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LICHTGESTALT   作者: マセ
4/8

シグマ (アサシン) ①

挿絵(By みてみん)



 『間違いないな…城内にアサシンがいるぞ!』


 アサシンには大きく分けて2種類いる。敵の中に紛れ込み、味方のフリをして仕事をするタイプと、敵に気付かれないように、影に隠れて仕事をするタイプだ。そしてシグマは後者だった。そもそも敵の中に紛れ込むタイプのアサシンを、シグマは自分と同類だとは認めていなかった。

 シグマのようなアサシンになる訓練は当然の如く熾烈を極める。選ばれるのは地味で、目立たず、暗く、友達もいない。そういう種類の人間、そういう種類の子供だ。そしてシグマはそういう子供だった。

 現在潜入しているバルサゴスがどうしようもない事も手伝って、アシーナという国の掲げる理念は過剰に美化されている部分がある。人間の権利の平等性、女性の権利の遵守。それは別に構わないとシグマは思うが、しかし、戦争というものが歴然と目の前に存在する以上、理想主義にも限度というものがある。そしてその限度、限界の象徴とも言える存在が、シグマのようなアサシンと言えるだろう。

 シグマはフェニキスの貧民街で生まれた。父親も母親も知らない。気がついた時には捨てられていた。貧民街には貧民街のルールというか、秩序のようなものがあり、餓えて死ぬような事は無かった。それだけは保証されているらしかった。だからこそ逆に、親達は平気で子供を捨てる。恐らくこの構造の裏にはアシーナの存在があるのではないのかと思われる。フェニキスはアシーナの影だ。アシーナの連中は、何か良からぬ事をしようと思う時、フェニキスにそれを押し付ける。貧民街に捨てられた子供というのは、生まれながらにしてアサシンに必要な特性を有する存在だ。突然いなくなっても死んでも、誰も騒がない。

 ある日突然、知らない大人が迎えに現れ、シグマの貧民街での日々は唐突に終わりを告げた。その大人達は紫色のフード服を着て、フードをいつも被っていて、顔は良く見えなかった。そして面は、貧民街の子供がありつく事など決して無いであろう、甘いお菓子で子供達を釣る。甘いモノというのは毒だとシグマは思う。今では甘いモノなど世間には溢れているが、もし本当に甘いモノが殆ど無かったら、人間はそれのために戦争を起こすのではなかろうか。貧民街で、ネズミの肉の入ったスープがご馳走であるような子供達が、甘いモノの誘惑に抗う事など決して出来ないだろう。あの時の味が忘れられず、シグマは今でも甘党であり、それが自分の最大の欠点であり、最大の恥だと自覚していたが、どうする事も出来ない。確かなものなど何も無い世界の中で、甘いモノは美味いという事だけは事実だ。

 菓子を食べさせてもらったのは最初の三日だけだった。その後は地獄が待っている。目をつけられた子供達が、自分が一体何故そのような仕打ちを受けねばならないのか分からないうちから、訓練はスタートされていた。

 シグマは、当時4歳だったはずだ。他の子供達も似たようなものだと思う。フェニキスは森に囲まれた城であり、それ以外に大した特徴は無い国であると思われているようだが、その森の中には、色々とおぞましい秘密があるのだ。馬車に揺られ、辿り着いた場所は、古ぼけた妙な建物だった。壁は白く、窓は全て鉄格子で遮られ、出口は一つしかない。その建物の前にある広場に集められた子供の数は、恐らく15人程だったのではないのかと思われる。その中の大半は男だったが、女も3,4人はいたはずだ。

 まず【教官】と呼ばれる人攫い連中に、子供達は視覚を奪われる事になる。他の器官を発達させるためだ。そして他の器官を発達させるには、年齢が幼ければ幼いほどいいと教官達は考えているようだ。当然、目を潰されたりする訳でもなく、専用の目隠しをされるだけだが、それでも4歳かそこらの子供達にとって、視覚を奪われるのは途轍も無い恐怖だ。子供は泣き叫び、その目隠しをどうにか取ろうとするが、その度に、教官の鞭が、子供達の二の腕に見舞われる事となる。子供達がその境遇を受け入れるようになるまでには、それなりの時間が必要になる。受け入れる主立った理由は、順応でも、服従でもなく、絶望だ。絶望に至るまでの長い長い時間を、子供達は泣きはらしながら過ごす事になる。何処からともなく聞こえてくる、同じ部屋の中にいるであろう子供達のすすり泣きの声は、今もシグマの耳にこびりついている。

