキルク王がエクスリヴァに対して無血で降伏を宣言した。これにより晴れてユングヴィはアグスティ傘下からアシーナ傘下の国となったのだった。そしてアグスティはコレに対して沈黙を続け、大陸全土から【腰抜け】【裏切り者】の誹りを受け続けている。
エクスリヴァはユングヴィを陥落させた後、すぐにも全軍を率いて南のドルーア砦を奪還し、その後レフカンディへと進軍するものだと思っていた。しかしキルク王は、あれやこれやと理由をつけて、未だに兵を出そうとしなかった。エクスリヴァはこうなったら自分が率いて来たアシーナ軍だけでドルーア砦を落とす事も考えたが、キルク王はそれすら許さなかった。その理由は大きく分けて3つあった。
一つはエクスリヴァに万一の事があった場合のユングヴィの置かれる状況は極めて微妙だという事だ。今やバルサゴスに対抗する事の出来る唯一の大国であるアシーナ。そのアシーナの王位継承権一位であるエクスリヴァが、ユングヴィ内の領土で死んだとなれば、アシーナはきっとユングヴィに対してかなり厳しい感情を抱く事になるだろう。
二つ目はレフカンディにキルク王の息子、エルクが人質に取られている事。『このような事態になれば、やむを得ません』と、キルク王はエルクを諦めたかのような発言をしきりにしていたが、それが本意でない事は誰の目にも明らかだった。老い先短いキルク・ユングヴィにとって、息子のエルク・ユングヴィは唯一の跡継ぎであった。ユングヴィの家系は【勇敢】で名が知れていたが、先の【最終戦争】の中、キルクの息子は一人死に、二人死に、ついにはエルクだけとなってしまっているのだ。そして、キルクの命は今にも尽きようとしている。長らく続いたユングヴィ家の歴史は、何処かで隠し子でも見つからない限り、完全に途絶えてしまう事になる。キルクはそれを恐れているのだろう。世界の終わり以上に。
そして三つ目は救援の目処が立っているという事だった。現在バルサゴスは4つの戦いを同時に行っており、コレは戦争の常識から言うと、かなりの愚策であると言えた。戦力の分散は愚の骨頂であるが、しかしそれでもなおバルサゴスが戦局を有利に進める事が出来ているのは【子供】の存在のおかげと見て間違いない。【禁呪】の使用によってレフカンディ、ハイライン、ヴェルダン、サンタルス、ワーレン、果てには難攻不落と言われたリキアまで一瞬にして陥落してしまい、世界は再び、ただならぬ状況に置かれてしまった。
そしてバルサゴス以外の国は、改めて同盟を強化し、互いに一致協力してバルサゴスに対して包囲網を結成する事を決意し、今ようやく、反撃に出つつある。そしてその第一戦として、オレルアン、アリティア、カートレー、アシーナの艦隊が、海路で大陸を大きく迂回して、ワーレンに向けて侵攻中なのであった。バルサゴスの主力はトリア、シアルフィ、ユングヴィといった城を落とすためにその大部分が展開しており、ワーレンは今のところ手薄な状況であると考えられる。アシーナ連合艦隊は取り敢えずワーレンを落とし、そこを足がかりに海と陸の二正面作戦を展開し、バルサゴスに対抗しようと考えていた。更に現在、秘密裏にグラ砦にアシーナのレオノーラ・リーンフェザー率いる天馬部隊が待機しており、アシーナ連合艦隊の到着を待っていた。海と空からの攻撃により、ワーレンは恐らく、確実に北部連合が奪還出来るであろうという予測が立っていた。そしてワーレンを落とした後は、すぐさまレオノーラ・リーンフェザーの天馬部隊が海を渡り、ドルーアへと侵攻し、そのタイミングでアシーナ・ユングヴィの軍隊が、天馬部隊の力を借りつつ、ドルーアを落とす。これがキルク王の考えであった。
しかしエクスリヴァはこの主張を完全に撥ね付けた。そもそもキルク王とエクスリヴァは、この戦争に関する認識にかなりの差があるのだろうとレファーツは考える。
キルク王の考え方は基本的には間違っていない。あと二週間ほど待ち続ければ、圧倒的な有利な状況を作り、戦う事が出来る。そのような状況が出来るまで待ち、圧倒的武力をもって戦う。これの何処が悪いのか?と言う訳だ。確実に勝てる方法があるのならば、それを使えばいいではないか。
