プロミネンス (神官)①
「神託は下ったのか?神巫女フレアの新たな神託は?」
バイロン王の目は血走っていた。胸部にバルサゴスの神である【神竜サファイア】の紋章のついた蒼いダブレットを着込み、その上に真っ青なマントを羽織っていた。金色のブリーチズと牛革のブーツを履き、そしてそのどれもが酷く臭った。だだっ広く、客がいなければ特に使われる事の無い玉座の間は酷く肌寒く感じ、王の服についた悪臭が充満していた。ありがたい事に大便の臭いはしなかったが、小便が乾いた後の、鼻を刺すようなアンモニア臭は、玉座の間に続く廊下の、50メートル手前からでも感じ取る事が出来た。従者に磨かせているであろう金色の王冠だけが、虚しく輝いていた。
(狂っておられるな…相変わらず…)
プロミネンスの脳裏にある疑問が浮かび上がった。バイロン王はいったいいつから狂っているのだろうか?プロミネンスがバイロン王に初めて謁見賜ったのは、【最終戦争】が終結してから、かなり時間が経過してからの事だった。つまり、ごく最近なのだ。初めて王に謁見した時の衝撃は忘れたくても忘れられなかった。(コレが我等の王だというのか?コレが…?)
プロミネンスは自分の中の整合性を保つために『最終戦争で負けたショックで、頭がおかしくなってしまったのだろう』と解釈する事に決めたのだが、もしかしたらバイロン王は、とっくの昔、それこそ【最終戦争】の時から、既に狂っていたのでは無いのか?とプロミネンスは思った。事実は分からないが、だとすれば敗北は必定であり、そして彼のために戦った兵達にとっては、あまりにも悲劇的な話と言える。
プロミネンスはただのしがない神官見習いであり、戦場に出た経験も数えるほどしかない。そんな彼が戦場に出た時の任務は神聖魔法で傷ついた兵士達を回復させる事であったが、初めて戦場を目の当たりにした時、自分が使う魔法が『神聖』であるという幻想はすっかりと消え去ってしまった。
それはプロミネンスにとって忘れたくとも忘れる事の出来ない記憶だった。それはプロミネンスが戦に出て一番最初の負傷兵を回復させた時の話しだ。重症を負った名も無い兵士が、鎧を来たまま自分の目の前に運び込まれ来た。傷を見ると、明らかに火炎系の魔法にやられたようであった。プロミネンスは杖を高く掲げ、『神聖』魔法で彼を回復させた。するとその兵士はむくりと上半身を起き上がらせたはいいが、そこからガタガタと震えて泣き始めた。『戦場に戻りたくない。戻りたくない』そう言って泣き始めたのだ。もちろん、中には回復された瞬間に、敵に向かって突進していくような勇猛な兵士も沢山いる。しかし、多くの兵士にとって、戦場というのは恐ろしい場所であり、自分の使う癒やしの術は、彼等を再び戦争に送り返す事に一役買っているのだ。後にアシーナの聖女オクタヴィアの話しを聞いた時、プロミネンスは彼女に心底同情した。彼女は戦死してしまった自分の婚約者を、神器バルキリーで蘇らせ、そしてその婚約者はすぐにまた、戦場にて帰らぬ人となったという話だ。以来オクタヴィアは、聖女という肩書きを嫌い、なんと娼婦に身を落としたのだという。彼女は娼婦を続けながら『聖女と言われていた頃よりも、今の方が私は人を癒せていると思います』と語っているらしい。そしてこの話しは『神巫女フレア』の話と、何処か奇妙に呼応しているように感じられる。
王は今回も代わり映えのしない話しをプロミネンスに対して繰り返していた。王に呼び出された時はいつもこうなる。
『神巫女フレアの新たな神託は下ったのか?』
『フレアの機嫌はどうだ?』
『神託は無いのか?』
『もしフレアに万一の事があれば、お前の首をハネる』
『フレアは食事をちゃんとしているのか?』
『フレアは…』『フレアは…』『神巫女フレアは…!』
王が満足するまで、一通り話しを聞いた後、プロミネンスは最後にこう告げる。
「王、万事問題ありません」
問題は無いはずがなかった。フレアの健康状態は、依然として良くなってはいない。いつあの凄まじい発作が襲ってくるのか、いつも戦々恐々としているのだ。