 そして目の見えなくなった子供達は、そこで様々な言語について学ぶ。二ヶ国語、三ヶ国語。ユグドラルの原住民達の使っていた言葉。鳥や動物、虫の鳴き声。そして音楽についても学ばされるが、とはいえ覚えが良かったからと言って、特に褒美は無い。覚えが悪かった場合は、当然鞭だ。シグマはそれほどでも無かったが、同じ部屋の中には、想像を絶するほど物覚えの悪い子供が2人ほどいて、毎日のように鞭を食らっていたものだった。シグマはその二人の事を【馬鹿】と【ボケ】と心の中で呼んでいたが、今思えば何故【馬鹿】と【ボケ】は教官達に選ばれたのだろう。まぁ利口かどうかは外見では判断出来ないというだけの話かもしれない。

 自分が何処にいて、何をさせられているのか、子供達はまるで分かっていなかった。子供同士の間での会話は特に制限されている訳では無かったが、自分の出自などに関する事を話そうとすると、途端に教官が会話に割って入ってきた。目の見えない子供達にとって、教官は化け物のような存在だった。何処にもいないように見えて、必ずそこにいた。部屋の隅なのか、壁の裏側なのか、或いは天上にへばりついているのかもしれない。とにかく教官は、いつでもそこにいて、子供達の会話に耳を傾け、どれほどのひそひそ声も聞き漏らしてはいないようだった。それでも子供達は、自由時間になれば言葉や音だけで遊べる遊戯などを自分達で考えたりして、余暇を過ごした。

 自由の代償、という訳では無いのだろうが、食べ物だけは良かった。時は戦乱の世。腹いっぱい食べる事が出来る子供達など、殆どいない中、彼等は栄養満点の食事を、腹いっぱい食べる事だけは出来た。おかわりも特に制限なく貰う事が出来た。

 しかし、それも罠だった。

 光を奪われた子供達にとって、食事の時間は何よりも嬉しい時間だ。無邪気に口の中に、与えられた食事を放り込む。しかし、ある日の食事に、毒が入れられていた。

 この罠を回避出来る子供はいない。もちろん死なないように注意深く計算された毒だったのだろうが、子供達は何日も何日ものたうち回る事になる。『何故自分がこのような目に遭うのか!』そんな事すら、苦痛で考える事は出来ない。無明の闇の中で、毒に苦しみ、自分が生きているのか、死んでいるのかも分からなくなる。そして【馬鹿】と【ボケ】の二人が死んだ。いや、今思うと、教官達が死んだという事にしたのかもしれない。とにかく二人は部屋の中からいなくなったのだった。【馬鹿】と【ボケ】は教官達としても、いらない素材だったのかもしれない。本当の事は分からないし、今となってはどちらでもいい話だ。

 その事があってから食事の時間は恐怖の時間となる。毒が入っているのか?入っていないのか?注意深く子供達は探る事になる。ケーキを恐る恐る口の中に放り込む、なんだ?この塊はなんだ?クルミか?レーズンか?それとも毒か?毒なのか?歯ごたえがある。レーズンでは無いだろう。ほんの少し、ヒビを入れるくらいに噛んでみると、香ばしい香りが鼻を突き抜ける。クルミだ。これはクルミだ。カリカリと噛み砕く。そしてもう一口。コレは何だ?コレもクルミなのか?

 実際は、その一回以降、毒が盛られる事は無かったのだが、子供達は、自分の飲む水に、口にいれる食料に対して、途轍もない警戒心を抱くようになった。頼りは自分の耳、自分の鼻、自分の舌、自分の手の感覚、そして、周囲で一緒に飯を食べている、仲間達の反応だ。一度聞いた音を、一度聞いた臭いを、一度感じた味を、一度触った感触を、頭の中に叩き込む必要がある。そうしなければ、いずれ死んでしまう事になるかもしれない。


 (恐らく)一年。目隠しが取られる。満天に広がる星々は変わっていないように見えたが、周囲の子供達は全くの別人になっていた。背が伸びたとか、そういった事を言いたい訳ではない。虚ろな目、5日も寝ていないような目。黒く、落ち窪んだような、暗い、暗い目。それは即ち、アサシンの目、という事になる。久しぶりに5感の全てがシグマ達に戻ってきたが、その感動よりも、自分が目の前にいる、死人のような顔をした子供と、同じ目をしているのだろうという事が、シグマにはショックだった。人数を数える。8人。分かっていた事だが、子供達の人数は半分ほどに減っていた。