しかしエクスリヴァの主張はこうだ。【禁呪】が土地を汚染する事は既に周知の事実である。【禁呪】はユグドラル以外の大陸を汚染し尽くし、ついにはユグドラル大陸をも汚染しようとしている。【時間を掛ければ掛けるほど大地は汚染されていく】事になる。コレはバルサゴスを倒す倒さないの話ではなく、一刻も早くバルサゴスを倒し、大陸がこれ以上汚染される事を防がなければならない、そういう戦いなのだ。どれほどの犠牲を払おうと、とにかく全力を持って、迅速にバルサゴスに攻め込み、この馬鹿げた状況を止めなければならない。そうでなければ世界はもう終わりなのだ。時間が掛かれば掛かるほど大陸の汚染は進んでしまう。圧倒的有利な状況を作って、それを背景にして講話に持ち込んだり、籠城する相手に兵糧攻めを行うような余裕は、もうこの世界には残っていないのだ。全てを犠牲にする覚悟が無くては、もう世界を救う事は出来はしない。そうエクスリヴァは考えているのだ。
エクスリヴァの言っている事も恐らく最もなのだろう、と目の前に居並ぶ面々は思っているのだろうが、同時に『エクスリヴァ・アシーナは狂っている』とも思っている事だろう。そして恐らく、それは正しい。俺の主人は狂っている。残念ながら。とはいえ自分は、忠誠を誓った主人に従うだけだ。例え彼が本当に狂っていようともだ。正常な神経で世界を救う事など、恐らく出来はしない。
ドルーア砦にもアシーナのスパイは潜伏しており(恐らくユングヴィにもバルサゴスのスパイは潜伏している。そういうものだ)その報告を信じるならば、今はまさしくチャンスであった。バルサゴスは【子供の魔法】を使い、ヴェルダン、サンタルス、ハイライン、レフガンディと、次々に落としてきた。そしてその勢いのままに、次はユングヴィを落とすつもりだったのだろうが、その最初の目論見は、エクスリヴァ率いるアシーナ軍の奇襲によって、ものの見事に撃退された。エクスリヴァ率いるアシーナ騎兵は、大陸随一の騎兵隊である。ドルーア砦に駐留しているバルサゴス軍は、その事を身体で思い知らされた事だろう。
そこでバルサゴスは一度方針を変え、目標をシアルフィに定めたようだった。そしてユングヴィに対しては、ドルーア砦から『いつでも攻撃する事が出来るぞ!』というフリだけを常時見せながら、徹底して時間稼ぎをする事にしたようだった。エクスリヴァからすれば『こんなのは見え見えの時間稼ぎに過ぎない、今軍を出せばドルーアは落とせる』とキルク王に何度も説得を試みたが、キルク王は許可を出さず、むしろ逆に、エクスリヴァが勝手な事をしないようにと、城内にいるエクスリヴァに対して監視を置き始める始末であった。エクスリヴァは現在ユングヴィにおいて事実上の軟禁状態にある。
もちろんキルク王に、エクスリヴァを苛立たせているという自覚が無い訳ではない。戦争の話以外の部分ではエクスリヴァの事を最上級のVIPのように扱っていた。毎日のように食べ切れんばかりの美食と美酒が振る舞われ、部屋は城内で最も良い部屋を与えられ、エクスリヴァがもし女を所望したのであれば、城内にいる女を一人残らずエクスリヴァに差し出した事だろう。エクスリヴァの従者であるというだけのレファーツでさえも、ユングヴィ城の中では、まるで大貴族かのように丁重に扱われていた。エクスリヴァは食事や女を『兵の士気の低下を招くだろうからもうコレ以上は止めてくれ』と固辞したが、レファーツは(俺としては、一生このままでも悪いとは思わないけどな…)と思わなくも無かった。ユングヴィに来てから2ヶ月の間、同じやり取りが何度も繰り返され、状況は何も進展しておらず、意気軒昂の状態でユングヴィに到着したアシーナ軍の中にも、かなり気持ちの弛緩が見て取れている。そして大きな声では言えないが、それはレファーツとしても同様だった。