今ではフレアは『神巫女』などと言われているが、ほんの数ヶ月前まで、彼女は一介の巫女でしか無かった。巫女の仕事というのは、神官と同様、負傷者や病人の治療であり、そしてもう一つは、一言で言えば、娼婦であった。しかし、それは戦場でなかなか役に立つ機会の少ない女性達にとっては、数少ない生きる手段でもある。もっとも、【バルサゴスの巫女】の歴史は古く、一般の娼婦とはなかなか比べられないものでもあるのだが。
ともかく、フレアが【神巫女】などと呼ばれだした経緯は、言葉で上手く説明出来る類のものでは無かった。フレアとプロミネンスは二人共ワーレンで育った幼馴染だった。引っ込み思案のフレアは、プロミネンスの一歳年下で、プロミネンスにやたらとなついており、いつも『プロム、プロム』と言ってプロミネンスに付いてきた。プロミネンスにとってもフレアの存在は妹のようなものであり、幼少期の二人の関係は理想的なものと言って良かっただろう。
ワーレンという土地柄、神官を目指そうと考えるのは別段珍しい事では無かった。大陸に一つしか無い大聖堂があり、魔術師ギルドの総本山があるワーレンという国において、魔法というのは常に身近にあるものなのである。そのような状況であるからなのか、ワーレンで生まれる子供達は魔法の適性を有する者が大半だった。腕っぷしに自信が無く、頭はそこそこ良いという若者は、大体の場合魔術師か神官を目指す事になる。そしてプロミネンスは神官を選んだ。人を攻撃する魔法を使えるようになるより、人を癒やす魔法を使う事が出来る方が、人間として正しいような気がしたのだ。もちろんその勝手な思い込みは、最初の戦場にて完全に覆される事になった訳だが。
プロミネンスが神官を目指すという話しを聞いた時、フレアの進路も殆ど自動的に決まったと言っていい。彼女もまた『癒し手』になる事を決意した。しかし、魔法に関してかなりの適性を示したプロミネンスと違い、フレアは初歩的な神聖魔法をやっと使えるといった程度であり、プロミネンスが順調に出世していくのとは裏腹に、フレアは地元でくすぶっていた。
ワーレンという国はバルサゴスと縁が深く、建国した当初から、戦争が起きる度にバルサゴスに侵攻されていた国であった。それ故に良くも悪くも、能力を持った人間はバルサゴスにリクルートされるというルートが確立されており、バルサゴスの調査網にプロミネンスもやはり引っかかった。プロミネンスとしても、バルサゴスに行く事に関して特に何の疑問も抱かなかった。
そしてバルサゴスで働くようになって、丁度一年ほどが経過した時だったか、フレアはプロミネンスの目の前に突然現れた。プロミネンスは突然の再会に喜んだが、話しを聞いていると、どうやらフレアは『巫女』になったという話だった。
『あはは!プロムの後を追ってきたなんて、そんな事は無いわよ!自意識過剰ね!』
と彼女は言ったが、プロミネンスにはどうしても、そうだとしか思えなかった。プロミネンスは、あの可愛いフレアが『巫女』となってしまった事で、この時初めて神を憎んだ。
それからプロミネンスは、頻繁にフレアに会いに行く事になった。『いけない神官さんね。まぁそういう人って結構多いけど』などとフレアの巫女仲間によくからかわれたが、フレアとそういった関係を持った事は一度も無かった。フレアは『私は別にいつでもいいけど』と言う素振りを時折見せたが、プロミネンスがそれになびく事は一度として無かった。今にして思えば馬鹿げた矜持だった。その無意味な頑固さが、フレアを巫女にしてしまった一端を担っていたというのに。
【最終戦争】の間はあまり会う事が出来なかったが、終結してからは再び会う時間が出来た。バルサゴス城は包囲され、鎖国状態に入り、完全に外界から寸断されていたが、食糧は潤沢に備蓄されており、プロミネンスとしては特に不自由を感じなかった。戦争の間に読みたくても時間が無くて読めない本が山のように溜まっており、それを毎日のように読み漁る日々が続いた。そして何よりも、フレアと会いたい時に会う事が出来た。そしてそんなある日、【ソレ】は唐突に起きた。城内の談話室でフレアと喋っていた時の事だった。