 そして次は、聴力を奪われる。視覚を奪われた時、殆ど世界の全てと言っても良かった、音の世界を、子供達は奪われる。今まで耳を使ってやってきていた事を、これからは目を使ってやる必要がある。一度見たモノを徹底的に頭の中に叩き込む。全ての一瞬を、絵画のように思い出せるように訓練しなければならない。全ての人間の、唇の動きに注意を払う必要がある。耳がまだ聞こえていた時に聞いた話しでは、南西にあるアラフェンという国では、色と香りと味を確認するだけで、何処産の何年物のワインなのかを当てる『そむりえ』とかいう、謎の職業があるのだという。恐らく、サーカスの見世物みたいなものなのだろうが、そんな事で他人から称賛を浴びる事が可能ならば、自分もまた、『そむりえ』の技術を習得するのも悪くは無い。それ以外には、短剣や暗器の扱いの稽古と、読み書きの勉強くらいしかやる事は無いのだから。恐らく、また一年だ。恐らく次は嗅覚を奪われるのだろう。その時までに自分は『そむりえ』になっている必要がある。もっとも、飲み比べるためのワインは、手元には無かったが。

 視覚を奪われた時のような恐怖心はもう無かったが、それでも不自由には違い無かった。子供達はまず、自分の部屋の中にいる子供達の顔を、一様に頭の中に叩き込んだ。教官の顔も叩き込んだ。コレからどんな情報が必要になるのかを、子供達は本能と、一年前に、突然光を奪われた経験から学んでいた。怪物だと思っていた教官達は、紫のフード付きのローブに見を包み、目から上はあまり見えなかったが、どうやら普通の人間ではあるようだった。全部で5人の教官達が順々に子供達の面倒を見る事になっているらしく、5人とも殆ど初老で、5人とも、子供達よりも更に暗い暗い目をしており、その視線は、シグマに話しかけている時ですら、何処を見ているのか良く分からないほど、焦点が定まっていないように見えた。目隠しをされ、声と臭いに頼っていた時に抱いていた顔のイメージと、頭の中で描いていた他の子供達のイメージは想像以上に違っていた。【馬鹿】と【ボケ】は、常に鼻水を垂らした坊主頭を想像していたが、もしかしたら、そのどちらかは、案外見目の悪くない子供だったのかもしれない。

 耳に頼りすぎたせいもあるのか、他人と視線が合う、という事が、シグマにはどうにも居心地の悪いものになっていた。視線が合うとドキッとするのだ。特にハニーブロンドの髪と、青い吸い込まれるような目と、ハート型の顔を持つ、【ゼータ】という女の子と目が合うと落ち着かない気持ちになる。そして他の子供達よりも、ゼータとは頻繁に目が合うような気がする。

 耳が聞こえない事の一番のストレスは音楽が聴けない事だった。目隠しをされていた一年間、時間を知らせるのに音楽が用いられていた。起床時間、就寝時間、食事の時間、運動の時間、勉強の時間。そのそれぞれの時間の前に何処からともなく音楽が鳴り出し、吟遊詩人が謳い出すのである。シグマはいつの間にか、大の音楽好きになっていた。無明の闇の中で、何処からともなく聞こえてくる、吟遊詩人の歌声が、彼の何よりも慰みになっていた。吟遊詩人は入れ替わり立ち替わりになっているらしく、美しい歌声の者が大半だったが、中にはとんでもないヘボも混じっていた。しかし、どんなにヘボな歌声の吟遊詩人の歌も、シグマは存分に愛した。シグマもたまに、彼等を真似して歌おうとすると、教官に鞭で叩かれたが、それでも気が向いた時は、叩かれる事を覚悟でまた歌った。そしてシグマは自分の歌声が大したモノでは無い事は自覚した。

 シグマは気がつけば、一度聞いた音楽を、頭の中で繰り返し繰り返し流す事が出来るようになっていた。一度聞いた詩を、聞いた通りに諳んじる事も可能になっていた。シグマは誰と比べた訳では無かったが、自分の聴力が他の人間に比べて非凡である事を、本能的に理解していた。