もちろん、エクスリヴァとしてもこの状況に手をこまねいているばかりでは無かった。キルク王はエクスリヴァがアシーナからやってきた時、ほぼ独断で無血開城を決めた訳で、それは英断と言えるだろう。しかし無血開城をする際の条件にちょっとした罠が含まれていた。『軍はエクスリヴァ指揮に入るが、統括的な指揮権はユングヴィ王に属する』という旨を約束させられていたのだ。時間が惜しかったエクスリヴァは特に考えもせずこの条件を飲んだが、キルク王がここまで自分に非協力的だとは想像していなかったのだろう。そして、その条件を飲んだもう一つの大きな理由として『キルク王が今にも死にそうにしか見えない』というものもあった。
『恐らくキルク王はこの数週間…或いは数日の間に死ぬだろう』というのがエクスリヴァはの読みであった。『キルク王が死に次第、進軍を開始する。キルクの息子であるエルク王子の事は救ってやりたいが、今は人質一人のために時間を無駄にしている場合じゃない』
そしてエクスリヴァはキルク王が死んだ場合に備え、裏で着々と準備を進めていた。ユングヴィ軍の騎士達、将軍達と話し、酒を飲み、説得し、懐柔し、時にはちょっとした脅しを与え、着々とその時が来た時に向けて意思疎通を図っていた。
そもそもほんの二ヶ月前、ユングヴィはバルサゴスの軍勢により、陥落寸前の状態だったのである。それを救ったのは他ならぬ、エクスリヴァ・アシーナだった。エクスリヴァは今現在の彼等のリーダーというだけでなく、命の恩人であり、そして伝説の神器【バルムンク】を手に戦う英雄でもあった。
【最終戦争】での【レンスター攻防戦】におけるエクスリヴァの活躍は、大陸中に轟いている。伝説とも言えるような存在と、轡を並べて戦うというのは、ユングヴィの名も無き兵士達にとっては最上級の誉れと言えるものである。エクスリヴァに協力する事に反対するような兵士は、少なくとも表向き存在していないように見えた。
つまり、キルク王が死ねば、その後の事は、万事滞りなく進む予定なのであった。玉座の間に居並ぶユングヴィ軍の騎士達、兵士達は、二人のこのやり取りを気まずそうな顔をして静観している。その中の半数近くは、既にエクスリヴァと話がついており、中には『ドルーア攻略の際には、是非とも自分が先陣を切って戦う』と言ってのけた騎士も何人かいた。エクスリヴァは彼等を『君達こそが、真の騎士、騎士の鏡である』と讃えた。そして最後にこう付け加えるのを忘れなかった。『王が崩御された際にはよろしく頼む…』と。ユングヴィの騎士達、兵士達にとって、それが最も妥当な落とし所のはずであった。彼等の名誉。ユングヴィの騎士という立場に背かぬ形で懐柔する必要がある事を、エクスリヴァはよくよく理解していた。騎士達はそれによって、ますますエクスリヴァに対し、尊敬と、崇拝の念を抱き、忠誠を誓うようになるはずだった。しかし、それが今、完全に裏目に出ていた。キルク王は死ななかった。今にも死にそうな気配を周囲にプンプン振りまきながら、キルクは昨日も今日も、従者に両脇を抱えられながら玉座に座った。
「ドルーア攻略を反対するのならば、シアルフィに行かして下さい」
「ならん!」
何よりも問題なのは、キルク王は本当に明日にも…なんならたった今、この瞬間に死んでもおかしくないように見える事であった。先程発した『ならん!』の大声が、キルク王の臨終の言葉になったとしても、驚く人間は、この玉座の間には誰もいなかったであろう。
とはいえシアルフィへ軍を出すのはレファーツとしても反対であった。10日前ならばともかく、今からシアルフィに行ってもバルサゴス軍はとっくに先着している事だろう。どちらが勝つ(恐らくバルサゴスだと思うが)にしても、大した戦果は期待出来ない。シアルフィが万一勝っていれば無駄足だし、もし兵を出すならば、やはり目先のドルーア砦の攻略を優先すべきだろう。更に言えばシアルフィは位置的に、アシーナにとっては大して重要な城では無く、陥落したとしても大勢に大きな影響が出る事は考えにくかった。北部としては、ユングヴィの方がよっぽど重要な位置にある。アシーナ軍がユングヴィを離れ、仮にシアルフィを守りきったとしても、その隙にバルサゴスがユングヴィを落とすなどという事になれば目も当てられない。ともあれ、そんな事はエクスリヴァ自身も分かっている事だろうとは思う。エクスリヴァは、状況が一切進展しない現状を何よりも嫌悪しているのだ。