『え?何か言った?』
とフレアは唐突に言い出した。何も言っていない、とプロミネンスが返すとフレアはガタガタと震えだし
『プロム…私、何かおかしい!何かが聞こえる!!』
と顔面蒼白になり、床に卒倒してしまった。数秒のうちに身体の震えは尋常じゃないほど酷くなり、口から泡を吹き出して、失禁をしたが、それでも身体の震えは収まらず、プロミネンスはフレアが謎の病気にかかって死んでしまったと思い、泣きながら彼女の暴れる身体を抱きしめた。数分の間、そんな状況が続いたかと思うと、フレアは白目を向きながら唐突に何かうわ言のような事を喋り始めた。プロミネンスは、何を言っているのかは分からなかったが、彼女の臨終の言葉かと思い、それを聞き取れる範囲で紙に書き留めた。フレアは一週間意識不明の状態で、彼女を看病をしていた他の巫女達によると、その間に何度も何度も同じうわ言を呟き続けていたという。
一週間後、意識を戻したフレアに、プロミネンスが会いに行くと、フレアの様子が今までと違っていた。体重が5キロ程落ちたという話だが、どう見てもそれだけでは無かった。プロミネンスが知っている、屈託のない、無邪気で、純粋なフレアは何処かにいなくなってしまったようにプロミネンスは感じた。
それ以来、フレアは半ば狂ったかのようにプロミネンスの事を呼ぶ事が多くなった。城内の何も知らぬ人間達の間では『軟禁状態に耐えきれず、巫女の一人が発狂した』というような認識だったが、プロミネンスと、看病している巫女達は、どうやらそういう事でも無いという事はなんとなく理解していた。他の巫女達も彼女の事をもう看病し切る事が出来ず『彼女の事を自分で看てくれないか』と言われ、プロミネンスは許可を得てそうする事にした。
プロミネンスとの共同生活でフレアは多少元気を取り戻していたが、それでも一週間に1度くらいの割合で狂乱状態に陥った。狂乱状態は20分ほど続くが、特に大きな害は無かった。しかし発作だけはどうする事も出来ない、そして忘れた頃に、再び、あの発作が始まった。あとは同じ事の繰り返しだった。
肉体関係こそ無かったが、プロミネンスにとってフレアは『最愛の』と言ってもいい女性であり、その彼女がこのような状況に陥るのを見るのはあまりに辛いものであった。『もしフレアがこれ以上苦しむ事になるのなら、彼女の苦しみを終わらせて下さい』と神に祈った。フレアは相変わらず、呪文のようなうわ言を口から発しており、プロミネンスは再び、臨終の言葉なのでは無いのかとそれをメモした。その時、フレアの身体から、魔法を使う時に身体から生じる発光反応がある事にようやくプロミネンスは気がついた。
一週間後、フレアは意識を取り戻した。フレアの体重は、再び減っていた。フレアにプロミネンスが、痙攣をしながら口走っていた事のメモを見せると、フレアは『そのメモは捨てた方がいい』とだけ言った。何故そう思うのか?何か記憶があるのか?とフレアに問うと、フレアは『記憶は残っていないけど、なんとなくそんな気がする』と答えた。
図書室にて、フレアが『捨てた方がいい』と言っていたメモを広げ、過去に失われた言語を調べた。何か魔術に関連があるのではないのか?と思ったのだ。魔法を使う人間にとって、未知の魔法というのは当然気になる事柄の一つだ。もちろん、城内にカンヅメで、特にする事が無かったという事もある。そしてそこに新宰相ゲーマルクの一番弟子という噂の、ウルバラーンという魔術師が通りかかった。ウルバラーンはそのメモを手に取り『これは一体何なのだね?』とプロミネンスに聞いた。
『私もそれを調べているんです』
とプロミネンスが返すと、事の次第を詳しく話してくれ、と言い出し、プロミネンスはそのようにした。
翌日、ゲーマルクとウルバラーンがプロミネンスの部屋に訪れ、フレアを何処かに連れて行った。しばらくして兵士が一人、プロミネンスの部屋に来て『すぐに来て下さい』と言い出し、プロミネンスはその通りにした。連れてこられた部屋に入ると、フレアは半狂乱で泣き叫んでいた。