 一年。やはり嗅覚を奪われた。嗅覚に関しては、特に問題が無いと思われた。目や耳に比べれば、自分の屁や、馬糞の臭いが嗅げない事くらいなんだというのだろう?しかし、それは違った。この2年間の間、自分がどれほど嗅覚に頼って生きてきたのか、シグマは思い知らされた。特に食事がそうだった。同じモノを食べているはずだったが、嗅覚を奪われた事により、味が全く別物のように感じるのである。嗅覚というものがどれだけ自分達にとって重要なのかという事を、シグマは改めて自覚したのだった。そしてそれは同時に、嗅覚に頼らず、味覚のみを使って、様々なモノを見分ける訓練の始まりでもあった。時に教官は、腐った肉や野菜を食事に紛れ込ませていたようだった。一番最初に教官にそれをやられた時、シグマやゼータはすぐにそれに気付いたが、【ベータ】と【シータ】と【オメガ】はそれに気付かずに飯を飲み込み、3日ほど下痢で苦しむ事になった。その頃になって、シグマはようやく、自分が何になろうとしているのかが分かるようになってきていた。シグマは心の底ではずっと憎んでいた。自分の境遇や、何かというと鞭で打ってくる教官や、そしてそれを許す古今東西における神々と、この世界を嫌悪していた。しかし、今自分に宿ろうとしている力は、もしかしたら、数年という年月を代償にしてまでも、得る価値があるものなのではなかろうか?そんな気さえしていた。目は一度見たものを、耳は一度聞いたものを逃さなかった。調子が良ければ、10人が同時に喋ったとしても、その内容を聞き取る事が出来た。そして今は使えない嗅覚でさえも、犬と比較しても遜色ないものへと変貌していた。自分はある種の超人になろうとしている。吟遊詩人が歌う英雄達のような、そういう存在に、自分はなろうとしているのではないか?愚かにもシグマは、そのように感じていた。そしていつしか、大人になった【英雄シグマ】を妄想する時、その傍らにはいつも、その妻【ゼータ】の姿が現れるようになっていた。


 『シグマです』

 アシーナ城のある一室で、教官(名前は結局分からないままだ)が紹介した。シグマは12歳になろうとしていた。目の前には国王、エイルデン・アシーナと、当時の宰相ユンゾ・マカリスターが立っていた。

 『使えるかね?』

 『私の見立てた中ではピカイチです』

 マカリスターの質問に教官はそう答えた。シグマは、自分がドベだとは思っていなかったが、ピカイチだとも思っていなかった。教官のこの評価には大いに誇らしい気分になった。

 しかし…

 『お前には金が掛かっている。これからはこの国の影の存在として、大いに働いて貰うぞ』

 束の間、シグマは、宰相の言っている言葉の意味が良く分からなかった。シグマは、自分が吟遊詩人に歌われるような英雄になるための英才教育を受けているのだと思いこんでいた。辛い、辛い修行を終えて、ついに歴戦の勇士達と、轡を並べるような存在になったのだと思いこんでいた。【この国の影】になるとは、夢にも思っていなかった。宰相ユンゾ・マカリスター。この気取った髭面のデブに、自分と同じ目と、自分の同じ鼻と、自分と同じ耳があるのか?自分と同じ、剣の技術があるのか?語学の知識があるのか?水の中で10分息を止める事が出来るのか?一ヶ月を昆虫食だけで過ごす事が出来るのか?糞尿の中で、丸一日過ごすような真似が出来るというのか?

 『南東にワーレンという城がある。そこは長らく、我々の同盟国であったが、非常に信心深い国でな。新しい法王を選出するにあたり…』

 『宰相』デブ宰相の言葉を教官が遮った。『そのような説明は必要ありません。シグマは殺せと言われた者を殺します。ただ命令をすれば、このシグマはその通りにするのです』

 (こいつらは一体何を言っているんだ?)

 教官達と本気で剣で立ち会った事は無い。しかし、それは教官達が、自分の権威を守るために逃げているのだという事をシグマは知っていた。シグマが訓練を始めた時、既に教官達は初老の老人だったのだ。そして、それから数年たち、シグマは成長し、そして教官達は歳を重ねた。かつて彼等がどれほどの剣の使い手だったのかは知らないが、自分が負ける訳が無いと信じていた。それだけの訓練を積んできたのは、誰よりも教官達が知っているはずだ。何なら後で、教官達を一人ずつ順番に切り捨ててやろうか。

 『彼は『喜んで国家のために尽くします』といったような顔はしていないようだぞ、教官』

 マカリスターは教官に言った。シグマはその通りだと言いたげに、グッと胸を張った。

 『分かっております。それでは恐れながら、この場にて、シグマの訓練の、最後の仕上げを行わせていただこうと思います』

 教官がそう言うと、宰相と王の顔に、腐って、蛆のたかった死体を目の前に出されたような表情が浮かんだ。

 (なんだ?訓練の仕上げ?)

 シグマが訝しんでいると、シグマの右前方にあった小ぶりなドアが開いた。

 (オメガ…?)