三ヶ月前、アシーナ城において、エクスリヴァが軍を率いて南部に向かうと言い出した時、城内は当然の如く、大反対一色だった。いつもバラバラで好き勝手な事をほざいている城内の政治屋共が、あれほど意見を一致させたのは、後にも先にも見た事が無かった。特にあの時のアリエル姫の激怒っぷりは猛烈なものであり、アリエルはどうにかなってしまうのではなかろうかと心配になるほどだった。しかし、エクスリヴァは、城内の反対意見を無視し、最愛の妹をアシーナ城に残し、遥々ユングヴィまで来たのである。
(なんなら俺の弓でキルクを射殺してしまえば、物事は万事滞りなく動き出すのではないか。俺は恐らくユングヴィの騎士達にめった切りにされて死ぬだろうが、それが我が主のため、ひいては、世界全体のためになるかもしれない)
などとレファーツは思うものの、実行に移すつもりは毛ほども無かった。最悪、自分だけが殺されるのならばいいが、しかしそんな事になれば、エクスまで殺されないとは言い切れない。それに仮にも王であるとはいえ、今にも死にそうな老人と、自分の命が等価であるという風には、流石に思えなかった。
更に言えば、エクスがユングヴィに釘付けにされているのが、全くもって最悪の事態であるとも言い切れないのだ。エクスは豪勇だ。剣の腕前も非凡であり、愛馬【エンゲージ】に勝る馬は、世界を探しても恐らくそうは見つからない。そして、極めつけと言わんばかりに、神器【バルムンク】を手にしている。まるでおとぎ話や神話の中の主人公のような人物だ。しかし、それでもやはり、エクスリヴァとて不死身という訳では無い。戦争における勝利と、人命遵守はいつの世も天秤にかけられるものだが、エクスリヴァのような傑物を失う事の損失は、正直言って計り知れない。
レファーツはエクスリヴァの幼馴染だった。幼い頃、北西の島国、カートレーからアシーナに預けられたレファーツは、以来ずっと、エクスリヴァの無二の親友と言ってよかった。局部に毛が生え出した時に一緒に見せあったり、二人で聖女オクタヴィアが風呂に入るのを盗み見し、バレて叱られた事もあった。そして、レファーツが知る限り、エクスリヴァが死にかけた事がこれまでに3回あった。まず8歳の時に高熱にかかった時。次に10歳の時に、川で転んだ際に骨折をして、そのまま流された時。そして最後は14歳の時にクリミア山に登り、スキーに興じている際に、雪崩に巻き込まれた時。2回目はレファーツが助けたのだったが、他の二つは完全に神頼みでしかなかった。そして、それ以外にも、戦場に出れば、あと少し、もう少しで死んでいたという局面には数え切れない出くわす事になる。エクスリヴァを不死身の存在のように語る人間を、今まで数多く見てきたが、レファーツに言わせれば、そんなのは馬鹿げた夢想でしか無い。戦い続ければ、誰だって死ぬ。戦わずとも、いずれは老いさらばえて死ぬ。それはこの世界の唯一絶対の理だ。
「分かりました、失礼致します」
エクスの言葉で謁見が終わった。結局何も進展はしていなかった。仮にもし進展があったとしたとしたら、先程出した大声で、キルク王の寿命が少しばかり減ったという事だけだろう。レファーツは王に一礼をして、自分の主の後を追った。エクスもレファーツも城内にいる間は何も喋らなかったが、城の内郭に出た瞬間にレファーツは二人の間にある沈黙を破る事にした。
「無駄骨でしたね」
「そうでも無いさ、今回の謁見は、キルク王では無く、キルク王の取り巻き達に、今の現状の危うさを聞かせるのが目的だ。今晩もし、王が崩御した時、反対する人間が出ないようにな」
エクスリヴァの口調は平静を装っていたが、その表情には明らかに苛立ちが見て取れた。
「なるほど、しかし、この期に及んで、まだ反対する人間がいますかね?我々、アシーナ軍が先発すると言っているんですよ?もし反対するのなら、ユングヴィはとんだ腰抜けの集まりだ」
「かもしれないな…でもなレフ。世界の人間の大半は、腰抜けなんだよ」