『何事ですか?!彼女に何をしたんです?!』
とプロミネンスはゲーマルクに食って掛かると、ゲーマルクは表情をピクリとも変えず
『お前がこの娘の保護者という訳なのだな?』と聞いた。そうだ、と答えると『お前はこの娘から決して目を離してはならない。この娘が喋った事は、全て私に報告しろ。もしこの娘に何かあったら、お前を死ぬよりも苦しい目に合わせる』と言い出した。プロミネンスは意味が分からずその場に立ち尽くしていると、フレアが泣きながら抱きついてきた。ゲーマルクは
『もし必要な事があるなら私に言え。何でも遠慮なくな。出来る限り手配してやろう。しかし、この娘の事は決して目を離すな。決してな。分かったらその娘を連れて帰れ』
と言った。プロミネンスは言われる通り、部屋に帰った。
そして一ヶ月ほどが経過した時、バイロン王は大広間に城内の人間を可能な限り集め、こう宣言した。
『神巫女フレアに神託が下った。神は我等に勝てと命じておる!そのために力を授けてくれた!我等に【禁呪】を授けて下さったのだ!我々は再び決起する。【禁呪】にて、奴等を八つ裂きにするぞ!』
今思えば、あのフレアの言葉が【禁呪】の呪文であるという可能性を、まるで考えなかった自分が全く理解出来ない。何せウルバラーンはあのメモを手にとった瞬間に、その可能性に気がついたのだ。自分の鈍感さが、巡り巡って禁呪の復活に繋がり、世界を再び混乱の渦に巻き込む事になるなどという事を、あの時は想像もしていなかった。
「万事問題無いと言ったなプロミネンス。その言葉信じるからな。儂に嘘を付いたらどうなるか、分かっておるだろうな。まぁ問題無いならば良い。神巫女フレアの元に戻れ。彼女の言葉の、一言一句を聞き逃してはならぬぞ。彼女の言葉は神の言葉。必ずやバルサゴスに勝利をもたらしてくれる」
「王のおっしゃる通りです。それでは下がらせていただきます」
適当な挨拶をして、プロミネンスは玉座の間を後にした。ようやく悪臭から解放された。フレアの元へと戻る前に、一度身体を洗った方がいい。自分に王の尿の臭いがまとわり付いていると思うと、当然不愉快になる。そしてそれはプロミネンスに限った事では無い。だから今では誰も、バイロン王に謁見賜りたいと思う者はいなかった。謁見の間中、プロミネンスはずっと考えていた。世界は破滅に向かっている。噂によると、敵国の総大将であるエイルデン・アシーナ王もまた、精神を病んでしまっているという話しだった。それにより、今では娘のアリエル・アシーナがアシーナの実権を握っているという。なんとも笑える話しだとプロミネンスは思う。狂った王が南北に分かれて、世界を巻き込む戦争を行っているのだ。いっそこんな世界は滅びてしまえばいいとプロミネンスは思う。そうすれば、フレアの苦しみも終わる。自分の苦しみも終わる。それでいいでは無いか。もし世界が滅びるならば、その責任の1割くらいはバイロン王にあると言っていい。そしてもう1割は、エイルデン王に与えよう。そして恐らく、世界が滅ぶならば、半分くらいは自分の責任であるとプロミネンスは考えていた。あの時メモを取らなければ…フレアに何も聞かなければ…ウルバラーンにメモを見られなければ…フレアに出会わなければ…神官を目指さなければ…生まれて来なければ…しかし全ては後の祭りだ。時計の針を元に戻す事は出来ない。今やらなければならない事は、フレアの元に帰る前に、身体を綺麗にする事だ。
「プロミネンス?」
浴場へ向かう廊下の途中で、突然背中から投げかけられた幼い少女のような声に、プロミネンスは自分の胃がきゅっと縮むのを感じた。声の方向へと振り返り、プロミネンスは一礼をした。
「ユネア様、おはようございます」