 鎧を着込んだ兵士に連れられて、部屋の中に入ってきたのはオメガだった。シグマの位置からでは良く分からなかったが、どうやら後ろで手を縛られているらしかった。やおらオメガと目が合った。その目は『いったいコレは何なんだ?』と語っていた。シグマも全く、似たような表情を浮かべていただろう。すると突然、バチン!という妙な音が、部屋の中に響いた。

 『ぐああああああああああああああああああああああああっ!』

 オメガの絶叫が響いた。オメガはシグマと同様、寡黙な男で、声を張り上げたような場面を、シグマは一度も見た事が無かった。一体何が起きたのかを確認しようと目をひん剥いていると、オメガの背中側の床に血が滴り落ち始めた。どうやらその兵士は、ハサミを使って、オメガの指を切り落としたようだった。

 『シグマよ』混乱の最中にあるシグマに、教官が話しかけた。『コレからお前は、この国の影として働く事になる。そしてお前は、その仕事によって、喜びを得るという事は出来ないだろう。しかし、これは国家を存続していくためには必要な事なのだ。我々は国家を裏で支えて来た。血によって支えて来たのだ。この役は、誰かがやらねばならん。今はオメガの指だけだ。しかし、お前が命令を拒否すれば、オメガは耳を失い、目を失い、いずれは命を失う事になる。それだけならば、お前は構わない、と、思うかもしれないな。私はそうは思わないが、思うかもしれない。しかし、他の者だったらどうだろう?ある特定の者の名前は出さないが、お前が今、頭の中に思い描いている人物が、少なくとも一人くらいはいるだろう。お前とこの数年間、寝食を共にし、辛い訓練を乗り越えてきた面々は、今この時より、全員【お前の人質】となる。残念ながら、拒否権は無いし、もう二度と他の連中とも会う事は出来ないと思え。お前はコレからワーレン城に趣き、ある男を殺して戻ってくる。それがお前に…我々に課せられた使命だ。賃金に関しては心配するな。お前が必要と思うあらゆるモノを揃える事を許す。その事を保証してくださるのは、他でも無い、今お前の目の前にいらっしゃる、エイルデン王ご自身だ。仕事を完遂し続けている限りにおいて、お前は自由だ。しかし、裏切る事は許さん。指示に背く事も許さん。うっかり連絡を忘れる事も許さん。お前は今後、我々が出した指示に唯々諾々と従い続けるのだ。お前の命の火が、消えて無くなるその日まで』


 あれから20年以上経過していた。そして今、シグマはバルサゴス城に潜入していた。最終戦争がアシーナの勝利で終結し、平和が訪れ、国家の安寧が約束され、シグマの任務は終わるのでは無いのかという儚い望みがシグマの中にも確かにあった。しかし、そうはならないだろうという気もしていた。もちろん、まさかバルサゴスが息を吹き返すなどという事は想像していなかったが。

 エイルデン王は、シグマに対して『バルサゴスの重要人物を片っ端から殺してこい』という、完全に気の触れたような命令を出した。(本当に気が触れてしまったという噂もある)一体誰が重要人物なのか。そんな事は、シグマにはまるっきり、さっぱり見当がつかなかった。事前にある程度の知識は教えられていたが、その情報は最終戦争の前期の情報であり、新生バルサゴス城の内部における力関係は、まるっきり変わってしまっていた。潜入して以降の地道な情報収集の結果分かったのは、バルサゴスの全軍を取り仕切っていた宰相ルーデン・クライスワイクは既にその力を失いってしまい、その代わりにゲーマルクという、今まで聞いた事も無い男が、バルサゴスの新宰相として、国を動かしているらしい。そしてそのゲーマルクに関しては、未だに顔すら分からず、よしんば顔が分かったところで、影武者が5人も6人もいるらしく、影武者にもそれぞれに護衛がついているらしかった。

 『誰が重要人物かは、護衛の数を見れば分かるだろう。そういうものだ』

 命令を受けた直後のシグマは、それくらい気楽に構えていたが、敵のこういった対応を目の当たりにして、完全に困り果てていた。既に城内に潜入して、結構な時間が経過していたが、今のところ、見つからないように、かつ、兵士達の会話が聞き取れるような場所を見つけ出し、そこで息を潜めて、聞き耳を立てたりする事しか出来ていなかった。それが必要な手順である事はシグマは理解していたが、この停滞感は非常にもどかしいものだった。


 「これで今週に入って5人目だ。即刻アサシンをあぶり出せ!」

 樹上にいるシグマの眼下で、兵士長であろう男が声を張り上げていた。そう、今週に入って5人目だ。今週に入って5人が殺されている。シグマは完全に頭を抱えていた。

 (これはもう確定だな。俺の他に、考えなしに敵を殺しまくる馬鹿が入り込んでいる)

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