レファーツの主、エクスリヴァ・アシーナはまだ24歳になったばかりの若者だ。髪と瞳はダークブルーで、顔は丸顔だが、顔のパーツは綺麗に整っている。世界中の女が【王子】として夢見るような容貌だ。そしてエクスリヴァは『目が悪くなるから本は読むな』と剣術指南役であるガイ・バニスターにしょっちゅう注意されていたにも関わらず、戦の書物を読む事を何よりも好んだ。実際に行われたとされる、あちこちの戦争の回顧録はもちろん、恐らく作家の創作物であろう英雄譚、ひいては神話に至るまで、戦にまつわる書物は片っ端から目を通すような人間だった。
『寝る前に、その日読んだ書物の中の戦争を、頭の中で思い出すんだ。自分だったら何処に配置され、どう戦い、何処に勝機を見出すのかを空想する。俺は眠る前に夢を見始める体質なんだ。眠ってから夢を見るんじゃなくて、夢が眠りを連れてくるんだよ。布団の中で、戦場を駆ける妄想と夢が混ざり合って、何だか自分が物語の内側にでも入り込んだような気分になってくるんだ。その瞬間が何よりも楽しい。夢の中で俺はドラゴンに乗ってた事も、ドラゴンに喰われそうになった事もある。山の上で巨人と戦った事もあるし、船の上で海竜ナーガと戦った事もある。なんならあの英雄ギュスターヴ・デインと戦った事もあるんだ。そして実際の戦場でも、そういう突拍子もない空想や妄想が役に立つ事だってあるんだ。通常とは違った視点でモノを見るというのは、いつだって大切な事だ』
若い頃、エクスリヴァがそんな事を口走った事があった。その言葉を聞いた時は特に気にも留めなかったが、エクスリヴァのその言葉を裏付けるような事が最終戦争の後期に起こった。あの時の事をレファーツは昨日の事のように思い出す事が出来た。奇しくもあの時の戦場もユングヴィの付近だった。世に言われる【レンスター攻防戦】である。最もその時、ユングヴィはバルサゴスに占領されていたのだが。
レンスターとユングヴィの間にある平原にてバルサゴスの大軍勢と北部連合が相対した時、エクスリヴァは戦う前から『戦況は大きくこちらが不利である』と看破していた。それはこの戦に参加する者達の大半が薄々思っていた事ではあったが、誰も口にする事が出来ない事であった。『この戦は負ける』
何か手を打たなければならないとエクスリヴァは声高に主張したが、具体的な打開策を出せる人間はいなかった。決戦の時は刻一刻と迫っていたが、当のエクスリヴァと言うとレンスター城の図書室に連日こもりっきりであった。そしてある日、突如としてレンスター王に許可を貰うと、自分の部下達の騎兵隊300を引き連れて、レンスター北部にある山岳地帯へと向かった。弓兵であるレファーツはその遠征には同行しなかった。エクスリヴァが戻ってきたのは、決戦の3日前だった。『いったい何処で何をしていたのか?』との問いに、エクスリヴァは答えなかった。ただ何の意味も無くエクスリヴァが一週間も留守にしていた訳が無いというのは疑いようの無い話しではあった。
決戦当日、エクスリヴァは足の早い馬を9頭レンスター王に所望し、9人の従者引き連れ、また姿を消した。恐らくレンスター王にだけは、エクスリヴァはこの作戦の事を耳打ちしていたのであろう。しかしレンスターの騎士達は「臆して逃げたのか?」と訝しんだ。レファーツ達、アシーナ軍は『王子はそんな事をするならば腹を切って死ぬ事を選ぶ』と彼等を説得した。そして戦が始まると、北部連合軍はやはり劣勢に陥った。北部連合が今まさに押し切られそうになった時、現れたのは全身血まみれのエクスリヴァと、魔獣ゴルゴロスの群れであった。
後にエクスリヴァに着いていった従者に話を聞くと、王子は先の遠征において、レンスター北部の山岳地帯に生息する【ゴルゴロス】という魔獣をせっせと捕獲し、現地で木を切り倒して作った巨大な、3M四方の檻の中に放り込み、そのままたっぷり5日間放置したのだという。エクスリヴァは捕獲したゴルゴロス達に対し、徹底的に自分を憎ませるような行動に終始したという。まぁ簡単に言えば【魔獣虐待】と言ったところだろう。