ユネア・バルサゴスはバイロン王の一人娘だった。彼女はまだ成人したばかりで、プロミネンスの4歳年下であった。ハート型の顔と鳶色の髪。目は決して大きくなく、狐のようなつり目ではあったが、髪の毛と同じ色の瞳の輝きは、彼女の目を通常よりも大きく感じさせた。やや上向きの鼻を本人は気にしているようだが、ユネアを見た男達の中に、彼女を『醜い』と言う者はいなかった。身につけている深い青色のドレスは、バルサゴスの色だ。
「ん?お前もしかして、父のところにいたの?臭うわよ…?」
もちろんそうだろう。バイロン王が放つ異臭は日に日に酷くなっていくし、今日の謁見は無駄に長かった。臭いが付いていないと考える方が無理がある。玉座の間において、王を警護しているアーマーナイト達に、以前うっすらと王の警護について話しを聞いた事があった。アーマーナイト達は『お上品な神官様にゃ分からねぇだろうが、訓練の後の俺達のアーマーも、なかなかの臭いだぜ。しかも俺達は、その甲冑の中で、戦ともなれば何時間も耐えなけりゃならねぇ。バイロン王の臭いを我慢するのも、まぁ一種の訓練だな』と笑っていた。アーマーナイトを『堅い、強い、遅い』と言って馬鹿にする連中もいるが、プロミネンスはアーマーナイト達を心から尊敬していた。
顔を上げてユネアの顔を見ると、ユネアはいつものように、何かイタズラを思いついた猫ような表情でプロミネンスを見ていた。そして実際、思いついたのだろう。ユネアは自分に嫌がらせをしたくなった時しかプロミネンスの前には現れない。目の前にユネアが現れたということは、即ち自分に災難が降りかかるという事を示していた。
「フレアの面倒をみろ、と、陛下は命じられました」
「愛しのフレアね…あの娘まだ死んでなかったの?早く死んじゃえばいいのにね」
ユネア姫はいつもフレアの事をこのようにくさす。彼女のフレアに対する嫌悪はプロミネンスには全く理由が分からなかった。一介の巫女が『神巫女』などという特権を獲得した事が、『姫』という特権を有するユネアにとって気に入らなかったのだろう、とプロミネンスは解釈していた。
「フレアの面倒を見るのが私の役割です。王はフレアが死ぬような事があってはならないと、私に厳命しております」
「でも、こっちはフレアの部屋とは反対側よ?何処に行くの?」
「湯浴みに…」言いたくなかった。「行こうかと思っております…」
「そう…湯浴みね。それがいいわね。お前はその辺の慎みがあるところがいいところだと思うわ。城の中には、父と会った後だというのに、風呂に入ろうとしない人も結構いるの。おしっこの臭いを撒き散らしながら、その辺を歩いているのよ、信じられないわよね」
「皆忙しいのです。王と会う度にいちいち湯浴みをする暇が無いのですよ」
「お前のように?」捕まった…とプロミネンスは思った。「お前のように暇じゃ無いって訳ね。お前は今、比較的暇だから、お風呂に入りに行くって訳ね?」
「まぁ…そういう事になります」
「なるほどねぇ~…」
ユネア姫がわざとらしくモノを考えているかのような仕草を見せる。(殺すなら早く殺せよ)とプロミネンスは思う。
「じゃあ湯浴みが終わったら私の部屋に来なさい。ん?いや、やっぱり私もお風呂に入った方がいいかしら。さっきまで内郭で馬に乗ってたから、少し汗をかいてるかも。どうかしら?臭わない?」
ユネアはプロミネンスに『嗅いでみろ』と言いたげに手を差し出した。どうしたものかとプロミネンスは考える。
「私の方が臭いますので、ユネア様の臭いは判断しかねます」
「確かにそうね。じゃあここからはあんたの好みの問題ね。どっちにする?お風呂上がりの私と、お風呂に入っていない私、どちらがいいかしら?」なんという質問だろうか。プロミネンスはこの会話が誰にも聞かれていない事を心の中で強く願った「ん?どうしたの?あなたの好みに合わせてあげるって言ってるのよ。好きな方を選びなさい」
「ご一緒しましょう」
プロミネンスはそう答えた。とにかくこの会話を終わらせる事が先決だと判断した。何処で誰が聞いているのか分かったものではない。
「あらそう?いいわ。そうしてあげる。でもこの前、お前は汗臭い私も魅力的だと言ってくれたと思うんだけど、アレは嘘だったの?」
「参りましょう」プロミネンスはユネアの質問に答えなかった。
「じゃあちゃんとエスコートしなさいよ。気が利かないのね」
「臭いますゆえ…」
「それくらいは我慢してあげるわよ。お前が粗相をした訳じゃないんでしょ?それともまさか、お前のおしっこの臭いなの?汚いわね」
「それは違いますが、あまり近づくと、せっかくのサファイア色のドレスに臭いがついてしまいます。」
「知ったこっちゃないわ。ドレスなんて、部屋に何百着もあるんだから。サファイア色のドレスって、私がそんな事を気にして、このドレス着てると思ってるのね。関係無いわ。適当にその場にあったのを引っ掴んだだけなのよ。そもそも青のドレスって私にあまり似合わなくない?どっちかっていうと、もうちょっと暖色系の色の方が合っていると思うのよ。あんたはどっちが好き?」
「…どうでしょう。ユネア様は何を着てもお似合いになっていると思います」
「また下らない事言って…お世辞にもなってないわよ。女ってのは毎日毎日自分の事を美しいと思われるように努力してるのよ。お前のその発言は『女の努力に何の価値も見いだせません』と言っているのと同じなのよ。分かる?」
「申し訳ありません。勉強になります」
「そうよ、もっと勉強しなさい。後で私の部屋に来たら、色々と勉強させてあげるわ。うん。それがいいわね。いきなりベッドに入るってのもなんだか味気ないし、あんたが好きなドレスを着ながらやっていいわよ。その方が興奮するでしょ?」
「どうでしょうか、その時になってみなければ、判断しかねます」
「何よその返しは。こんな事言いたくないけど、私が何百着もあるドレスを着比べて見せるような相手って、今のところあんたしかいないんだから、ちゃんと自分の立場をわきまえて、私に協力しなさいよ。全く嫌になっちゃうわ。ドレスも化粧品も髪飾りも、ありとあらゆるものが部屋にはあるけど、それを見せる相手は何処にもいないんだからね。いつになったら城の外に出れるようになるのかしら?私はここで、誰とも会う事なく、女が一番美しいとされる期間を無駄に浪費して、誰からも相手される事なく、老いさらばえて死んでいくのよ。父がまた戦争を始めたせいでね。そうでしょ?」
「ユネア様には、きっと素晴らしい縁談が見つかる事でしょう」
「そんな訳無いでしょ」
「バルサゴスの姫と結婚したい貴族は多いはずです」
「あはは!嫌われ者のバルサゴスの娘と?でまかせ言うのももっとちゃんと考えてからにしなさいよ。仮にいたとしても、太って禿げた馬鹿貴族の息子よ。ねぇ知ってる?一瞬だけ私、エクスリヴァ・アシーナとの縁談の話しがあったのよ。そしたら元老院のジジイ共、『これは何かの罠に違いありません』とか言って、勝手に断っちゃったのよ。まぁ確かに、何だってあのエクスリヴァ・アシーナが私と?って私も思ったけど、アシーナって、あの国ちょっとおかしいでしょ?うちもおかしいけど、あの国もちょっと異常よね。平和平和、平等平等って、馬鹿の一つ覚えみたいに言ってるじゃない。そのくせ世界最強の軍隊を持っているし、世界最大の娼館を持っているし、やってる事がしっちゃかめっちゃかじゃない?でもほんのちょっとだけ想像しちゃったわよ。エクスリヴァと結婚するって。私は顔を見た事が無いけど、結構美形だって話よ。それに何より、彼の馬は世界一の馬だって話。なんて名前だったかしらね。ウェディングとかそんな名前だったと思うけど。まぁエクスリヴァとだったら、私も結婚してやっても良かったかもしれないわね。あはは、どう?嫉妬した?私が他人のものになるなんて、お前は嫌でしょう?」
「…はい」プロミネンスは無表情に答えた。
「あはは!嘘って顔に書いてあるわよ。酷いのね。結局あんた、私の事なんて厄介者くらいにしか思っていないんでしょう?」
「姫と私では身分が違います故、こうして一緒に歩いているのも本来ならばおこがましい訳ですから…」
「こんな状況で身分もクソもありゃしないわよ。何せ国のトップの王様がおしっこ臭いんだから。おしっこ臭い王の娘として、大陸に名が轟かないように祈りたいところね。ところでお風呂だけど、一緒に入らない?」