図書室にこもっていたエクスリヴァはつまるところ、ゴルゴロスの生体について徹底的に調べていたのだ。何を好み、何を嫌うのか。どのようにすれば怒るのか。何に反応するのか。その攻撃性は?どう捕獲すればいいのか?そしてこう思った『コレは使える』と。
捕獲したゴルゴロスの檻の前で、エクスリヴァはゴルゴロスが好むとされる牡鹿の血を頭からかぶった。5日間狭い場所に入れられ興奮した餓えたゴルゴロス50頭は、エクスリヴァに対して激烈な怒りを燃やした。待機していた魔法使い達が、魔法によって檻を破壊し、餓えたゴルゴロス達は解き放たれた。そして全速力で逃げるために、馬を戦場からゴルゴロスを待機させていた場所までの距離を10分割し、その間に均等に配置さたのだという。
『ゴルゴロスは怒らせてはいけない。あの怪物共は怒らせた相手を死ぬまで追ってくるんだ』
酒の席でレンスターの兵士がポロっと口にした他愛の無い話を、エクスは頭の中にインプットしていたのだろう。身の丈4メートル(座らせれば半分になり、檻の中に収まる)にもなろうかという、銀の毛に覆われたゴリラに似たその巨大な怪物は、その兵士が言った通り、檻の中から解き放たれた後で延々とエクスリヴァを追ってきたのだった。エクスリヴァは馬を乗り継ぎ乗り継ぎ戦場に戻ってきた。最後に乗っていた馬はもちろん、エクスリヴァの愛馬「エンゲージ」であった。全身を真っ赤に染め、白馬に乗ってやってきた王子の姿は、完全にこの世のものとは思えなかったと、その場に居合わせた兵士達は口々に語った。
突然のエクスリヴァとゴルゴロスの急襲によって、完全な勝ち戦だと思っていたバルサゴス軍は途端に混乱に陥り、エクスリヴァの狙い通り、ゴルゴロスに向かって矢と魔法の雨を降り注がせ始めた。それによりゴルゴロス達は標的をエクスからバルサゴス軍へと変更し、バルサゴス軍の横腹に突っ込んでいった。戦列が崩壊したバルサゴス軍をレンスターの突撃部隊が突破し、圧倒的不利だと思われた戦いをエクスリヴァは押し返す事に成功した。戦の後の、レンスターの民、騎士、王の、エクスに対する賛辞の雨は神に対するそれを優に越えたものであった。大陸全土において、エクスリヴァといえば【バルムンクのエクスリヴァ】というのが一般的な認識であったが、レンスターにおいては【ゴルゴロスのエクスリヴァ】という二つ名が今でも使われている。
ユングヴィ城を出て、アシーナ軍に用意された居住区に到達すると、ナディア・ストーナーが二人を出迎えた。
「おかえりなさい」
ナディアはエクスの顔を見ながら頬を赤らめ、ニッコリと笑いながら、エクスの腕に腕を絡めた。一緒にいるレファーツには、一瞥すらしなかった。そしてレファーツは、それを気にもしない。
ナディアの右頬には、大きくて隠しようの無い刀傷がある。『いいのよ。この傷のおかげで、私はエクスを手に入れたんだから』かつてナディアはそう言った。ナディアはプリーストの見習いだった。
ある日アシーナ軍は、ベグニオンの廃砦に海賊が住み着いてしまったという報告を受け、その対処に出向かなければならなかった。しかしその時はちょうど人手が足りず、エクスリヴァはかねてからそういった際に同行したがっていたナディアの同行を許可したのだった。ナディアの髪と瞳はブラウンで、鼻筋はすらっと伸びてはいたが、周囲にそばかすが散っている。決して絶世の美女という訳では無かった。世間一般の価値観に照らし合わせれば『可愛いらしい女性』と言われてなんら差し支えない容姿ではあると思うが、彼女は王族でも貴族でも無い。大陸一の大国の次期王であるエクスリヴァとは、どうやっても釣り合う存在では無かった。
そしてベグニオンに到着する前の道中で、事件は起こった。エクスリヴァ達は山賊に急襲され、ナディアは顔に大怪我を負ったのだった。
ベグニオン砦に到着してみると、聞いていた話とは違い、その海賊達は大した略奪もせず、問題も起こさず、廃砦でひっそりと暮らしているだけだった。エクスはベグニオンの近くのクリミアの街と交渉し、海賊達を大工や木こりとして働かせる事を提案し、海賊達は喜んでその提案を受け入れた。かくして【ベグニオンの海賊騒ぎ】は一瞬にして終結したのだった。