「流石にそれは出来ません」
「あはは、でしょうね。じゃあお風呂からあがったら、直接私の部屋に行っていなさい。私の方が多分長風呂になるわ。女は色々とやらなきゃいけない事があるのよ。ムダ毛の処理とかね。それとも毛があった方が興奮する?そういう男の人もいるって聞いたわ。あんたはどっちなの?」
「…考えた事がありません」
「あらそう?じゃあお風呂に浸かりながら考えておきなさい。今後の参考にするから。それじゃね」
ユネアは女湯に消えていった。
プロミネンスが、フレアが待っている自室に戻った時、時刻は既に【ネールの刻】を回っていた。
「プロム…遅かったのね。何処に行ってたの?すぐに帰ってくるといったのに、なかなか帰ってこないから、心配したのよ?」
ベッドに横たわるフレアは身体を起こしながらそう言った。どうやら本を読んでいたらしい。
「すまない…王の命令で、ちょっと緊急の仕事が入ってしまってね。ご飯はもう済ませたのか?少し汗をかいているな。服を着替えた方が良さそうだ」
プロミネンスはフレアの身体を抱き起こした。
「石鹸の臭いがする…お風呂に入ってたの?」
「仕事で汗をかいてしまったからね」
「私、男の人が汗臭いのって好きよ」
「そうなのか?知らなかったな」
プロミネンスはフレアの服を脱がせて、下着だけになったフレアの身体を濡れタオルで拭き始めた。フレアの身体には少し肉がついてきたような気がする。これはいい傾向だ。最近は発作を殆ど起こしていないが、恐らく発作は忘れた頃にまたやって来る。そしてフレアの体重は、その度に5キロも6キロも落ちてしまう。突然の発作に耐えるために、身体に力をつけなければならない。フレアに対するプロミネンスの対応は、出産を控える妊婦のそれに似ていた。出来れば運動も少しさせたかった。以前から適度な運動として乗馬をさせたいと思っていたが、厩舎や内郭にはユネア姫がしょっちゅう出入りしており、プロミネンスとしてはあまり頻繁に出入りしたい場所ではなかった。フレアとユネアを会わせるのは、出来るだけ避けたい。
「最近は割と調子がいいようだ。食事も残さず食べるようになってきたし、健康になってきているって事だな」
フレアの身体を拭き終わったプロミネンスは、新しいパジャマをフレアに着させながら言った。
「そうかもね…でももうすぐまた発作が起こると思うわ。何だか分かるの。だから…こんな事言ってごめんね。出来るだけあなたに近くにいて欲しいのよ。発作の時って、プロムは私の事抱きしめてくれているでしょ?あれって物凄く助かるのよ。発作の時って、殆ど意識が無いんだけど、プロムに抱きしめてくれていると、自分と世界がまだ繋がっているように感じるの。発作の時は、自分の身体が世界から消えちゃったみたいに感じるのよ。自分はこのまま、何処かに連れて行かれてしまって、そのまま戻ってこれないんじゃないのかと思うの。簡単に言うと、多分死んじゃうって事なんだろうけど。でもそれとはちょっと違う気がするの」
フレアの言葉は逐一メモを取り、全て報告するようにバイロン王と宰相ゲーマルクには言われていた。しかし当然の事ながら、プロミネンスは王と宰相に上げる内容を自分なりに選別していた。一度あまりにプロミネンスが大した情報を上げてこないからという理由で、フレアは完全監視体制におかれたが、フレアはその時一切何も喋らなくなってしまい、結局プロミネンスの部屋に戻される事になったのだった。プロミネンスは今聞いているフレアの話の内容を、上にあげるべきかどうか考えた。
「つまり、君が言いたい事は、あまり部屋から離れるなっていう事だな?」
「うふふ、そうかもね」
「悪かったよ、でも王の命令だったんだ。王の命令には、どうしても従わなくちゃならないんだ。今後は王に頼んで、出来るだけ今日みたいな事は無いようにするよ。それに僕も、君と同じで、決して城内から出る事は無い。何も起こりはしないよ。何も心配しなくていい。いいね?」