つまりこの一連の話しはナディアにとってはあまりに不運だったと言わざるを得ないが、エクスはそれ以来、少々厄介な存在だと感じていたナディアを、頻繁に気にかけるようになった。その事にナディアは心の底から喜んでいたが、レファーツの目には馬鹿げた憧れとしか映らなかった。
『止めておけナディア。どうせ上手くいかない。上手くいったらいったで、それはそれで大きな問題だぞ』
エクスリヴァは、どの国の、どの大貴族でも、自分の娘との結婚を夢見て止まない血筋の持ち主だ。それがナディアのような一介のプリースト見習いと縁組を結ぶなどありっこ無い話だ。しかしエクスはナディアを好きにさせておく事に決めたようだった。
「俺の責任だからな」
かもしれなかった。しかし、そんな事を言いだしたら、エクスと轡を並べて戦い、戦場で散っていった兵士の中に、女が何人いたと思う?レファーツは言わなかった。その変わり、やんわりとナディアをエクスから遠ざけさせようと色々と裏で試みていた。『いいのよ。この傷のおかげで、私はエクスを手に入れたんだから』その考えは危険だ。しかし、もうナディアはレファーツの言葉に聞く耳を持つどころか、あからさまに無視するようになっていた。いつしかレファーツも、二人の関係に干渉しようという気はしなくなっていた。二人が今いったいどんな関係なのか、知らなかったし、知りたくもなかった。
「ふぅ…」
自室に戻ったレファーツは、ベッドに横になると、なんだかドッと疲れを感じてきた。しかしまだ、今日の訓練が終わっていない。エクスリヴァの従者となってから、レファーツは一日たりとも弓の訓練を怠った事は無かった。ベッドにこのまま寝転び続けたい欲求を抑え込み、壁に立て掛けていた【神器イチイバル】手に取った。
カートレーとアシーナの付き合いは、まだこの二国がユグドラル大陸に移住してくる前にまで遡る。
ユグドラル大陸に移住して来る前のカートレー国は、【禁呪】によって腐り果てた大陸と共に滅びゆく運命にあった弱小国であったそうだが、アシーナは縁もゆかりも無いはずのカートレーに対して、船50隻を提供した。もちろん船50隻程度では残っていたカートレー達全員を救う事は出来なかったが、それでもカートレーはアシーナに心から感謝した。船50隻分の人員は投票によって選別され、選ばれなかった者達は腐りゆく大地と共に死んでいく覚悟を決めたそうだ。船を作りたくても、腐れた大地には、そうするだけの木はもはや存在しなかったという。食糧もいずれは尽きるだろう。しかし彼等は満足だった。自分達の種は…カートレーの名は…これからも、新しい大陸【ユグドラル】で生命を紡いていくのだ、と。
そのような経緯があり、新大陸に到着した際、カートレーはアシーナへの恩に報いようと、ユグドラル大陸に先着していた海賊国家【ベグニオン】との戦いにおいて、死を一切厭わない戦いっぷりを見せたという。その姿に感動したアシーナは、アシーナの宝の一つであった神器【イチイバル】をカートレーに渡し、カートレーは、代々伝わる宝剣、神器【バルムンク】をアシーナに差し出し、これによって、この両国の友情は永遠になったのだと言われている。そしてそこから数百年の時を経て、今バルムンクはエクスリヴァの元にあり、イチイバルはレファーツの手元にある。この物語を思い返す時、レファーツは一種の気恥ずかしさのようなものに襲われる。カートレーと言えば今では弓術で世界に名を馳せる国ではあるが、レファーツの弓の腕は、カートレーにおいて最も優れているという訳では無い。ただ自分はカートレーの王族であるという事と、エクスリヴァの従者であるという事で、イチイバルを持たされる事になったのだ。イチイバルの存在は、正直レファーツにとってはちょっとした重荷だった。
「イチイバルはお前に語りかけたか?」
エクスリヴァはある日唐突にレファーツにそう聞いてきた。神に祝福されし武器は、自分が持ち主と認めた相手に語りかけてくるのだという。なんとも馬鹿げた話だとレファーツは思っていたが、エクスリヴァにそう聞かれたのならば、こう聞き返さない訳にはいかない。
「まだですね。王子のバルムンクは、王子に語りかけて来たんですか?」
「あぁ」
『エクスリヴァ王子は変わってしまった』という話になった時、それに異論を挟む人間は、昔の彼を知る者の中ではそう多く無い。エクスリヴァは元来、明るく、快活で、暇があればあっちこっちに出かけて行くような、人好きする性格であった。今のように、毎日思い悩み、怒りっぽく、部屋の中に閉じこもっているような人物では無かったのだ。人々は口々に、イングレア・アデラインの死が、エクスリヴァが変わってしまった原因であると噂した。確かにイングレアの存在は、エクスリヴァにとって掛け替えの無いものだっただろう。二人の関係を一番近くて眺めていたレファーツは、その事を誰よりも知っていた。彼女を戦場で失った事によって、エクスリヴァは心の平衡を失ったのだと人々は言う。しかし、レファーツの考えは違った。この長引く戦争を終らせるために、エクスリヴァはいずれ政略結婚に踏み切らねばならない事を幼い頃から重々理解していた。イングレアはセリノスという村の領主の娘。ナディアほどでは無いが、それでもエクスリヴァと釣り合う存在では決してなかった。
『俺は恐らく、ユネア・バルサゴスと結婚する事になるのだろうな。イングレアやアリエルと違い、ユネアは随分と奔放な感じの女性らしい。乗馬が好きで、良い馬を何頭も持っているんだとか。エンゲージを見せる事が出来たらきっと喜ぶだろうな。エンゲージよりいい馬というのには、俺も未だに巡り会えていない。エアリーもいい馬だったが、エンゲージに比べれば体力に難があった。まぁ名前はちょっと問題あるかもしれないけどな。【婚約】なんて名前の馬に、結婚する相手が乗ってたら、相手はビックリするだろう。まぁなんなら、エンゲージをユネアに差し上げる、なんて事になってもいいのかもしれない。それで世の中が上手くいくのなら、俺は喜んでそうするよ。早く戦争を終わらせないといけないよな。そうすればアリエルも自分の幸せの事を考え始めるだろう。あいつには苦労をかけているしな。とはいえ、アリエルと結婚する相手は悲劇だよ。あいつの生真面目さは一種の病気だ。マグノがアリエルに入れ込んでいるらしいが、何処がいいのやら…まぁマグノとアリエルがくっついてくれるなら、俺としては安心出来るけどな。まぁそれはどうでもいいさ。王族として生まれたからには、世界に対する義務がある。バルサゴスに息子はいないらしいし、アリエルには、せめて自分の好いた相手と結婚して貰いたいしな。その時が来れば、義務を果たすだけの話さ。それ以上でも以下でも無いよ』
このようなセリフを、エクスリヴァは何度と無くレファーツに語ったものだった。今にして思えば、エクスリヴァはレファーツにそう語る事で、自分に暗示をかけていたのかもしれないとも思える。自分はイングレアとは結婚出来ない…出来ない…出来ないのだ、と。イングレアの訃報が届いた時も、エクスリヴァは『そうか…』と小さく呟いただけだった。大きな悲しさの中に、ほんの少し安堵があったようにレファーツには見えた。
『イチイバルはお前に語りかけたか?』
もちろんイングレアの死がエクスリヴァに影響を与えていないとは思えない。しかしレファーツは、エクスリヴァが変わってしまったのは、バルムンクが語りかけたからなのでは無かろうかと思っていた。王子はバルムンクが何を語りかけてきたのかは教えてくれなかった。その時の王子の表情は、こう言わんばかりだった。『イチイバルに聞けよ』
カートレーとアシーナの付き合いは、まだこの二国がユグドラル大陸に移住してくる前にまで遡る。かつてイチイバルはアシーナのものであり、バルムンクはカートレーのものだった。そして今、バルムンクは王子の元にあり、イチイバルは自分の元にある。バルムンクは王子に語り、イチイバルは沈黙を保っていた。
(何故だ?何故お前は俺の手元にあるのだ?)
いくら訪ねても、イチイバルは答えようとしなかった。