プロミネンスはそう言って、フレアの頬にキスをした。
「キスだけ?他には何もしないの?」
「昨日しただろう?今日は身体を休ませなければならないだろう?」
「私は大丈夫よ。さっきあなたが言ったじゃない。体力が戻ってきてるって」
正直に言えばプロミネンスの方が、先程ユネアの部屋で散々絞られて体力が無かった。
「じゃあ一緒に寝て頂戴。寝るまで一緒にいて」
「構わないよ。僕も着替えるから、ちょっと待っててくれ」
フレアは寝息をたて始めた。身体はグッタリしているはずなのだが、なかなか眠りがやってこなかった。フレアの先程の言葉を思い出す。神託は降りる。いや、それが本当に神託なのかどうかも、もはや判断が出来なかった。熱にうなされながらフレアから発せられる数々の言葉が、本当に神の言葉なのだとしたら、どうして世界を滅ぼしてきたと言われる禁呪等を我々に与えたのか?そして何より、どうしてフレアをこんなに苦しめるのか?そこが全く分からず、そして決定的に気に入らなかった。我々人間には分からない、人智及ばぬ何かが存在する事は疑いようが無かった。それをフレアは証明していた。しかし、それが良い存在なのか、悪い存在なのか、それは全く判断が出来なかった。
『お前はいったい誰だ?!』
ガクガクと痙攣しながら、謎の言葉を発するフレアに、プロミネンスは何度も問いかけた。『誰なんだ?!何者なんだ?!何が狙いだ?どうしてこんな事を?!』返事は無かった。
【人智及ばぬ力】と、人は軽々しく口にする。しかし、本当にその力を目の当たりにした時、我々はそういった力をこう理解する。『手に負えない』と。手に負えないからこそ、人智及ばぬ力なのだ。祈りを捧げようが、供物を捧げようが、生贄を捧げようが、彼等を制御する事など出来はしなかった。彼等は彼等のやりたいように我々に干渉し、彼等のやりたいように振る舞うのだ。
幼い頃に強く抱いた神への信仰心は、既に霧消していた。そんな自分に【彼等】はフレアを通して語りかける。狂熱から醒めた時、フレアは何も覚えていないと言っていた。本当に何も覚えていないのかは判断出来ないが、もしそれが本当なのだとすれば、奴等は【私に】語りかけているのだ。フレアを通して、フレアのこちら側にいる我々に、あちら側の存在は語りかけている。それは即ちこういう事だ【この力を使え。禁呪を使え】。そして禁呪を使うという事は世界の破滅を意味する。これは何かの罰なのか?神は怒っているのか?そうだったらいいと思う。罰だったらいいのに。神は怒っている。信仰を失った自分に対して、戦いをやめようとしない人類に対して、怒り、苦しめてやろうと思っている。そうであればいいと心から思う。しかし、きっと、我々に対して起こっている諸々の出来事に、意味など無いのだろうと思う。それが恐ろしかった。少なくとも我々が理解出来るような【怒っている】だとか【試している】だとか、そういう類の話では無いのだろう。先程のフレアの話しを聞きながら、プロミネンスは改めてそう感じていた。
今も何処かで、誰かが戦っているのだろう。明日もまた戦いが起こる。その戦いの戦死者の何人かは、【禁呪】によって焼かれるのだろう。フレアは自分のうわ言が、【禁呪】であった事は知らない。知らないように、プロミネンスが固くプロテクトしていた。それに、よしんばそれをフレアが知ったところで、フレアに罪は無い。罪があるとしたら、それは自分だった。いったい何をすれば償えるのだろうか?ゲーマルクを殺す?バイロン王を殺す?それで償えるのならばやっても構わない。しかし、そんな事は何にもなりはしない事は良く分かっていた。
フレアの寝顔は穏やかだった。それだけがプロミネンスの心の救いであった。結局結論はいつも同じだった。『フレアのために生きよう』。
自分には世界の行く末を見届ける義務がある。世界を滅ぼした人間の一人として。
そしてそれは同時に、フレアの行く末を見届ける事と同じ事なのではないのかと、フレアの寝顔を見ながらプロミネンスは感じていた。